<週刊新聞「シャルリー・エブド」事務所襲撃と
12人の殺害についてのNPA(反資本主義新党)の声明
>
2015年1月7日
フランソワ・オランドは、この劇的な情勢においてさえ、ふたたび何も語るべき言葉を持たなかった。
独立した、自由で風刺に満ちた、体制に順応しないジャーナリストたちへの文字通りの「死刑執行」、そして週刊新聞「シャルリー・エブド」への死の強制に対する憤激と怒り、強い嫌悪感を全国の民衆が表明している時、オランドは統一したフランスをほめたたえ、国民的統一を呼びかけたのである。彼はそのようにすることで、彼と彼の政府が遂行している、大国によって組織された略奪と軍事介入が悲惨と混沌の種をまいている世界の各地の住民に対する戦争を正当化しているのだ。
したがってNPAは、ジャーナリスト、従業員たち、すなわち「シャルリー・エブド」とそのジャーナリストに対する残忍で反動的な攻撃の犠牲者たちに全面的に連帯するのであって、この国民的統一、フランスのこの国民的合意に参加するわけではない。
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これこそが「自由」を信奉する、フランスの反体制思想集団なのでしょう。
(正しいと言ってるわけではありませんよ!)
日本のマスコミがまさに「アホ」のように喧伝する「言論の自由」など、
子供のままごとの方便のようなセリフは一言も言っていません。
それなりの犠牲も承知で、批判しているのです。
それが彼らの「自由」なのです。
自由とは血を流して獲得されるべきものなのです。
少なくともフランス人はかたくなにそう信じています。
欧米ではとっくに、
<「シャルリー・エブド」はレイシスト集団なのか?>
という問題も議論されています。
ネットで検索してもどうもうまくいきません。
おそらく、ウィルスが仕掛けられているんでしょう。
それほど根が深い問題なのです。
昨日のパリのデモのニュースでも、
イギリスのBBC、ドイツのZDFはトップで取り上げていましたが、
キーワードは「ユダヤ」。
ZDFでは被害者(食料品店、だけでなく雑誌社も?)をはっきりと、
「ユダヤ教徒の犠牲者」と呼び、
デモの終点は、ユダヤ教会での追悼式と言いました。
BBCでは、フランスのユダヤ教徒が「この国はもはや安全ではない」として、
フランス国外への脱出を決めているということが取り上げられていました。
そうした中での160万人のデモなのです。
これはおそらく、フランス共和国が宗教革命・市民革命を経て、
その間に流された血を乗り越えて得た、「自由」。
宗教よりも、人の命よりも、大事なものは「自由」。
「自由」の為には人が死んでもしょうがない。
そのためには戦争だってするし、核兵器だって持つ。
そういう「自由」。
それがデモクラシー。
そのための「160万人」のデモなんです。
フランス国歌 「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」
祖国の子どもたちよ、栄光の日がやってきた!
我らに向かって、暴君の血塗られた軍旗がかかげられた
血塗られた軍旗がかかげられた
どう猛な兵士たちが、野原でうごめいているのが聞こえるか?
子どもや妻たちの首をかっ切るために、
やつらは我々の元へやってきているのだ!
武器をとれ、市民たちよ
自らの軍を組織せよ
前進しよう、前進しよう!
我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために!
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この歌詞のもとに、
・眉をひそめる過激で低俗な風刺画も
・移民二世の武装化も
・重火器による、人質の犠牲も厭わない掃討作戦
もあるのです。
「国境なんてないと、想像してごらん」とも言ってませんし、
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とも言っていません。
特定秘密保護法に、戦前の特高警察だといい、
集団的自衛権行使に、戦争ができる国にしていいのか、という。
そんな今の日本が「連帯」など出来るはずがない。
もちろん根源的に「連帯をするべきか?」という問題はあって、
一神教の国家とは、経済的、安全保障的連携はできても、
結局はわかりあえない、というのが私の基本。
「自由」は無限ではなくて、
天皇陛下をいただく、節度ある国の方が良いです。
でも、いまはそれは別の問題。