Kohのブログ

日々、思い煩う事なく愉しく楽しく!


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朗読のボランティアのお稽古でこの本を読むことになったのですが下読み(黙読)の

段階でもはや号泣嗚咽でした。

朗読する側が感情移入して泣いてなどいては失格です、それはよく承知しています

本番は感情は封印して頑張りますよ、淡々とね。





原爆で広島二中一年生344人教職員8人全員が殺されました

この本はそのひとりひとりの最期を聞き綴ったもの、そのままが記されています


原爆を題材にしたものは「黒い雨」など多く小説にもなっていますが、

ここまで心が揺すぶられたものははじめてです、もうそれくらい

打ちのめされた証言記録です、証言記録だからなおさらなのかもしれませんが。

世界中のひとに読んでほしい本だと思います


近年では日本でも戦争肯定論者がむしろ増えてきていると思います

愛するひとのために銃を手にとるという考えもあるでしょうが、その裏側では

愛するひとを失って悲しみにくれるひとがいるということも事実です

大切なひとがこの本に書かれているような最期を遂げるのだと思えば

なんとしてでも核の使用はさけねばならないし もちろん戦争回避のために

最大限の努力をせねばならないと思うのです

争いはいつの時代にもありましたが、ひとを殺し合って本当の平和はこない、

ということをいつも思います

間違ってるでしょうか、あまっちょろい考えでしょうか。







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長文になりますが、少し書き抜いてみます


その日12歳のこどもたちは建物疎開作業に動員され、整列し引率の先生の訓示が終わる

ちょうどそのころ、エノラ・ゲイの機影が頭上にあったのです、爆心地から約五百メートル。

少年たちは瞬く間に吹き飛ばされ、火の渦に襲われました。

ある者はその場で息絶え、意識を取り戻した者は、目の前の本川に飛び込んだのです。




酒井春之くんは7日朝7時25分、お母さんに看取られてなくなりました

「枕元につめかけた祖母を呼び、おじやおばに話しかけ、妹の手をとって意識は

 はっきりしておりました。

 話は、明日ゆっくり聞くから今夜は静かに寝ようね、となだめたのですが、昼に川の中で

 じゅうぶん寝たからいいよ、と苦しそうにないのがなによりでした。 

 死ぬのでしたら夜を徹してでも話を聞くのでしたのに。」


松井昇くんは、見舞いにきてくれた友達に明日は水浴びに行こうといってたのに

病状が悪化して

「進め、進め、やっつけろ、と手をしきりにふりまわし、最後には おかあさんおばあさんと

 それこそ声を限りに肉親の名を呼びつづけて死にました」


桑原幸則くんは、自宅へ向う船の中で

「ぼくがなおったらきっとかたきをとってやる、とひとこと言って死にました」


豊久正博くんは8日の11時に亡くなりました

「当時は一般にけが人に水をやってはいけないと言っておりましたが、あれだけの重傷では

 とても助からないと思い、水を欲しがるだけやりました 

 8日夜、福山市が大空襲をうけているさなか燈下管制の燈のもとで

 おかあさんおかあさんおかあさんと叫びながらとうとう13歳の若さで死にました」


中東幸雄くんは、抱きかかえると腕がめり込むほどのひどいやけどでした

「つらかったろ、悪かったねえ幸ちゃんと声をかけると”戦争だもの”とけなげに答えたあと

死んでいきました」


桜美一郎くんは8月6日がお誕生日でした

自宅は広島市の郊外にあり市内に下宿中でした。

5日は自宅にあった学校の書類をとりに帰って泊まり、お誕生日祝いもいいと言って

6日の朝早く5時に急いで家を出たのでした

一郎くんはお父さんに大好きだった軍歌をうたってもらい、それを聞きながら死んでいきました


小野淳くんは

「お母さん帰りましたよ、と言ってくれたんですが顔が腫れあがり手当のしようがありませんでした

やけどで痛かったのでしょうが、友達の名前を呼んではがんばれといい、思い切り水が飲みたいと

申しました。  数を数えてみたり友達の名前を呼んだりして気を紛らわしがまんして一言も

苦しいともらさず、その夜死んでしまいました」


二十六キロ離れた呉市から、夜道を歩きとおしてこられた渋江茂樹くんのお母さんは、

午前五時、川土手で息を引き取ったばかりの渋江君の遺体を発見しました。
「長男の顔は赤く焼けて腫れ、指も焼けただれて死んでおりました。 
 私のつきます直前に息をひきとったのでしょう、ほほを流れた涙がまだかわいていなくて、

朝日にきらりと光っていました。」

坪木茂君は八日朝、お父さんがお寺につかれたときには、もう亡くなっていました
「大勢の人が両親の名を呼んでいる中で、子どもは”夢の中でお母さんやお父さんに会う”と、

言っていたそうです。

父親が聞いて帰って、いじらしくもあきらめていた子どもの心を思って、泣き明かしました。
 腰に下げていた教練の本を入れた袋は、川に入っていたせいでしょう、

遺品として受け取ったときもぬれていました。
 父親もその後、原爆症になって髪も抜け、八月二十七日に亡くなりました」


山本君




 







山本卓くんは

「救護所で寝かされていましたがぼくは家に帰る ぼくは家に帰る、

おとうさんおとうさんおかあさんおかあさんと大声で叫びながら入り口のほうに

3,4歩歩いて倒れたそうです。

そこでも苦しみながらおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんと名前を呼び続けながら

死んでいったそうです」



山下君










山下明治くんは

「明治は亡くなるとき、弟妹のひとりひとりにわかれの言葉をいい、私が鹿児島の

おじいさんに、何といいましょうかと、と申しましたら”りっぱに”と申しました。

死期が迫り、わたしも思わず、”おかあちゃんも一緒にいくからね”、と申しましたら、

”あとからでいいよ”、と申しました。

そのときは無我夢中でしたがあとから考えますと、なんとまあ意味の深い言葉でしょうか

おかあちゃんに会えたからいいよ、とも申しました」




すべて12歳のこどもの最期です

どうぞ機会があればこの本を読んでください


 







                     広島二中一年生全員の最期です

  http://www.chugoku-np.co.jp/abom/99abom/kiroku/2chu/1gakyu.html








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