• 08 Dec
    • 中島みゆき[夜会]『橋の下のアルカディア』

      なんば仙人より読者の皆様へ    いつもご愛読いただき、誠に有り難うございます。    身近な読者の方から、「せっかくクライマックスを迎えたというのに、どうして投稿がストップしたのですか?何かありましたか?」という質問をいただきました。    実は、愛用のノートパソコンが、突然壊れて動かなくなってしまったのです。 どうやらハードディスクが駄目になったみたいです。電源が入りません。そこで、新しくデスクトップのパソコンを購入しました。相応のクラスのものにしたので、びゅんびゅんの速さです。快適です。その点では、大満足です。ただ、大切なデータをなんとか復旧させようと、あれこれ時間がとられました。なんとか復旧ソフトを使って新しいパソコンに移すことが出来ましたが、やれやれというところです。皆さん、パソコンは、いつ壊れるかわからないので、データのパックアップは、こまめにした方がいいですね。パソコンが使えなくなったために、他にも多々ある仕事が止まって、かなりの影響が出ました。データもさることながら、アプリケーションでも重大な問題が発生したのです。ノートパソコンは、Windows7でしたが、新しいパソコンは、Windows10です。愛用の富士通日本語入力ソフト Japanist2003をインストールしても、アメブロでは、なぜか使えないのです。正確に言うと、『親指シフト』が使えないのです。だから、しかたなく、富士通のワープロソフト『OASYS』で文章を作成してから、コピペしました。どなたか、このブログを読んでくださっている方の中で、Windows10のパソコンを使っていて、アメブロには、『親指シフト』で入力している方はいらっしゃいませんか?もしいらしたら、ぜひ、その方法を教えていただけませんか?ひょっとしたら何か設定等の問題があるのかもしれませんので。もう30年以上『親指シフト』入力をしていので、ローマ字入力では、思考が流れるように入力出来ないのです。よろしくお願いいたします。さて、昨日12月7日は、待望の中島みゆき様の[夜会]『橋の下のアルカディア』を鑑てきました。 もう、絶句のひとことです。まだ、公演は続いていますので、内容のみならず、それについての感想等も差し控えさせていただきたいと思います。ただ、またしても古事記の奥義が背後に隠れていることには、ほとほとおそれ入りました。では、2~3日後には、ブログ小説の投稿を再開したいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。赤坂ACTシアター           

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  • 27 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(207号)最終総括篇⑨ 宮本武蔵の『五輪書』

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(207号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇⑨ 宮本武蔵の『五輪書』-最後の志摩子の発言がすむと、品老師は、みんなに言った。「さて、みなさんから、こうして、いろいろと貴重な感想を頂いて、あらためて、古事記の奥深さ、というか、本当に説きたいことは、一体、何なのか、そこのところが、おのずと、くっきり浮かび上がってきたように思うね。なにしろ、『古事記を行ずる』、という考え方自体が、これまでに全くなかったものじゃからのう。しかし、本当は、『行ずる』、ことこそ、古事記本来の、真の面目なのじゃ。このことは、繰り返し、わしが、話したことだが、古事記上巻の要約である、『序第一段 稽古照今』(注1)に、はっきりと書いてある。『天皇』の起源について、である。『行ずる』、とは、『肚(ハラ)』を鍛える、ということであり、即ち、『和(やはらぎ)』=『柳』を、我が身に体現することである。これこそ、『武士道精神』を、担保する根幹である。だから、武士は、『切腹』の時、『肚』を切る、ことで、天地神明に誓って、武士道精神に恥じないことを、証明するのである。切腹は、無論『自殺』ではないし、ましてや『刑罰』でもない。武士としての究極の名誉の儀式である。と、まあ、横道にそれそうになったが、つまり、譬えて云うならば、古事記は、宮本武蔵の『五輪書』、なんじゃよ。(注2)厳しい言い方かもしれんが、古事記を、頭で、『解釈』し、得心していること自体、古事記本来の存在目的からすると、見当違いも甚だしい、と言わざるを得ん。わかるじゃろ?剣術の奥義書を、どんなに、理路整然と解釈してみせたって、肝心の、その人の剣術が、お粗末だったら、一体、五輪書の、そのような『ご立派な解釈』に、何の意味があると云うんだい?ここのところを、痛切に罵倒し、広く世の中に訴えた歌、それこそ、中島みゆき氏の、『我が祖国は風の彼方』、だった、というわけさ。つまり、すべては、『肚』にある、ということじゃよ、みゆき様が、言いたいことは。逆から言えば、今の世の中、何もかも、何もかも、この、一番大切な、『肚』、が、抜けてしまっている、だから、世の中が、日本が、世界が、おかしくなっている、ということさ。宗教家といえども、否、宗教家こそ、『肚』が出来ていない、即ち、『天地』と繋がっていないのでは、そんな、ブラックジョークを歌っているんだ。国の名は幾百、名付け主の名は幾百、とね。『国』とは、『我が祖国』であり、日本人が古来呼んできた、『天地(あめつち)』のことよ。名付け主の名は幾百、とは、さまざまの宗教の神々が、溢れている、ということ。そして、互い対立し、いまだに、血みどろの争いを止めることが出来ないでいる。悲しいかな、これが、人類の『業』(カルマ)なんじゃ。この、宿痾(しゅくあ)から、脱却するための、ただ一つの道、それは、『空』と『風』と『波』が指し示す天空の国、しかない、それが、みゆき様の説く、『我が祖国は風の彼方』の、最終結論である。それにしても、みなさんの発言が、それぞれ、まぎれもなく、自分自身が、、『古事記』を、『行じた』、体験談なので、本当に興味深く、嬉しく、聞かせていただきましたよ。」と、その時だった。ひときわ大きな甲高い声を張り上げたのは、たぬ子だった。「先生!私は、まだ、何にも発言をしていませんが、どうせ、どうせ私なんかは、発言する必要がない、ということなんですか?」目をつりあげて、品老師に食ってかかったたぬ子だった。「いや~、すまん、すまん!けっして、そんなわけではないんじゃよ。たぬ子さんは、もう、『みゆき様いのち』、じゃから、これまで、存分に発言をしてくれたので、という気持ちが、頭にあってな、、、、それで、、、、。」珍しく慌てふためいている品老師だった。たぬ子は、腕組みをして、品老師を凝視した。(続く)(注1)『序第一段 稽古照今』(けいこしょうこん)岩波文庫ワイド版13頁参照(注2)五輪書(ごりんのしょ)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E6%9B%B8常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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  • 26 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(206号)最終総括篇⑧ 理容師と『なんば』

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(206号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇⑧ 理容師と『なんば』-最後の発言者は、志摩子だった。志摩子は、理容師だった。東京神田で、明治時代から代々続く老舗の床屋の一人娘である。ちゃきちゃきの江戸っ子だ。家業を継いで理容院を経営していたが、フェイシャルを中心とした最新のエステを融合した独自のサロンを営み、『ゴッドハンド』と称賛される、類まれなる彼女の技術は、リピーターがリピーターを呼び、お客は、遠近問わず関東一円から殺到していた。いつも、3カ月先まで予約で埋まっていた。品老師曰く。床屋さんになる人は、前世侍だった人が多いようだ、と。刀という刃物が、剃刀(カミソリ)という刃物に置き換わっているのだ、と。だから、因縁気質的にも、サムライ精神が潜在的に強い人が多いようだ、と。志摩子は、お店を切り盛りする傍ら、理容業界のカリスマ講師として誉れ名が高く、北は北海道、南は沖縄に至るまで、過密スケジュールを縫って、一年中、東奔西走の日々を送っていた。志摩子の発言が始まった。「私が、なんば道場で学ばせていただいたことで、一番印象強いことは、『身体』を『柳』のようにすることで、『心』も『柳』のようになれる、ということですね。これが、『なんば』の真髄である、と、品先生から教わり、びっくりしました。だって、今まで、私が、考えていたこと、そのものだったからです。その点、桃子さんの感想と、同感することろ大ですね。品先生は、この『柳』の状態を、『和』(やはらぎ)と称するのだ、とおっしゃいますが、なんば道場で修行するようになってから、一段と、このことを痛感するようになりました。ふと気がつくと、自然と、『肚(ハラ)』に『氣』を込めて仕事をしています。習慣になるものなんですね。昔のサムライは、剣の達人になればなるほど、『肚』が鍛えられるに従い、それと反比例するように、『柳』のように柔らかい上半身だった、のではないかと思います。そして、つまりは、『春風駘蕩』(しゅんぷうたいとう)然とした、おおらかな、『無私』の心、即ち、『和』(やはらぎ)の心だった、のではないかと思います。私は、代々の家業を継ぐことで、今の日本人が忘れかけている、このような、真の『サムライ精神』を取り戻すことに、貢献出来たら、そう願っております。私が、精力的に講演活動に勤しむのも、業界全体の技術水準の向上のためであるのは当然のことながら、日本の心、サムライ精神を、取り戻す、そこにあるわけです。私にとって、なんば道場は、サムライ精神、即ち、『柳の心』を修行する、最高の場なんです。今まで、私の悩みは、心の中での理想は、武士道のはずなのに、いざ、現実となると、その場の情に流され、つい妥協してしまうことでした。そんな自分が、本当は、情けなく嫌でした。でも、そうでないように、取り繕う自分がいたことも確かなんです。この、どうしようもない自己矛盾も、なんば道場で修行をするうちに、次第次第に薄らいできて、是は是、非は非、という筋道を立てる考え方が出来るようになってきたことは、本当に有り難いことです。」以上、志摩子の発言だった。それにしても、まさしく、古事記の天孫降臨神話のくだり、そのものではないか。天宇受売神(アメノウズメノカミ)である。汝(いまし)は手弱女人(たおやめ)にはあれども、い對(むか)ふ神と面勝(おもか)つ神なり、と。(中)あり、大和撫子の鑑、なりしか。(続く)(注1)岩波文庫ワイド版『古事記』倉野憲司校注・73頁参照常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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  • 22 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(205号)最終総括篇⑦ 介護福祉士と『なんば』

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(205号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇⑦ 介護福祉士と 『なんば』-次に発言したのは、桃子だった。桃子は、介護福祉士である。桃子の家は、公務員の夫との間に、小学4年生の娘を一人持つ三人家族だった。介護福祉士は、部外者が想像する以上に、相当の重労働だった。毎日の現場が、身体介護の連続だからである。かなり不自然な姿勢も、とらざるを得ない場合も多々ある。案の定、職場には腰を痛めている人が、少なくなかった。桃子も、その例外ではなかった。長年ヘルニアに苦しんでいたが、痛みを堪えながら、だましだまし仕事をしていた。ところが、なんば道場で、なんばの修行をしているうちに、気がつくと、すっかり腰痛が消えてしまっていたのだ。桃子の発言が、始まった。「私の感想は、みなさんのように、すごく高度な、精神的なことでは、ありませんが、身体と心との密接な関係について、しみじみと実感することが出来たこと、これが、一番嬉しく、有り難いと思ったことです。まず、身体の面からですが、身体介護の現場において、自然に、『なんば』を実践している自分に気がついて、はっとすることがあります。品先生がおっしゃるように、『ナンバ歩き』だけが、『なんば』、じゃないんだ、ってことですね。近頃『ナンバ歩き』が、注目を浴びているようですが、『なんば』、とは、結局、『息の術』だった、ということです。でも、『息』、といっても、『呼吸法』の次元ではないんですね。ここのところが、とても、大切だと思います。では、何が違うのか?それは、『息の術』には、『天地』(天)と、『小天地』としての、『おのれ』(地)という自覚が、つまり、『天地合一』の急所としての『肚(ハラ)』の自覚が、根元にありますが、『呼吸法』の次元では、残念ながら、その自覚が薄い、ということです。本来は、あるはずなのでしょうが、『天』へ向かうべきベクトルが、いつしかずれてしまった、のではないでしょうか。なので、品先生は、あえて、『呼吸法』とは呼ばずに、『息の術』と云い、『丹田』(たんでん)と呼ばずに、日本古来の呼称である、『肚』と呼んでいらっしゃるのだと思います。私は、職場での身体動作はもとより、家の中でも、歩く、立つ、坐る、物を持つ、押す、引く、どんな動作にでも、常に、『肚』に氣を鎮めるように、意識をしています。『肚』を、心身の中心点とし、『肚』から下を、『地』に向かう『根』、と、とらえ、『肚』から上を、『天』に向かう『柳』、と、とらえる、これって、本当に気持ちいいですね。文字通り、身も心も、軽やかになります。なんば道場での学びによって、本来なら辛いはずの、身体介護が、楽しい嬉しい毎日の、なんばの修行の場、になってしまいました。品先生は、この『柳』の状態を、『和』(やはらぎ)と称するのだ、とおっしゃいますが、やってみて、はじめてわかる感覚だと思います。この『和』(やはらぎ)こそ、日本の心の中核なんですね。理屈で考えているだけでは、何にもなりません。言霊的にも、『やなぎ』と、『やはらぎ』とは、完全に同じである、との品先生の説には、もう、目からウロコが剥がれ落ちる、諺のごとき衝撃を受けました。『や』という言霊は、天地始源の神、即ち、『天之御中主神』(アメノミナカヌシノカミ)を表し、『な』という言霊は、この場合、『~の』という意味であり、『ぎ』という言霊は、『天の氣(き)』と『地の氣(き)』の合一を表している、ということですね。つまり、『息の術』によって、小さな『おのれ』ではあるが、『天之御中主神』と、ひとつになれるんだ、ということですね。これが、『やなぎ』という言霊で、完璧に表現し尽くされている、ということです。一方、『やはらぎ』という言霊も、『天地合一』を意味する、と教わりました。これは、秘儀秘伝とのことなので、言霊の説明はしません。くどいようですが、これも、やはり、理屈でわかったつもり、では、なんの意味もありません。いくら、宮本武蔵の『五輪書』を縦横無尽に解説してみせても、いざ、剣を持たせたら、へっぴり腰で、たちまちやられてしまうようでは、ナンセンスですからね。品先生がおっしゃる、『武士道精神』とは、『なんば』である、ということが、なんとなくわかってきつつある、ように思っています。」なんと!桃子は、高度なことは言えない、などと言っておきながら、自分自身の体験を踏まえた、具体的な、実感のこもる話で、なおかつ、本質を鋭く突いた、非常に高度な話ではないか、、、。今まで、こんなに流暢に話す彼女をあまり見たことがない、他の塾生たらは、目をまるくして、桃子の発言に聞き入っていた。桃子の話は、続いた。「身体のことについては、お話ししましたが、心の面でも、大きな変化が、ありました。プライベートなことなので、あまり具体的には言いにくいのですが、夫婦仲が、とても良くなりました。今まで、けっこう、つっけんどんだった主人が、不思議と優しく接してくるようになったんです。これも、『和』(やはらき)効果、なのかなって、自分では思っていたのですが、品先生曰く、『おきつ鏡』、『へつ鏡』の原理の発現だよ、と。なんばの修行によって、『肚』が培われてくると、自然に、深い意識が、浄化されてゆき、その有り様が、鏡に映し出されるように、他者、この場合、私の旦那さんに、反映される、という事態が起こるのだよ、ということですね。神道のシンボルは、『鏡』だと云われますが、『鏡』と一口に言っても、『おきつ鏡』と『へつ鏡』の二つの働きがあるのだと、なんば道場で、はじめて知りましたし、自分の人生の中で、腑に落ちる体験をすることが出来て、有り難いと思っています。最後に、中島みゆき様の、『我が祖国は風の彼方』は、『おきつ鏡』、『へつ鏡』の原理の発現によって、混迷汚辱に満ちあふれたこの世の中が、現代社会が、葦原中國(あしはらのなかつくに)が、清々しい天地の息吹をもって、浄化されることを願い、心から祈り、歌っているのだ、ということを知り、感慨無量の思いです。だって、歌の最後のフレーズである、『空』と『風』と『波』が指し示す、天空の国、、とは、『おきつ鏡』と『肚』と『へつ鏡』のこと、だなんて、もう、言葉が出ません。」桃子の発言が終わった。と、万雷の拍手が、道場内に響きわたった。(続く)常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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  • 21 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(204号)最終総括篇⑥ 『天津金木』の謎解き!

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(204号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇⑥ 『天津金木』の謎解き!-次に発言したのは、さくら子だった。さくら子は、手先がとても器用で、自分で作ったハンドメイドの小物を中心に、さまざまな小物類を、リアル店舗の他に、ネットショップでも販売をしている会社の社長だった。さくら子は、観察力が並外れていて、普通の人が気がつかないような、細かいところも、けっして見逃さなかった。特に、『数霊(かずたま)』、『形霊(かただま)』が、得意だった。例えば、同じ形が幾つも重なった紋章があるとすると、ただちに、その個数を数え始めるのだった。そして、その『数霊』、『形霊』の意味を解読するのが得意だった。なんば道場では、古参の一人だった。もう、かれこれ、入門してから、三年になるだろうか。蔭では、『点取り虫』のあだ名が、つけられていたが、自分では、『ポイントの女王』、と思っていた。ポイント獲得では、たしかに、ナンバーワンの実績があった。着眼点と分析力の賜物だろう。さくら子の発言が始まった。「みなさん、すでに様々な感想を述べていますので、私としては、あえて被らない話しをしたいと思います。私が、一番、印象に残っていることは、なんといっても、『天津金木』(あまつかなぎ)(注1)ですね。これはもう、品先生がおっしゃるように、時価1億円の価値が、本当にあるのではないか、そう感じています。先生は、毎度おなじみのごとくに、冗談めかして、これは、1億円するんだよ、とおっしゃっていますが、要するに、『天津金木』の真価をわかる人が、世の中で成功した実業家の中から現れて、本当の日本を取り戻す道への、なんば道場の崇高なる志に、共感共鳴し、『天津金木』を1億円で買ってくれる、つまり、奉納してくださる、ということなのですね。神道で一番重要な祝詞、ともいわれる『大祓祝詞』の中で、出てくる『天津金木』ですが、いったいどんなものなのか、誰も知らないのだそうです。ところが、我等が、品老師は、なんと、日本で初めて、ということは、当然ながら、世界で初めて、ということですが、『天津金木』を製作されたのです。これには、もう、ほとほと感心のあまり、言葉が出ませんでした。この『天津金木』を見たら、古事記のことを全く知らない人でも、古事記に登場する神々のことが、まさしく、手に取るように、直観的に把握出来ることは、間違いありませんね。もし、私が考案したのだったら、絶対に特許を取りますよ。だって、この『天津金木』を見れば、一目瞭然、品先生の古事記の解読は、古事記の序文に書いてある、太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)が書いた要約文に、完璧に忠実であることが、誰にでもわかるのですから。ということは、世の中に出ているさまざまな古事記の解釈が、正しいのか、つまり、『要約』に準じているのか、反しているのか、瞬時に判定することが出来る、ということです。思えば、恐ろしいものを作られたものです、品先生は。これは、もう、『革命』ですよ!神道界に、古事記の解釈の世界に、革命の嵐が、吹き荒れまくりますよ!今までは、今まで。これからは、もはや、『序第一段・稽古照今』(注2)から外れた古事記の解釈は、成り立たなくなる時代が来たのだ、そう先生がおっしゃったとおりになる、そう感じましたね。だって、古事記の要約である、『序第一段・ 稽古照今』に忠実に、神々の模型を作った、ということは、古事記(上巻)全体の神々の、模型を作った、と同じですから。つまり、品先生が作られた、『天津金木』とは、古事記の『解読』結果を、誰にでも直観的に理解できるように、神々の模型で表現している、ということです。だから、『天津金木』を、もし、一般の人が知ったら、古事記について殆ど知らなくても、『天津金木』を見るだけで、古事記に書いてあることを、しかも、その奥義を、神々の模型で理解出来るのです。そうすると、どうなるのか?『天津金木』を知った人は、もはや、正しくない解釈は、ただちに判別が出来る『目』が培われる、ということです。私が思いますには、世の中の大半の方は、みな、神様のことを、自分の頭の中でイメージし、人間になぞらえた姿で捉えている、と思います。かくいう私も、なんば道場で学ぶ以前は、そうでした。でも、品先生から教わって、そうではないのだと気づきました。神様の名前というのは、『天地自然の働き・作用を表現する言霊』である、ということが、納得出来るようになってきました。だからこそ、『神の名』という言霊を解析することで、逆に、とんな『働き』を表すのかがわかる、ということでもあります。例えば、『スサノヲノミコト』は、『スサノヲ』、でなければならない、必然的な意味が秘められている、という次第です。もう一点、重要なことがあります。神々の『存在次元』のことです。神様は、存在する次元が異なると、名前も変わるのだ、という教えです。この二つが、最大のポイントではなかろうかと、私は、思います。ここのところが、わからないから、どんなに考えても、矛盾だらけの神々の系統が、腑に落ちないのだと思います。でも、『存在次元』の法則がわかれば、一見すると、違う神に思えても、実は、まったく同じ神の別名なのだ、ということがわかってきます。しかも、そんな例は、それこそ、無数にあるのですから。え?『○○の神』って、『△△の神』の別名なの?こんな感じ、ですね。すると、今まで、ナゾだったことが、瞬時に氷解したりします。古事記って、本当に面白いですね。だから、私たちは、ここなんば道場で学べるということは、とても、ラッキーなことだと思っています。」以上、『ポイントの女王』、さくら子の発言だった。それにしても、品老師は、不思議な人だ。否、そういえば、仙人だったのだ。だから、古事記の解釈を、模型にする、などという、普通の人が、考えもしないことを考えつき、かつ実行するのだろう。古事記の講話も、今日が最終回だったが、塾生たちの熱い座談義は、もう少し続いていた。次は、誰の番だろうか?(続く)(注1)『天津金木』(あまつかなぎ)大祓祝詞の中程に、・・・・・・・・・・・・・・天津宮事(あまつみやごと)以(も)ちて天金木(あまつかなぎ)を本(もと)打ち切り末打断(うちた)ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置足(おきたら)はして天津菅麻(あまつすがそ)を本(もと)刈断(かりた)ち末刈り切りて八針(やはり)に取辟(とりさき)て天津(あまつ)祝詞(のりと)の太祝詞事を宣(の)れ。・・・・・・・・・・・・・・(注2)『序第一段・稽古照今』岩波文庫ワイド版『古事記』倉野憲司校注・13頁参照常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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  • 18 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(203号)最終総括篇⑤『なんば』の逆輸入

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(203号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇⑤ 『なんば』の逆輸入-次に発言したのは、杜之輔(もりのすけ)だった。杜之輔は、輸入転売の会社を営む社長だった。年商は、5億円を下らないが、ビジネスの傍ら、神秘の世界に対する関心から、ありとあらゆる書物を読み、さまざまな瞑想セッションにも、参加したことがあった。禅寺で座禅を組んだり、滝行に参加したこともあった。幼い頃には、神秘世界に傾倒していた母によって、半ば、強制で断食をさせられた経験もあった。今は、多忙なビジネスの合間を縫って、毎月3回、大阪から飛行機で、なんば道場に通っている。もう、かれこれ、一年になるだろうか。杜之輔の発言が始まった。「私は、なんば道場にご縁が出来てから、大げさでなく、本当に、人生観が変わりました。というよりも、正確に言うと、今までは、人生観が、あると、思い込んでいただけだった、という自分の現実に、気がつかされたんです。私にとって、最も印象的なことは、品先生から、出会いの一番最初に諭された、『知らざるを、知らずとなす。これ、知るなり』、(論語より)ですね。本当に、衝撃的でした。思えば、今の世の中、とくに、ネット社会なので、ネットが登場する以前の社会と比べると、まさに、隔世の感、があると、思います。ネットで調べたら、どんなことも簡単に情報が手に入るわけです。ただ、恐ろしいのは、情報の大海の只中にいて、どんな情報にも、発信者がいて、発信意図がある、ということを、忘れがちになる、という点です。しかも、いつのまにか、そうした雑多な情報を、自分の頭の中で、自分の都合のいいように、組み立ててしまい、気がつけば、自分の中では、既成事実化してしまい、知っているつもりになる、これほど、恐いものはない、そのことに気がつきました。しかも、その情報を組み立てるのは、『我執』が、主人公です。『我執』は、『自分』そのもの、ではなかったんです。なんでもそうですが、『情報』として頭で知っている、つもりのことと、自分自身のものになっている、ということは、全く別物なのだ、ということを、ここ、なんば道場で、学ばせていただきました。ものを観る、ものを考える、ということの基礎を培うために、徹底的にコーチングを受けている、そんな思いです。古事記(ふることぶみ)は、単なる神話でも、古典でもなく、いのちの真実を観る『目』、を養う道を指南する、無類の奥義書である、そのことがわかったことは、私の人生の宝となっています。『観る』、ということは、『考える』、ということなのだ、ということが、身に沁みて、腑に落ちるようになってきました。『顕幽一如』(けんゆういちにょ)とか、『鏡の原理』、とか、言葉だけ、理論だけ覚えても、知ったことにならないのですね。『なんば』とは、生きていく上で、時々刻々、瞬間、瞬間、を、『天地』としっかりと繋がって、生きてゆく道、である、このことがわかったことは、何ものにも替え難い価値が、あります。『天地としっかり繋がる』道、その要となる部位が、即ち、『肚(ハラ)』、である、ということですね。そして、『日本の心』、とは、『武士道精神』とは、まさしく、『天地としっかり繋がる』、ここにこそ、あるのだ、ということを、学ばせていただきました。だから、日本人には、『宗教』、が、不要なんだ、と。何の神を信じるとか、信じない、とかの次元ではなく、常に、『天地』と繋がっている、『小天地』としての『おのれ』、を、瞬間、瞬間、自覚し続けて生きる、これが、『日本人』なんだ、と。これこそ、宗教を超越した、最も崇高なる『道』、なのだ、と。それにしても、中島みゆき氏が、『我が祖国は風の彼方』の中で、歌っていたのが、結局は、人類よ、『肚』を培え!の一言で集約されるのだ、との先生の説には、もう、言葉が出ませんね。『肚』、を培う道には、国境はない、のですね。人類が、人種や宗教や、価値観の違いによる相剋を、根元的に超克する、ただひとつの遠泳なる道、それが、『武士道精神』、即ち、『肚』を培う道、なのだ、ということですね。『空』と『風』と『波』が、指し示す天空の国、が、いわゆる、『三位一体』(さんみいったい)であること、よって、『風』によって、その働きが集約されること、つまり、『風の彼方』=『肚』、が、真実のいのちの世界と繋がる、ただ一つの道、であること、こんなすごい秘儀を、本当に世の中に広めてもいいものなのか、と思うほどです。でも、天の時が来たら、必ず、なるようになるのでしょうね。これこそ、日本の天命、なのかもしれません。しかしながら、逆説的ですが、現代の日本人には、なかなか、すぐには、『肚』の価値を、わかりずらいようにも思います。なので、私は、先生には、『なんば』の思想、即ち、『肚』の思想・哲学を、日本はもとより、広く、海外に向けても発信していただきたい、そんな思いを持っております。かつて、『禅』が、アメリカでブームとなり、日本に『逆輸入』される形で、『禅』が見直されるようになった、ように、です。外国人の方が、よほど、熱烈に、日本の心、とは何か?武士道精神、とは何か?を知りたくて、知りたくて、焦がれている人が、無数にいるはずですから。切腹のシーンとかの動画が、100万再生を超えていたりするのが、いい例でしょう。」杜之輔の発言は、語りながらも、次第次第に熱気を帯びていった。(続く)常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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  • 17 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(202号)最終総括篇④ 夢の世界とは?

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(202号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇④ 夢の世界とは?-次に発言したのは、ゆめ子だった。ゆめ子の仕事は、メンタルカウンセラーだった。幼い頃、父母の不仲から、いつも居心地の良くない家庭環境に、慣れすぎていたのか、世の中の人が言う、『幸せ』、という言葉が、耳に空々しく聞こえる女の子だった。昔は、『幸せ』、という言葉が、大嫌いだった。ふん!なによ、幸せって!台所には、父が、母に向けて投げつけた茶碗やコップの破片が、所狭しと砕け散っている、そんな光景を目にすることは、日常茶飯事だった。自分だけ、なぜ、こんなにも、つらい思いをしなければならないのだろう?どうして、こんな家に生まれたのだろう?どうして、こんな両親の子として生まれたのだろうか?いつも、そんなことばかり思っていた。今にして思えば、自分で、自分の人生を呪っていたに等しい所業だった。18歳の時、両親の離婚をきっかけに、独り暮らしを始めた。たまたま職場で出会った人を通じてメンタルカウンセラーにみてもらい、人生に対する考え方、ものの見方が、少しづづ変わり、気がつくと、自分のまわりも、変わっていっていることに気づき、驚きを隠せなかった。思うところあり、一念発起、プロのメンタルカウンセラーを、目指すことにした。以来、紆余曲折はあったものの、今では、押しも押されぬ、その道の大御所の一人として、名を成している。ゆめ子は、知的な分析を、ことさら得意としていた。まるで、おシャカ様の説法の緻密な分析をするアビダルマ論師のようだった。カウンセラーは、やっぱり、ゆめ子の天職なのかもしれない。そんなゆめ子が、今回の講話の最終回にあたり、発言をした。「先生、私は、なによりも、印象強く残っていますのは、古事記って、心理学が説く心の世界、否、それ以上の、人の意識構造(こころのしくみ)を解き明かした奥義文書である、という点ですね。もう、これって、驚天動地、としか言いようがありません。ここ、なんば道場で学ばなかったら、絶対に、わからなかった世界だと思います。だって、世の中の一般的な古事記の解説は、そんなことは、まったく言いませんからね。もっと早く知っていたら、私ーの人生も、違ったものになったのに、そう思うことも、しばしばです。そして、さらに、心理学と違うのは、『方法論』が、明確に示してある、という点です。さしずめ、心理学が、説明の理論、とするならば、古事記は、どうしたら、意識(こころ)の世界を変えることが出来るのか、その、具体的なメカニズムと、対処法を教えてくれています。私は、自分のクライアントに、カウンセリングをする際、ここでの学びが、ものすごく役に立っています。実際、なんば道場で、なんばの修行をするようになってから、直感力が、格段に強化された気がします。クライアントが考えていることが、その気持ちが、言いたいことが、自分のこと以上に、手に取るようによくわかる、そんな不思議な経験を、何度もしました。まさしく、神道の、『鏡の原理』のとおり、『私』という『鏡』に、クライアントの意識(こころ)が、そっくり、映し出されてくるのです。なんば古事記、って、本当に凄い!私にとっては、古事記は、この一言に尽きますね。『我が祖国は風の彼方』の中の、最後の方の一節に、・・・・・・・・・・・・・・遥か夢の中誰も消せるはずのない空と風と波が指し示す天空の国・・・・・・・・・・・・・・と、ありますが、意識(こころ)の世界のことを、『遥か夢の中』と表現しているのではないか、と感じています。つまり、『夢』という言葉の象徴する世界が、意識(こころ)の世界であり、即ち、潜在意識と顕在意識とが、顕幽一如(けんゆういちにょ)になった世界なのではないか、そう感じております。『鏡』とは、『夢の中』、のことだったんだ、そう思っております。つまり、『なんば』とは、本来、『三位一体』(さんみいったい)であるはずの、『空』と『風』と『波』を、完全に一つに統合する働き、という意味だったのですね。その際、最大の要が、統合する働きとしての『風』、であり、即ち、『息』=『氣』(イキ)、であり、司る中枢が、『肚』(ハラ)なのである、と。この根本原理を、あたかも、おどぎ話風に表現した神話が、かの、『三貴子』(さんきし)だったとは、もう、絶句の極みですね。さらに驚きだったのは、この説が、品先生の独自の説、ではなく、古事記の序文に、明瞭に記してある、という点でした。とてつもない、大きな、大きな、学びでした。なんば道場で学んでから、クライアントとの交流の密度が、半端なく濃くなった、そんな気がしてなりません。当然ながら、クライアントとの信頼関係は、過去にないくらい、深まりをみせています。古事記は、もはや、国学の範疇でおとなしくしている時代ではない、つくづくそう思います。否、本当の古事記を知ることで、いよいよ国学が本物になるのだ、そう思うようになってきました。なんば古事記を知らないでカウンセリングをしている人は、本当に、勿体ないですね。カウンセリングに必須の根本哲学を知らずに、仕事をすることになるからです。かく言う私自身が、そうでしたから。私は、これからも、なんばの修行を深めて、もっともっと、自分を清め、高めて、自分自身の天分を、より一層発揮していけたら、そんなふうに思っております。」メンタルカウンセラー、ゆめ子の感想だった。初めて聞く、ゆめ子の身の上話に、塾生たちは、神妙な心持ちで、静かに聞き入っていた。(続く)常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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  • 16 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(201号)最終総括篇③一本脚で素読み!

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(201号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇③一本脚で素読み!-次に発言したのは、矢太郎だった。矢太郎は、一男一女、二人の中学生の子供を持つ、四十八歳の父親である。一見、厳めしい髭もじゃの顔だが、気立ては、とても優しく、意外にも、子煩悩だった。京都市内に住み、月に一度、なんば道場に通って、修行に励んでいた。仕事は、漫画家だった。超売れっ子の漫画家なので、仕事は、出版社の方が、順番待ちをしていた。今、新しい企画漫画に夢中になって取り組んでいる。趣味は、剣道。趣味とはいっても、その腕前たるや、なんと六段!一年前に、なんば道場に入門した時は、四段だった。つまり、わすが一年で、四段から六段に昇進したのだった。品老師曰く。なんば道場で熱心に修行をすれば、いかなる武道においても、必ず、目覚ましい上達をみるであろう、と。そうそう、それと、ちょっと人に自慢出来ること、と云えば、『日月神示』(ひつきしんじ)(注1)を、30回も読んだこと、かな?よくも、あの難解な『日月神示』を30回も読んだものだ、と、実は、品老師ですら、感心していた。普通の人は、興味関心を抱き、本を買ったところで、そもそも、何を意味しているのか、わからないところが多すぎて、さっばり前へ進めないから、そのうちに、投げ出してしまう、これが、一般的なパターン、ではあるまいか、、、、。ということは、矢太郎は、余程の変人、なのか?矢太郎の発言が始まった。「あの~、ぼ、僕は、ですね、何が、驚いたか、ちゅうて、『一本脚で立ったままの素読み』これが、ほんま、衝撃でした。せんせが、一本脚で立ったまま、古事記を素読みをされていて、力には、人一倍自信のあるつもりの、僕が、両手で、全力を出して、せんせの身体を押しても、せんせは、ビクリともせずに、立ったまま、倒れない、この、なんとも不思議な現実を、目の当たりにして、心底、驚嘆したことです。後になって、せんせが、一枚歯の高下駄を履いて、歩かれて、これこそ、天孫降臨神話の猿田毘古神(サルタビコノカミ)の極意、なのだと知りました。けっして、大げさではなく、私の人生観が、問い直されるほどの、強烈なパンチを喰らった思い、でしたね。そんなもんで、僕、悔しくして、絶対に、せんせみたいになろう、そう思うて、努力したつもりです。そしたら、いつのまにか、剣道の道場でも、師範の先生から、矢太郎さん、なんか、身体の動きが変わったね、最近?、と、言われるようになったんです。思えば、これは、みな、『なんば』の修行の賜物以外にないと思います。『なんば』、とは、『天地合一』(てんちごういつ)の、息の術、であり、その核心は、唯、『肚(ハラ)』、の一点を鍛えることにある!この、『肚』思想が、ほんま、僕の人生の、一大転機に、なったんです。よく考えてみたら、本来ならば、剣道を修行している僕にとって、当たり前のはずの考え方であり、また、そうでなければならない、はずのことが、では、なぜ、そういう認識を、持っていなかったのか、そのことの方が、正直、ショックでした。なんでか言うたら、せんせのおっしゃるように、やっぱ、日本文化の根元である、『肚』、が、見失われつつある、これは、本当に、本当なんだ、ということです。これは、単に、身体的な問題、などではなく、『肚』こそが、『武士道精神』を、培う根幹なのだ、そこのところ、なんですね、大事なことは。日本を取り戻す、それには、『肚』、を取り戻す、これしかありません。そして、なんと、武道ですら、そのことを、きちんと認識をし、かつ、意識的に、修行をしている、とは、必ずしも言えない、というのが、今の日本の現状なのだ、と、気づかされました。世の中を、日本を、良くする、という、おごり高ぶった、発想ではなく、世の中が、日本が、良くなるためには、という発想でなければならない、そうした、せんせの教えが、ほんま、心に沁みています。世の中を、日本を論ずる前に、まず、『おのれ』を見つめよ、ですね。古事記は、実は、『なんば』の奥義書である、そして、その奥義を歌にしたのが、中島みゆき作詩・作曲の、『我が祖国は風の彼方』である、いやはや、なんと言っていいやら、もう、言葉になりませんね。僕は、30回読んでも、どうしても、わからないところ、だからだったのに、せんせの手にかかったら、あの難解な『日月神示』が、赤子の手をひねるように、いとも簡単に解読されてしまう、これには、もう、ほんま、脱帽ですね。最後に一言。僕は、この道に出会えて、人の意識(こころ)は、『氣』(いき)によって左右される、『氣』、即ち、『息』を、統御する働きが、『肚(ハラ)』にあり、だからこそ、『肚』で、『天地合一』をはたす、このことを、まさしく身をもって、痛感させていただきました。今後とも、『風の神』の修行をもっともっと極めていきたい、そして、達人の極みを目指したい、そう思っております。」塾生たちは、普段は無口な矢太郎が、いや、修行によって、話し方まで堂々とした姿になったのだろうが、あまりの変貌ぶりに驚くとともに、剣道をやっているがゆえの、『肚』を鍛える、ということのかけがえのない重要な意義を悟ったことを、おのおの、頷きながら聞き入っていた。(続く)(注1)『日月神示』(ひつきしんじ)『ひふみ神示』↓ウィキペディアをご参照ください。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%88%E7%A5%9E%E7%A4%BA常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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  • 15 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(200号)最終総括篇② 『風の神』

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(200号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇② 『風の神』-次に発言したのは、たちばな子だった。たちばな子は、幼い頃から、古事記を子守歌に聞かされて育った子だ。古事記の本文を、隅から隅まで完全に暗記していた。記憶力抜群で、見たこと、聞いたことは、瞬時に記憶することが出来た。これが、彼女ならではの特技であり、さしずめ、現代の、稗田阿禮(ひえだのあれ)だった。(注1)「私が、一番衝撃を受けたのは、なんと言っても、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはぎはら)で、『禊(みそ)ぎ祓(はら)ひ』、をされた際のことで、『禊ぎ祓ひ』、とは、川や海を滝などで行う水行のことではなく、本当は、『息』の行だったのだ、というところです。そして、この、『息』のことを、中島みゆき氏は、『風』と、表現したのである、ここですね。しかも、実際、日本書紀には、伊邪那岐命が『風の神』を生んだ、という記述もありますし、『氣』と書いて、『いき』と、フリガナを振っています。つまり、『風、とは、『氣』、即ち、『イキ』である、ということです。ですから、『我が祖国は風の彼方』は、『我が祖国は氣の彼方』、であり、まさしく、古事記の『風の神』、即ち、『氣の神』、が、中心テーマであり、『氣の神』とは、伊邪那岐命が生んだ、『三貴子』(さんきし)の一柱である、須佐之男命(スサノヲノミコト)のことであり、また、存在の次元を変えると、猿田毘古神(サルタビコノカミ)になる、というところです。正直、雷に撃たれたような衝撃を受けました。」たちばな子の発言だった。たしかに、『風』が、『氣』(いき)を意味し、『氣』の神が、猿田毘古神であるならば、『我が祖国は風の彼方』の歌詞のとおり、『氣』(いき)を統御する働きが、『肚(ハラ)』にあり、だからこそ、『肚』で、『天地合一』をはたす、ということなのか。(続く)常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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  • 14 Nov
    • 古事記千一夜物語・第一話『風の巻』(199号)最終総括篇①『正語・正思惟』

      『古事記千一夜物語』第一話『風の巻』(199号)『我が祖国は風の彼方』(中島みゆき作詩・作曲)は、古事記の最奥義である『風の神』に祈りをこめた歌だった!-最終総括篇①『正語・正思惟』-中島みゆき作詩・作曲の『我が祖国は風の彼方』をテーマにした、長い長い講話も、ついに、今回で、最終回を迎えた。品老師は、塾生たちに、おのおのの感じたこと、また、学んだことを、お互いに忌憚(きたん)なく語り合うことで、より一層学びを深めることを望んでいた。最初に発言したのは、しげ男だった。「先生、私が、一番印象に残っているのは、私が、この講話が始まったばかりの頃に、『我が祖国』とは、『日本』、のことではないか、と発言した時に、先生が、すかさず、『ならば、日本は、風の彼方に在る、ということになるのでは?彼方というのは、実在の世界のことではないので、我が祖国が日本である、というのは、違うのでは?』と、おっしゃったことです。言葉と言葉の繋がり、つまり、『論理』の追求が厳しい、というか、真剣なのだと、思い知りました。古事記の解釈にしても、この点が、本当に、生かされている、というか、やっぱり、『正語』(しょうご)、『正思惟』(しょうしゆい)が徹底しているのだなあ、と感じました。 (注1)そのことを、『読解の法則』と、名付けていることも、なるほど、という感じです。猿田毘古神(サルタビコノカミ)が、高天の原を光(てら)す、という表現を、これは、暗いから光(てら)さねばならない、と論理を追って、暗い高天の原を、光(てら)したのは天照大御神(アマテラスオホミカミ)であるからして、猿田毘古神と天照大御神の働きが同じである、という主張は、本当に、正直、もう、心底うなってしまいました。なるほど、こういうふうに論理的に分析するものなのか、と。」他の塾生たちも、しげ男の発言に、しきりに頷きながら、聞き入っていた。品老師は、しげ男の発言に答えた。「小学生に言い含めるようで恐縮だが、母親が子供に、『勉強しなさい』と言うということは、普段、子供が率先して勉強をしていない、ということが前提である。しっかりと勉強をしていたら、なにも、勉強しなさい、と、言う必要はないし、言わない。簡単に言うと、これと、全く同じだよ。これが、『読解の法則』だよ。それと、あいまいなことは、いい加減にわかったつもりにせず、どこまでも、追求の手を緩めない、これが、『正思惟』である。そうすれば、古事記だって、なんだってかんだって、みな、正しく読解できるはずなのじゃ。」品老師が強調する、『読解の法則』、というのは、よほど大切なものらしい。長い講話も最終回となり、塾生たちは、和やかに談笑しながら感想を語り合っていた。(続く)(注1)『正語』(しょうご)『正思惟』(しょうしゆい)おシャカ様の説かれた『八正道』(はっしょうどう)の中にある。常若神社フェイスブックページhttps://www.facebook.com/tokowakajinja 『※本ブログ小説は、完全なるフィクションであり、登場する人物団体等、実在の人物団体等とは、一切関わりがありません。※創作なるがゆえに、小説中に展開される様々な論旨について、いかなる方の、いかなる論議も、しかして全く無意味、かつ無効となります。この段、当然至極の理なれば、ご賢察願い上げます。※ブロク管理者の許可なく、本ブログの一部又は全部を無断転用することを禁じます。歌詞 『我が祖国は風の彼方』http://j-lyric.net/artist/a000701/l00f497.html

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プロフィール

なんば仙人

性別:
男性
お住まいの地域:
千葉県
自己紹介:
古事記の研究を通じて「日本とは何か?」を明らかにし、 日本の真の姿を取り戻すことをライフワークとす...

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