北海道で働く女社長の夫の蝦夷日記

国際政治から映画・音楽・地元の温泉やラーメン紹介まで。難しい話は分かりやすく、がモットーです。

昨年の「新潮45」9月号にジャーナリストの大高未貴氏が、「慰安婦問題の原点・吉田清治」の長男にインタビューした記事が掲載されていました。

これ、いち月刊誌の記事として埋もれてしまうには非常に惜しい貴重な内容なので、きちんとしたブログ記事にまとめて、残しておきたいと思います。

以下、太文字は「新潮45」当該記事(大高氏の文章)、そのうち赤字はご子息の発言部分。

 

 

慰安婦問題最大の焦点は「日本軍が慰安婦を強制連行」したかどうかである。

だが日韓両政府が血眼になって記録を調べても、それを証明する公文書資料は見つかっていない。だから山口県労務報国会下関支部の動員部長だった吉田清治氏の「軍の命令で朝鮮人女性を強制連行し慰安婦にした」という証言が重要だったわけだ。だがそれが虚偽であることは、朝日新聞の撤回を待たずともはっきりしていた。当の清治氏自身が、週刊新潮の取材にこう答えているのだ。

「まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もあるんですよ。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやってることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしょうがない」(平成八年五月二・九日号)

 

このように確信的に歴史を偽造した吉田清治(1913~2000)という人物を知る為に、大高氏は長男であるご子息を訪ねます。彼は1949年生まれで、職業は翻訳の仕事に従事。

誠実そうな印象の彼は大高氏にこう語り始めたそうです。

 

「父が犯した慰安婦強制連行の捏造について、吉田家の長男として、日本の皆様にたいへん申し訳なく思っております。できることなら、世界中の慰安婦像をクレーン車で撤去したい。父の過ちを糺したい、少しでも罪滅ぼしをしたい、そういう気持ちから、私の知りうることをすべてお話しします。私自身、なぜ父があんなことをしたのか知りたいのです」

 

「慰安婦狩り」をしたという山口県労務報国会下関支部について、長男はほとんど何も聞いていない。ただし、これだけは訴えたいとこう述べる。

「労務報国会の下関支部は朝鮮人男子の労務(梅之助・注:当時、日本人は殆ど軍に駆り出され、まともな労務者は残された朝鮮人らが多数だった)というか、下関市内の大工、左官、土木工事の方々を雇って日当で払う仕事の現場監督みたいなものですから、従軍慰安婦とは何の関係もない。そのことは長男としてはっきり言っておきたい」

 

ご子息の記憶では、父親は戦後仕事らしい仕事には就いた事がないそうで、そんな中、ラジオやテレビ、雑誌などによく文章を応募しており、高額入選する事もあったそうです。

特に1963年週刊朝日が「私の八月十五日」の手記を募集した際、吉田清治の文章が佳作に入選。内容は、終戦を受けて朝鮮人労務者たちが吉田清治の自宅に詰め寄り、彼が軍刀を振り回して追っ払ったというものでした。悲惨な戦争被害者という観点からの作品が入選を占める中、唯一の戦時加害者としての視点を持った作品だったそうです。

 

長男はこの投稿について少しだけ父から話を聞いていた。

「労務報国会で雇っていた朝鮮人の大半は共産党員だったそうです。終戦の八月十五日か翌日、家に集まってきた彼らに軍刀を振り回したというのは嘘だと言っていました。当時、軍人でもない父に、軍刀は支給されていなかったのです」

それなら話自体の信憑性も疑われるが、この内容を事実としてすぐに著作に取り込んだ人物がいた。朝鮮大学校で教鞭を執る歴史研究家の朴慶植氏である。強制連行文献のバイブルとされる彼の『朝鮮人強制連行の記録』に引用されるのだ。

 

実はこのご子息、高校を卒業後に何とソ連に留学したそうです(のちに彼の弟も)。

ただし強い思想理由があった訳ではなく、ソ連留学が旅費も生活費も無料(米国フルブライト留学の場合、旅費は自己負担らしい)だった為、試験を受けてみたところ受かったから、というもの。貧しい家計を考えて自らの意思だったそうです。

この留学は途中で事情があって兄弟は中途帰国する事になるのですが、しばらくしてロシア語が堪能だという事で、公安警察から兄弟そろってリクルートされる事になりました。彼は日ソ合弁の船会社に就職し、「国の為に」という思いで、通常業務の傍ら関係者の監視・情報収集をしていたそうです。

大高氏も驚いた話だったようで、兄弟を勧誘した神奈川県警の元刑事にも会い、ウラをしっかり取っています。事実でした。

その頃、吉田清治はデビュー作『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版(1977年)しています。

 

「もともとは自分の自叙伝を書くつもりくらいだったんじゃないでしょうか」

と語るのは長男である。

「私が本を出した(梅之助・注:彼ら兄弟がソ連から帰国した際、留学時代の軽いエッセイのような本を出版している)のを見て、それも口述で本を出せたわけですから、私より文章のうまい父は、出版社何社かを訪ねていけば簡単に出してもらえるって思っていたんじゃないでしょうか」

ただ、と長男は続ける。

「経験していないことは書けるはずがない。一冊、空想で書くことは不可能でしょう。だから誰か手助けした人がいる。でも私はその頃、過労死寸前くらいに働いてましたから、ずっと家にいた父とはほとんどかかわっていないんです」

 

吉田清治はデビュー作を出版後、次第に各出版社やメディアに自分を売り込む活動を行い始めます。

彼は後年、日本の国に大きな災難をもたらす訳ですが、その子供たちは必死に、そして文字通り日本の為に働いてくれたのですね。

 

 

続いて1983年、吉田清治は済州島で慰安婦狩りを行ったという、問題の第2作目「私の戦争犯罪」を出版します。

大高氏は同書の編集を担当した三角忠氏にも取材をしており、何と彼は今でも吉田清治の証言を事実として支持しているそうです。

 

済州島については「私の方からヒントを出した」という。

「私がもともと済州島に非常に興味があったんですね。金石範の『火山島』を読んでいましたから。済州島蜂起の話をしたら、”あっ、そう言えば” という感じでしたね」

済州島での慰安婦狩りはこうしたきっかけで書き始められたのだ。

 

その頃、ご子息は公安の活動は辞め、翻訳会社に転職していました。給料が良かったからだそうです。

 

その長男が衝撃的な証言をする。

「父は済州島には行っていません。それは父から聞いています。それで父は、済州島の地図を見ながら、原稿用紙へ原稿を書いていました」

ではなぜあれほど克明に書けたのか。

「材料はなかったはずです。ですからそれは、出版社や周りにいた人たちに発言をしていただきたいんです」

 

2作目の出版以降、吉田清治は精力的に活動していきます。

1983年12月、彼は韓国忠清南道天安市を訪問し、彼本人の名前と謝罪文が刻まれた謝罪碑の前で土下座しました。その碑は私費で建てたとされています。この件は日韓両国のテレビ、新聞メディアなどで大々的に報じられました。

 

だがこれについても、長男は、

「石碑を建てたり、韓国に行ったりするお金は、うちにはありませんでした。あれはいろいろな人からの支援だと思います」

と言う。そしてこんな話を打ち明けるのだ。

「韓国から戻ってきた後、父のパスポートを見てびっくりした記憶があります。日本からの出国と帰国のスタンプはあるのですが、韓国への入国、出国のスタンプが押されていない。なぜかと聞いたら、韓国の空港につくやいなや韓国政府の人がやってきて特別室に案内され、そのままソウルの街に出たんだそうです」

 

一方、その時の謝罪の旅のTV画面を複雑な思いで見つめた人物がいました。

それは息子兄弟を公安に誘った神奈川県警の元刑事その人。彼は兄弟をリクルートした関係で、吉田家と家族ぐるみの付き合いをしていました。

彼は以前、ある出来事から吉田清治を詰問する事態になった事があり、その時に吉田は「韓国のある組織から借金をしている」とゲロしたのだそうです。吉田はそれ以上は言いませんでしたが、刑事は当時その組織をKCIAだと推測したそうです。

 

「正直なところ、可哀そうだなと思いました。本当のおやじさんの顔じゃなかった。痩せちゃっているし、怯えている姿そのものでしたよ。自業自得だな、しょうがないなとは思いましたが、最後には可哀そうになってきた。このあとKCIAに殺されなきゃいいな、とも思いました」

 

吉田清治の「慰安婦狩り」生き証人としての活動は更に加速していきます。

しかし1992年頃から彼の著作や言動に大きな疑義を投げかける人々が現れました。この頃、歴史家の秦郁彦氏は済州島現地調査で、「私の戦争犯罪」を裏付ける証言が何一つ出てこなかった事を公表しています。メディアも次第に吉田清治の証言とは距離を取り始めました。

しかし慰安婦問題自体は実名で名乗りを上げる韓国人女性たちの出現、河野談話、村山談話、アジア女性基金と、もはや後戻りできない所まで来てしまっていたのです。

 

朝日新聞もすでに平成九年三月三一日の特集記事で、吉田証言の「真偽は確認できない」としている。

担当編集者の三角忠氏が語る。

「吉田さんが一番こたえたのは、慰安婦問題に取り組んできた中央大学の吉見義明さんや関東学院大学の林博史さんなどが学術的な資料としてはちょっと使えないと言い出したことなんですよね。お二方には、そういう言い方をするとこの本の歴史的証言を貶めることになるんじゃないですかと言ったんですがね。唯一、西野瑠美子さんだけがいまもこの本を事実だと言ってくれている」

 

今も信用している人がいるのはちょっと驚きです。

 

だが、長男はまったく正反対の思いでいる。

「父は結果として大変誤った歴史を作り出してしまった。これは私が生きているうち直さなきゃいけないと思っています。軍が民間団体に軍の命令書を発行するわけがありません。労務報国会という半官半民の組織や民間組織が軍命で朝鮮人女性をトラックに載せて集めるなんてことができるわけがない。これは歴史的事実として、長男の立場から真実を定着させていかなければならない。父が暴走し始めた時に私がストッパー役になっていればと、悔やんでも悔やみきれません」

そして朝日新聞についてはこう語る。

「二年前、慰安婦報道について訂正記事を出す二、三日前に、私を訪ねてきました。取材というよりは最初から筋書き通りの形式的な質問をして三〇分ほどで引き揚げていきました。平成九年の段階でなぜ父に直接取材をしに来なかったのか。その時に真相を究明していれば少しでも慰安婦報道の歪みが正されていたのではと思います」

 

ソウル日本大使館前の慰安婦像 (Wikipediaより)

 

慰安婦問題の日韓合意を事実上破棄した、昨年末の韓国・釜山慰安婦像設立問題。

一番ショックを受けているのはこのご子息ではないでしょうか?

彼の苦悩は続きそうです。

 

 

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梅之助の思想信条は世間ではいわゆる「右側」という立場になると思います。個人的には極めて穏健な中立だと思っているけれど、えへへ。。。

よく左翼の言説は、過去の日本政府や日本軍の行動をほとんど全否定していて、それはもう知性もへったくれもありゃしないという呆れたものがあります。

しかし、中には右派の主張にも「それはどうよ」というのが見受けられるのも事実。それは事実認識が不足していたり、整理されていなかったりするのが原因と思われます。

なので梅之助は思想信条、特に歴史問題について書く際は、出来るだけ客観的事実を調べて文章に反映するよう心がけています。もちろん、知識の浅い一般人なので行き届かない所もあったり、感情に任せて書いてしまう事もありますが。。。

 

前回の記事で日本軍による真珠湾攻撃の時、米側に開戦通告が遅れた事に触れました。その際、それに類するネット上の色々な記事を見ていたところ、様々な文章に出っくわしました。

例を挙げると

 

・米国は第二次大戦より後の戦争で、一切、宣戦布告をしていない。

・日本軍は真珠湾攻撃の少し前、マレー半島を攻撃しているが、なぜそちらは問題とならない?

・第二次大戦中、日本以外の交戦国で宣戦布告がされていないケースがいくつか見受けられる。

・日露戦争でも日本は宣戦布告の前にロシア艦隊を攻撃しており、なぜ真珠湾の時だけ問題となる?

 

などです。

そう指摘されると、何だか混乱してよく分からなくなってしまいますね。

そこで少し言葉の意味を確認して、分かりやすく整理してみましょう。

 

 1941年12月9日 朝日新聞

 

「宣戦布告」とは文字通り、これからあなたの国と武力で戦いますよ、と通告し発表する事。

そしてそれに準ずるものとして「最後通牒」というのがあります。

よく一般人の交渉事でも使われる言葉ですが、外交用語としての「最後通牒」とは、国際交渉において相手国がその最終要求を受け入れなければ交渉を打ち切る(事実上の外交断絶宣言)と通告する事で、外交が打ち切られれば通常、次は武力行使の段階に移る事を意味するため、戦争宣言に準ずるものだとされています。

つまり宣戦布告とは、狭い意味では上の「宣戦布告」を、広い意味では「最後通牒」を含んでいる、という事が言えそうですね。

 

実は第二次大戦当時、1907年に成立した「開戦に関する条約」という国際法があって、そこには開戦に先立ち相手国に「宣戦布告」あるいは「条件付き開戦宣言を含む最後通牒」を通告する事、という規定がありました。ただし、上で書いたように外交断絶通告だけでも実質的に後者に相当すると見なされていたようです。

この法律の発端は日露戦争で、日本が「宣戦布告」の前にロシア艦隊を攻撃した事を受けて、開戦におけるルールを整備しようという事になり成立したそうです。

日露戦争をこの条約に当てはめてみると、1904年の

2月8日日本、ロシア旅順艦隊を攻撃

2月10日ロシアに「宣戦布告」

となりますが、

2月6日日本、ロシアとの国交断絶通知(「最後通牒」)

という経緯がある為、問題にはならないという認識をアメリカを含めた中立国は示しています。

因みに第一次大戦の日本はドイツに対して、1914年8月15日に期限を一週間設けた「最後通牒」通告、8月23日「宣戦布告」、開戦、という経緯で、手続きを遵守しました。

 

 日露戦争 旅順の戦い (防衛省防衛研究所所蔵)

 

では真珠湾奇襲の際、予定時間に渡し損ねた「対米覚書」について。

よく一般には宣戦布告が遅れたと表現されるこの文書、厳密には「最後通牒」という意図で日本政府は米国側に渡したかった訳です。文書には「交渉打ち切り」が書かれているだけで「最後通牒になっていない」と字面に捉われて解釈する人もいますが、それは現代の感覚から来る認識不足です。当時は今以上に「戦争は外交の延長上」という考えが世界一般の常識であり、また当時の日米関係の雰囲気もそういうものでした。要は相手国に「次は武力行使ですよ」と分かればいいのであって、「対米覚書」も読めばそれと理解できますよ。

一方、戦前の日本における正式な「宣戦布告」は、「宣戦の詔書」というものです。世界と国民に向けて天皇の名で発せられるものですが、どちらかというと国民向けの側面が強いですね。対清国(日清戦争)、対ロシア(日露戦争)、対ドイツ(第一次大戦)、対米英(第二次大戦)の計4回出されています。

 

 日露戦争の「宣戦の詔書」(国立公文書館HP「近代国家日本の登場」より)

 

次に日本軍のマレー攻撃に関して。こちらは何らかの形で通告する事は端っから予定していませんでした。問題にならなかったのは、たまたま相手方(英国)がそういう態度を取っただけの事です。理由は推察になりますが、既に日本の同盟国ドイツ・イタリアと戦争状態であったため、米国のように国民を開戦意識へと誘導する必要がなかったからではないでしょうか。

また、第二次大戦におけるドイツ軍の戦端のほとんどが宣戦布告無しで開かれています。この点はどうなっているんでしょうね。ホロコーストという戦争犯罪の陰に隠れてしまって、問題にされていないのかもしれません。

 

 マレー攻略戦 シンガポール市内を行進する日本軍 (Wikipediaより)

 

宣戦布告について酷いケースを一例だけ。

それはソ連の対日参戦。

翌年4月まで残っていた日ソ不可侵条約を破り、ソ連が日本に攻め込んで来たのは1945年8月9日。攻撃開始の約1時間前に、ソ連の外相・モロトフは駐ソ日本大使・佐藤尚武に宣戦布告を宣言しています。佐藤大使はモロトフの許可を取り、モスクワ中央電信局から日本外務省に打電するものの、この公電は日本に届きませんでした。実はモスクワ中央電信局が受理したにも関わらず、意図的に日本電信局に送信しなかったからです。日本がソ連の参戦を知ったのは、侵攻開始から約4時間後。タス通信などのマスコミ報道によってでした。

酷いソ連の背信行為です。

この事実は昨年8月8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになっていて、産経ニュースが報じています(→記事はこちら)。

 

真珠湾の話に戻ります。

ハルノートを実質的な「最後通牒」だと見る向きもあるようですが、それに関しては何とも言えません。もちろん米国の本音がそこにあるのは間違いありませんが、米国は国内世論の関係で自ら戦争に打って出る事は出来ず、日本側から開戦してもらわねばならない立場でした。よってハルノートは日米交渉の米国側からの提案という形になっています。

つまり、米国としては「まだ交渉中」というフリをしていた訳で、そこを日本軍が「最後通牒」を手交する前にハワイを攻撃してしまったので、ここぞとばかりルーズベルトがそれを最大限利用して自国を開戦に導き、日本の悪評を際立たせる結果となってしまいました。

「はめられた」とはいえ、この日本の失策は弁明の余地がありません。具体的な交渉のなかった英国とは、そこも若干事情が違うように思われます。

ただ、ルーズベルトの日本非難は日露戦争のケースも絡めて「日本は常に宣戦布告をせず、騙し討ちをする国」としており、事実を歪曲しています。そこは本当に卑怯ですね。

一応触れておきますが、東京裁判では真珠湾奇襲攻撃そのものには無罪判決が出ているそうです。

 

 日米交渉 記者会見する野村・来栖大使 (Wikipediaより)

 

戦後の米国の戦争については、調べるのも骨が折れそうなので止めておきます。米国は身勝手な国なので人を非難しておきながら、自らはしょっちゅうルールを力の論理で無視していますからね。ご都合主義もいいところ。まあ、戦前・戦後を通して、列強・大国とは皆そんなもんです。

ただし、戦後の戦争で全く宣戦布告していないというのは間違いのようで、梅之助の記憶している限りでは2003年イラク戦争の際、当時のブッシュ大統領がサダム・フセインにTV演説で「最後通牒」を突き付けています。先制空爆の後、本格攻撃の前でしたけど。

 

戦後も数多くの戦争・紛争はありましたが、有力国家がそれぞれ核の傘に収まった為、ガチンコ対決という構図がなくなり中小国同士の代理戦争となったり、国連の介入があって複雑になったりと、発端とその経過は一言では言えない現状です。

なんか北朝鮮などは常に「最後通牒」&「宣戦布告」みたいな声明を乱発しているよね。

 

以上、ざっと振り返ってみると、宣戦布告の有無に関する評価はその時々の世界情勢、対象国の政治事情などによって大きく変転するみたいです。そう考えると、いつまでも日本だけが「騙し討ち国家」という過去のレッテルを引きずらねばならないのは、少し不当な気がします。

 

 

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「安倍総理、真珠湾訪問」に対する私見(2016/12/08)

記憶せよ 十二月八日(2014/12/08)

 

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確かにその日に至るまでの日本の国策に選択ミスはありました。

結果を知ってしまった戦後の後知恵になるでしょうが、例えば日本は「満州まで」を勢力圏にとどめ(梅之助、実は謀略を用いた国家建設という手法はともかくとして、戦略としての満州確保に関しては否定しません。もちろんそれは当時の価値観や世界情勢に照らしての考えですが)、万里の長城以南には例え何度も蒋介石らから挑発を受けても踏みとどまるべきでした。満州事変の首謀者・石原莞爾でさえ強固にそれを主張していたのだから。

しかし、歴史は支那事変、ドイツの快進撃を受けての南部仏印進駐へと続き、決定的な日米対立を生んでしまいます。対米資産凍結、米国による石油・鉄等の対日輸出禁止etc。。。

それを打開するはずの日米交渉でしたが、時には柔軟な姿勢を米側はチラつかせながら8ヶ月も時間を稼いで戦争準備を整え、挙句の果てには交渉妥結に努力していた日本をあざ笑うかのように、それまでの交渉経緯を全く無視したハル・ノートで回答したのです。当然、日本が絶対に受け入れる事が出来ない事を見越しての事です。

ハルノートの衝撃を現在で例えるなら、今の米国が仮にアラブ諸国との関係がこじれて石油の禁輸を食らったとして、禁輸解除の条件が「全世界からの米軍撤退、日本や英国など友好同盟国との関係白紙撤回、ハワイやグアムなどの本土以外の領土の放棄」などを要求されたらどうでしょう?

即座に要求国の首都を100%空爆するはずです。

 

 真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機

 

1941年12月8日未明(日本時間)。

空母「赤城」らから発艦した日本の艦載機が、ハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃して対米戦争が開始されました。これは先制攻撃とはいえ、性格的には自衛戦争の延長上にあるという事が出来ます。マッカーサーも戦後、そう言っているのは有名な話ですね。

ただし、当時のルーズベルト大統領の方が戦争を仕向けたとはいえ、在米日本大使館の職務怠慢で「対米最後通告(正式には「対米覚書」:日米交渉打ち切り通告文)」の手交が遅れてしまい、形式的には残念ながら「不意討ち」というものになってしまいました。当時は尚更ですが、現在も一般米国民は日本人以上に事の経緯など知らない人の方が多いと思います。彼らにはルーズベルトのPRもあって「不意討ち」という事実だけが強く印象に残っているでしょう。

 

 (上)爆発炎上する米戦艦「ウエストバージニア」

 (下)爆発炎上する米駆逐艦「ショー」

 

さて、前フリが随分長くなってしまいました。

12月5日、安倍総理が12月26~27日にハワイを訪れ、オバマ大統領と共に真珠湾・アリゾナ記念館で慰霊を行う、と発表されました。日本のメディアは「現職初」と当初は報じていましたが、どうもこれは誤りで、1951年9月12日に当時の吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約受諾の為に渡米した際、その帰り道で真珠湾を訪れていたようですね。

いや、吉田茂首相の事はいいんだけれど。

 

 読売新聞社より

 

この「安倍総理、真珠湾を訪問」の一報を聞いて、梅之助としてはちょっと複雑な気持ちになりました。日米両国民の間で評価されているようですし、梅之助も反対する気持ちはありませんが、諸手を挙げて賛成!という訳にも。。。

日米両政府は「オバマ大統領の広島訪問と対ではない」と強調していますが、当然そこには答礼という配慮が働いている事は周知の事実。米国民ならば一層そのように感じるでしょう。

しかし本質的事実として「真珠湾」と「広島」は対にはなり得ません。

「真珠湾」は結果としては不意討ちであったものの、あくまで戦争における戦闘行為であり、対象物は軍艦や軍施設。梅之助は観ていませんが映画「パールハーバー」では、日本機が病院を攻撃している描写があるそうですね。日本軍はそんなこと行っていません。

一方の「広島」(及び「長崎」)は原爆投下による一般人大量虐殺。これは戦闘行為ではなく、ホロコーストに類する史上最大級の戦争犯罪で、本来は裁かれるべき出来事なのです。

 

 サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂 (Wikipediaより)

 

元々、あの戦争及び戦後処理に関して、日本は関係国とすでに講和条約(対英米など約50ヶ国)及びそれに準ずる条約(対韓国、中国など)を締結しており、それによって「謝罪云々」といった政治的問題は解決しています。

しかし、戦争犯罪は別問題。日本の戦争犯罪は東京裁判で裁かれたものの、連合国のそれらは完全にスルー。その最もたるものが原爆投下なのです。

よって筋論から言えば、オバマ大統領は広島で謝罪する責務があった一方、安倍総理は真珠湾で謝罪する理由などありません。

ネット上では「アベは次に韓国に謝罪に来い」などと言う韓国人の声が多くあるそうですが、こんな国が隣国である事を思うと本当にうんざりですな。

 

しかし、安倍総理が当地でどのような言動をするかまだ不確定ではあるものの、日本政府が「これは慰霊であり、謝罪ではない」と力説しているのを見て、少しは安心しました。ならば、総理の真珠湾訪問も悪くはありません。民度の低い中韓と違って、幸い米国の退役軍人にも「日本は日本のために戦った、我々も米国のために戦った」と、謝罪など不必要と考える人が多くいるのも事実です。

そう。

上の方で、対米戦争は自衛戦争の延長と書きましたが、これはあくまで日本人の理屈。

満州事変以降の日本の行動を批判する米国には米国の理屈もあります。

戦争犯罪を除いて、戦争における価値観の対立はどちらが善でどちらが悪などと一方的に言えるものではないのです。

今は双方の過去の相違に深く触れず、しかし現代の価値観を踏まえて、将来の戦争の惨禍を防ぐための努力を共にする事、過去の尊い命を慰霊する事、それこそが成熟した国家とその指導者の役割なのだと思います。

 

 真珠湾・アリゾナ記念館 (Wikipediaより)

 

ここまで、過去の対米戦争をどう受け止めて今回の総理訪問を捉えるか、という観点で書いてきました。次にこの訪問がもたらす影響について、述べてみたいと思います。

 

まず、ネット上では今回の「謝罪なき慰霊」を押し通す事に成功したら、このスタンスで靖国参拝の道が開かれる、という意見があります。そこに至る道はまだまだ険しいとは思いますが、これは梅之助、そこまで考えが至りませんでした。謝罪云々というのは政治的評価に繋がってしまいますが、それを除外して純粋に慰霊というスタンスの実績を積み重ねられれば、確かに将来の外国要人による靖国参拝も夢ではないかもしれませんね。

保守派の一部には「靖国に行ってから真珠湾へ行け」という意見があるのも承知していますし、筋論から言えばそれがベストかもしれません。しかし今は実績作りが優先です。安倍総理の仕事は「安倍総理が靖国に行く」事ではなく、「将来、どの総理も(外国要人含む)靖国に行ける道を拓く」事が仕事なのだと思います。

もしかしたら外国要人の靖国参拝再開第一号はトランプ!?

ここで「参拝再開」と書いたのは、中韓が靖国参拝を外交問題化する以前は、結構な数の外国要人が靖国神社を公式に訪れていました。この事実を日本人は知っておかなければなりません。

 

また、今回の安倍総理の決断は、米側の日本に対する「感情の棘」を払拭し、間違いなく今後の安全保障にも好影響を与えるでしょう。

梅之助は冒頭の方で、対米開戦における日本側の理屈を書きました。

しかし大前提として日本は戦争に負けてしまい、その戦勝国が世界の枠組みを今も牛耳っています。戦争に負けた者の理屈など通らないのが国際政治の現実。

したがって、一部の保守派が望む過去の日本の理屈を世界に認めさせようとするのは、安倍総理でも不可能な事です。

その現実を踏まえたうえで、梅之助が思い起こすのは2015年8月の「安倍談話」

 

「私たちの子や孫に謝罪を続ける運命を背負わせてはならない」

 

梅之助は総理の目的の一つにこれがあるのではないか、と思っています。

かつて恩讐だった日米の完全なる和解と前進を世界にPRし、日米関係を強固にしてその盾で中韓(その他)の不当な歴史的イチャモンを跳ね返す。

韓国の反日は愚かな感情論で、戦略もくそもありません。日米関係さえしっかりしていれば、時には米国側から韓国に「もう、いいかげんにしろ」と頭をゴツンと出来る。

問題は中共の反日歴史カードで、その目的は明らかに日米分断工作です。1997年、米国を訪問した当時の国家主席・江沢民はハワイ・真珠湾を訪れ、そこでクリントン大統領が出迎えました。ここで江沢民は「我々は日本軍国主義と戦った」とブチ上げています。

そんな事態を防ぐための効果も、今回の真珠湾訪問はもたらすでしょう。

 

以上のような事を考えると、しばらく靖国参拝をせず、「戦後レジームの脱却」も最近言わなくなった安倍総理ですが、回り道でも着々と歩を進め、国民の生命と財産を守る最大の職務を遂行しているように思えます。

何だか最初は懸念あり、で書き出したこの記事も、最後は安倍ヨイショ!になってしまいました。。。

 

最後に今も昔も情報戦にはイマイチ冴えない日本の外務省の事で一言。

繰り返し書きますが、「広島」と「真珠湾」を対にして並べる事は出来ません。

しかし、その本質が異なるものを並べさせてしまうほど米国民の感情を悪化させてしまったのが、在米日本大使館の怠慢による「対米最後通告」の遅れ。もし、予定通りに通告が行われていれば、戦後日本の総理が出向くほどの場所ではないのが「真珠湾」なのです。しかも当時の担当者たちがその後咎められたり、職務降格されたという形跡もありません。

何故か?

当然、戦争が始まると当事国双方の大使館員たちは抑留され、しばらくした後に交換船で母国に戻って来ました。その頃は日本も連戦連勝、通告の遅れなど大きな問題にはならず、なし崩し的にそのままになったようです。

あの時の日本大使館の失策は本当に悔やまれます。

 

 

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記憶せよ 十二月八日(2014/12/08)

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梅之助にとって8月12~13日の礼文・稚内行き最大の目的は、実はこの稚内公園の「9人の乙女の碑」を訪れる事でした。

最初に息子が「稚内に行ってみたい」と言い出したとはいえ、つい最近当地へ行って来た嫁をその気にさせるのは少々難しく、「礼文島抱き合わせ」という技を使ってまで実現させたのは、この目的があったからです。要はこの記事を書くため、と言っても過言ではありません。

 

 

1945(昭和20)年8月9日、翌年4月まで有効だった日ソ不可侵条約を破り日本に参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も武力侵攻の足を止めず、満州・千島・南樺太へと攻め入って来ました。南樺太・真岡(現・ホルムスク)の郵便局で電話交換手として働いていた女子職員にも疎開指示が下されますが、女子職員たちは強く残留を希望。

8月20日朝、ソ連軍が真岡に上陸、郵便局に迫ってきたところで、最後まで職務を遂行し職場を守っていた電話交換手たちは、最後の言葉「皆さん これが最後です さようなら さようなら」を残すと、次々に青酸カリを服毒し9名が絶命しました。

これが9人の乙女の悲劇・真岡郵便局事件の概要ですが、自決事件当時は非番で「真岡にソ連軍上陸」の報を受け、郵便局に向かう途上、ソ連兵に射殺されたり、防空壕に手榴弾を投げ込まれ爆殺された女子職員もいたそうです。

尚、稚内市建設産業部観光交流課の「九人の乙女の物語」によると、最後の通話状況はこう記されています。

 

 同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。
 「午前6時30分頃、渡辺照さんが、『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった。 ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと『高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』という渡辺さんの声が聞き取れた。自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。

 

戦後、1963年に彼女たちの霊を慰めるために「9人の乙女の碑」が「氷雪の門」と共に建立され、1973年には靖国神社にも合祀されています。

 

ここまでは梅之助もある程度知っている内容だったのですが、今年の春頃、Wikipediaにこのような記載がある事を知りました。

「当初碑文には、自決は軍の命令で、全員が自決したように書かれていた。しかし実際には軍命令は無く、生存者もいたので、碑文の記述は事実とは異なっていた」

えっ?自決は日本軍による強要?

そこで当初の碑文内容を調べてみる事にし、やがてその全文を発見しました。

以下のものです。

 

「昭和20年8月20日日本軍の厳命を受けた真岡郵便局に勤務する9人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向ったソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ最後の力をふりしぼってキイをたゝき『皆さん さようなら さようなら これが最後です』の言葉を残し夢多き若い命を絶った 戦争は2度と繰りかえすまじ平和の祈りをこめてこゝに9人の乙女の霊を慰む」(原文)。

 

この悲劇的な事件は、生存者や事情を良く知る関係者も存命しており、すぐに上の記述が間違いであることが指摘されたそうです。

しかし一体、誰が当初の碑文を考えたのでしょう?

そこには事実関係を確認すらせず、何でもかんでも悪い事は日本軍の仕業にすればよい、という戦後の風潮が色濃く反映されていたとしか思えません。

現在の碑文は以下のように変更され、「軍による命令」は消えています。いつ書き換えられたのかまでは分かりませんでした。

 

 

「戦いは終わつた。それから5日昭和20年8月20日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始つた。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向つた9人の乙女等は死を以つて己の職場を守つた 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい『皆さんこれが最後です さようなら さようなら』の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた 戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き9人の乙女の霊を慰む」(原文)。

 

実はこの碑文についても梅之助は少々不満です。

何も知らない人がこの文脈を素直に読めば、

「戦いが終わって進駐してきたソ連軍に日本軍が発砲し、真岡は戦火に包まれた」

と読めるではないですか!

事実を書くと、玉音放送にて日本軍は抵抗をやめていたにもかかわらず、ソ連軍は武力侵攻を続けました。真岡でも日本側からの停戦軍使が射殺されるなどした為に、日本軍はやむなく自衛の為の戦闘を開始したのです。

碑文冒頭に「戦いは終わった」とありますが、戦いは終わってなどいなかったのです。ソ連にとって「日本側の8月15日」など関係なく、目指すは戦利品としての南樺太、全千島、そして北海道の獲得だった訳ですから。

 

さて、この碑文の経緯を知った時、そういえば沖縄でも日本軍による自決強要に関する裁判が近年あったなぁ、と思い至りました。沖縄では旧日本軍は本当にとんでもない悪者扱いですが、下のブログ記事を読んだ時にハッとさせられた事があったので、ここで是非紹介させて頂きます。

少々前の記事ですが、井上政典氏のブログ。


沖縄戦にて、洞窟に避難していた民間人を日本兵がやってきて追い払ったという出来事を、その背景と常識的な思考で考えると、何と説得力のある見解ではないでしょうか。

「9人の乙女の碑」碑文問題は、事件後さほど時間も経過していなかった為、すぐに真実が判明しましたが、沖縄戦における幾つかの事件は、沖縄がすぐに米国統治下に入ったので検証する機会すらなかったと思われます。

 

現在の日本人の認識の中で、悪行を数多く行ったとされる旧日本軍。その中には戦後の左翼的風潮を受けて、捏造されたものや誤解を受けているものも相当数含まれているような気がしてなりません。

 

 

【関連記事】

2016 稚内・礼文の旅⑫~稚内公園(2016/09/04)

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今年も8月15日がやって来ました。
この日は何かと靖国神社がクローズアップされる一日です。
梅之助も一度だけ参拝した事がありますが、普段は静かな社(やしろ)が騒々しい政治イデオロギーに染まってしまうのは極めて残念な事だと思います。

時事通信社より

今年は安倍内閣から高市早苗総務相、丸川珠代五輪相、萩生田光一官房副長官がこの日に参拝しました。また、山本有二農林水産相が6日に、今村雅弘復興相は11日に参拝したとの事です。
高市総務相は参拝後、記者団に「国策に殉じた方々に尊崇の念を持って感謝の誠をささげた。慰霊の在り方は外交問題になるべきではない」と語り、丸川五輪相も「国策に殉じた方たちをどのようにお祀りするかは、その国のやり方がある。外交問題と捉えるものではない」と記者団に強調したそうです。
まさにその通りですね。
マスコミも「誰々が参拝した」などという下らない報道はもう止めるべきです。このバカなマスコミ報道こそが、この件を外交問題として煽っている訳ですから。

梅之助は政治家の靖国神社参拝について肯定的なスタンスです。ただし、だからと言って参拝しない政治家をとやかく言う気はありません。
しかし別の点で、この8月15日に許せない行動を取る日本の政治家って、結構いるんですよねぇ~。

共産党・池内さおり議員ツイッターより

上の画像は昨年の8月15日に東京・日比谷公会堂で行われた、在日本大韓民国民団・東京地方本部の第70回光復節式典の様子です。
両手を挙げているのは池内議員。他にも白真勲、吉田忠智(現在落選中)、小池章らの各議員の姿が確認できます。
彼らは一体、何の目的でこの会場に顔を出しているのでしょうか?
というか、そもそも論として民団が日本国内でこんな式典を行う意義など存在するのでしょうか?

その大前提としてあるのが、「現在約50~60万人いる在日韓国・朝鮮人が日韓併合時代に強制連行された本人及び子孫である」という、なんとなく一般化された認識です。それが事実であるのなら、上記の式典も分からなくはありませんがね。

ところが史実はそれが真っ赤なウソだという事を教えてくれています。

1959年7月13日 朝日新聞より

かつては日本政府もマスコミも、在日の事実と実情をはっきりと認識していた事が朝日新聞の記事で確認出来ますね。
つまり、いわゆる「強制連行」(実際は「戦時徴用」で1944年9月から1945年3月までの期間)で日本本土に来た朝鮮人のうち、終戦後も日本に残った者はわずか245人しかおらず、現在日本に居住する在日の圧倒的大部分が自由意思で日本にやって来た者たちとその子孫である、というのが真実なのです(戦時徴用については→「韓国の主張する「強制労働」とは一体何だったのか?」
(2015/07/15)参照)。
それがいつの間にか「在日は強制連行の子孫」にすり替わってしまっている!
まさに「従軍慰安婦問題」と全く同じ構図じゃないですか。

この在日の歴史的経緯については、高市早苗議員が2010年3月10日の衆議院・外務委員会で分かりやすくかつ的確に指摘しています。この時、政権は鳩山内閣で自民党は野党でした。



にもかかわらず、在日勢力や日本の左翼マスコミは何でもかんでも「強制連行」に結び付けて、既成事実化しようとしています。
例えば2014年7月17日の「NHKニュースウォッチ9」で当時の大越健介キャスターは
「在日コリアンの1世の方達というのは、1910年の韓国併合後に強制的に連れてこられたり、職を求めて移り住んできた人達で大変な苦労を重ねて、生活の基盤を築いてきたという経緯があります」
と発言し、ことさら「強制連行」を印象付けようとしました。国営放送のニュースキャスターでありながら、歴史的事実を無視して在日・左翼が主張する俗説におもねるとは、この人物に報道人としての資格があるのでしょうか?

また在日韓国・朝鮮人の中には、朝鮮戦争の際に戦火を逃れて密入国したり、1948年の「済州島四・三事件」(韓国・李承晩政権が済州島の左翼系島民6万人を大量虐殺した事件)や、1950年の「保導連盟事件」(韓国軍・警察が20万人以上を虐殺)の際に日本に逃れた者たちも相当数いる事が知られています。

南朝鮮政府による処刑を待つ済州島民  (Wikipediaより)

仕事などで自由意思により日本に来たり、自国での戦火や弾圧を逃れて日本に渡った人たちと、その二世・三世が終戦の日に「日本からの解放」を祝う式典を行うとは、完全に論理も倫理も破綻していると言わざるを得ません。
そんなに「光復節」を祝いたいのならば、在日の人たちは韓国本国に出向くべきなのです。

この歴史的経緯は全ての日本人が知るべき事です。「強制連行の子孫だ」などという欺瞞に日本人は騙されてはいけません。
そしてこの事実を知ってか知らでか、ノコノコと民団の8・15式典に出かけるバカ面議員の姿と名前はしっかりと憶えておくべきでしょう。
彼らは日本の国会議員でありながら、日本人に災厄を招く元凶なのですから。
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