お菓子、ジュース有害論(笑)

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最近、お菓子もジュースもやめました。理由は二つあり、なんか日に日に惰性で食べてる感が強まっていたことから、一度やめた方が幸せになれるのではないかと思ったこと、それと、砂糖によってアトピーが悪化するらしいことも知り、試しにという想いも込めてお菓子ジュース断ちに踏み切ったわけであります。

 

やめた結果は…今のところ半端じゃないくらい良いことしかないですね。まだ一週間足らずなのに。

 

まず、肌が荒れなくなりました。シュークリームとか食いまくって、コーラとか飲みまくってた頃は薬塗っても荒れるという辛い状態だったのですが、やめて数日後から明らかに肌が綺麗になりました。頬っぺたなどスベッスベのポヨンポヨンといっても過言ではないほどに良くなりました。

 

また、露骨に疲れが減りました。今まで20代前半とは思えないくらい気だるく、常に疲労感に包まれていたのですが、長くバイトしてても体力がメチャクチャ持続するようになりました。体が常に軽いし、頭も回る。

 

最後、金が減らなくなりました。お菓子やジュースは結構高く、隙あらば財布にため込んだ金を溶かしてくれます。毎日溶けてた金がまるまんま浮くわけですから、金は減らなくなりますよねそりゃ。

 

そう考えると、お菓子、ジュースはいわゆる「百害あって一利なし」的な代物だと思うわけであります。いやー断ってよかった(雑)

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「何者」今さら読みました(笑)

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なんかもう本当に暇だったので、普段読まない小説を手に取ってみましたが、奇跡的に当たりを引けたように感じております。

 

 「何者」 面白かったです!

 

SNSという馴染み深い媒体をテーマに、就活生のナチュラルな気持ち悪さ、それを俯瞰している主人公の皮肉めいた指摘が非常に痛快で、その面白さに後押しされてどんどん読み進めてしまいます。

 

登場人物も少なく読みやすいので、自分と同じように暇な方は是非!(笑)

 本家マリオはヌル過ぎる!もっと改造マリオのように難しくしたほうが絶対面白い!

 

…そう思うあなたはある程度大人で改造マリオが上手い方ではないでしょうか。

 

 実際、本家マリオはなんというかやっていて張り合いがありません。なんとも予定調和というか、拍子抜けしてしまうような難易度になっています。

 

 これなら改造マリオのように高難易度にした方が刺激的で面白いんじゃないの?なんで任天堂は改造マリオみたいなのを発売しないの?そう思う方も一定数いらっしゃるでしょう。

 

 今回は、その理由を自分なりにいくつか考察しました!

 

1.本家と改造のプレイする目的の違い

 本家と改造の違いを生む最たる理由は、プレイヤーの目的の違いだと考えています。改造マリオは特殊なテクニックを駆使したり超高難易度ステージを乗り越えることで、自分の能力を証明することを目的としています。だから、youtubeにupする人が多いし、観てる人からしたら異次元ですから再生数もよく伸びます。

 では本家はどうでしょうか?自分が思うに、本家の目的は「マリオの世界をブラブラ探検する」ことではないでしょうか。マリオをやっているだけで楽しい、クリアできなくても空想の世界を散歩してるだけで幸せになる。そう思えるようなステージづくりの工夫が各所に散りばめられています。いろんなアクションがあって、どれも高度な操作性を要求せずに様々なことを体験することができます。そして、世界観を壊さないように地形やキャラクターの配置などを拘っているように思います。

 改造は改造で面白いのですが、マリオ世界のリアリティからは完全に脱却しています。わけわかんないところにわけわかんないキャラがいて、あまりにも製作者の影がチラつく作りをしているのです。これでは子どももドン引きです。

 

2.本家は「公園」、改造は「SASUKE」

タイトルの通りじゃないでしょうか。公園とSASUKEの違いは、両者の目的の違いに起因します。公園は自由にいろんなことをする場であるのに対し、SASUKEは高度な技術を要すること、扱い方が規定されていること、テストのように測ることを目的としている点で全く似て非なるものです。そしてそれはそっくりそのままマリオにも言えるのではないでしょうか。

 

 

☆道徳授業という儀式

自分が小学校の頃、道徳の授業で、担任が「先生の言うことは聞かなきゃいけないのかな?」と皆に問いかけてきました。

 

この質問は「世の中の当たり前を問いなおそう!」という多角的な見方を養う意図をはらんだものではなく、極めて誘導的な授業展開のなかで吟味する余地も与えず「はい」と言わせ、無批判に服従を誓わせる儀式のようなものだったと思います。

 

周りの友達はそれを受け入れ、「先生の言うことは絶対聞く!」と屈託のない笑顔で次々と言っていきます。自分は疑問を感じながらも果敢に反抗する勇気はありません。自分が答える番が回ってきました。

 

「先生の言うことはなるべく聞く!」自分が出した答えはこうでした。断定はしたくない、だけど怒られたくもない心理的な葛藤の末、僅かばかりの抵抗を「なるべく」に込めました。

 

担任は「いや、絶対聞けよ!(笑)」というツッコミで場を丸く収めます。友達も皆笑いに包まれ、自分はある意味ヒーローでした。しかし、その問いかけそのものに疑問を持った人はおらず、「先生の言うことには絶対従う」ことが正しいと全員で確認、共有出来た「価値」のある授業でした。

 

☆「真面目」規範が止まらない日本

最近になって、その授業のことをよく思い出します。滅私奉公して「上」の方に尽くすという日本に蔓延した美徳は明らかに破綻の様相を呈しているからです。

 

昔は高度経済成長期であり、頭数集めて「上」が仕切るやり方が大きな効率性を生み出していた時代でもありました。生産性に重点を置き、大量生産大量消費が成立している状況では、単純労働にも一定の価値があり、働けば働くだけ利益が上がっていました。また、理屈を介さず「上」に従うべきという「真面目」規範が非常に高い効率性を生む潤滑油となっていたからです。

 

今は違います。安易に大量生産したってものが余りロスになる。生産性を追い求めることの価値は明らかに下がっており、また単純労働する能力は機械によって見事に代替され、昇華していきます。そんな状況で、人間に求められることはクリエイティブな発想や実行力だと考えられます。何をなぜ、どうやって生み出せば良いのか。そこを練って社会に適切な利益を与えることが必要なのです。

 

なのに、日本の社会・学校は昔のスタイルを貫きます。「真面目」を評価し、素直に一生懸命やることが絶対に意味を持っていると本気で信じています。だから企業は安易にブラック化が進み、効率性も持つべき価値観も吟味しないで莫大な努力を課してきます。そして政府は、そんな矛盾した産業構造に対する批判も無しに学校教育に「キャリア教育」を持ち込みました。

 

☆学校に持ち込まれた「キャリア教育」

その「キャリア教育」は、ニート、フリーターの増加に歯止めをかける対策として持ち込まれたもので、将来の目標を与え、意欲的に生きることを子どもに求める教育です。しかしその実は、将来の目標は「どんな職業に就くか」に限定されており、内容も「職業体験」「自分の職業適性を分析する」など、日本のクソみたいな産業構造にどう適応させるかという発想に満ちています。

 

ニート、フリーターの増加の解決策を「個人の努力」に求め、肝心の産業構造の矛盾には目もくれない政府によって、ますます犠牲者ばかりが増えていきます。

 

この「キャリア教育」に代表されたスポ根的な発想は、もはや時代錯誤とすら言える「真面目」規範を強めることで現状の危機を乗り切ろうとしますが、明らかに破綻が見えています。もっとこの「真面目」規範を脱却して、一人ひとりが自分なりの幸せを追求する社会になるべきでは

さて、今日は何も予定がありません。

 

何を隠そう無趣味ミックは無趣味なため、休日なんかあってもやることがありません。

 

無趣味な人は映画でも観るものだというイメージもあるかと思いますが、無趣味にも大別して二つのタイプがあるのではないでしょうか。

 

①行動力はある無趣味

元気でアクティブなんだけど、取り立てて趣味と言えるほど熱中するものは無いよ。というタイプ。休日は映画を観たり、話題のお店に行ったりと何かしらの変化を求めて行動出来ることで、俗世に距離を置くことが無いため、無趣味であることで何か支障をきたすことは少ないと考えられます。

 

②行動力のない無趣味

何かに深い関心も無く、動きたくもないタイプ。何をするのも億劫で、外に関心が全く向かないことが多く、向いても腰が重いので、行動に移れない。こうなると、ついでに世間知らずにもなり、人とのかかわりも希薄に…

 

自分めっちゃ②ですね(笑)本当、全然進歩しないですよ、このタイプは。

 

槇原さんの歌でこんなフレーズがありました。「昨日と今日が知らずに入れ替わってたとしても 気づけないような日々を歴史と呼べず悩んでた」

 

大学生に向けた歌ではないのですが、非常に共感しますね。一週間前、もしくは一ヵ月前の自分と大して何も変わってないですから(笑)

 

無趣味で休日に会うような友人も少ないと、②のようになりがちです。何かをやるモチベーションが一人では維持できないため、自ずと何もできなくなります。

 

さて、ここまで自覚してるなら、何かしらを変えたいものです(笑)何をすればよいでしょうか。

 

なんというか、自分と周りの人を比較して、行動に対するイメージが全然違うなと思うのです。当たり前のようにバイト先の制服をリセッシュしたり、趣味としてアイロンかけをするような人と比べると、自分はそれらを「手間」としか認識できていないと感じます。

 

レゴで超大作を作るのは「手間」ではありません。いや、「手間」は半端ないですが、そこには理想とするなにかに向かう熱いモノを感じます。リセッシュも同じで、制服に吹きかけながら、清潔になった制服をイメージしているわけです。そりゃ苦労を感じることも少ないでしょう。こういった熱いモノが、日々人を進歩させるのだとしたら、自分はどれだけ冷え冷えだったでしょうか(笑)

 

まぁ所詮興味ないものには興味ないですし、嫌なものは考え方だけ無理に変えたって嫌なままですから、アクティブになろうとはしません。しかし、変化を恐れちゃいけない。変化はその人の部屋の濁った空気を入れ替える外の空気で、それを受け入れることは部屋の窓を開けることに等しいのです。たまには換気しよう!

 

ということで、今から旅行に行ってきます(笑)

☆プロと素人の差ってなんだろう?

youtubeなんか観てると、若手で誰も知らないような無名の芸人だったり、プロ志望の歌手なんかのパフォーマンスがいっぱい出てくるわけですよ。そして、毎回考えてしまいます。

 

「この人たちとプロって、何が違うんだろう?」

 

歌手の話からいくと、メチャクチャ「上手い」人はいます。仲間内だったら絶賛されるであろう人たちが。カラオケ番組なんかにも、「上手い」素人はたくさん出てきてることを考えても、「上手い」ことは別にプロにのみ与えられた特権では無いと思うんです。

 

ただ、「上手くない」プロも腐るほどいます。というか、「上手い」かどうかで選ばれるなら、もっと適した存在は声楽だったりAVEXの養成所を探せばいくらでも出てきます。昔なんかもっと酷くて、こう言っちゃアレですが大江千里さんの歌唱力でも大ヒットしたわけです(笑)…一応付け足しとくと、自分は大江千里さん大好きです(笑)

 

☆プロに求められるもの

結論を言いますと、プロ志望の若いミュージシャンらを見てると、

 

   「プロというのは『専門性』で評価されるものだ」

 

…ということに対して理解が無さ過ぎるのではないかと思います。基本的に誰かモデルがあって、それを追い求めるようなパフォーマンスが多すぎることを観るたびに感じます。「専門性」とは、言葉通り「その人にしか出来ないこと」なのですが、歌手という職業においては「与えられた曲の世界観をその人に最も適した形で表現できること」だと考えています。プロの歌手において「専門性」というのは歌が「上手い」ことではないのです。

 

そういった意味で、大江千里さんは「専門性」がずば抜けて高いです。あの飾らないダミ声が、曲の世界の主人公が持つ不器用さや、まっすぐ誠実さを見事に表現しているわけです。

 

アイドル集団が昔の名曲を安易にカバーしたのを聴くとなんか哀しくなりますね(笑)お前らファッションで歌ってるだろと。EXILEのATSUSHIみたいな歌い方はATSUSHIがやってるんだから、それを真似しても誰も見向きしません。そいつのために曲を書くくらいならATSUSHIに書きますから(笑)

 

お笑いなんかもそうで、売れない奴らのネタを観てると、明らかに裏に教科書のようなものが見えます(笑)異様なほど整った秩序があって、理屈によって言葉を弾き出してる感じ。お笑いってそういうもんじゃないですよね。

 

さっきの話をお笑いに当てはめると、お笑いの専門性は「与えられたネタの世界観をその人に最も適した形で表現できること」と言っていいでしょう。もっと分かりやすくいうと「自分らのネタを最も面白く表現できること」です。

 

最近は若手の人材不足なのか、教科書通り作った「美しい」ネタをやる一般人みたいなやつもちょっと世に出るようになりました。少し前だとラフレクランとかがそうだったでしょうか。今はどうか知りませんが、こんな奴(イケメンの方)が評価されてしまう時代です。

 

 

こいつ、元アナウンサーであることを目玉商品にしていますが、元アナウンサーであったことが全くネタに活かされていないどころか自己紹介ついでに軽く自慢してます(笑)しかも最も笑いにならない謙虚な感じで。ツッコミのセリフもどこか置きに行った(それでも50点くらいの)フレーズしか使わず、とにかく自分を汚さない姿勢みたいなのが本当に気に食わないですね。

 

さて、こいつの悪口はそのくらいにして、今回言いたいのは「こいつである必要が全くない」ことです。イケメンいじりするなら他のイケメンでもいいし、無難なフレーズを常識人っぽくいうだけなら常識人でもできます。

 

歌手も芸人も「その人にしか無いもの」の魅力をうまくパフォーマンスに活かせたものが初めてプロとしての商品価値を生むということになります。

 

☆活かせているパフォーマンスって?

じゃあ活かせているパフォーマンスって何かというと、現在までで一般大衆に広まり切っているものすべてと言ってよいでしょう(笑)これらは、ほぼ間違いなく独自の魅力がパフォーマンスに出てます。

 

きゃりーぱみゅぱみゅは歌唱力もクソもないですが、あの派手な見た目とあざとい歌い方がコミカルな歌の世界の住人のようです。ミスチルはざらついた声で真っすぐ歌うことで、曲の伝えたいメッセージが違和感なく入ってきます。

 

サンドウィッチマンはまるでキャラクターのようなひょうきんさで、シンプルなネタの面白さを100%引き出します。ザキヤマやフジモンなどの売れっ子が無名芸人のギャグを横取り出来てしまうのは、そいつである必要がまったくないばかりか、売れっ子のが一発ギャグへの「専門性」が高いからです。

 

☆最近の流れはズレてる

最近は芸人、歌手業界も飽和気味のようです。その証拠に、カラオケ受けばかり意識したような歌い方をする奴が「歌手」として多少評価され始めています。教科書通りのことをお行儀よくやった一般人みたいな芸人や、「そーゆーの昔見たから!」って言いたくなるネタをやってる芸人がよしもとからスター候補として担がれている現実があります。この現象は「本当に教科書通りの一般人」しかいないから、その中で「優秀な奴」から選ぶしかないんだろうなと勝手に分析しています。さらに、「見た目がよくないと売れない」なんて分かったようなこと言うやつが一般人の中にも現れるようになりました(自分もこの間生で聞きました)。こんな本質を突いていない言説が浸透することで、受け取り手が本心とは無関係に理性的な判断で評価する危険性を非常に危惧しています。大事なのはパフォーマンスがネタや曲の持つ世界観をどれだけ表現出来ているか、もしくは好きかどうかなんじゃないでしょうか…

「読書」に対する神聖視

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今に始まったことではないですが、「読書」に対して変な効果を期待する風潮があるように思います(笑)

 

読書に対して

 

・知識が手に入る

・日本語の能力が高まる

・脳が活性化する

・考え方が深まる

 

こういったメリットを求めて頑張って取り組むような姿勢は、あまり良い結果を生まないような気がしています。どうにもこれらのメリットありきで、興味がない本でも「読んでいれば良いことがあるはず!!」といって一生懸命本を読む「読書家」には自分は感心しません。

 

持論に過ぎないですが、これらのメリットは「興味のある本を夢中になって読んだとき初めて手に入る」ものだと考えています。人間の脳は能動的になったとき人一倍活性化すると実感しているもんですから、無理して小難しい本を意味も分からず読んでも、それは字面を追っているだけでは?と思ってしまいます。

 

それに、つまらない本を読んでも頭に残ってませんよね?

 

興味がある本を読めば、自分と親和性の高い知識(もしくは発見)と出会えるし、そこから考え方も深まるでしょう。その中で日本語の言い回しや語彙も増えるし、それらは興味を持って読んでますから脳も活性化するし頭にも残っています。

 

そしてそれは、読書に限ったことではないはずです。興味を持って何かをする過程で、日本語の能力は置いといて、得られるものはメチャクチャ多いですよ。自分、「勉強」として学んでいたときは英語なんて全然出来ませんでしたが、自主的に学びだしたら飛躍的に伸びました。授業で触れていた音楽では全然大したことありませんでしたが、遊びで作曲だったりリズム楽器に夢中になっていたら、明らかに音楽能力上がりました。中高六年間やってた吹奏楽部より音感ありましたから(笑)

 

昨今、読書は「勉強」的な位置に置かれる向きが強くなっていると思われます。偉い人が本を千冊読んでいたからって、その差を死に物狂いの努力によって埋めるのはズレていないでしょうか?そして、その発想からスタートすると、大抵読書嫌いになるだけです。

 

それに、自分の友達で読書好きなやつは別に頭いいやつばっかじゃないです(笑)