賭博罪改正を願う弁護士津田岳宏のブログ

賭博罪、風営法、景品表示法、麻雀、ギャンブル、カジノの話 etc.


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うちの事務所のHPを管理している中島という男から,本ブログの記事「賞金付ゲームと賭博罪」が引用されている記事があるとの連絡があった。

見てみると,アマゾンプライムの配信番組「ドキュメンタル」が賭博罪にあたるのでは,と問う記事であった。

 

ドキュメンタルは,10人の芸人が各々100万円ずつを持ち寄り,互いに笑わせあって笑ったら負け,最後まで残った1人が賞金1000万円を総取りするというスキームだ。

 

この点,賞金が出るからといってただちに賭博罪が成立するわけでないことは上記記事でも書いたとおりである。

賭博罪が成立するためには相互的得失の要件が必要である。相互的得失を平易にいうと,リスク=リターンの関係である。リスクとリターンがイコールになってはじめて賭博罪が成立する。スポンサーが賞金を出すだけでは賭博罪には該当しない。

 

もっとも,ドキュメンタルでは参加者に賞金獲得のリターンがあるだけでなく,負ければ100万円が没収されるというリスクもある。

ドキュメンタルのスキームは俗にステークス方式などと呼ばれるものだ。この場合,確かに,形式的には賭博罪の要件を充たしそうだ。

 

ただ,かといって「ドキュメンタル」を違法だと糾弾すべきかといえば,そうではない。

賭博罪は風紀に対する罪である。

形式的に賭博罪に該当したとしても,実質的に風紀を害していないのであれば,可罰的違法性はないと考えられる。

刑法185条ただし書が「一時の娯楽に供する物を賭けた」場合の違法性を阻却していることもこのあらわれである。

パチンコの三店方式を事実上公認する政府答弁が出たのも,風営法上の規制等をしん酌したとき,パチンコが事実上の賭博行為であったとしてもこれは世間の風紀を乱しているものではないとの判断がなされたからだ。

賭博罪の存在趣旨は,賭博行為が怠惰浪費の弊風を生じさせ,勤労の美風を害し,窃盗や暴行脅迫などの犯罪を誘発するおそれがあるから,というのが判例理論である(昭和25年11月22日最高裁判所判例)。

とすれば,形式的に賭博行為にあたったとしても,上記弊害が極めて低いと判断される場合は,刑法の謙抑性の観点から問疑すべきでないし,この点,現役検察官が著した「賭博事犯の捜査実務」にも「あまりに些細,軽微な事案まで検挙しようと試みることは,市民から無用の反発を買う結果になる」と記載されている。

 

賭博罪の実質的違法性(上記弊害の程度)は,対象となる行為の属性,行為者の属性,行為の営業性(反復継続性)等で判断される。

この点,「ドキュメンタル」は,番組上のショーである”お笑い”が対象行為となっており,それは法律上「射幸心をそそるおそれがある」として扱われているパチンコや麻雀とは異なる。行為自体に,射幸性との関連は全くない。

また,行為者もプロのお笑い芸人であり,賭博を業としている人種では全くない。

さらに,番組は単発で反復継続性はなく,また,当該行為にテラ銭を取るなどの営業性は皆無である(番組の視聴料は視聴の対価であり賭博行為の対価ではない)。

 

なお,本件は番組であり表現の自由が関連するところ,賭博罪と同じく風紀に対する罪であるわいせつ文書犯罪罪についての判例理論は,性的描写があったとしても文書が持つ芸術性・思想性が性的刺激を緩和させてわいせつ性が解消された場合は同罪に該当しない,としている。

風紀侵害の有無は,当該表現物に照し合せて個別的相対的に判断すべきとの理論だ。

「ドキュメンタル」は,本質は「お笑い」であり,賞金云々は単なるアクセントである。本件につき賭博性質が高いとはいえない。

 

以上からすれば,「ドキュメンタル」は,賭博罪の要件を形式的に充足するとしても,それが実質的に法に抵触し検挙される可能性は事実上ゼロであるといえる。

 

 

 

さて「ドキュメンタル」を見たが,非常に面白かった。

私は元来インドア人間で,お笑いもドラマも映画も大好きだ。

ただ,特に最近の地上波は,過度な自主規制があるのだろう,刺激が足りないし,出演者たちも明らかに窮屈そうだ。

本件のような「賞金」の要素は,バラエティをつくるうえで有意なアクセントになるものである。

ただこれをやると,今回のように突っ込まれることもあるし,なかには,弁護士を名乗る者が突っ込むこともある。しかもこの手の弁護士は複雑な賭博罪の機微をよく理解していないことも多いから始末が悪い(めちゃイケ賭博罪疑惑の潔白性)。

 

番組のような創作物については,表現の自由が関連する。

表現の自由はもっとも重要な人権である。

アメリカの判例理論は,表現の自由の重要性に鑑みれば,保護すべき表現を保護するだけでは不十分だ,としている。

すなわち,完全に精緻な規制など不可能であり,限界線付近の事例については通常人は萎縮をするので,表現の自由を十分に保障するためには,表現の自由に一定の「緩衝地帯」を設けるべき,というのがその理論である。

微妙な表現は全部セーフにする,という理論である。

そこには,表現については一切の萎縮をさせるべきはない,という思想が根底にある。

しかし,現状の日本では,表現者が明らかに萎縮せざるを得ない状況になっており,これは明らかに不当な状況だ。

 

法律は,人々を萎縮させるためのものではない。

法律は,人々の安全を確保し,自由を拡大するためのものである。

 

弁護士は法律のプロなのだから,その技術を人々を解放させるために使うべきである。

「賭博」という言葉が対象とする範囲は広い。

それゆえ,「これは賭博罪にあたる可能性があります」などというのは,法学部の学生でも言える話だ。

プロの弁護士として,そんな話を得意げにして表現者を萎縮させて何になるのか,という思いが私には強い。

 

「賭博」の対象範囲は広いが,「賭博罪」の成立要件はそれほど単純ではない。形式的要件を充たしても,実質的に検挙される程度の違法性なし,と判断される場合もある。

 

そもそも「ドキュメンタル」,笑いを本質としたこの番組を見て,賭博罪にあたるかどうかを議論するなんて,直感的に無粋であろう。

法律は無粋な真似をすべきではない。

私は,粋を守る弁護士でありたい。

 

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