鶏肉はいまやブロイラー全盛時代です。ブロイラーは英語のブロイル(あぶる)からきた言葉で、本来は丸焼き用若鶏を指しました。それが今日では、用途の如何を問わず広義に食肉用の若鶏の総称となりました。
ブロイラー飼育が日本で始まったのは昭和32(1957)年頃です。東京の鶏問屋が群馬県前橋市の農家とブロイラーの契約生産を始めました。問屋が産地へ出かけて、農協や経済連を通じて雛や飼料を供給し、ブロイラーを集荷する方法で、ブロイラーの買い取り価格を保証しました。
この方式は順調に発展し35年には年間60万羽が生産され、翌年には現地に食肉処理工場が設立されました。35年には大手水産会社が群馬方式に習って各地で契約生産を始め、水産資本の上陸だと話題になりました。
このころから、一般家庭でもブロイラーに慣れて、唐揚げ、フライドチキン、カツレツという新しい料理方法で消費されるようになるのですが、一方では、廃鶏肉を鍋物で食べる人たちの間では、ブロイラーは味にコクがないとの批判が出ました。それでも、生産コストの低さは圧倒的な強みで、もう庭先でミミズやコオロギをついばんで成長をした鳥の肉は、特別な消費形態として僅かに残るだけとなり、鶏肉といえばブロイラーを指す時代となったのです。
鶏は古代から飼われていた家禽で、日本人に親しまれた鳥です。けれども、一般に食べられるようになったのは明治になってからで、昔の人はほとんど鶏肉の味を知りませんでした。
というのは、天武天皇四年(675)に、
「牛、馬、犬、猿、鶏の穴(しし)を食うこと莫(なか)れ」との殺生禁止令が出され、鶏肉を食べることを禁じられていたからです。
この禁令にもよりますが、それにも増して、日本人は心情的に家畜や家禽を食べることを嫌っていました。ですから、明治になってからでも、家鶏を食べようとする人のために、互いに遠方の馴染みのない家鶏と取り替える斡旋を業とする人もあったほどです。(柳田国男『明治大正史』)
それでは、なんのために鶏を飼っていたのかというと、鶏の鳴き声が効用だったのです。
天岩屋戸の神話で、
「常世の長鳴鳥を集へて」鳴かせて、洞穴に隠れた天照大御神を呼び戻した『古事記』の話は有名です。これは大御神が鶏の鳴き声で朝がきたと思って、岩戸をあけたからです。鶏はトキを告げる鳥として重要視されました。また、犬と同じように番兵的な役割もさせていました。
こうして、古代から中世にかけて鶏肉を食べたということは歴史の表面には全く浮かんできません。その鶏肉を江戸期になってから徐々に、そして明治以降、広く食べるようになったのは、鶏肉の需要の増大もありましたが、それまで盛んに食べていた野鳥類が鉄砲の暴威で野山から姿を少なくし、それに代わって食べられるようになったと考えられます。確かに、古代から江戸期にかけて、雁、鴨、菱食、雉、鷺、白鳥など沢山のさまざまな鳥が食べられてきました。
西鶴の『置土産』にある鶏飯は南蛮風の料理として食べられたもので、これはいまでいう鶏肉の「水炊き」です(『料理物語』『当流節用料理大全』)。同じように『福翁自伝』には幕末の大坂で、
「たびたび行くのは鶏肉屋(とりや)」とあるし、天明八年に長崎に遊んだ司馬江漢は、この地で鶏肉を食べ、江戸のと比べ、
「魚の煮たる如く、箸にて肉、骨と能く離る。肉至って柔らかなり」と感心しています。本当に鶏肉なのかと知人にきくと、
「なんぞ鶏に異(かわ)る事無し、酒にて半時煮たる物」(『江漢西遊日記』)だと説明されています。
南蛮料理としての鶏肉料理は、それだけ長崎の地が進んでいたのでしょう。
ところで、江戸や大坂で鶏肉料理が庶民層で食べられるようになるのは、大衆飲食店が続出した十九世紀になってからです。
「文化(1804~18)以来、京坂はかしわと云鶏を葱鍋に烹て食す事専也、江戸はしゃもと云闘鶏を同製にして売之」(『守貞漫稿』)とあるように、鶏肉食専門の店ができ、葱鍋にして食べさせるようになりました。店によっては鶏肉とともに豚肉も売っていました。
『浪華百事談』によると、大坂での流行はいま少し後だったようで、
「駄六といふ鶏肉割烹舗開業し、大に繁昌……大豊といふもの又開業して共に繁昌せり。是は天保(1830~44)の季(すえ)か弘化(1844~48)の事」で、以後
「所々に鶏肉割烹舗開店して、数多となりしより、安政(1854~60)の頃なりしか」とあります。福沢諭吉が緒方塾にいたころ、たびたび行った鶏肉(とり)屋というのは、こうした大坂市中に天保以後にできた鶏肉屋です。
ですが、こうして幕末に普及した鶏肉屋も、文明開化とともに牛肉の爆発的な流行によって、影が薄くなりましたが、明治期における鶏肉食の復活普及はかなり早かったようです。明治半ばころになると、東京ではあちこちに軍鶏屋ができて繁昌しました。有名だったのは、両国・回向院(えこういん)前にあった「坊主しゃも」で、ここの親子丼としゃもの桜煮は、大相撲興行中の名物であったし、しゃも鍋は金町葱の上物を使うなど吟味されていて、普段でも市中から長い橋を渡って訪れる客が多かったといいます。
洋食の普及で食用鶏が飼育されるようになり、明治二〇年からレグホンなどが輸入されて品種改良が始まりました。経済的な都合で、成長が早く、粗末な飼料でよく、耐病性もある名古屋コーチンやレグホン種が普及します。こうして、大正末ごろまでに地鶏はほとんど姿を消しました。


