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Lake Kawaguchiko is the largest lake in the Fujigoko. You can enjoy the beautiful scenery of Mt.Fuji from here. In addition it's available to go to the amusement park, to go fishing in the lake,or barbecue with groups. We are waiting for your visit


テーマ:

こだちの観光スポットと史跡




道祖神どんど焼



正月の恒例行事 毎年1月14日と17日に各部落毎の道祖神の前で尾炊き上げをし一年の健康を祈願する行事です。





御幣(おんべい)渡し



富士河口湖町小立の乳ヶ崎地区では小正月の伝統行事として「御幣(おんべい)渡し」が行われます。新しく夫婦となった者が同地区の金山神社の氏子入りを果すために行われるこの行事。その由来は1000年以上も昔にさかのぼるとされています。儀式では氏子総代がふんする道祖神が新婚の夫婦を前に呼び、「出会いのなれ初めは?」「プロポーズの言葉は?」といった珍問奇問を問いかける。それらの問いに答えて道祖神を満足させると、御幣が渡され同地区の仲間入りとなる。もともとは種まきの月や狩りの技術など生活知識や技能を問うものだったのだが、時代が下るなかで変化していったようだ。ちなみに儀式の中では、なかなか満足してくれない道祖神のために地区の代表者たちもそれぞれ芸を披露して、座を盛り上げる。地区のみんなで新婚さんを助けるといった意味合いも込められているのだとか。面白いのは、この御幣渡しの儀式を始めるのに先立ち、道祖神が地区の消防団にハンコをもらいに行くという手続きを取ること。さすがの道祖神もハンコをもらうまでは儀式が始められないので、お酌をしたり注がれた酒を飲んだりしながらなかなかハンコを押さない消防団のご機嫌を取る。地域を守る火消しへの敬意からとも、火を扱うお勝手を守るという意味ともいわれる。新婚の夫婦を笑わせたり困らせたりしながら地区の住民が笑いを共有するこの行事は、お正月の楽しみと同時に地区の風習を伝えるために綿々と受け継がれている。





金山神社





毎年9月9日には神輿が出ます。

人皇第五四代仁明天皇承和二年勧請、地名を金山といふ。文治二年再建の棟札あり、永正年間度々の増水により現社地に遷宮、寛政十一年正月神祇管領長上卜部朝臣良運より幣帛、額字を賜られる。一説に承和二年九月中納言隆持朝臣、大原の庄を巡察中逝去、遺体を葬り目標に木を植ゑた。現、お魔王の森之なり。此の人の霊を祀る祠あり。金山神社に霊を祀ったとも伝へる。




五角井戸



縁が五角形になっているところから五角井戸と呼ばれる大変珍しい井戸。多くの人が同時に水汲みができるようにとの配慮からこの形が生まれたといわれる。江戸時代(350年位前)に造られたと伝えられ、昭和20年頃まで共同使用されていた。





八木崎公園の桜とハーブフェスティバル


桜は毎年4月中旬頃から     ハーブフェスティバルは6月中旬から



 


与勇輝河口湖ミューズ館 (人形作家 与勇輝氏の記念館です)


 


富士山溶岩 千畳敷と大岩



一万年前の富士山の噴火により流れ出した溶岩が河口湖で冷やされて固まった

溶岩流がそのままの姿で見られる唯一の場所です。






































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平成25年6月の富士山世界文化遺産登録以来、当地の富士河口湖町は富士登山の窓口としてその脚光を浴び、多くの観光客で賑わいを見せている昨今、こだちの地は鎌倉時代から日蓮聖人が説法の為にお寄りになった地として数多くのゆかりの史跡が残るまさしく日蓮聖人ゆかりの地になっています。

今日はその史跡の一部をご紹介したいと思います。


【日蓮聖人とこだちの人々の馴れ初めは】

日蓮聖人は文永6年(1269年)に「国家安泰」を祈念するため、富士山中腹で法華経を暗読し、書写された法華経文を経筒に納め地中に埋めたとされています。この地が富士登山道五合五勺の経ヶ岳であり。後世この埋経の事実を伝えるためにこの名がつけられました。 その後、日蓮聖人は小立法華石の上(法華堂)で、農作業をしている小立の百姓等を呼び集めさせて説法をされたといいます。名僧が来られ富士山で行法を講じられた噂は既に広まっていたので沢山の人が訪れ、説法を聴聞しました。説法を聞く幾夜が過ぎた後、村人が鼻曲石のある地に急造の粗末な草庵を日蓮聖人のために建てたのが法華堂であり。これが妙法寺の始めであります、甲斐の国へ聖人が開創された寺の最初のものであります



【経ヶ岳】

日蓮聖人が100日篭られ修行をし「国家安泰」を祈願した富士山五合五勺にある経ヶ岳 ここは今身延山久遠寺の直轄領になっています。
 





【六角堂】(川窪寺屋敷 河口湖内)

法華堂場所が村落から1キロも程も離れ、夜分の集会題目には不便を感じたことから、文永11年(1274年)日蓮聖人弟子の妙法・妙吉・日長が村落に近い川窪の地-寺屋敷に移り小堂を建立しました。これが川窪寺屋敷とされます、文献にも記されています。 その後同年8月には焼失その後再建を目指すも、大雨が降り、富士山の雪解け水等により湖があふれ、村落や寺も水没し御堂も流出し、永禄2年(1559年)2月に現在の妙法寺を移築したと伝えられています。 そこで町では平成7年11月、周辺住民から「寺屋敷」と呼ばれ親しまれてきた川窪にあった頃の妙法寺の、土台石や踏石が残されているこの地を史跡として残し、保存するために六角堂を建立しました。





【妙法寺】(河口湖湖畔)





四季折々に大勢の観光客が訪れる河口湖。妙法寺は富士河口湖町小立の湖畔にある。富士急行線の河口湖駅から県道を勝山方面に1.5km程行くと妙法寺の参道の入口がありまる。山門をくぐると木々に囲まれた境内は森閑として、湖に遊ぶ観光客の声も聞こえない閑静な場所にあります。
妙法寺は文永6年(1269年)日蓮聖人が富士山麓を流布に訪れた際、説法を聞いた28人の農民たちが日蓮に帰依し、その場所に法華堂を建てたのに始まります。
その折、日蓮は農民たちが持ち寄った28枚のつなぎ合わせた紙に柳久根の柳の枝で曼荼羅を書きました。

これが「二十八紙大曼荼羅」と呼ばれるもので、日蓮の曼荼羅では最大のものといわれています。
この大曼荼羅は、妙法寺住職一代に一回限りの里帰りが許されており、平成113月、35年ぶりに「里帰りご開帳」があり、大勢の人たちで賑いました。なお、妙法寺には二十八紙大曼荼羅を預かる代わりに日法が書いた十八曼荼羅が贈られ、本尊となっており

当地を訪れた日蓮上人の弟子が創立したお寺であります。創建弘安元(1278)年。「三十番神堂」「妙法寺庫裏」などの文化財があり。戦国時代の富士山北麓の様子を詳しく記した「妙法寺記」は歴史研究家にとって貴重な記録であります。






【三十番神堂】(妙法寺西側)





妙法寺の山門をくぐると本堂の左手に三十番神堂(町文化財)と村芝居の回り舞台があります。三十番神堂は法華経を守護する三十体の神像を祀る建物で、明治時代の優れた和洋建築として知られ、柱や鴨居などに細密な彫刻が施されている。庫裡は間口13間、奥行き7間半のがっしりした切妻造りであり、明治19年の火災で伽藍を焼失した時に船津にあった民家を移築したものであります。建物の年代は江戸末期と見られており、内部には当時の建具や家具のほか、紀州徳川家のお抱え絵師、波羅蜜(雪岳)が杉戸に描いた鶴の図など文化的に価値のあるものも多く残されています。庫裡は町の文化財。本堂は明治期に建てられたものであります。
境内には東山梨郡牧丘町出身の詩人、大村主計の「花影の碑」がある。主計は大正12年から2年間、この地で教鞭をとっており、その時、薫陶を受けた生徒たちが彼の徳を慕って建立した。また、その隣には作家・新田二郎が「富士を背に緑したたる妙法寺」と詠んだ句碑もある。その句の通り、妙法寺から見る富士の姿も美しいです。





【常在寺】





常在寺は妙法寺 から西に400mほど行った森の中にあります。隣には武田信玄の祈願所であった御室浅間神社の神域が広がっています。常在寺の境内から見る富士山の姿も見事です。
この寺は、かつて広門伝山法典寺という真言宗の寺でありましたが、文永(12641275)から弘安年間(12781288)に時の住職、南陽坊阿闍梨が日蓮に帰依し、名も日授と改め法華宗に改宗しました。当時、改宗派と反対派が厳しく対立し寺は大揺れに揺れたといわていますが、日授は檀頭の常周の協力を得て改宗し、現在の常在寺を開きました。

冨士北麓を訪れた日蓮上人は、小立地区の広門伝山法典寺という真言宗の古い寺に南陽和尚と法論を戦わし、その結果これを折伏した。南陽は日蓮の弟子となり、日授と号して日蓮宗霊鷲山常在寺の開基となりました。






柳久根の柳(ヤナクネの柳)


 



文永6年(1269)染筆のいわゆる日蓮上人がお書きになった柳曼荼羅はこの場所にあった柳の枝で書いたといわれています。


法華堂(ほっけどう)

文永6年(1269年)日蓮聖人が富士山麓を流布に訪れた際、この法華石の上で説法したといわれます。


                     


【鼻曲がり石】






高さ約3メートル、石の先端は鼻が垂れた形をしています。1269年(文永6年)に日蓮上人が富士山に登り、法華経大儀を行いました。その帰り河口湖に立ち寄り、小立の村人に柳久根の柳の枝で二十八紙大曼荼羅を書きました。村人が持ち寄った紙28枚を継ぎ合わせて書き進めたところ、人面に似た石の所に達し、筆跡の見事さにその人面石がのぞき見をして、そのありがたさに岩頭自ら屈曲し御本尊がおくられるのにつれて一緒に垂れていったそうですその鼻が象の鼻のように垂れ下がったといいます。以来この石を「鼻曲がり石」と呼んでいます。


日蓮聖人のゆかりの一部を紹介しました。


監修 日蓮聖人弟子日長子孫    渡辺 藤樹

 



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平成25年5月1日

9月7日に行われるノルディックランの下見のため、富士山を下見に行く日の朝吉報が飛び込んで来ました。

ユネスコの世界文化遺産への登録を目指している富士山について、ユネスコの諮問機関は、「登録がふさわしい」とする勧告をまとめ、富士山は6月にも正式に世界遺産に登録される見通しになりました。

今日は富士山の旧登山道 船津登山道を活用してノルディックランが開催されるべく富士山を歩いてきました。

【そもそも船津登山道とは】

河口浅間神社が現存する河口は、甲斐国と駿河国をむすぶ官道(鎌倉街道)の宿駅にあたる公通要衝で、沿道に鎮座している河口浅間神社は古くから朝野の崇敬を集めました。

富士信仰が盛んになった室町期以降は、神社を中心に街道両側へ御師が宿坊を連ね、富士登山の道者でにぎわった。江戸期は富士講の大流行にともない一段と隆盛し、吉田とならぶ富士山登拝の北口拠点として発達しました。

江戸後期になると道者は登山口に近い吉田へ集まり、河口はしだいに衰微したといいます。

それでも文政10年(1827)『川口村道者立会改差出帳』では甲斐国・信濃国を中心に約2,000人の宿泊者を記録しており。

また天保9年(1838)『村明細帳』によると、家233戸、人口863人で、うち御師は110軒を数えました。

富士山には、富士宮口、御殿場口、須走口、富士吉田登山道、船津口登山道、精進口登山道があります。

現在は富士スバルラインで五合目まで容易に行けるのですが、その昔には河口浅間神社で参拝をし

船津口より登っていました。


船津口登山道は鎌倉時代からありました。

昭和39年の富士スバルライン開通によって現在に至り、以降船津口登山道は古道へと変革して

いったのであります。


船津育樹祭会場からの富士山 ここに車を駐車して登山可能です。
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まだ五合目は雪が深く今日は船津登山道を3合目から下に歩いてみました

13人で約3時館半かけて歩いたものです、その様子を画像で紹介します。


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途中で富士山が顔を出しました。
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樹齢何百年と言う杉の根っこが現れました。
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昭和初期に富士山まで行っていた登山バスの

道路としての石畳が落ち葉の下に。

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山の神でお祈りをして。
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途中でしぼ草の群集が
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