北海道で働く女社長の夫の蝦夷日記

国際政治から映画・音楽・地元の温泉やラーメン紹介まで。難しい話は分かりやすく、がモットーです。


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前回の記事では高校野球における「白河の関」について触れました。
実際の白河の関は奈良時代から平安時代頃にかけて存在していた古い関所で、現在の福島県白河市にありました。
関所の機能が失われた以降も、たびたび和歌に登場し「歌枕(和歌の題材とされた日本の名所旧跡)」として当時の関係者を中心にその存在を古くから知られていましたが、中世に廃止された古い関所のため、次第に具体的な場所も分からなくなってしまい、江戸時代には寛政の改革で有名な白河藩主・松平定信が文献などによる位置確定の為の考証調査をしています。
白河の関は福島県南部、関東から見て東北地方の玄関口に当たるため、東北以北の事を「白河以北」と称する事があるのはこれに由来します。まあ、北海道の人間はこの言葉は使いませんけれどね。白河の関など知らない人がほとんどです。

「会津戦争記聞」 戊辰戦争を描いた錦絵 (福島県立博物館HPより)

そして今回の記事題名である「白河以北一山百文」という言葉。文字通り「白河より北(東北地方)はひと山百文の価値しかない」という意味です(蝦夷地・北海道なんかは開拓前は全くの原野で、そのままでは一文の価値もありませんでしたが、ここでは置いておきます)。

幕末時の戊辰戦争は薩長土肥を中心とする官軍側と、白虎隊で有名な佐幕側の雄藩・会津を中心とする東北諸藩の奥羽越列藩同盟とが対決する構図で行われました。歴史は会津藩や家老・河井継之助が指揮する越後長岡藩などの奮戦むなしく佐幕側が敗れ、戊辰戦争は一部を除き(箱館・五稜郭の戦い)この時に終結するのですが、特に会津藩士のその後の悲哀はよく物語などで伝えられています。

戊辰戦争で損傷した会津若松城 (Wikipediaより)


上記の言葉は一般には戊辰戦争の際に官軍側のある一将校が、賊軍となった会津及び東北諸藩に対して侮蔑をこめて放ったものとされていますが、実際には誰が誰にいつ言ったのかは定かでありません。確認されているところではこの言葉が最初に登場する文献は、1878(明治11)年8月23日の「近時評論」の記事だそうで、その内容は、決して薩長の人間が東北を愚弄しているような内容ではありません。
その内容を以下に転載しておきます。

往来で日本地図を開き各地の人形を並べて、「白河以北一山百文」と泣き叫ぶ売り子。聞けば、西南の人形は飛ぶように売れるが、東北地方はたたき売りでもしないと売れない。それが悲しくて泣いているという。そこで、こう諭した。治乱盛衰は天の道、今は人気がある西南もいつ廃れるか分からない。やがて東北の人形が大いに売れる日も来るだろう。すると売り子は納得したと見え、泣くのを止めて再び大声で叫んだ。「白河以北一山百文」と。
「続・東北 異境と原境のあいだ」 著:河西英通 より)

しかし維新後、中央からの冷遇を受けてきた東北人(特に士族)がこの言葉をバネに政府や官軍権力に対する反骨心を養ってきたのは間違いないでしょう。

宮城県の有力新聞・河北新報はそんな東北人の意地を見せる為に、「白一山百文」を名前の由来とし、1897(明治30)年に創刊されています。
また藩閥内閣を倒し、1918(大正7)年に日本最初の政党内閣を樹立させた原敬は盛岡藩家老の家柄の出で、彼の雅号「一山」も件の言葉から命名されています。
そう考えると「白河以北一山百文」という言葉は、薩長側が東北地方を侮蔑的に広く公言したというよりも、明治期の東北人が反骨精神を養うために自らに数多く語らせたという方が正解なのでしょう。

現在の東北地方の高校野球関係者に「白河の関」の歴史上の感情を重ね合わせる人はほとんどいないと思いますが、実際に春夏合わせて10度も決勝にまで駒を進めながら、「あともう1勝」を逃し続けた東北勢にとって「白河の関」は打倒しなければならない(またそれは近い将来、確実に打倒されるでしょう)大きな壁となって現代にも甦っている気がします。
ドロドロとした大人の権力闘争ではなく、平和な学生スポーツとして。


【関連記事】
歴史がすり替わってしまう恐ろしさ(2015/04/11)
東海大四高校、準優勝!高校野球と「白河の関」
(2015/04/02)
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前記事の続きです。
少し街並みを見てみましょう。

師団通り 大正13年 NHK旭川放送局HPより

上の画像は戦前の師団通り(現:平和通り買物公園)で、駅前を背にして旭橋方向を見ています。右側奥に大きな建物が確認出来ます。

第一神田館 大正6~7年頃 旭川中央図書館所蔵

その大きな建物は「第一神田館」。現在の4条通8丁目(3条通とする見方も)にあった活動写真館(映画館)です。活動写真館自体は明治の末頃に建てられましたが、大正6年に上記写真の5階建て建築に建て替えられています。しかし大正14年に火災で焼失してしまいました。この頃まだ電車は走っていないので写真に写っているレールは大正7年に姿を消した上川馬車鉄道のものでしょうか。

4条通8丁目付近 昭和7~8年頃の絵はがきより

この写真には左側に現代風の建物が写っています。当時流行っていたカフェ「ヤマニ」で、多くの文化人などが集まりました。旭川では大正末期から流行カフェが次々に開店していきましたが、後の昭和大恐慌や大陸との戦争悪化などで倹約志向が広がり、ブームは終焉していきます。

旭川新聞社 撮影時期不明 北海道大学北方資料データベースより

旭川にもかつてこんな立派な社屋を持つ新聞社があったのですね。大正4年に創刊された旭川新聞社は、詩人・小熊秀雄も記者として働いていた事がありました。やがて一県一紙方針の戦時新聞統制で道内各新聞社と統合し、北海道新聞となります。

旭川赤十字病院 昭和10年頃の絵はがきより

大正12年に日本赤十字社北海道支部病院として、札幌から現在地に移転・開院しています。
昭和18年に旭川赤十字病院と改称。

北海屋ホテル 大正末期の絵はがきより

上の写真は4条通りを8丁目付近から東方向を写しています。
左側に大きく写っているのが、大正9年に開業した「北海屋ホテル旭川支店」。2004年に5条通6丁目で閉館した、後のニュー北海ホテルにあたります。
当時の外観の意匠は現在、系列であった旭川グランドホテルの低層部分に取り入れられているのが分かります。

こういう地元の郷土史を知るという事もなかなか楽しいものでした。


【関連記事】
旭川むかしむかし物語①(2015/03/04)
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最近、仕事の都合で地元・旭川市の古い写真を調べてみる機会がありました。
そこで目にした古い写真をせっかくなのでブログの記事に載せておこうと思います。

旧旭川市役所 「旭川名所写真帖」(大正3年)より

上の写真は明治44年に完成した旧旭川市庁舎です。市制施行は大正11年なので当時は町役場として竣工しています。なかなかお洒落ではないですか。

大正期の旭川駅 「旭川名所写真帖」(大正3年)より

これは大正2年に竣工した旭川駅です。駅舎としては2代目で、昭和35年3代目駅舎が完成するまで使用されました。

先代の旭橋 「旭川名所写真帖」(大正3年)より

明治37年に完成した先代の旭橋。実はそれ以前に架けられていた橋(明治25年架橋)は鷹栖橋と名づけられていましたが、この橋から旭橋と改称されました。

2代目旭橋 昭和10年頃の絵はがきより

現在の旭橋は昭和7年に完成しており、旭橋としては2代目で、汽車製造(現・川崎重工業)という会社が建設しています。2002年、土木学会選奨土木遺産に選定されました。
ただ、架橋当時は現在とはちょっと違う部分もありました。



上の2枚はNHK旭川放送局HPにあったもので、昭和10年頃の映像からです。
当時は旭橋の上を旭川市街軌道の師団線が走っており、橋の上部には「軍人勅諭」が掲げられていました。
軍隊と切っても切れない旭川の歴史を改めて感じます。
さて今回、旭川の歴史を調べるにあたり初めて知ったのは、昔旭川市内を走っていた路面電車は旭川電気軌道だけだと思っていたところ、実際は市内を旭川市街軌道が、郊外(旭川~東川 間など)を旭川電気軌道が、といったように異なる会社が住み分けをして営業していたという事。
後に旭川市街軌道は路面電車からバス路線へと転換し、社名を旭川バスと改称しましたが、経営不振により旭川電気軌道に吸収合併されています。

陸軍第7師団指令部 昭和10年頃の絵はがきより

次は旭川に戦前置かれたその軍隊、陸軍第7師団司令部の写真です。大きな常備師団であった割には質素な感じですね。現在は正門の門柱が残っています。

旭川偕行社 昭和10年頃の絵はがきより

現在も中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館と使用されている、陸軍第7師団の旧旭川偕行社。明治35年に陸軍将校たちの社交場として建設されており、師団司令部とは違いお洒落な感じがします。
1989年に国の重要文化財に指定されています。


【関連記事】
旭川むかしむかし物語②(2015/03/06)

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西郷隆盛。
言わずと知れた倒幕・維新の中心人物で、西南戦争において時の政府に反旗を翻したものの、現在でも地元鹿児島はもちろん、全国的にその人徳を慕う人は多いですね。若い人には「上野の西郷さん」の方が馴染み深いかも。
その弟、西郷従道。
兄ほど一般的な知名度はありませんが、戊辰戦争を戦い、明治政府では内務大臣、海軍大臣などの要職を務め、近代日本の発展に尽力しています。

さてこの西郷兄弟、実は本名が全く違います。

    
西郷隆盛(国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」より)

まず兄の西郷隆盛の方ですが。
本名は「西郷隆永」です。そして「隆盛」はなんと彼の父親の正式名(諱)
では何故こんな事になったのか?
明治維新直後、新政府樹立に功労のあった者は位階を授けられる事となり、正式名を政府に届け出る事になりました。ところがその時、西郷は東京を不在に。普段使用している西郷の通称「吉之助」は誰もが知っていても、正式な下の名はみな思い出せません。
そこで同郷の吉井友実が「確か・・・隆盛だったような気がするなぁ・・・」と父親の名前を勘違いして政府に届け出てしまったのです。
後でそれを知った当の西郷、・・・オヤジの名前!おいおい・・・・まっ、いいっか・・・と思ったのでしょう、「ああ、おいは隆盛でごわすか」と言って、そのまま「隆盛」を名乗ってしまったのです。
細かい事に拘らず度量の広い彼らしいエピソードです。

                                                                                
                                             西郷従道 (同上)

次は弟、西郷従道です。通称は信吾。
下の本名は「隆興(別資料では隆道とも)」。
彼の場合は新政府に名前を届ける際、自ら口頭で伝えたのですが、薩摩訛りがひどくて「ジュウドウ」と役人に誤って聞きとられ、「
従道」と登録されてしまいました。しかし彼は「道に従う、なんてなかなかいいじゃないか」と言って、そのまま「従道」を名乗ってしまったという事です。

何ともそろってスケールの大きい兄弟ですが、だからこそ維新の大業を成せたのでしょうね。
因みにこの二人の名前のエピソードは、司馬遼太郎・著の「飛ぶが如く」(文庫本第一巻)でも軽く触れられています。

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「磔刑図」アンドレア・マンテーニャ画(1459年) ルーブル美術館所蔵 Wikipedia より

重たい記事を書いたと思ったら、今回は時節がらクリスマスの記事を。
全く、我ながら統一性のないブログです。

12月25日は「イエス・キリスト」の誕生日としてキリスト教圏はおろか、日本をはじめ多くの国で祝われています。
ところが、本当にこの日がイエス・キリストの誕生日かといえばそうではありません。記録がないので実際のところは分からないそうです。色々諸説があって、ごく初期の頃は様々な日で祝われていたようです。
では、何故この日が誕生日とされたのか。

イエス・キリストが生きた時代は、世界史上ローマ帝国が隆盛を誇った時代。イエスの死後、彼を救世主と信じたクリスチャンたちは残虐なる迫害を受けながらも教勢を伸ばし、遂に西暦313年には帝国により正式公認を受けるに至ります(更には380年ローマ帝国はキリスト教を国教と制定)。
そして、そのイエスの誕生日ですが、最古の記録では336年に12月25日をクリスマスとして祝っているそうです。その頃ローマでは12月17日から24日まで、サトゥルナリアという冬至のお祭りがありました。冬至は最も夜が長い日。闇が一番世界を長く支配する日です。
イエス・キリストは救世主、世の光ですから、「闇を追い払う」という願いを込めたサトゥルナリアのお祭りが明けた翌日、つまりこれから太陽の光が次第に強くなっていく25日を誕生日とするのがふさわしい、となったのだそうです。
何だか当時の人々の願いが感じられる由来ですね。

「アヴェ・マリア」(演奏:宮本笑里) このグノー/バッハVerが好きですね。

話は全然変わりますが。
子供の頃TV番組「ウルトラマンA」を見ていると、ウルトラ兄弟が敵におびき出されて磔になる出来事がありました。
子供心に大変ショッキングな光景でしたが、磔になった星が「ゴルゴダ星」、敵役エースキラーの
配下の超獣(怪獣)が「バラバ」。
バラバは実在の人物です。新約聖書によると、重い犯罪を犯して処刑される罪人でしたが結果的にバラバが赦免され、代わりにイエスが磔になったと記録されています。
子供の頃はキリスト教の知識などまるでありませんでしたが、大人になって教養としてそれらを知るに及び、なるほどなぁ~と思ったものです。


左はゴルゴダ星で磔にされるウルトラ兄弟とエースキラー。右は配下のバラバ。
円谷プロ「ウルトラマンA」より。

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