階級形成論の方法的諸前提(第七回) | 限界小説研究会BLOG

階級形成論の方法的諸前提(第七回)

階級形成論の方法的諸前提(第七回)

 階級意識とは、ルカーチの規定によれば「生産過程のなかの一定の類型的状態に帰せられ、それに合理的に適合する反応」(註1)である。諸々の階級意識のなかでも、プロレタリアートの階級意識は唯一の真実の意識として独自のものである。たとえば、前資本主義的な階級意識は次のような理由で、本質上明確な形態をもちえない。
「そこ(前資本主義社会──引用者註)では経済がまだ──ヘーゲル流にいえば──客観的にも対自態という段階に達してはいない。だから、このような社会のなかでは、あらゆる社会的諸関係の経済的基礎が意識されるようになる立場は、客観的に実現しているとはいえないのである」(註2)。「前資本主義的な社会ではどの社会をとってみても、その社会の本質から階級の利害がまったく(経済上)はっきりした形であらわれえないのである。事実、社会がカストとか身分とかなどによって構成されている場合には、社会の客観的・経済的な構造のなかには、経済的な要素が政治的・宗教的などといった要素と解けがたく結びついている」(註3)。すなわち、経済的現実過程と幻想的諸過程の分離が決定的でないような諸社会においては、意識が社会的現実に埋没しているため、身分意識といった類のイデオロギー的外被にまといつかれた意識形態が支配的である。商品経済の発展とそれによる生産過程の支配をもって初めて成立する資本家的経済社会においてのみ、客体的現実の法則的自己運動の自律性から主体が完全に排除されて、意識による対象の全面的認識が可能となる。前資本主義社会や資本主義社会において前資本主義的要素に基礎をもつ諸階級意識は、身分意識などの歪曲され混濁した形態でしか存在しえない。
 資本主義社会における二つの基本的な階級意識、ブルジョワジーの階級意識とプロレタリアートの階級意識のうち、前者には次のような特質がある。ブルジョワジーは、流通過程にのみ関心をもつ。ブルジョワ経済学が、「それ自身において利子を生むものとしての資本」という幻想を突破しえず、G─W─G' の商業資本範式やG─G'の利子生み資本範式の背後にある構造を考察しきれない限界を背負っているのも、またブルジョワジーが、商業活動こそ利潤の源泉であるという欺瞞に陥るのも、すべてはブルジョワジーの階級意識が流通過程にのみ視点をおくことに根拠がある。それは、商品関係という形態に隠された階級関係の真実を透視しえない。ブルジョワジーの階級意識はだから、社会的現実の真の姿から目を塞いだ虚偽の意識なのである。
 真実の意識としての階級意識、より明確に規定すれば「階級意識としての階級意識」は、だからプロレタリアートのみのものである。プロレタリアートの階級意識は、歴史上最初の階級意識であり、また最後の階級意識でもある。
 プロレタリアートが血みどろの階級闘争の最後の勝利者であり、階級そのものを止揚する主体であるのも、彼らが社会的現実の真実を見ることができ、また見ないわけにはいかない立場におかれているからだ。前資本主義社会における諸階級意識は「即自的」an sichであった。資本主義社会が成立し、歴史が自らを外在化しえた後にはじめて「対自的」fur sich(*1)な階級意識が生じうるのである。「それ自体で」an sich存在するものは自己が何であるかを知らない。「前資本主義社会では階級といってもそれは、客観的に実在するわけではなく、史的唯物論という歴史解釈をたよりにして、直接的にあたえられた歴史的現実から引き出されるものであるのに対して、資本主義社会となれば階級というものが直接的な歴史的現実そのものとなっている」(註4)とルカーチが語ったことも、あるいは宇野弘蔵が、歴史的に一貫して存在してきた経済原則が意識されうるのは、経済原則が商品経済のうちにおのれを経済法則として展開し、その経済法則を科学的に解明しえた後であると再三にわたって強調しているのも、等しく「歴史の疎外態としての資本主義社会」についての問題提起に他ならない。
「精神的なものだけが現実的なものである。精神的なものは実在すなわち自体的に在るものである。つまり自己に関わるものであり、規定されたもの、他在でありながら自己に対する有である。そしてこのように規定されていることにおいて、すなわち、自己の自己外有において自己自身に止まるものである。言いかえれば即自対自的である。だがこのように即自対自的に有するのは、まだやっとわれわれにとって、すなわち自体的なことである。つまりそれは精神的実体である。この即且対自有は自己自身に対するものでもあり、精神的なものについての知であり、また精神としての自己についての知でもあるのでなければならない。すなわち、それは自己にとって対象として在るのでなければならない。しかし、同時にそのまま止揚された対象、自己に帰った対象として在るのでなければならない。この対象は、その精神的内容が対象自身によって生み出されている限り、自己に対しているといっても、それはわれわれにとってだけのことである。だがこの対象がまた自分で自分に対している限りでいえば、この自己を作り出すはたらき、すなわち純粋概念は、対象にとっては同時に、対象を定在させる対象的場でもある。そして対象は、こういうふうにして、その定在において自己自身で(にとって)自己に帰ってきた対象である」(*2)(註5)。長々とヘーゲルを引用したのは、『精神現象学』の有名なこの箇所こそ、マルクスがヘーゲルから継承し、さらにルカーチが設定した認識拠点の在り方を典型的に示しているからだ。
〝それ自身においてあるもの〟としての即自的an sichなあり方は自己を知らない。〝他としてあり、自己に対してあるもの〟としての対自的fur sichなあり方もやはり自己を知ってはいない。ただ、〝自己に対してありながら自己のうちにとどまっているもの〟としての即自・対自的an und fur sichなあり方のみが、自己を知り、そればかりか自己の過去の姿としての即自的な、あるいは対自的なあり方をも認識しうるのである。即自的なものがたんに即自的なのではなく、「即自・対自的なもの」にとって、すなわち「われわれにとって」fur uns「即自的」であるのは、こうしたヘーゲルの論理による。

註1 『歴史と階級意識』一〇八ページ
註2 同 一一八ページ
註3 同 一一五ページ
註4 同 一二〇ページ
註5 『精神現象学』ヘーゲル(河出書房「世界の大思想」12)25ページ

*1 fur sichのuはドイツ語のUウムラウト。