浪速の双子ボクサー(兄) 長田 靖史

お前らの~ワシのアメブロに何しとんのや!?



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2016年7月20日 大阪府立体育



▼日本Sウェルター級タイトルマッチ10回戦



WBO世界同級4位・IBF世界同級11位



王者 野中悠樹(井岡弘樹) 29勝(9KO)8敗3分



×



WBCユース世界同級王者・日本同級1位・OPBF同級6位



丸木凌介(天熊丸木) 12勝(7KO)3敗1分









たった一晩で何百億ものファイトマネーや利権が動いたマニー・パッキャオ(比国)とメイウェザーの世紀の対決は記憶に新しい。つい最近までボクシング界の枠を越えたスーパースターのこの両雄が君臨していた事のある階級に、38歳の日本人が世界ランキングの4位に名を連ねて聖地ラスベガスのリングに上がる事を夢見ている。




デビューは20世紀の1999年11月22日の兵庫県・神戸。プロテストとプロデビュー日は世界2階級制覇王者の長谷川穂積(真正=35)と一緒だった。野中の方が年齢は上だが、いつしか「日本のエース」と呼ばれ事になる男の背中を追い続けていた。



デビューから6年経った2005年、14度防衛中で難攻不落と云われたタイの英雄・ウィラポンから長谷川は緑色のベルトを奪う。そこから圧倒的な強さで世界バンタム級王座を10度防衛、小さな島国でもビッグマッチが出来る事を証明したあの島田紳助も応援に駆け付ける程に注目された3階級制覇王者モンティエルとの事実上の王座統一戦、大腸癌で逝去した母親に捧げる日本人初の飛び級での2階級制覇達成、東日本大震災の後の王座陥落、壮絶に散った3階級制覇と引退が懸かったキコ・マルチネス戦、引退を撤回し靱帯を一部断裂しながら29勝(21KO)無敗のオラシオ・ガルシアを判定で下した復活劇。



35歳になり日本のエースから「レジェンド」と呼び名が変わるほどまでに闘い続けてきた男は2ヶ月後の9月16日、大阪で全てを懸けて36勝(32KO)3敗の世界王者ウーゴ・ルイス(メキシコ)に挑む。




同じサウスポーという事もあって影響を受けたし、長谷川穂積の「意志道拓」という本にも感銘を受けた。例え4回戦であろうと実績がなかろうと年齢が自分よりも下であろうと、自分にとって役に立つ事を野中は学んで研究して吸収して、常に貪欲であり続けた。全ては強くなる為に。



尼崎のジムから始まったボクシング人生は決して順風満帆ではなかった。デビューから5戦目まで2勝3敗。ウェルター級で出場していた新人王予選は3年連続で途中で敗退。しかも3年目の新人王予選の西の決勝では人生で初めてのKO負け。下馬評は有利だったにも関わらず2勝1敗1分の室矢雅弘(大阪帝拳)を相手に2Rもたなかった。フラッシュダウンで効いてはいなかったがレフリーに止められた。今までの試合までに費やした努力や時間が、無慈悲にも6分足らずで強制的に無に帰す瞬間。これは他の競技にはないボクシングの残酷な部分だった。



15年以上も師弟としてタッグを組んできた桂伸二トレーナーは、この時に野中が「辞める」と言い出すのではないかと思ったそうだ。

バイトで生計を立てながら日々過酷な練習で肉体と精神を限界まで追い込んで、チケットは自分で売り捌かなければならない厳しい世界。アマチュアで2戦2勝しかしていない普通の4回戦ボクサーが陽の目を見るには最低でも国内王者にはならなければならない。どれだけ才能があろうと結果が伴わなければやる気を失っても何らおかしくない。新人王を勝ち抜ける実力があっただけにショックは大きいだろう。死ぬ危険性だってある覚悟のいるボクシングで安易なアドバイスや励ましは出来ない。現実を考えると引退の二文字を口にしても仕方がない事であり、最終的には選手の自己判断が優先される。



トレーナーとして野中が口を開くのを待った。その時の言葉は試合後の控室で敗者が発したものとは思えなかった。








「何回負けても絶対にチャンピオンになります。頑張りますのでまた一からよろしくお願いします」




自分自身に言い聞かせるようにゆっくりと頭を下げてきた。少し赤く腫れた瞼の奥から桂トレーナーを眺めてくる瞳には力強さが宿っていた。逆境に立たされた時に諦めない心の強さがある事を改めて知った。会場を去っていく野中の背中は試合前よりも随分と大きく見えた。24歳の秋、彼はリングで燃え尽きる覚悟を決める。




そこから一つSウェルター級に階級を上げてからは順調に勝ち星を増やしていくも後の世界暫定王者・石田順裕には力及ばず連勝がストップ。

長谷川穂積が世界王座を獲得した2005年、野中は後に上記の石田順裕と日本王座を争う事になる当時10勝2敗の松元慎介(進光)と闘い引き分け。今にして思えば4回戦時代に後のOPBF東洋太平洋王者の丸元大成と闘い敗れているが、この時代の重量級は豊作だった。野中を破って上に駒を進めた室矢雅弘は結局その年の全日本新人王に輝いたし(通算成績 7勝(6KO)4敗1分)、野中に初黒星をつけた京大医学部生の川島実(後に情熱大陸にも出演)など話題性のあるボクサーも登場していて、会場は常に熱気や声援に包まれていた。



2006年、Sウェルター級4位として同級2位の松橋拓二と日本王者の挑戦権を懸けて闘うが0ー3の判定負け。

2007年、OPBF東洋太平洋Sウェルター級の空位王座決定戦で、韓国の呉必勝の代役として出場するもチャンスを活かせずに、ダウンを奪う健闘も虚しく日高和彦に敗北。



その頃、長谷川穂積はベチェカを判定で下して4度目の防衛に成功しており知名度や人気も徐々に上がりつつあった。




初のタイトル挑戦での敗北。30歳という年齢が野中の肩に重くのしかかる。無冠のままボクサー人生が終わってもおかしくない厳しい状況だった。



「絶対にチャンピオンになります」



野中の中でその決意が風化する事はなかった。そしてここから、6年前に王者になると誓ってから自分を、そして師匠の桂トレーナーを信じ続けてきた野中の奇跡のような快進撃が始まる。



2008年、石田順裕が世界挑戦の為に返上した日本Sウェルター級のベルトを日本ランク2位の15勝(5KO)7敗2分の野中と12勝(9KO)1敗1分の同級1位の古川明裕と争う事になる。



今までKO負けがなく、後にOPBF東洋太平洋ミドル級王者になり、ミドル級最強と云われる世界王者のゲンナジー・ゴロフキンに挑戦した渕上誠(八王子中屋)を2006年の東日本ミドル級新人王の予選で倒したのが古川だった。古川は田島秀哲など強敵を破り続けてトーナメントの頂点に立った。全日本新人王になり日本ランク入りすると白星を3つ追加し、28歳で無敗のまま日本Sウェルター級の7位にまで上り詰める。空位となったウェルター級の王座決定戦で、湯場忠志と闘いたがる者が現れない中で、一つ階級が上の古川が名乗りを上げた事によりウェルター級6位として日本タイトル初挑戦。しかし後に日本王座を5階級も制覇した偉大なサウスポーの伝家の宝刀の左ストレートを簡単に浴び続けて 成す術なく1R1分32秒TKO負け。後ろに「怪力」と書かれたトランクスが1分半でキャンパスに3度もついてしまう程の完敗。



そこからベストウェイトのSウェルター級に階級を戻して3連勝し這い上がり、ランキング最上位として満を持して王座決定戦に出場する。






ラフファイトで大振りの古川をサウスポースタイルで上手く捌き続ければジャッジペーパーの勝者の名前は自分になっているはずだ。ただし大手のジムでもない自分に何回もチャンスはやってこない。これは背水の陣だ。最後のチャンスとして臨んだ大阪府立体育館のリング。野中の集中力は極限にまで達していた。



試合はパワーで押してくる怪力男を左アッパーや左ストレートで迎撃して3回にはタイミングよく合わせた左のショートパンチで野中がダウンを奪う。手をついただけのバランス崩したダウンだったが流れは引き寄せた。諦めない古川も一発に懸けた強打のラフな攻勢で怪力のパンチを振るってくるが、足を使いながら軽打を打ち込み続けた野中にポイントが流れていく。ただ試合中に右足首を剥離骨折した野中が中盤に接近戦を許してピンチを招いてしまうシーンも増えて最後まで油断は出来なかった。痛みをこらえながら勝つ為に拳を振り続けた。




そして、8回。2回に左目尻を切って出血と腫れが酷くなった古川の顔面に、クリーンヒットを決めると古川は立ったまま力尽きて試合終了。



有言実行の悲願の王座奪取だった。



今まで仲間のプロボクサーがどれだけボクシングを辞めていっただろうか。どれだけ怪我や辛い思いをしてきただろうか。どれだけのプロボクサーがチャンピオンになる事が叶わず引退していくのだろうか。どれだけのプロボクサーが夢を諦めていくのだろうか。



三十路の新王者は人目をはばからずにリング上で号泣した。




網膜剥離になり引退を余儀なくされた仲間もいた。負けて負けて負けて、強くなれずに辞めた仲間もいた。金銭的な問題で家族を守る為に辞めた仲間もいた。



尼崎ジムの2つ年上には全日本新人王で2001年に日本王者になった州鎌栄一もいたが、2004年にグローブを壁に吊るした。日本王座挑戦経験のある加治木了太(大鵬)、鈴木悠平(真正)などの逸材も州鎌に憧れて尼崎でボクシングを始めた。



州鎌の代わりに今度は野中が後輩に背中を見せていく存在になった。




王座獲得から3ヶ月後に同級1位の音田隆夫を迎えて初防衛戦を行い3ー0の判定で王座を守る。2009年3月の2度目の防衛戦ではチャンピオンカーニバルで同級1位の新井恵一を相手に4、7Rにダウンを奪い7R1分32秒でKO勝ち。



1位の日本ランカーを3連続で破った事により国内Sウェルター級最強を証明し続けていたが、それで野中は満足しなかった。




敵地の後楽園ホールに乗り込んでOPBF東洋太平洋王座を奪いに行った。東洋王者に君臨していたのは「飛天かずひこ」

飛天はリングネームを改名していて、昔の名前は日高和彦。そう、1年8ヵ月前に王座決定戦でダウンを奪うも屈辱の敗戦を喫した相手だった。



日本王者×東洋王者の2冠が懸かった因縁の統一戦。



お互いの手の内が分かっていたのを上手く利用したのは日本王者の方だった。2Rには左フックでダウンを奪うとそのまま攻め続けて8Rの3ー0の負傷判定で、野中が勝利と共に東洋太平洋王座も手中に収めた。この試合で東日本ボクシング協会から2009年6月度の月間敢闘賞を受ける。野中のボクシング人生で最も充実していた時だった。



そこから5ヶ月後に試練が訪れる。日本1位・東洋2位の柴田明雄を大阪の松下IMPホールに呼んで両王座を懸けて防衛戦を行った。強気のマッチメイクで常に上を目指していた野中だが、試合終了後のジャッジは3名共に挑戦者を支持。判定負けで2つの王座を失ってしまう。柴田は後にミドル級でも日本と東洋の2冠を奪取し、ロンドン五輪金メダリストの村田諒太のプロデビュー戦の相手に誰もが尻込みする中で名乗りを上げて漢気を見せる。2回に倒されて負けたもののこの対決は全国生中継もされたので知っている人も多いかもしれない。




野中は無冠になり全てを失った。それでも諦めずに現役続行を決意。



10ヶ月のブランクがあったにも関わらず野中が再起戦の相手に選んだのは世界7位にランクされたドミトリー・ニクーリン(ウクライナ)。同じサウスポーで21勝(8KO)無敗という好戦績だった。無敗なのも納得でアマチュア戦績は驚異の312戦295勝。野中不利予想の声が多かった。



7回には野中が、最終回にはニクーリンが減点を受けたがお互い10Rを闘いきった。「これだけの為に全てを懸けていた。言葉にならない」

勝ち名乗りを受けた野中の目から涙が流れていた。世界ランクに入る事が確実となり、漠然としていた目標が鮮明なものに変わりつつあった。日本人が相手にされないような特権階級だが、不可能ではない。節目の30戦目でWBAの世界Sウェルター級10位に再浮上したのは大きかった。






2011年3月にインドネシア同級3位に大差判定勝ち。しかしその後に移籍を決意。



桂トレーナーは次の移籍先を見つけるまで色々な所に話をつけて裏で奔走していた。世界ランクに入っている野中の為に出来るだけ早く良い環境をと尽力した。その間、練習場所を失った野中と桂トレーナーは尼崎記念体育館の隣にある公園でテニスコートの灯りを頼りにロードワークし、ミット打ちをしていた。今まで何百回、何千回、何万回も繰り返してきた桂トレーナーとのミット打ち。もう目を瞑っていたってコンビネーションを叩き込める。通り過ぎる人々はそれぞれ物珍しそうに見たり訝しげな表情を浮かべていた。ロープもない砂の地面の感触、汗をかいた後に浴びる夜風は身にも心にも染みた。暗澹たる尼崎の夜空を見上げいつも思った。どんなに先が見えなくて も、辛くても、頑張っていればあのテニスコートの灯りのように一筋の光が差し込むはずだと。希望を捨ててはいけない。







11月19日に尼崎ジムに正式に退会届を提出。尼崎ジムの門を叩いて約14年間。アマチュア戦績2戦2勝(1RSC)、プロ戦績21勝(7KO)8敗2分。日本&東洋Sウェルター級王者にまでなった。しかし上に行く為にも新天地を求めた。




2011年12月にようやく仲里ATSUMIジムに恩師の桂トレーナーと共に移籍。デビューから12連続KOでOPBF東洋太平洋王座を獲得したSフェザー級の強打者・仲村正男や逆輸入のヘビー級ボクサー樋高リオ、当時3度世界挑戦経験者の久高寛之が在籍していた。



出稽古で何度かスパーには行っていたが、そこに野中が来た事により益々相乗効果で仲里ATSUMIジムは活況を呈するようになる。坂晃典などアマチュア出身の逸材も大正区に集まりだした。



ただしこの頃に野中に幾度も災難が訪れる。



ジムの問題が解決し、リングのある環境で練習出来る事に喜びを噛み締めていた頃だった。



2011年12月11日の朝、父親が他界。



自分のボクシングの31戦全てを唯一見に来てくれたファンでもあった。どんなに地方でもどんなに忙しくても愛する息子の試合の応援に駆け付けた。自分自身の若気の至りでもあるのだが、殴られた数なんて数えきれないし一時期は本当に殺してやろうかと思う程に何度も激しく衝突したスパルタな父親がレベル4の末期癌で余命一年と宣告された。子供の頃はよく喧嘩もした厳格な父親が面影もない程に衰弱していった。野中が命を懸けてプロのリングで闘うように、父親も病室のベッドで癌と闘っていた。気丈な父親は余命一年と宣告されてから3年10ヶ月も頑張った。



生前、何故か父親はこんな事を言っていた。



「東洋のベルトをワシ巻いた事ないんや」



その言葉を忘れていなかった野中は祭壇に東洋太平洋のベルトを飾った。桂トレーナーからはよく言われていた。「どんな局面でも朗らかに闘いなさい」と。祭壇の遺影はまだ髪の毛があってよく殴られてた時の写真だったから少し身構えたりもしたが、厳しかったのも愛情だとすぐに気付いた野中の中では感謝しかなくて、朗らかに笑顔で天国へ見送った。



その時に野中は男と男の約束を交わした。



「東洋とか日本じゃない。もう1つ上の世界のベルトを飾ってやる」と。



4回戦時代に誓った「絶対にチャンピオンになる」という発言もアジア限定の話ではなかったのかもしれない。世界の事を指していたのだろう。向上心の塊みたいな野中の事だからきっとそうだろう。



この1年は父親の事でも桂トレーナーに本当にお世話になった。その義理も果たすつもりだった。




気持ちを切り替えて走り始めた野中の試合は4月8日に内定していた。



しかし結局次戦が決まったのは約1年半後の2012年11月。このブランクは怪我によるものだった。



三十路を越えると体質も変化していく。疲労の取り方や摂取するサプリメントも何度も試行錯誤しながら自分に合うスタイルを作り上げていたが、それでも突発的に事故のように怪我は起きた。



3月24日に全治3ヵ月のアキレス腱全断裂、27日に手術ししばらくはリハビリに専念する事となった。



出稽古先のジムでのスパー中、1R開始30秒ぐらいだった。右ジャブを打とうと足を踏み出した瞬間に、左足首に「ガチン!」という今まで味わった事のない衝撃が走った。真面目な話、一瞬誰かに後ろから思いっきり蹴られたと思ったそうだ。しかし当然だが普通に考えるとボクシングのスパー中に誰かがリングに入り込んで足首を蹴ってくる訳がない。一抹の不安が頭を過る。というよりこの業界に長くいたら怪我について詳しくなる。自分の中で答えが分かっていた。



スパーを中断し、コーナーにいる桂トレーナーの元に足を引きずりながら歩み寄りアキレス腱を痛めた事を伝えた。入念にストレッチもしていたし出来る限りのケアも常にしてきた。今までの疲労の蓄積もあったらしいが、減量も開始していた試合2週間前というのは最悪のタイミングで長期のブランクを余儀なくされるのも間違いなかった。



世界ランクからも完全に名前が消えた。また一から出直す事になった。



野中がリハビリに励んでいる間に桂トレーナーは4回戦のボクサーを育てていた。育成力に定評のある桂トレーナーの指導のおかげで伸びたボクサーは数多くいるが、最も才能を開花させた選手が清水健太だった。ミニマム級の小柄な体格からは想像しにくいが、中学時代はラグビー部。タイガジムでボクシングを習ってから仲里ATSUMIジムの寮生で本格的にプロを目指した。大人しいので一見して格闘家と気付かないが、根が真面目で妥協しない努力家だった。そして誰よりも闘志を内に秘めていた。



2011年までの戦績は2勝3敗1分。その2勝も同じ相手に連勝したもので運の要素もあった。2012年は試合なし。そんなKO勝ちもなかった男が新人王予選で大番狂わせを起こして台風の目となるのは2013年の事だった。




野中は血湧き肉躍るのをこらえながら待ち続けて待ち続けた一年半後の2012年11月のリングでOPBF東洋太平洋ミドル級8位の韓国Sミドル級王者を判定で下して移籍初戦を無事にクリアする。



その1ヶ月後の2012年の12月に仲里ATSUMIジムが分裂。大正区にある仲里ジムと、飛田新地の真ん中にある渥美ジムのどちらかに所属するか在籍していたプロボクサーは苦渋の決断を迫られた。



西日本では最大級の設備を備えた渥美ジムには野中悠樹・仲村正男・樋高リオ、そして桂トレーナーに指導を受けていた清水健太や美柑英男、チョコボーイこと大泉翔が、少し遅れて出来上がった仲里ジムにはずっと大正区で育った久高寛之、そして坂晃典、糸州朝哉がついていった。仲里ジムには海外で世界王者に輝いた高山勝成の姿もあった。



どちらのジムのプロボクサーも活躍していたが、やはり目を見張るのは清水健太の存在だった。







2013年の新人王予選にミニマム級でエントリー。初戦でいきなり真正ジムのホープ、4戦4勝(1KO)の山中竜也と当たる事になった。ジムの分裂問題も重なり、2年半ものブランクを作った清水は全く注目されていなかった。



しかし清水の攻勢に下がって後手に回っていた山中に右ストレートが炸裂し1つ目のダウン。当時の4回戦ルールでは技術が拙い事もある事から安全面を考慮し、2回目のダウンで強制的に試合が終了する。



ダメージの残る山中は何とか立ち上がったが、これを逃すまいと清水はラッシュして2度目のダウンを追加した。現在12勝(3KO)2敗でWBOの世界ランカーにまでなった山中のこの敗北は西日本の全階級で一番の衝撃だった。山中のボクシングキャリアでKOで倒されたのは今の所は清水戦だけである。



ハードパンチャーと化した清水は山中戦以降、3勝(2KO)で西日本新人王になって西軍代表決定戦に駒を進めた。これに勝てば全日本新人王の決勝となる。






(中日本新人王の横江をKOする清水健太)



西軍代表決定戦の相手は5戦5勝(3KO)の榮 拓海(折尾)。

アマチュア戦績22戦16勝(3RSC・KO)6敗。小学2年生から競技を開始し、中学、高校と全国大会に出場。高校時代にはボクシング部には入らず、折尾ジム所属選手として九州大会で優勝している。第16代WBO世界ミニマム級王者の田中 恒成(畑中)とは複数回スパーリングを行っている。



ダークホースの出現によって期待値の上がったこの一戦は初回から観客の心を惹く激闘となった。

1Rに清水が見事に右を決めて榮が倒れる。かなり効いている様相だが、逆にカウンターを決めてピンチを凌ぐ。2R以降もお互い手を出し続けるが、プレスの強い榮がペースを握って痛烈なダウンから見事に逆転した。



結局この榮が全日本新人王で優勝して、今年の3月には判定で敗れはしたものの日本王者の福原辰弥にも挑戦した。



恩師の桂トレーナーのおかげで急成長して榮相手に善戦するまでになった清水の動向に目が離せなくなる。ただ清水の眼には異変が起きていた。「網膜剥離」の発症。まだ闘い続けたかった清水は手術して9ヶ月後にKOで再起に成功。2014年の年末も判定で勝利。日本王者になるのも夢ではない。そんな予感を感じさせた。



しかし白内障まで患ってしまい視界・視力低下に悩まされた。もうプロボクサーとしては限界だった。最後の試合はレベコとの激闘を制し3階級制覇を達成した井岡一翔の世界戦の前座だった。



勝っても引退、ラストファイトで挑んだ相手は2014年の全日本新人王に輝いた7戦7勝無敗の小西怜弥(真正)だった。旺盛な手数で清水が攻め込んだが、3回以降は徐々にパワーの差が出始めてロープを背負う展開も増える。



限られた時間を大切にするかのように、インターバルでセコンドの恩師の桂トレーナーの言葉を聞きながら力強く頷く。最終回は何かを決意したような表情でコーナーから飛び出した。距離感に狂いが生じていたが少しでも長く一緒に闘う為に、最後までダウンを拒み闘い続けた。結果は無情にも79-73、78-74×2の0ー3の判定負け。咬ませ犬ではなく全て日本人と殴り合ってきた清水の現役生活はこうして幕を閉じた。







渥美ジム所属となった野中は3連勝を収めて日本&東洋ランクに名を連ねた。興國高校のボクシング部で同期の井岡一翔・宮崎亮・上谷雄太・中谷正義と共に「興國5人衆」と呼ばれたアマチュアエリートの岡山翎洙を6R2分2秒でKOして、実力が健在な事を証明してみせた。



2014年8月10日、清水健太が網膜剥離から再起した興行のメインイベントで、細川貴之(六島)が眼疾で返上した日本Sウェルター級王座を、かつて尼崎ジム時代に同門だった後輩の同級3位・長島謙吾(角海老)と同級2位の野中が争う事になり、先輩の意地を見せた野中が4年9か月振りに王者に返り咲いた。



1Rから地力で勝る野中が効かせて優位に立つが、迎えた3Rに長島のカウンターをテンプルに貰って足が泳ぐ。36戦も闘ってきて初めてというぐらい効いた。唯一の室矢戦のKO負けもダメージはなかったし、ディフェンスの技術に長けた野中はスパーでもダウンはおろか効かされた事もなかったので自分の中でも少し驚いた。



6Rは悪夢だった。長島のガードを割るように顎にワンツーを叩き込んだ瞬間、野中の顔が苦痛に歪む。左の中指中手骨粉砕骨折でパンチが打てない最悪の状態に陥った。脳にも響く程の激痛だった。相手にも味方にも感付かれないように左のパンチは出し続けて何とか誤魔化してきたが、さすがにセコンドの指示通りに動けないので、8R終了時に拳の痛みを伝えた。



一進一退の攻防をラウンド毎に少し上回るようなボクシングを続けてポイントを積み上げた大差の判定勝ちはベテランの老獪さを兼ね備えた野中ならではだった。



王座決定戦で獲得した場合は3ヵ月以内に1位と防衛戦を行わなければならないが、全治3ヵ月の診断が下った怪我が厄介だった

。暫定王者などを作られるとややこしい問題になるので、出来ればそれは避けたかった。今回は興行の関係などで中4ヶ月空いても良くなったので野中は拳が完治した後に1ヶ月間しか実践練習が出来なくても大丈夫だから試合を当初の予定通り組んでくれと陣営に伝えた。



ただし今回ばかりは相手が悪すぎた。チャーリー太田は、後に双子世界王者として有名でWBC世界Sウェルター級王者になった(当時はIBFで世界5位)弟のジャーメル・チャーロに敗れた再起戦だった。これが約6年半振りの黒星でまた再浮上する為に日本王座を再び狙いに来た。

チャーリー太田は柴田明雄を倒して日本&東洋Sウェルター級王座を奪取し、そこからはリベンジに燃える柴田を、日本4階級制覇を懸けて2度も挑んできた湯場忠志を、元東洋王者の丸元大成を、元日本王者の沼田康司を全てKOで蹴散らしてきた。



日本王座を5度防衛、東洋王座は8度防衛し返上。そう、米国プロモーターと契約し世界戦を見据える為に王座を返上したりしただけで負けて陥落した訳ではない。世界王者になれる逸材なので帝拳プロモーションも仲介に入った。



戦前の予想はチャーリー太田の圧倒的な勝利を推す声が多かった。それも仕方ない。向こうはもう舞台を国内から海外に移して世界戦が出来るかもしれない程の位置にいる。チャーリー太田のパワーに屈した野中がキャンパスに沈む姿は嫌でも脳裏に過る。年齢も4つ野中が年上で怪我からの復帰戦、フィジカルやスタミナの衰えも懸念された。



野中と桂トレーナーだけは微塵も諦めていなかった。昔からこういう逆境でこそ燃える男だった。本気で世界を目指すには避けては通れない壁。IBF世界Sウェルター級15位に勝って15位以内に入れば世界王座への挑戦権も手に入る。







試合は野中のフットワークが活きた。5回の鼻血の出血の場面では野中がふらついたが、その後はまた上手く立て直す。怪我の功名か、パンチを打つ練習が出来ない分、下半身を徹底的に鍛えた事が功を奏した。



5回終了時のジャッジの採点は三者三様のイーブンだったが、チャーリー太田の攻撃をひたすら空転させ続け、足を使って避ける時に軽打でもパンチを入れる事を忘れなかった野中が僅かだが優勢に立っているように思えた。徐々にチャーリーに焦りの色が出始めて単調になりつつあるのも見逃さなかった。



満身創痍で迎えた最強の挑戦者を相手に逃げずに最後まで手を出し続けた。



96-95、95-96、97-93



2-1の判定で野中の勝者コールが会場に響いた時、野中は拳を突き上げて喜びを爆発させた。桂トレーナーと抱き合い勝利を分かち合った。初防衛に成功という事はあくまで記録として残る形式上だけのものであって、強敵のチャーリー太田に勝ったという事実が大切だった。



その後に眼疾から復帰した細川貴之と対戦し、初回は意表を突いてラッシュしたり緩急をつけて優勢に試合が運んでいたように見えたが三者三様のドロー。試合後のリングで再戦を約束した。



ここでまたしても野中は不遇を託つ事になる。

細川戦から1ヶ月後に盲腸になり緊急手術。8月に予定される試合の再戦には体が仕上がらないしチケットを買ってくれるお客さんにも失礼だと延期を申し出たが、それが認められないどころか相談もなく手術を受けた事にジム側は怒り心頭。今までも様々な問題があって野中も我慢してきたがそれが結果的に確執に繋がってジムと決別した。



またしても尼崎の公園で桂トレーナーとミット打ちをする日々が始まった。2人で時間を合わせて公園で待ち合わせする。3分間が経過した事を知らせるブザーは聞こえない。初夏の虫の鳴き声だけ虚しく響く。さすがに焦燥感に駆られる時もあった。



今回は日本王者という立場なので長期間試合をしないと王座を強制的に剥奪されてしまう。移籍は金銭やジムの名誉も関係してくる為にトラブルが起きやすいがこのまま野中の受け入れ先が見つからない場合、チャーリー太田に勝利して得た財産も含めて本当に世界ランキングも何もかも全てを失ってしまう。移籍はジムの代表者の許可がいるのでそれが許されずにただただ干されて引退するしか道がなくなるという事が過去に何度も色々な所で起きているのは事実だ。



こんな形でボクシング人生が終わるのだろうか。



そこで心配して手を差し伸べてくれたのが西日本ボクシング協会長も務める井岡弘樹会長だった。20年近くボクシングに人生を、命を捧げて重量級の世界ランキングにも入っている37歳の日本王者が恩師と途方に暮れている。そんな話を耳にして行動せずにはいられなかった。



自身のジムを練習場所として8月から提供し、渥美ジムとの仲裁役を買って出た。大東旭代行会長を説得し野中と桂トレーナーを引き取った。井岡一翔と対戦したコロンビアのパブロ・カリージョも母国のマネージャーと金銭トラブルがあり悩んでいた。そこで井岡会長が手を差し伸べた。そして桂トレーナーの手腕も評価して、若手の育成に大きく繋がる事を望んでくれた。







野中と桂トレーナー、パブロと共に並んだ会見では「裁判になりましたよ、第一審は…、ウソですよ。円満です」と会長はジョークを飛ばし、記者を笑わせて場を和ませた。移籍して早くも年末には3度目の防衛戦として井岡弘樹ジムの興行のメインイベントに抜擢するなどしてくれた井岡会長の漢気に、師弟はしきりに感謝した。






世界ランクに入っている日本王者の野中悠樹とトレーナーの桂伸二の移籍は後輩にも多大な影響と刺激を与えた。元世界王者の山口圭司やフィリピンなどボクシング先進国からトレーナーを招聘しているから所属しているプロボクサーは皆レベルが高いが、目標とする背中がなかった。あっても漠然としすぎていた。



そこで現れた野中悠樹の存在は大きかった。3度目の防衛戦で1位の斎藤幸伸丸に勝利し、4度目も2位の清水優人も判定で下す。38歳になっても第一線で活躍する野中のトレーニング方法や技術は勉強になった。そして桂トレーナーが毎日腕にテーピングを張りながら、懸命にその選手の特性に合ったミット打ちをしてくれるので強くなっていく実感が湧いてきた。いくら高校のボクシング部などでアマチュアからやっていてもプロの世界とはまた違う。そこを熟知している桂トレーナーの存在は20歳前後の若手にとって大きな支えだった。この2人がジムで信頼関係を築くのに時間はかからなかった。恩師のいる井岡弘樹ジムに引退後は結婚して第二の人生のスタートを切っている清水健太も土曜日だけ練習しに来ている。それだけで桂トレーナーの信頼度の高さが分かるはずだ。設備とか環境ではない。桂トレーナーを頼りにボクシングをしに来ているのだ。






清水健太が急成長したように井岡弘樹ジムの若手のホープ達も間違いなく強くなっている。




プロのパンチを受け続けるトレーナー業は腕を痛めて慢性化してしまうが、隣に併設された井岡整骨院で練習前後に桂トレーナーの体を治療してバックアップしている。





(左は現在井岡整骨院心斎橋の院長・武津先生)


模範となる野中は7月20日の前座の5度目の防衛戦でも「1位の強い奴とやりたい。1位が無理なら上から順番に声をかけてほしい」と注文をつけた。正直WBOで4位にランクされる野中は日本ランキング下位の安牌と呼べる実力のボクサーと軽めの防衛戦を行って世界ランキングを維持するという事も可能だったが、強い奴と闘いたいという事だけは頑なに譲らなかった。強気のマッチメイクは昔から全く変わらない。




対する丸木は名古屋出身の25歳。178cmの右ボクサーファイター。アマチュア戦績44戦33勝(24KO)。2014年の7月20日にWBCのSウェルター級のユースタイトルを獲得。今年の5月にはOPBF東洋太平洋4位の韓国選手を破った。それで2戦連続で韓国の東洋ランカーを撃破したがまだまだ発展途上の選手。(後に桂トレーナーが面倒みる事になる渥美ジムの美柑英男をプロ3戦目でKOしていたり意外な接点はある)。兄の和也(28)も同級の選手で、父親は同ジムの丸木孝雄会長。丸木会長は愛知県の選手としては初めて世界戦を闘った。



一回り下の勢いある若手を崩せずして何が世界だろうか。だからこそ1位の奴とやって強さを証明し続ける。WBOの動向によっては本当に野中が聖地ラスベガスのリングに上がってもおかしくはない状況まで来た。今回のW世界戦はどちらも生中継の為に時間の尺が余れば野中悠樹の試合をダイジェストで放送してくれるらしい。TBSの赤萩アナウンサーがわざわざ東京から取材に来て野中にインタビューをしてからずっとスパーリングも見学していた。きちんと情報を集めてくれていて本当に放送があるかもしれないと燃えてきた。



「チャンピオンになります」



紆余曲折があった。その言葉を発してから何年経ったのだろう。世界4位につけた事で現実味を帯びてきた。



かつて群雄割拠の時代に関西で闘った、世界Sウェルター級暫定王者の石田順裕や元東洋王者の丸元大成はボクシングジムをオープンさせて、次世代の育成に励んでいる。

松元慎介も引退、飛天かずひこも引退して第二の人生を歩んでいる。鈴木悠平も後一歩で敗れて日本王座は取れなかったが美しい散り方だった。川島実は情熱大陸でも取り上げられて医者として被災地に出向いて活動していた。渥美ジムの後輩の仲村正男もモチベーションの低下を理由に世界挑戦出来ずに引退を表明した。興國高校ボクシング部の時から井岡一翔が憧れ尊敬していたハードパンチャー仲村正男は28歳の若さだった。



いつの間にか現役は自分だけになった。


満身創痍の体はいつも悲鳴を上げているが、それでも体にムチを打って恩師のミットにパンチを打つ。







本当に大怪我を負っても、闘病中の父親が逝去しても、ジムのトラブルで公園で練習するはめになっても、頑張れば夢は叶う。それを野中は拳で証明し続けた。


野中のサインに描かれる「hard luck」は不運、不幸といった意味だ。それを己に科し幾度も乗り越えてきた38歳の野中と、それを支えてきた桂トレーナーが世界戦のリングに上がる事は夢物語ではない。咬ませ犬扱いされればされる程に燃えるロックな男に20日は注目したい。日本人には不可能と云われる世界戦の「hard luck」もきっと乗り越えてくれるはずだ。



幾多の『hard luck』を壊してきた己の拳で、人生最大の幸運を掴みとる。
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