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ニコニコ動画における画面解像度です。画素数20万ドット足らず、このちっぽけな画面の中にあるのは、しかしひとつの世界にも等しい広がりです。動画作者たちはその小さな広大さと相対して悪戦苦闘を繰り返し、私たちはその戦いの成果を受け取り続けています。
その画面をさらに分割する……それは危険ですが、魅力的な挑戦です。ちっぽけなディスプレイの中、どれほどの意味を、どれほどの楽しさを詰め込めるのか。画面分割は、その限界を見定めようと戦っているかのように思えます。

今回取り上げるversusPは、そんな画面分割を得意とするPです。

「アイドルマスター 春香さん達 vs DaftPunk 『電影国家 ~ALIVE 2007』」。
それまでのversusPとは異なる次元の動画であったことを、再生数の増加も証しています。これ以前のPの作品もいずれ劣らぬ傑作ではありましたが、どうしても一般的な評価は伸び悩んでいました。再生数などは水物であり、運という側面も否定できませんが、では動画の出来とは関係ないのかといえば、そうとも限らない。少なくとも今回のケースでは当てはまらないでしょう。
では、『電影国家』が過去作を越えたのは何であったのか。それを見極めるのがこのたびの記事の目標です。前編ではまず、versusPの個性である画面分割の手法と、それがもたらす効果について、いくつかの動画を参照しながら考えていきます。

【ニコニコ動画】vs アイドルマスター 『自作アイマスMAD』

過去作においては、versusPの画面分割は、動きの探求、という側面を中心にしていました。画面を複数に切り分け、そのそれぞれにライブ映像を配置することで動きのバリエーションを増していく、というものです。
もともとアイマスのライブ映像は、アイドルを中心に置いています。背景のセットは自己主張しませんし、カメラも常にアイドルをフォーカスしています。原作の世界観ではそれが正解であり、そこに尽きせぬ魅力があればこそニコマスも発展してきた訳です。
逆に言うと、ニコマスにおいて画面を切り分けることはつまり、複数のアイドルが登場すること、映像の中での動きの基準が分裂するということに外なりません。メインもサブもなく、動画の上にいる全てのキャラが主役として動き出す瞬間です。
カメラの動きやダンスの統一感を捨て去り、アイドルたち、あるいはエフェクトが好き勝手に所狭しと動き回る。この騒擾、賑やかさこそが、versusPの動画の最初の魅力です。


画面の切り分けによる動きの面白さを求めた動画としては、最近ではしょじょんPのデビュー作でしょうか。

様々な動きを重ね合わせること、そして画面自体が動きを持つこと。動きの軸の組み合わせ、という面白さのスタイルはversusPと共通のものがあります。

ですが、七夕革命以降のニコマスシーンにおいては、動きの探求はもっぱらアイドルを直接抜くか、エフェクトを乗せるかが中心になっています。アイドルのみを抜き出して同一の画面に乗せれば、ダンス作品としての統一感を持たせながら、さらに動きの多様性をも演出できるわけですからね。
たとえば、ぽPの最新作。

ここまでアイドルが密集しながら、思い思いに動き回る。その動きの楽しさは、画面を分けないこと、同じ空間に押し込めることによって倍加しています。
アイマスの画面でいちばん動くものは、アイドルです。動きそのものを追求するという目的に叶うのは、やはりアイドルを抜き出すことなのでしょう。


では、画面そのものを分割することでもたらされる特有の効果とは、一体何なのか?

切り分けられた画面は自ずと、一つ一つが映像としての統一感を持っています。結果、その小さな画面はひとつの世界としての強度を持ちます。
複数の画面をひとつの動画の中に置くということは、そこに複数の世界を描き出すという挑戦とほぼ等しくなります。ひとつの空間に多くのキャラクターを置くという抜きを用いた手法とは異なる、独自の方向性を持っているのです。
画面を分割する、ということがもたらす特有の効果を、動画を例に確かめてみます。


エコノミーPの少し古い動画。手法そのものは原曲PVの再現で、バンドサウンドのそれぞれのパートをキャラが一人ずつ請け負うことで、普段は統一されている音空間とでもいうべきものを分割する異化効果をもたらしています。
これこそアイマスでなら抜きで作れそうなものですが、それではやはり味わいが失せてしまうでしょう。画面の分割によって4人の存在する場所が分かたれているのに、なおもひとつの曲、ひとつの動画にパッケージされている。分けようとしても分けられないもの、この独特の感覚が動画の個性です。


前振りだけでMSC3を勝ち抜いたタクヲPの大傑作ですが、この動画の後半でも画面分割、というか複数の画面をウインドウ形式で表示する手法が用いられています。思い出ルーレットを摸したような画面の動きは象徴的で、ここで現されているのは時間の積み重ねであり、切り分けられているのは春香の過ごした時間です。
この時間切り分けのイメージは、その後の激しいカットワークにオーバーラップします。ダンスそのものはひとつの流れを持っていながら、それを切り取るカットのひとつひとつに思い出が重なるかのようで、1カットごとに心を打ちのめされるほどの破壊力が生まれています。


そして、過剰に分割された画面は、また別の模様を生み出しさえします。モザイクアートでのアイドルの表現はもりそばPが挑戦していますし、こちらのもう、ダメPの問題作もモザイクアートの手法によるものです。
ここでは、ひとつひとつの画面、個々の映像の意味は遠くに退きますが、なくなることはありません。込められた意味は希釈されこそすれ、確実に見る側の心に残り、強い印象を与えることになります。


そして画面の分割といえば、やはりこれを提示しないわけにはいきません。
自在に変化する画面枠、どちらがメインでどちらがサブともつかないままに輻輳する映像、そこに生み出される重層性。一歩間違えれば粉々に引き裂かれてしまいそうな不安感をぎりぎりでつなぎ止める音と映像。
ある種の極北であり、そして現在でもその力を失っていない圧倒的な作品です。この動画について満足に語る言葉を、私は持ち合わせていません。

分解、積層、そして再構築。
画面分割という手法がもたらすこうした効果は、キュビズムに通じるものがあるように思えます。一見すれば難解な落書きに見えるキュビズム絵画は、動きや空間を分割してひとつの画面上に再構成することで、絵画に関する意識を問い直す運動でした。
キュビズム絵画は静的なカンバスの上に時間経過や動きを再現しましたが、動画におけるキュビズムは、そこにおいて何を描き直し、何を問い直しているのでしょう?


さて、versusPですが。
こうした様々な効果のことをPが意識していなかったわけではないでしょう。過去作品においても、動きの多層化のためにエフェクトやタイポグラフィを駆使していますし、楽曲における音の分厚さと映像上の動きの激しさを同調させている節もあります。
ですが、それはまだ個別の手法、あるいは実験にとどまっていたのだと思われます。それらが表現としての深化と統一性を獲得し、視聴者を釘付けにするほどの威力を獲得したのが、『電影国家』です。画面の持つ世界観の強度を存分に活かした表現は、画面のこちら側までも突き抜けてくるほどのインパクトを持っていました。
では、実際にどのような方法、表現が用いられたのか。後編で、動画本編に即して見ていきたいと思います。


(画面分割系の作品については、まだまだ調査の手が行き届いておりません。ことに七夕以前の動画の中には、分割を効果的に用いたものがありそうな予感がします。オススメ動画の情報など戴ければ幸いです。)
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