賭博罪改正を願う弁護士津田岳宏のブログ

賭博罪、風営法、景品表示法、麻雀、ギャンブル、カジノの話 etc.


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既に海外では一大市場となっているeスポーツは、日本でもムーブメントを起こす可能性のあるものだ。

賭博罪を専門とする私はeスポーツに関する相談を受けることも多い。
 
eスポーツで賞金を出す場合、賭博場開張図利罪との関係で問題になるのは賞金の出所である。
賞金が出るからといって、賭博罪はただちに成立しない。
賭博罪が成立するために、勝者が財産を得て、敗者が財産を失い、さらに勝者が得る財産と敗者が失う財産が「相互的な」関係であることが必要である(相互的得失の要件)。
eスポーツにおいては、参加者の参加費が賞金に充当される場合は相互的得失の要件を充たし賭博罪が成立するが、賞金がスポンサーから出る限りにおいては賭博罪は成立しない。
「お前ら今からジャンケンしろ。勝った方に俺が1000円をやる」
このスキームならば賭博罪は成立しない。
なお、参加費を取ったとしても、それが会場費に充当されており賞金にまわっていない場合は賭博罪は成立しない。将棋のアマチュア棋戦など、このようなスキームでおこなわれている大会は多々ある。
このあたりは、過去記事(賞金付ゲーム大会と賭博罪)で書いたとおりである。
 
なお、賭博罪は風紀に対する罪であるため、対象となっているゲームの性質も問題となってくる。
対象が一般に賭博の道具として使われやすいものであるゲームである場合は問題になりやすいが、そうでない場合は問題になりにくい。
たとえば対戦型格闘ゲームなどは、これが賭博の道具として使われることは一般にほとんどないのであるから、これの大会に高額賞金を出されたとしても当局が賭博罪との関係について目を光らすことは考えがたい。
 
eスポーツにおいては、賭博罪のほか、もうひとつややこしい法律との関係が問題となる。景品表示法である。
景品表示法の趣旨は「一般消費者の自主的かつ合理的な選択の確保」である。風紀の観点から賭博を規制する賭博罪とは全く性質の異なる法律だ。
同法は、「顧客を誘引するための手段として」「事業者が自己の供給する賞品又は役務の取引に付随して」「相手方に提供する経済上の利益」の金額を規制する(上限10万円)。
たとえば、メーカーが自己が販売しているゲームの大会を主催する場合等には、景品表示法との関係が問題になりうる。
 
消費者庁表示対策課長が著した「景品表示法(第3版)」(商事法務)によれば、「付随して」とは「商品の購入により経済上の利益の提供を受けることが可能または容易になる場合」が含まれるとされている。
とすれば、たとえばメーカーが技術を要する対戦型ゲーム等で賞金付大会を主催する場合は、当該ゲームを購入することで賞金を獲得する可能性が高まるともいえ、景品表示法の規制を受けることになりそうにも思える。
 
ただ、eスポーツが景品表示法の規制対象になるという結論は専門の法律家としてはしっくりこない。
景品表示法は、もともとは高度経済成長期に,チューインガムで1000万円が当たる等の過度の懸賞が社会問題になったことを受けて制定された法律である。そこには、懸賞目的で商品を買わせるのは不当である、との思想がある。
たしかに上記のような懸賞は、ガムを買わせるための過度なキャンペーンであった。
しかしeスポーツにおいては、対象となっているゲームを個別のユーザーに買わせる目的というよりは、ゲーム自体の裾野を広げ認知度を高めるという目的が強いであろう。
個別の取引付随性を有せず、商品や事業者の注目を高めるために経済上の利益を提供するのは「オープン懸賞」と呼ばれ、これの懸賞金額に規制はない。上記「景品表示法(第3版)」にもその旨記載されている。
すなわち高額賞金を出す「オープン懸賞」の結果、商品や事業者が結果的に注目を浴びて購入されることは景品表示法の規制対象ではない。
規制対象になるかどうかは、個別取引との「付随性」があるかどうかで判断される。
「付随」とは、主たるものに従たるものがつれること、を意味する。
とすれば、個別の懸賞について取引付随性があるかどうかは、当該懸賞について個別取引が主になっているか、懸賞自体が主になっているか、で判断すべきものと考えられる。
上記チューインガムの懸賞の例は、ガムを買わせることが目的であり、ガムの取引が「主」であることは明らかだ。取引付随性があるのは明白である。
しかしeスポーツにおいては、競い合い勝者を決める過程を客に鑑賞させるという点がメインであり、対象となっているゲームを購入させることが「主」であるとはいえない。
とすればeスポーツの大会について「取引付随性」ありとして景品表示法の規制対象となるのは不当とも考えられるものである。
 
過去記事(景品表示法)でも書いたが、景品表示法は曖昧な内容であり、明確性の原則からかなり問題がある法律である。
こういう曖昧な法律の萎縮的効果によって有意なイベント開催が阻害されるというのは、個人的に不愉快極まりない。
専門家として、不当に思われる規制については積極的に弁護していきたい。
 
なお上記の例は、メーカー自体が大会を主催する場合を想定している。
ゲームのメーカーや販売者以外の第三者が賞金を提供する場合は、事実上当該メーカー等から賞金が拠出されているとみなされない限り、景品表示法の規制対象にはならない。
 
 
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賭博罪を専門とする弁護士として,新年早々非常に嬉しい結果を出すことができた。

私は昨年から,いわゆるオンライカジノをプレイしたとして賭博罪の容疑を受けた人の弁護を担当していたのであるが,これにつき,不起訴を勝ち取ったのである。

 

昨年,オンラインカジノをプレイしていたユーザー複数が賭博罪の容疑をかけられた。

彼らのほとんどは,略式起訴されることに応じて(これに応じるかどうかは各人の自由である)軽い罰金刑になることに甘んじたのであるが,そのうち1人は,刑を受けることをよしとせず,略式起訴の打診に応じず争いたいとの意向を示した。弁護を担当したのは私であった。

 

本件は,海外において合法的なライセンスを取得しているオンラインカジノにつき,日本国内のパソコンからアクセスしたという事案である。

この形態の案件は,従前検挙された例がなく,違法なのかどうかがはっきりしない状況になっていた。

賭博をやったのは認めるが,そのような状況で不意に検挙されたのが納得いかない,というのがその人の言い分であった。

 

賭博罪の不当性を強く感じている私としても,本件は是が非でも勝ちたい事件であった。

本件のポイントは,いわゆる必要的共犯の論点で語られることが多かったが,私はそれは違うと考えていた。

これのポイントは,被疑者が営利目的のない単なるユーザーであり,罪名も単純賭博罪であるという点である。

 

賭博罪とひと口にいうが,単純賭博罪と賭博場開張図利罪の軽重は雲泥の差である。

後者の量刑は3月以上5年以下の量刑であるが,前者の量刑は50万円以下の罰金である。

諸外国では,賭博場開張図利罪や職業賭博は処罰するが単なる賭博は処罰しないという法体系を取っている国も多い。

ドイツ刑法や中国刑法がそうだ。

 

現行刑法でも,単純賭博罪は,非常な微罪である。

法定刑は罰金のみ,罰金刑の法律上の扱いは軽く,たとえばわれわれ弁護士は,執行猶予が付いても懲役刑なら資格を失うが,罰金刑なら失わない。

またこのブログで散々書いているように,今の日本は,競馬やパチンコなど,容易に合法的な賭博行為ができる環境が整っている。

つい先日には,カジノ法案も可決された。

そのような状況で,この微罪を適用して刑に処することが刑事政策的に妥当であるとは到底思えない。

単純賭博罪は撤廃すべきというのが私の主張であるし,少なくとも,この罪は今すぐにでも有名無実化させてしかるべきである。

 

本件の特徴は,当該賭博行為につき,海外で合法的なライセンスを得ている一方当事者である胴元を処罰することはできないところ,他方当事者であるユーザーを処罰しようとする点にある。

この点は従前,必要的共犯において一方当事者が不可罰である場合に他方当事者を処罰することができるのか,という論点に絡めて語られることが多かった。

しかし,真の問題点はここではないと私は考えていた。

賭博場開張図利罪と単純賭博罪の軽重は雲泥の差である。

賭博行為について,刑事責任のメインは開張者(胴元)が負うのであり,賭博者(客)が負う責任はある意味で付随的である。

賭博犯の捜査は胴元の検挙を目的におこなうものであり,「賭博事犯の捜査実務」にもその旨記載がある。

そこには,些細な賭け麻雀を安易に検挙すべきでない旨の記載もある。胴元のいない賭博を安直に検挙することをいさめる趣旨である。

 

以上を踏まえたとき,本件は,主たる地位にある一方当事者を処罰することができないにもかかわらず,これに従属する地位にある当事者を処罰することができるのか,という点が真の論点となる。

この点,大コンメンタール刑法には,正犯者が不可罰であるときに従属的な地位にある教唆者や幇助者を処罰することは実質的にみて妥当性を欠くので違法性を阻却させるべき,との記載がある。

賭博事犯において,胴元と客は教唆や幇助の関係にあるわけでないが,その刑事責任の軽重にかんがみれば,事実上従属する関係にあるといえる。

 

というような話は,私が検察庁に提出した意見書の一部である。

本件での主張事由は他にも色々とあり,それらを全て書くと長すぎるし,そもそも,ラーメン屋が秘伝のスープのレシピを完全公開するような真似はしない(半分冗談半分本気)。

 

結果が出たのは,間違いのない事実である。

本日時点において,オンラインカジノプレイヤーが対象となった賭博罪被疑事件で争った案件は国内でただひとつであり,そのひとつは,不起訴となった。

言うまでもなく,不起訴は不処罰であり,何らの前科はつかない。平たく言うと「おとがめなし」ということだ。

営利の目的なく個人の楽しみとしてする行為を対象とする単純賭博罪の不当性をうったえ続けている弁護士として,この結果を嬉しく思う。そしてちょっぴり誇りに思う。

 

 

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うちの事務所のHPを管理している中島という男から,本ブログの記事「賞金付ゲームと賭博罪」が引用されている記事があるとの連絡があった。

見てみると,アマゾンプライムの配信番組「ドキュメンタル」が賭博罪にあたるのでは,と問う記事であった。

 

ドキュメンタルは,10人の芸人が各々100万円ずつを持ち寄り,互いに笑わせあって笑ったら負け,最後まで残った1人が賞金1000万円を総取りするというスキームだ。

 

この点,賞金が出るからといってただちに賭博罪が成立するわけでないことは上記記事でも書いたとおりである。

賭博罪が成立するためには相互的得失の要件が必要である。相互的得失を平易にいうと,リスク=リターンの関係である。リスクとリターンがイコールになってはじめて賭博罪が成立する。スポンサーが賞金を出すだけでは賭博罪には該当しない。

 

もっとも,ドキュメンタルでは参加者に賞金獲得のリターンがあるだけでなく,負ければ100万円が没収されるというリスクもある。

ドキュメンタルのスキームは俗にステークス方式などと呼ばれるものだ。この場合,確かに,形式的には賭博罪の要件を充たしそうだ。

 

ただ,かといって「ドキュメンタル」を違法だと糾弾すべきかといえば,そうではない。

賭博罪は風紀に対する罪である。

形式的に賭博罪に該当したとしても,実質的に風紀を害していないのであれば,可罰的違法性はないと考えられる。

刑法185条ただし書が「一時の娯楽に供する物を賭けた」場合の違法性を阻却していることもこのあらわれである。

パチンコの三店方式を事実上公認する政府答弁が出たのも,風営法上の規制等をしん酌したとき,パチンコが事実上の賭博行為であったとしてもこれは世間の風紀を乱しているものではないとの判断がなされたからだ。

賭博罪の存在趣旨は,賭博行為が怠惰浪費の弊風を生じさせ,勤労の美風を害し,窃盗や暴行脅迫などの犯罪を誘発するおそれがあるから,というのが判例理論である(昭和25年11月22日最高裁判所判例)。

とすれば,形式的に賭博行為にあたったとしても,上記弊害が極めて低いと判断される場合は,刑法の謙抑性の観点から問疑すべきでないし,この点,現役検察官が著した「賭博事犯の捜査実務」にも「あまりに些細,軽微な事案まで検挙しようと試みることは,市民から無用の反発を買う結果になる」と記載されている。

 

賭博罪の実質的違法性(上記弊害の程度)は,対象となる行為の属性,行為者の属性,行為の営業性(反復継続性)等で判断される。

この点,「ドキュメンタル」は,番組上のショーである”お笑い”が対象行為となっており,それは法律上「射幸心をそそるおそれがある」として扱われているパチンコや麻雀とは異なる。行為自体に,射幸性との関連は全くない。

また,行為者もプロのお笑い芸人であり,賭博を業としている人種では全くない。

さらに,番組は単発で反復継続性はなく,また,当該行為にテラ銭を取るなどの営業性は皆無である(番組の視聴料は視聴の対価であり賭博行為の対価ではない)。

 

なお,本件は番組であり表現の自由が関連するところ,賭博罪と同じく風紀に対する罪であるわいせつ文書犯罪罪についての判例理論は,性的描写があったとしても文書が持つ芸術性・思想性が性的刺激を緩和させてわいせつ性が解消された場合は同罪に該当しない,としている。

風紀侵害の有無は,当該表現物に照し合せて個別的相対的に判断すべきとの理論だ。

「ドキュメンタル」は,本質は「お笑い」であり,賞金云々は単なるアクセントである。本件につき賭博性質が高いとはいえない。

 

以上からすれば,「ドキュメンタル」は,賭博罪の要件を形式的に充足するとしても,それが実質的に法に抵触し検挙される可能性は事実上ゼロであるといえる。

 

 

 

さて「ドキュメンタル」を見たが,非常に面白かった。

私は元来インドア人間で,お笑いもドラマも映画も大好きだ。

ただ,特に最近の地上波は,過度な自主規制があるのだろう,刺激が足りないし,出演者たちも明らかに窮屈そうだ。

本件のような「賞金」の要素は,バラエティをつくるうえで有意なアクセントになるものである。

ただこれをやると,今回のように突っ込まれることもあるし,なかには,弁護士を名乗る者が突っ込むこともある。しかもこの手の弁護士は複雑な賭博罪の機微をよく理解していないことも多いから始末が悪い(めちゃイケ賭博罪疑惑の潔白性)。

 

番組のような創作物については,表現の自由が関連する。

表現の自由はもっとも重要な人権である。

アメリカの判例理論は,表現の自由の重要性に鑑みれば,保護すべき表現を保護するだけでは不十分だ,としている。

すなわち,完全に精緻な規制など不可能であり,限界線付近の事例については通常人は萎縮をするので,表現の自由を十分に保障するためには,表現の自由に一定の「緩衝地帯」を設けるべき,というのがその理論である。

微妙な表現は全部セーフにする,という理論である。

そこには,表現については一切の萎縮をさせるべきはない,という思想が根底にある。

しかし,現状の日本では,表現者が明らかに萎縮せざるを得ない状況になっており,これは明らかに不当な状況だ。

 

法律は,人々を萎縮させるためのものではない。

法律は,人々の安全を確保し,自由を拡大するためのものである。

 

弁護士は法律のプロなのだから,その技術を人々を解放させるために使うべきである。

「賭博」という言葉が対象とする範囲は広い。

それゆえ,「これは賭博罪にあたる可能性があります」などというのは,法学部の学生でも言える話だ。

プロの弁護士として,そんな話を得意げにして表現者を萎縮させて何になるのか,という思いが私には強い。

 

「賭博」の対象範囲は広いが,「賭博罪」の成立要件はそれほど単純ではない。形式的要件を充たしても,実質的に検挙される程度の違法性なし,と判断される場合もある。

 

そもそも「ドキュメンタル」,笑いを本質としたこの番組を見て,賭博罪にあたるかどうかを議論するなんて,直感的に無粋であろう。

法律は無粋な真似をすべきではない。

私は,粋を守る弁護士でありたい。

 

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「カジノ法案にひもづいて,法の下ではギャンブルではないパチンコパチスロが,ギャンブル依存のど真ん中で語られるのに対し,よくも悪くも語られない麻雀について,いろいろ思うところはあるし,麻雀業界の人々がどう思っているか気になるところではある。」

 

麻雀を新聞記事で取り上げることに貢献いただいている,日刊スポーツK松記者の755での呟きである。

 

麻雀と賭けは,現在においても切っても切り離せない関係だ。

つい先日も,福岡県飯塚市の市長と副市長が平日昼間に賭け麻雀をしたというニュースがあった。

発覚直後の会見で,市長は,「ストレス解消のため、ゲーム感覚でやった」「社会通念上許される範囲」「賭けなかったら麻雀をする人がどれだけいるのか」などとコメントした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161222-00010000-nishinp-soci

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2016/12/23/kiji/20161222s00042000328000c.html

 

 

麻雀の世間的イメージの悪さは「賭け麻雀」のイメージの悪さとイコールだ。

そんな麻雀を世間にアピールするには,2通りの方法がある。

 

まずは「麻雀」と「賭け麻雀」を切り離すアプローチ。麻雀は賭博とは関係のない知的ゲームだと主張する方法だ(アプローチ①)。

これは麻雀と賭博を切り離すべきという考えなので,パチンコが事実上公認されようがカジノ法案が可決されようが麻雀とは全く関係ない,という話になる。

①のみ主張していくべきだ,という人は,カジノ絡みの議論はスルーするだろう。

 

一方で「賭け麻雀」そのものを世間に認めさせようというアプローチ。ある程度の賭け麻雀は認められるべき大人の遊戯だと主張していく方法だ(アプローチ②)。

この主張をしたい人にとっては,パチンコやカジノの話は大きな関心事だ。

 

私は「賭けマージャンはいくらからつかまるのか」の刊行以来,一貫して②の主張をしてきた。

もっとも今の私は,小銭を賭けて束の間の手慰みにする賭け麻雀よりも,互いのプライドを賭けた記録が残る競技麻雀の方がよほど面白いと思っていて,そういうことを言ったり書いたりすることもままある。その点では①の主張もしているといえる。

 

①の主張と②の主張は,形式的に矛盾する。

なので私も,あんたは矛盾している,なんて突っ込まれたことも複数ある。これには正直,だよねwと思い悩んだこともあったが,今はそれでもいいと思っている。

 

結局、麻雀のメジャー化という到達点は同じである。

主張を2つ出してどちらか認められれば勝訴、というのは弁護士ならよくやることだ。

プロセスよりも結果,矛盾しないことよりも期待値を上げることの方が大切である。

 

そんな私としては当然,カジノ合法化は、麻雀メジャー化の議論に繋げるべきと考えている。先のブログで書いたとおり,賭博罪との関係でカジノ合法化の最大のポイントは、民営賭博が合法化されるという点だ。

なおこの点は,パチンコへの政府答弁も同じだ。

共通するのは,民営による賭博開張が認められる流れになっているということだ。この点で画期的なのである。

 

言うまでもなく,麻雀店も民営だ。

麻雀店での賭博が公認されない法体系上の根拠としては,今までは,麻雀店が公営ではない,という点が第一であった。

しかし,民営カジノが公認されたり,民営パチンコ店における三店方式が事実上公認されるというのであれば,その根拠は薄弱となる。

パチンコ店と麻雀店は,風営法上の規制がかけられている点で共通する。

だとすれば,麻雀業界は,風営法上の規制を遵守する民営麻雀店におけるある程度の賭け麻雀は公認ないし事実上公認していただきたい,と主張していくべきだ。

 

 

上記は私の考えであるが,このように考えている人は,麻雀業界にどれくれいいるだろう。

麻雀業界とひと口に言っても色々な人がいる。

 

ア 麻雀店経営者ないし従業員(麻雀店と密接な取引関係にある企業含む)

イ 麻雀プロ

ウ 麻雀と密接な関係にあるメディア関係者(漫画家,ライター,編集者等)

 

アに属する人は基本的に②を主張したい,と考えている。それは別に彼ら自身が賭け麻雀が好きだからではない。客の中に上記市長のような人がまだまだ多いからだ。

もっとも,アの人たちも,麻雀のイメージアップのために①のアプローチが非常に有意義だ,ということは深く認識している。

だから,アの人たちは,①も②も並行してやろう,という人が多い。つまり,私と同じだ。私はアの組合の特別顧問である。

 

ウに属する人も,基本的に②アプローチに関心が深いように思える。それはやはり麻雀ファンの中に上記市長のような人がまだ多いからであろう。現時点においては,創作するにあたっても,賭け麻雀の要素を完全に除外するのはなかなか困難なのかもしれない。

 

イに属する人は,伝統的な考え方では①のみで麻雀をアピールすべし,という考えになるであろう。

そもそも「麻雀プロ」「競技麻雀」の発足趣旨がそこにあるからだ。

競技麻雀プロが賭け麻雀を認めてくれなどといっては大きな矛盾になるというのは,よく分かる。

 

ただ現実の話をすれば,そもそも,アとイの所属は完全に別々になっているわけではない。

すなわち,イの多くは,アにも所属している。

現実には,アで収入を得ている人がイもやっているという例が一番多い。

イの上層部,いわゆる「トッププロ」と呼ばれる人たちも,アと全く無関係ではいられない。

麻雀店でのゲスト収入は,トッププロの重要な収入源である。

万が一,麻雀店が検挙されたときに当該ゲストごと検挙されたりなどしたら,そのゲストを看板にしている団体にとっては大ダメージである。

 

その意味で私は,イの人たち全員に,②アプローチを応援していただきたいと考えている。

麻雀ファンの多くは今でも賭け麻雀が好きで,そして,賭け麻雀の一般的イメージはすこぶる悪い。

これが現実だ。

夜明けは近いようにも思えるし,まだ遥か先のことのようにも思える。

少なくとも,ハードルは高い。

その中で現状を変えようというのであれば,矛盾しないことよりも,期待値を上げることを優先させるべきだ。

訴訟においては,ひとつの請求を通すために両立しえない複数の主張をしたとしても,矛盾しているとして排斥されることはない。それは,選択的主張などと呼ばれ,正当な戦略である。

麻雀業界は,挙国一致で「選択的主張」をしていくべきである。

 

 

 

 

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今回の記事はカジノ法案について書いたものだが,これは,先日産経新聞の言論サイトに載せていただいたものと同内容である。

既にこれを読んでいただいたいる方には内容が重複するので,あらかじめ断っておく。

賭博罪を調べるためにこのブログを参照いただいている方も多いので,ブログにも載せておこうとした次第である。

なお,上記記事は,12月9日の産経新聞にも載せていただいた。

大マスメディアで賭博罪の是非を問えるのは非常に意義深いことだと思っている。これからもお声がけがあれば,積極的にやっていきたい。

 

 

 

 

現行刑法には、賭博罪及び賭博場開張図利罪が存在する。

カジノの経営は、賭博場開張図利罪に該当する行為である。よって、これを解禁するためには特別法を制定する必要がある。

この点、現在の日本では賭博罪が存在する一方で、全ての賭博が禁じられているわけではない。公営競技である競馬や競輪は、賭博ではあるが特別法により違法性阻却がされている。

 

とすれば、カジノにおいても同様に特別法をつくればすむのではとも思えるが、ことはそう簡単ではない。特別法によって文字どおり「特別」な扱いをするにはこれを正当化する根拠が必要である。

 

判例は、競馬法による賭博の解禁の正当性について以下のように論じる。

 

「個人のする賭博ないし賭博場開張図利は、これを一般大衆の恣意に放任するにおいては、一般国民の射幸心ないし遊惰を醸成もしくは助長させるおそれがあり、ために善良の風俗に反し公共の福祉を害するからこれを禁止すべきものとするも、公共機関の厳重、公正な規制のもとにおける射幸心の発露は害悪を比較的些少にとどめ得るから、これを許して犯罪とみないということも複雑多岐の社会生活を規制するうえからは、むしろ賢明な措置として是認されるべきであると言わねばならない」(昭和40年4月6日東京高等裁判所)

 

 一部にのみ賭博を解禁する特別法は、憲法に定められた平等原則の例外になるため、競馬法や自転車競技法はその合憲性が裁判で争われた例が複数ある。もっとも判例は、競馬や競輪が「公営」である点を根拠として、この不平等な扱いには合理性があると判断し続けてきた。

 

しかし、カジノについてはここで問題が生じる。カジノによる経済効果を最大限に発揮するには、これを公営にすべきではないのだ。

 

 シンガポールでカジノが大成功した理由のひとつには、民間から投資を募り公の負担なしに巨大な開発を実現した点がある。同国では、カジノ設営にあたり民間各社を集め入札を実施し、もっとも優れた条件を提示した会社にライセンスを付与した。

 

カジノ経営には専門的なノウハウが必須であり、これを成功させるためにはそのようなノウハウに長けた民間企業に経営させるべきである。カジノを公営にしてしまっては、せっかくの経済効果が大きく減殺され、解禁の趣旨が損なわれる。

 

ただし、民間が経営するカジノを解禁するのであれば、賭博罪の特別法に関し従前使用されていた「公営性」を正当化事由にはできない。新たな正当化事由が必要になる。ここでは、もはや賭博そのものと向き合って正当化事由を提示するしかないのではないか。

 

 現在日本では、賭博罪が存在するとはいえ、国民はきわめて手軽に賭博ができる環境にある。競馬においては、ウインズの増設やネット購入システムにより、馬券へのアクセスはひと昔前に比べて大きく整備された。

 

 三店方式によって事実上の賭博と言ってもいいパチンコ店は至るところに存在し、政府は先日、現行の三店方式を公に承認する旨の答弁を出した。これに加えて民営カジノまでも解禁するというのであれば、もはや「賭博」を原則的に犯罪行為とする考え方では、法律的な整合を達成し得ないはずである。

 

私個人は賭博罪を撤廃すべきという考えであるが、まだこういう考えの人は世間に少ないであろう。しかし、カジノ解禁と賭博罪との整合性を曲がりなりにも説明するためには、少なくとも「公営だから許される」という安直な論理では不十分である。賭博という行為の本質、それが人々に与える影響、現在の日本における賭博環境、これらを全て踏まえた上で、「よって〇〇」という正当化事由を国家は示すべきだ。


カジノ解禁には、反対する声も大きい。これは解禁の根拠として「経済」の側面のみを挙げていることも影響している。

賭博は原則的に犯罪だ、しかしカジノは「儲かるからやる」。

このように話を進めるのであれば、儲けるためならば悪いことをしてもいいのか、という道徳や品位の面からの反論があるのは当然である。

儲かるからやります、という論理には国家哲学的な思想が何もない。国民が国家に求めるのは金儲けだけではない。札束で頬を叩くだけで国民の心がつかめるはずがない。

 

 

約60年前のイギリスでは、カジノを含むギャンブルの解禁を検討するにあたり、賭博についてのあらゆる側面を調べるために国王命令での国家的な調査を実施した。

 

約2年間に渡る長期的な調査の結果、「賭け事を重大犯罪の直接原因と考えるのは無意味」「小犯罪の直接原因と考えるのも現在は意味がない」「賭博は人格形成においても、有害な影響ありとは考えにくい」等の結論を出した上で、「国家は必要不可欠なもの以外に禁止を設けるべきではなく、刑法においてこれを軽々しく取り上げてはならない。禁止してかえって邪悪を生み、邪悪を減らそうとして漫然と禁止を設けることは、いかに禁止が望まれようとも、なされるべきものではない」との最終結論を出した。

 

これを受けイギリスでは賭博を全面的に解禁する法律が制定された。当時の内務大臣は解禁法の趣旨につき、以下のように説明した。

 

「賭博は適正な範囲でおこなわれる限り、人の性格や家庭及び社会一般に対して大きな害毒を流すものとは考えられない。国家は社会的に問題とならない限り、一般国民の楽しみを阻害してはならない」

 

イギリスでは、緻密な調査を経て、賭博に対する国家の哲学を明示した上でこれを解禁したのである。

一般的な法律論として、原則に対する例外を認めるためには、必要性と許容性がいる。カジノ解禁については、必要性は、経済的な理由で足りよう。少なくとも、その国で最初につくられたカジノが失敗した例は今までに一度もない。しかし、根強い反対論を押さえるためにも、許容性の提示が必要だ。

 

現在の日本で、単なる賭博は、はたして刑法での規制に値する悪性の強い行為といえるのか。娯楽としての賭博は悪なのか。

 

スマホひとつで買える馬券は。息抜きにするパチンコは。ささやかな賭け麻雀は。

これらは本来的に「悪辣」なのか。

これらに法律的な扱いの差を設けるのは妥当なのか。

日本国家は、そろそろ、このような問に正面から向き合って合理的な答えを出すべきだ。

 

賭博は悪いことである。犯罪である。この原則を維持したままで、賭博に対する何らの国家哲学を示さずに、単に経済的な理由のみでカジノ解禁法を定めるというのでは、法律的整合性の観点から問題が大きいし、反対派を説得するのは無理だ。

 

私は、賭博の解禁論者だ。賭博は規制すべきものではあるが、禁止すべきものではない。禁止からコントロールへ、これが大人の国家のあり方である。

 

カジノの解禁は、賭博に対する新たな国家哲学の醸成に繋げるべきだ。法律的な整合性を糊塗して臭い物にフタをしていくというのは、近代国家のあり方とは到底いえない。

 

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先ごろ出た、民進党緒方林太郎議員のパチンコについての質問主意書に対する政府答弁は、非常に意義深いものであった。

 

上記質問主意書のなかでは

 

1 パチンコ店で景品を得た後、その景品を金銭に交換している現実を政府として把握しているか。

2 風営法で規制されているパチンコ店は賭博罪に該当するか。

 

との質問がされ、政府はこれに対し

 

1 客がパチンコ店の営業者からその営業に関し賞品の提供を受けた後、パチンコ店の営業者以外の第三者に当該賞品を売却することもあると承知している。

2 パチンコ店については、客の射幸心をそそるおそれがあることから、風営法に基づき必要な規制が行われているところであり、当該規制の範囲内で行われる営業については、賭博罪に該当しないと考えている。

 

と答弁した。

 

パチンコの景品を現金化する仕組みは「三店方式」と呼ばれている。

パチンコ(パチスロ含む)の景品として渡される俗に「特殊景品」といわれる景品をパチンコ店のすぐそばにある換金所で換金するシステムである。

特殊景品に実用性は皆無で、換金しない客はいない。

上記答弁では「売却することもある」との表現がされているが、現実には、パチンコ店の客のほぼ全員が、換金所での換金(売却)行為をおこなっているのが現状だ。これにより、パチンコは事実上の賭博行為となっている。

 

政府はこれまで、三店方式については、無視を決め込んでいた。

少し前には、警察庁担当官が「パチンコで換金が行われているなど、まったく存じあげないことでございまして」と答弁して物議をかもしたことがあった。

三店方式はパチンコを賭博行為にする架け橋の役割を果たしているので、政府としては安易にこの事実を認めるわけにはいかなかったのだ。

しかし上記答弁では、少なくとも、売却(換金)行為があることは認識していると答弁しているので、この点きわめて画期的である。

 

さらに答弁では、換金されることがあるとの事実を前提として、それでもパチンコ店は風営法上の規制を遵守していれば、賭博罪には該当しないとされている。

 

私はこの答弁をもって、現状の三店方式のもとでも風営法を遵守している限りは賭博罪で検挙しないということを政府が保証したものと考えている。

この点、質問を出した当の緒方議員はそうは捉えていないようで、ブログで「三店方式や換金行為をOKした答弁など何もない」などと書いている。

しかし、上記答弁を部分的にではなく全体として解釈すれば、政府は、換金行為がされている事実を認識しているとした上で現状のパチンコ店は風営法を遵守している限り賭博罪に該当しないと答弁しているのであり、また、政府が答弁した「売却することもある」というのが三店方式を通じた売却を指していることは明らかなのであるから、この答弁は、三店方式があったとしても風営法を遵守している限りパチンコ店は賭博罪に該当しないことを保証したも同然である。

少なくとも、かかる答弁を出したにもかかわらず、現在の三店方式を賭博罪で検挙するというのは、行政としてあまりにも矛盾しているのであって、あり得ない。

パチンコについては、三店方式について行政が知らぬ存ぜぬを貫いていたので”グレー”と言われることもあったが、今回の答弁で、パチンコは”ホワイト”になったと評価して良いと私は考えている。

パチンコ業界にとっては、大きな意義があると考える。

 

現状のパチンコ店が賭博罪にならないことを保証したと評価できる上記答弁は、賭博罪のあり方を再考する端緒とすべきである。

現在の日本の法律で、パチンコは、賭博罪には該当しない。

このことは、明白となった。

しかし、パチンコが「賭博行為」にならないのかといえばそうではない。三店方式のもと、パチンコが事実上の賭博行為であるこは明らかだ。

「法律上、賭博罪に該当しない」と「事実上、賭博行為ではない」の意味合いは全く違う。

法律は事実を評価するものであるが、事実とイコールではない。

たとえば、競馬は事実上の賭博行為であることは明らかだ。しかし、特別法のもと、法律上の賭博罪には該当しない。

パチンコもこれと同じになったということである。パチンコも、事実上明らかな賭博行為であるが、政府は、パチンコに風営法上のもろもろの規制がかかっていること等をしん酌し、法律上の賭博罪には該当しないと評価したのである。

 

賭博罪との関係で、パチンコの合法性を保証した政府答弁の意義は、パチンコが民営である、という点にある。

判例では、競馬や競輪が賭博罪の例外として認められる根拠として、「公営である」点が挙げられている。

しかし、パチンコ店は民営である。全国に無数に存在するパチンコ店は”事実上の民営カジノ”とも評価できるものである。

その「民営カジノ」の合法性が公に保証されたというのであれば、にもかかわらず賭博罪が現在のままで存在するというのは、不均衡であり、法的な矛盾が大きい。

この点で、賭博罪のあり方の再考につなげていくべきである。

 

そして、偶然なのか必然なのか、上記答弁が出て間もなく、これまで”やるやる詐欺”などと揶揄されることもあったカジノ法案が、狐につままれたような速さで可決された。

カジノ法案と賭博罪については、また次のブログで書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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本記事にあたりまず確認しておきたいのは、現行法上、賭け麻雀はたとえ低額の賭けであっても賭博罪にあたるということだ。
検察官が著した「賭博事犯の捜査実務」には些細な賭け麻雀を検挙することは無用の反発を招くと記載されており、実際上も賭け麻雀が検挙されることは滅多にないのであるが、賭け麻雀がれっきとした違法行為であることは間違いなく、特にこれを公然とおこなう(宣伝等)と検挙される危険が高まる。
レートは関係ない。ピンまでは捕まらない、などというのは認識として誤っている。
ピンでもテンゴでも、検挙された例はある。

麻雀店が賭博で検挙された場合、いかなる罪が適用されるか。
数年前に私が弁護を担当した事件では、店の関係者には賭博場開張等図利罪が適用された。
賭博場開張等図利罪は、刑法上決して軽い罪ではない。初犯ではほぼ執行猶予がつくとはいえ、軽い罰金刑ですまされることはない。
客が単純賭博罪での罰金刑になることと比較すると、その差は非常に大きい。
懲役の執行猶予と罰金刑では、法律上の重さがかなり異なる。たとえば弁護士は、執行猶予付き懲役刑を受ければ資格を失うが、罰金刑ならば失わない。

麻雀店が検挙された場合の全てにおいて賭博場開張図利罪が適用されるのかというと、そうではない。
「賭博事犯の捜査実務」では、賭博場開張等図利罪を安易に認定してはならない例として麻雀店が挙げられている。以下の記載がある。

「麻雀屋が、賭け麻雀をする客の遊技を断れば客足が落ちるので、あえてこれを見逃し、客の入りをよくし、いわゆるゲーム代として規定どおりの遊技料を徴した場合を考えてみる。麻雀屋が、その遊技料金の増加、つまり利益の増加を意図していたことが明らかであることから、いきなり賭博場開張図利罪に問疑できないことは、常識的に理解できよう。その理由は、この場合の麻雀屋には『賭博の主催者』としての地位が認められないからである」

過去記事でも書いたとおり、賭博場開張図利罪の成立するためには「主宰性」が必要である。
主宰性とは、当該賭博を管理支配していた事実のことをいう。
単に客が賭け麻雀をしていただけでは、店が賭博場開張図利罪に問われることはない。
その賭博を「管理支配」していたといえない限りは、賭博罪のほう助が成立するにとどまる。この場合は、営業停止等の風営法上の処分を受けることは格別、刑事上の責任は軽い罰金となる。

人気麻雀漫画「天牌」の第1巻では、麻雀店の形態には3つあると書かれている。
①卓だけを貸し場代で利益を上げるセット雀荘
②「お一人様でも遊べます」との看板をあげたフリー雀荘
③フリーとまではいかないが気の合った仲間内がルールを決めて遊んでいるいわば会員制フリー雀荘

このうち①は、仮に客の賭け麻雀を黙認していたとしても、賭博場開張図利罪に問われることはない。主宰性が認められないからだ。
では③で賭け麻雀がされていた場合はどうか。これも店による「管理支配」があるとは認めがたい。疑わしきは被告人の利益にの原則のもと、主宰性の立証が困難である以上、賭博場開張図利罪が適用される可能性は事実上ないといってよい(なお③では店主自身が日常的に麻雀を打っている店も多く、その場合高レートや暴力団絡み等で悪質と認められたときに常習賭博罪が適用される可能性は残る)。

問題となるのは、②で客が賭け麻雀をしていた場合である。
上記事件は②に当てはまる店であり、結果として賭博場開張図利罪が適用された。
裁判所は
ア レートは店が決めていてノーレートで遊ぶことはできない
イ 2種類のレートがありレートごとにゲーム代が異なる
ウ 店が預かり金を徴収している
エ ゲーム代に加えてトップ賞を徴収している
オ ゲーム終了時に勝ち金額と負け金額が卓上に表示される自動精算機能を使用していた
等の事実を根拠に、店が賭け麻雀を管理支配しており主宰性があることを認めた。
これは裏返せば、上記のうちの全部もしくは複数がなければ、主宰性が認められない余地があるとも考えられる。
特に上記のエは、賭博場開張図利罪の要件の「図利」にも関わってくる事実だ。
賭博場開張図利罪の成立には、開張者が俗に「テラ銭」と呼ばれる賭博の対価を得ることが要件となる。
「賭博事犯の捜査実務」では「テラ銭」は「賭博場開張者が賭客に対して賭博をする機会を与えた代償として、その勝者から徴収する金をいう」と定義されている「勝者から」と定義されている点が注目である。
カジノにおいてもコミッションは勝者から取るのが原則だ。
麻雀店は貸卓料は合法的に徴収することができる。
トップ賞を取らずゲーム代がフラットだった場合、仮に客が賭け麻雀をしていたとしても、店としてはゲーム代はあくまでも貸卓料であり賭博の対価である「テラ銭」は取っていないと主張することが一応可能となる。

麻雀店関係者ならよく分かると思うのであるが、②と③の店の境界は必ずしもはっきりしない。
表向き②の形態を取っていても、事実上③になっている店も存在する。
こういう店は、賭博場開張図利罪に問いにくい。
客たちが勝手にサシウマや倍プッシュをやり出すような店は「管理支配」があるとはいえないので、主宰性が認めがたいのだ。
おおざっぱに言うと、ひとりで来る客同士が賭け麻雀を打つ麻雀店(②ないし③)の場合、ルールやシステムをいい加減にしておき「賭け麻雀は客が勝手にやっていることなので店はよく知りません」という状況にしておいた方が、管理支配性が認められず軽い賭博罪のほう助にとどまる可能性が高まるのである。

ただ私個人は、ここに法律の歪みを感じてしまう。
店がサシウマや倍プッシュを禁止するのは、ひとりで来る客同士の無用のトラブルを避けるためである。
これを禁止しない方が罪が軽くなりやすいというのには、矛盾を感じざるを得ない。
もちろん賭け麻雀はしてはいけない違法行為なのであるが、ひとりで麻雀店に行き賭け麻雀をしたいと望む客がいて、売上のためやむを得ず賭け麻雀をさせる場合は、トラブル防止のための「管理」を店がした方が風紀維持には繋がるのではなかろうか。
上記事件の麻雀店は、業界トップクラスの「管理」がゆきとどいてた店であった。
その「しっかりした店」であることが繁盛に繋がっていた。実際、暴力団関係者の出入りも皆無で、店内での傷害事件等のトラブルもなかった。
しかし賭博場開張図利罪の認定においては、その優れた「管理性」が全て裏目に出てしまったのである。
賭博罪のそもそもの趣旨である風紀維持という観点からは、こういう法律状況には疑問が残るところである。

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とある大御所麻雀プロと会食中、ぼそっと呟かれた言葉をよく覚えている。

「俺たちの時代、プロの麻雀は文学だった。どう表現するかっていう勝負だったんだよ」

 

昭和40年代の麻雀ブーム、その象徴は阿佐田哲也だった。

「麻雀放浪記」をはじめベストセラー連発、またプロデューサーとしても辣腕を発揮、麻雀新撰組を率いてテレビの人気バラエティ番組にも多数出演した。

彼の影響力はあまりにも大きく、それは現在にまで及んでいる。

ただ、ブームから半世紀近く経つ今、その影響力に負の側面があることも確かだ。

「麻雀放浪記」はピカレスクロマンである。

そこでは「イカサマ」「賭け」が重要なファクターとなっている。

世間にはいまだに、麻雀プロ=イカサマ、というイメージを持っている人も多い。

私が麻雀プロであることを伝えたとき、「へーすごいですね。イカサマとかもできるんですね」と言われたのは1度や2度ではない。

先日も竹書房の社員が企業対抗麻雀に出たとき、他社から「竹書房の社員さんてイカサマとかできるんですよね。勝てるわけない」なんて言われたそうだ。

これらは阿佐田及びそこから派生したものによる悪影響であると言わざるを得ない。

ピカレスクロマンによく合う素材だと認識されているうちは、劇的なイメージアップやメジャー化はなかなか困難である。

阿佐田哲也の功績は果てしなく大きい。

ただ、今後はその影響力に伴う負の側面を払拭していくことも大事だろう。

 

阿佐田の大きな功績のひとつは、花札やチンチロリン等と同列のギャンブルだとみなされていた麻雀を知的ゲームのひとつであると世間に認識させたことだ。

彼が著した戦術書「Aクラス麻雀」は広く読まれ、麻雀人口の増加に大きく寄与した。彼のとなえる戦術がスタンダードになることは必然だった。麻雀=阿佐田哲也であった時代、対抗馬などいるはずなかった。

阿佐田哲也は文人である。
ゆえに彼が説く麻雀戦術もたぶんに文学的である。

因果の流れに重きを置き、勝ち負けの機微を説く。

それは趣深いもので、格調高い。人々の情緒にしっくりくる優れた文学である。

阿佐田は絶対的なスタンダードであり、麻雀プロの世界でもそれは同じだった。

文学的な戦術を操り、文学的に表現する。それこそがプロの麻雀であったのだ。

 

阿佐田が麻雀を知的ゲームだと世間に認識させたことで麻雀の間口は広くなり、また阿佐田以外の業界人の努力もあり、徐々に多士済々な若者が麻雀プロの世界に入ってくるようになる。

やがて、上の世代が予期しなかったことが起き出した。

何人かの優れた若手が、絶対的スタンダードである「阿佐田的戦術」を公然と否定しはじめたのである。

彼らはまとめて「デジタル派」などと呼称されていたが、当人達は不本意だったろう。

彼らは個々の雀風も全く異なるし、平面的な確率のみを重んじでいるわけでもない。

ただ共通していたのは「非科学的・非論理的に麻雀を語るべきではない」という主張だ。

阿佐田的戦術は文学である。格調高く味わい深いが、論理性や合理性には重きを置いていない。

そこに異議をとなえた「デジタル」であるが、当初かなり叩かれたようだ。それはやむを得ない。芥川賞を目指す集団の中で「そんな文章では司法試験に合格できない!」と主張しても認められるはずがない、というかそもそも噛み合わない。

 

ただこの頃には、一般ユーザーも阿佐田的戦術では物足りなくなっていた。

綺麗なフリー麻雀店やネット麻雀の普及で、不特定多数と対戦する麻雀の敷居が低くなった。仲間内のコミュニケーションツールというよりは、ゲームとしての麻雀を楽しむ層が増えてきた。

ゲームとしてやるからには勝ちたい、勝つための簡便な方法を知りたい。

そんな人々が求めたのは、味わい深い戦術書ではなく、味気ない参考書であった。

 

平成16年末、エポックメイキングな戦術書が刊行されベストセラーとなる。「科学する麻雀」である。

数式や統計に溢れた同書は、非科学的な戦術を真っ向から否定した。

情報科学研究科卒の国家公務員によって著された同書は、「文学的麻雀」に対する実学者からの強烈なカウンターパンチであった。

以降「デジタル派」雀士達が多くのタイトルを獲得するようになったこともあり、麻雀は科学的に語るべし、という層が増えていく流れになり、現在では、少なくとも「阿佐田的戦術」が絶対的なスタンダードであるとはいえない。

 

文学的な戦術は趣深いもので、私は全然嫌いではない。

むしろ「科学する麻雀」なんて、無味乾燥に過ぎて読破するのに苦労した。

ただ、麻雀を科学的に語る流れは、今後いっそう強まってほしいと願う。

私の専門は法律だ。

現在、麻雀を取り巻く法律が非常に不当だという思いが強く、何とか改正されないものかと考えている。

そういうときは、やはり科学なのだ。

ビリヤードが風営法から外されたときには、業界一丸となって、ビリヤードは物理法則に基づく科学的なゲームだから射幸心を煽らない、と訴えた。これは参考にすべきである。

 

「科学する麻雀」がヒットして間もない頃、麻雀業界には戸惑いの声も多かった。それはスタンダードが否定されることへの不安と言い換えてもよかった。

阿佐田的なもの、文学的なものを否定して、プロの麻雀など誰が見るというのか?

 

ただ、それは杞憂であった。

ひとつのスタンダードが否定されることで致命的なダメージを受けてしまうほど、麻雀は底の浅いものではなかった。

ネット動画の普及により「デジタル派」雀士たちの麻雀も映像で流れるようになったが、彼らにも多くのファンがついた。

彼らの麻雀は「阿佐田的戦術」とは無縁であるが、その熱戦はファンの心を捉える作品であり、それもまたひとつの「文学」といえるものであった。

そもそも麻雀自体、アナログな不完全情報ゲームである。

戦術的アプローチはどうあれ、強者同士が人生を賭け力を尽くして打つ麻雀は、機微に富み、情緒に溢れた「文学」に昇華するのであろう。

 

来る8月16日12時、スリアロ31時間スペシャルのトリとして、「京都グリーン杯真夏の浴衣スペシャル」が開催される。

メンバーは下記のとおりだ。

予選A卓 多井隆晴・村上淳・小林剛・しゅかつ 

予選B卓 近藤誠一・成岡明彦・藤田晋・堀内正人(敬称略・年齢順)

実況 小林未沙  解説 福地誠・アサピン

 

お盆の忙しい中、素晴らしいメンバーに集まっていただいたことには、感謝の言葉しかない。

麻雀ファンには堪えられない「文学」が見られること間違いない。

というわけで、長々書いてしまったが、結局は主催する番組の宣伝でした(・ω<) てへぺろ

 

http://live.nicovideo.jp/watch/lv272257112

 

 

 

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オンラインカジノ運営業者を逮捕 全国初…国内運営と判断

http://www.sankei.com/west/news/160610/wst1606100039-n1.html

 

オンラインカジノについて「胴元」の逮捕事案がはじめて出た。

過去ブログでも書いたとおり,海外にサーバーがあるオンラインカジノについては,胴元を日本の刑法で処罰できないのが原則である。

本件業者も,報道ではキュラソーでの合法的なライセンスを取得しているようだが,当局は,実質的には日本人が日本国内で胴元をしているのと同様である,という判断をしたのであろう。

 

逮捕者は「事実と異なる」と容疑を否認しているようである。

当局がいかなる証拠をもって実質的な運営が国内であると判断したのは報道を見る限りは分からない。

「サポートが日本語しかなかった」ということが報道であげられていたが,さすがにこの事実だけをもって形式が覆るとは思えない。

他にも多くの証拠があるはずで,その立証構造は専門家として非常に気になる。

容疑者からすると,海外での合法的なライセンスを取得しているという形式は,相当程度しん酌されるのが原則だ。

賭博罪は風紀罪であり,違法性の程度には公然性が影響する。

海外でのライセンス取得という”形式”は違法性の程度にも影響を与えるはずである。

ただ,海外法を利用しての”形式具備”は最近のパナマ文書の問題と共通するところもあり,丁度昨今批判の対象にもなっているところだ。

まさか京都府警はそこまで計算に入れたのだろうかw

 

いずれにせよ,容疑者はさしあたり否認しているようであるし,賭博罪を専門とする弁護士としても,弁護材料となる要素は多数ある事件に思える。

事件の推移に注目したい。

 

 

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先週の金曜日,朝日新聞に私のインタビュー記事を載せていただいた。

 

 

賭博罪の撤廃をという,私が以前から主張している話をまとめた内容であるが,これだけ大きなメディアに大きく取り上げられたのははじめてなので,反響も大きかった。

ツイートをいくつか紹介する。

 

 

朝日新聞に出てきた京大卒の弁護士にしてプロ雀士の津田岳宏氏の発言が面白かった。「パチンコ店と自衛隊ってよく似ていると思うんですよ。パチンコは賭博じゃないという建前は、自衛隊は軍隊じゃないという理屈とそっくりじゃないですか」

— soyuki@日光 (@soyuki10) 2016年5月20日

 

賭博罪の存在についてもっとも問題なのは,現実の状況と矛盾しているということだ。

現実と矛盾している法律の放置は国民の混乱を招くのであり,明確性の観点からも非常に問題がある。

臭い物には蓋をしてなかったことにする,というのは日本人の悪い欠点だ。

今の日本で賭博が盛況なのはまごうことなき事実である。その現実から目を逸らさずに法律のあり方を考えるというのは,賭博の問題に限らず,日本の政治や社会を成熟させていくことにつながると私は考えている。

この点に関連し「パチンコ店と自衛隊は似ている」と説明したのだが,これは分かりやすいと評判だった。

 

 

 

『自由民権運動には、ばくちを生業にする博徒が多く加わっていました。そこで政府は、1884年に「賭博犯処分規則」を制定します。(中略)運動に加わっている博徒を厳しく取り締まることで、みせしめにしようとしたんです。』by 津田岳宏インタビュー(朝日新聞5月20日朝刊)

— トムトム1124 (@1124tomtom) 2016年5月20日

 

日本における賭博は古来より禁止の対象であったが,今の日本で賭博は大悪だという考えが持たれていることには「賭博犯処分規則」が関連している。

法律と民意の関係には,鶏が先か卵が先かといえる部分もある。法律は民意に基づき制定されるものであるが,法律の存在によって民意の如何が影響される部分も大きい。

自由民権運動は,明治新政府の悩みのタネだった。反政府運動は抑えたいが,封建社会からの解放を大義名分にしていた明治新政府が,議会の設立等の民主主義を掲げた運動を弾圧するのは自己矛盾してしまう。困った政府が目をつけたのが自由民権運動に博徒が深く関わっていたことだった。

博徒を捕まえ,必要以上に重く処罰して見せしめにして,運動を弱めようとしたのだ。そのためにつくられた「賭博犯処分規則」はあまりにも非人道的な法律だったので,制定からわずか5年,大日本憲法制定と同時に撤廃されることになる。

しかし「賭博犯処分規則」のインパクトは強烈で,以降現在に至るまで,賭博は大悪だというイメージは民の間で持ち続けられている。

この話は,色々なところで書いたり話したりしているが,はじめて聞く人にはおおむね評判が良い。

 

 

 

 

津田岳宏氏はまだ若く社会の隅々まで知らない。「賭博解禁」の言い分は社会の裏を知らない青二才の考える事だ。この様な人間が弁護士として存在する社会の方がおかしい。賭博は多くの害があっても一理の利も無いこれ程社会は狂っている

— 飯綱三郎 (@hutagoza614) 2016年5月20日

 

賭博罪を撤廃せよ,などという主張が大きく取り上げたのであるから,当然反対意見も多い。というか,やはり数で言うと反対意見の方がかなり多いのかもしれない。

ただいつも思うのが,この手のものへの反対意見は一刀両断過ぎるというか・・何というか・・

「青二才」「弁護士として存在する社会の方がおかしい」「社会は狂っている」

単なる意見を言っただけで,これだけの感情の爆発を受けるのって逆にすごいなw

ただこのような,反対というよりは“拒絶反応”というべき反応をする人が世間に多いのは事実であり,道の遠さを痛感せざるを得ない。

 

 


賭博に関する法律の改正。

それは困難なことではあるが,私はそれがこの国にとって大きなプラスになることだと信じている。

今回は何しろ大きく取り上げられたことが有難かった。

強い反対意見も多いことが明らかな私の主張を取り上げてくれた朝日新聞と担当記者の英断には改めて深い感謝の意を表したい。

これからもチャンスがあれば,この曖昧きわまる法律の問題点を色々なところで話したい。

反対を受けるのは承知,まずは問題点と主張の存在を広く認識してもらわないと何もはじまらない。

皆さま,オファーお待ちしております m(_ _)m

 

 

 

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