慶長二年二月十日

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 朝鮮への再度の出兵が行なわれた。

 西国の諸将を中心に十五万ほどの軍勢が彼の地へと渡ろうとしている。

 例によって殿下の御渡海はない。

 それどころか、体調が非常に思わしくなく、本陣となる名護屋まで行く事も控えられた。

 これではさらに戦況を把握するのは難しいだろう。

 前回の出兵の二の舞になる事は避けたいであろうが、どうだろうか。


 上杉には兵を出す命令がなく、越後での在郷が認められた。

 伏見にすらいる必要がないとはどういうことなのか。

 むしろ不安すらも感じるのだが、この機会に越後をより良くしたいと思う。

 大規模な灌漑工事は必要ないと思われるが、細かな部分で、まだ開拓が可能な地はいくらでも残っている。

 それに農民が安心して農業に従事できるように指標となるものを作りたいと考えている。

 こちらはまだ構想の段階であるが、生活の基盤となる農業のために国づくりを見直していきたいと思っている。

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文禄五年九月二日

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 伏見城が地震で倒壊したため、大坂城にて明の使節を迎えることとなった。

 昨日、使節楊方亨と沈惟敬は、明国皇帝の国書、金印、冠服などを殿下に捧げた。

 これを受けた殿下は上機嫌で、前田殿と徳川殿に饗応をさせた。


 しかし、今日になって事態は変わった。

 贈られた王冠と赤装束の衣服をまとい、酒宴を楽しんでいた殿下であったが、その後、皇帝の国書を読むように命じたのである。

 その時、その任に当たったのは承兌和尚である。

 殿下は、明国が降服したと聞いているようだ。

 だから国書には臣従を表す言葉が綴られているものと決め付けていた。

 もちろん明国は降伏などしていない。

 いや、もしかすると加藤殿に聞いていたのかもしれない。

 それでも殿下の心は期待でいっぱいであったに違いない。


 そして、国書が読み上げられた。

 「特に爾を封じて日本国王と為す」と聞いたところで場が凍りついた。

 この講和の責任者とも言える小西殿の狼狽を見ると、情けなくも見える。

 もちろん殿下は激怒した。

 二度三度和尚にその内容を確認し、手のひらを返したように二人の使節をその場から追い出した。

 殿下が上納されたと思っていた品は、下賜であったのだ。

 これによって再び朝鮮に出兵する事は確実となった。

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文禄五年閏七月十八日

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 戦の中多くの人足を要し建設された伏見城は、地震によって脆くも崩れたらしい。

 前年、聚楽の第を徹底的に破却した後だけに、太閤殿下の自慢の建造物が相次いで破壊されたことになる。

 聚楽の第は秀次殿の切腹にともない殿下の命令によって壊されたものであるが、此度の地震はその因果であるとの噂も既にあるようだ。

 私は実際現地にいたわけではないが、造られたばかりのあの美しい城が崩れていく様を想像するだけで切なさを感じることが出来る。


 この地震の際、最も早く伏見に参じたのは加藤主計頭殿であったと聞いた。

 彼は、伏見の屋敷に謹慎中であった(私はその事実も知らなかった)のだが、変事に際し、門を出て伏見へと向かい、殿下を護衛したとの事である。

 この功により謹慎を解かれたということだが、そもそも謹慎自体、石田殿小西殿などの講和派による讒言が原因だという見方もあるようだ。

 加藤殿を中心とするといっても良い抗戦派と講和派との対立を考えれば充分にありうる話である。

 既に明の使節が殿下に拝謁する用意がなされている。

 そうした中、戦の中心にいて正直に戦況を殿下に伝える可能性の高い加藤殿は石田殿、小西殿にとっては邪魔な存在とも言えるのだ。

 しかし結局、加藤殿は謹慎中であるにもかかわらず、殿下に上奏する機会を与えられた。

 これはさすがの石田殿も予期し得なかったことであろう。

 殿下は今まで聞かされていなかった多くの事実をはじめて耳にしたことだろう。

 それを全て信じるとまでにはいかなくても、講和派の行動に疑問を持つだけでも、講和を結ぶことが難しくなるに違いない。

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文禄四年七月十八日

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 関白、豊臣秀次様が高野山に蟄居、次いで切腹を命じられた。

 こんなことが起きてもいいのかと思いながらも、起こるべくして起きた事だとも思える。

 私が想像していたより早く起きたとはいえ、耳を疑うことはなかった。


 戦地における講和派と抗戦派の対立の火種は戦の前から京にあった。

 石田殿や小西殿には敵が少なくない。

 加藤殿や福島殿は公然と石田殿を否定していることもある。

 しかし、石田殿は人前でそのようなことを口に出すことはない。

 それでも、彼は殿下に直接申し上げることが出来るのだ。

 そこで何を言っているのかはわからないが、それが余計に気に入らない方々が多いのも事実である。


 この対立はいつしか北政所様と淀様を巻き込んだ対立となり、豊臣家を二分した争いとなってしまっている。

 今回の事件もその一端であると考えられる。

 淀様や石田殿の一派が拾い丸様を関白にするため、秀次様を追い落としたのだ。

 しかも、その子が見つかる事のないように徹底的に可能性を排除したとも聞いている。

 この事件に連座する人も少なくはないだろう。

 外から見れば、豊臣家の行く末を案じさせるだけの後味の悪い事件である。

文禄四年一月二十一日

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 太閤殿下によって、入湯のために草津温泉に湯小屋の建設を命じられた。

 昨年より取り掛かっていた伏見城の普請は、我らが向かったときには石垣を積むことぐらいしか残されていないようであった。

 それが終わっての新たな命であるが、果たして殿下は草津まで来られることが出来るのだろうか。

 推測ではあるが、朝鮮との講和がなった後に仰々しく関東に下向するおつもりなのであろう。

 ただ、本当に講和が成り立つのだろうか。

 相変わらず講和派と抗戦派の両方が現地にいる。

 殿下が講和に向け積極的になっている事は良いことなのだが、いかんせんその条件が厳しすぎる。

 講和というより降服に近い。

 私には相手がそれを飲むとは到底思えないのだ。

 仮に上杉が彼の地を支配していたとしたら、絶対に承服しないだろう。

 石田殿や小西殿だってそれは解っていると思うのだが、どうなのだろうか。


 殿下が草津温泉まで来られる日は来るのだろうか。


文禄三年四月十三日

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 太閤殿下から越後への帰国を許されていた我々に京への呼び出しが会った。

 伏見に城を造るから普請せよとの事である。

 海を越えた戦を行なっているというのに新たな城を建てるとはどのようなおつもりなのであろう。

 殿下はこの新たな城を隠居所との事である。

 それでいえば大坂城は豊臣家の本居城、聚楽の第は関白としての居所ということになるのだろうか。


 関白の職は既に秀次様に譲られている。

 しかし、それは一時的になる可能性が高くなった。

 昨年、拾丸様がお生まれになったからだ。

 殿下はおそらく拾丸様に跡を継がせる事を考えておられるだろう。

 しかし、殿下と拾丸様とでは歳が離れすぎている。

 拾丸様が成人する日まで殿下が生きておられるかどうか。


 話を戻そう。

 伏見の城は朝鮮の王と会見するための場所でもあるようだ。

 彼の地との講和は進んでいるとの事である。

 ただ、現状をこの目で見ている身としては、殿下の思い通りになるとは到底考えられない。

 どうも不安が付きまとってしまう。

文禄二年九月二十八日

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 朝鮮出陣という無謀にも思える行為は、名護屋と現地との間の情報通達が最も重大な問題であった。

 名護屋在陣中にも石田殿から内情を聞かされてはいたが、そもそも現地の作戦すら統一されていない状況なのである。

 石田殿や小西殿は和睦によって戦を収めようとしている。

 一方、加藤殿らは完全制服を考えているようだ。

 もちろん太閤殿下が完全制服を望んでおられるのだから、それも致し方のないことではある。

 だが、冷静に考えればそれが出来るまでの戦力は整っていないのも明らかである。

 太閤殿下は軍の素早い動きによる戦と、完全包囲による戦を得意としておられる。

 この朝鮮との戦はそのどちらにもなりえないのだ。


 六月より景勝様に供し彼の地に渡り、それは確信となった。

 だが、「太閤殿下の政策に誤りがあってはならぬ。」

 これは、石田殿の言葉である。

 太閤殿下の採った策はすべて正しいものとしなければならない。

 それが臣下としての務めであるとまで彼はいう。


 そのため、太閤殿下の元に届く情報は必ずしも真実とは限らない。

 それを知りながら渡海した私には、彼の地の書物を戦火から守り、持ち帰る事をその理由とし、気を紛らわせるぐらいしか出来ることがなかった。

天正十九年二月二十八日

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 非常につらい役目を受けてしまった。

 軍装にて参るようにとのことで、行ってみると、千宗易殿の邸を護衛するようにとの命である。

 宗易殿は豊臣家の茶頭であり、参内のために朝廷より利休の居士が与えられている。

 もともとは堺の商人衆の一人であったようだが、今では豊臣政権の裏の参謀とも言えるほどの力を持っていた。

 宗易殿には今月の初めより謹慎の命が下っていたが、本日、切腹が命じられたらしい。


 私が京にいる時は何度か茶会に招いていただいたこともある。

 茶の湯などには全く興味などなかったのだが、それでも宗易殿は一人の客人として扱ってくれた。

 少なくとも死に値する罪などないと思われる。

 それに、切腹のために軍を動員するなんてやりすぎのようにも思える。

 それでも関白殿下の命とあらばやるしかない。

 これは、上杉のため、越後のためだ。


 宗易殿は見事に切腹して果てた。

 後悔の念など全くなくまるで茶を立てるかのような所作であった。

 私とどちらが武人であるのかわからなくなってしまった。

 死ぬべき人ではなかったように思えてしょうがない。

 

天正十八年八月九日

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 関白殿下は会津に入られた。

 伊達政宗が臣従を果たした今、わざわざ関白自ら奥州に向かうとは思っていなかった。

 しかし、伊達政宗を油断ならないとみた殿下は自ら出陣することによって伊達を威嚇するおつもりなのであろう。


 小田原をはじめ、北条の旧領はほとんど徳川家康殿に与えられることとなった。

 代わって徳川殿の旧領を織田信雄殿に与えられるはずだったのだが、織田殿はこれを拒否した。

 尾張と伊勢を出たくなかったのと、臣下であったはずの豊臣家から拝領するのが嫌だという気持ちもあったのかもしれない。

 しかし、関白殿下はこれを許さず、織田殿の尾張と伊勢まで奪い下野に追放となった。

 その結果、徳川殿の旧領は細かく分けられ、豊臣の直臣に与えられた。


 上杉への恩賞はなく、奥羽征伐の後に改めて言いわたすとの事であった。

 その際に言われたわけではないが、景勝様と私は、京に妻を送る事を決めた。

 関白殿下は、まだ我らを信用しきっているわけではないと感じたためである。

 船は景勝様の御台様を護衛するのだと言って京に行くことを喜んで受けてくれた。

天正十八年七月六日

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 これは戦なのか。

 小田原を囲んでから幾日も経つ。

 関白殿下は囲みながら城を作り、さらには側室まで呼び寄せ、戦の最中であることを忘れそうにもなる。

 しかし石田殿をはじめ、奉行衆は忙しく走り回っている。

 輸送される兵糧の管理、降服した雑兵への対応、北条方に対する内応調略など忙しい者は忙しいのだ。


 小田原城内は日に日に籠城による疲れと疑心暗鬼で衰退の色を見せていた。

 重臣松田憲秀までもが豊臣方に内応を決め、しかも実行前に北条に捕らえられたという。


 そして、小田原は落ちた。

 当主北条氏直は高野山へ追放、氏直の父氏政と叔父氏照は切腹、大道寺政繁と松田憲秀は成敗ということになった。

 豊臣に心を動かしていた松田には酷にも思えたが、戦を長引かせた責任を取らせるかたちとなった。


 これで関東は制圧された。

 後は今回小田原に来なかった東北の諸豪族を潰すだけとなった。

 この国はもう関白殿下の世となった。