「私、高いところだめなんですよね。」

脚立での作業中、一緒にいた建築関係の方が言った。私はてっきり高所恐怖症か何かだと思ったのだが、聞けば落下して怪我をする危険性を考慮して50㎝以上の高所に上ってはいけないと社則で決められているのだそうだ。

変わった社則があるもんだと思ったが、それだけ会社がこの人を大事にしているということなのだろうとも感じた。

 

 

私たちは大なり小なりいろいろなルールに囲まれている。

それは社会という集団の秩序を守るうえで必要不可欠なものであり、さまざまな危険から身を守ってくれるものでもある。

けれども行き過ぎた保護や規制は、かえって煩わしくもあり、自由を奪ってしまわないだろうか。

ルールのありかたというのは、難しいものだなと思う。


 

我が宗派、黄檗宗にも「黄檗清規(おうばくしんぎ)」という1672年に編まれた古い規定がある。

かつて数百人いたと言われる本山萬福寺に修行するすべての僧侶に対し、儀式作法や日常規則などを細かく定めたものだ。

そこには宗祖隠元禅師の言葉でこのような内容が書き添えられている。


「規則が多いとそれを守るのも管理するのも大変だ。かといって簡略にしてしまうと余計におろそかになってしまう。
(中略)
そこでこの清規を作るにあたり、私はあえて新しい規則は加えなかった。古来の道場の規則を基に、そこから適当なものを採り上げただけである。どうか我が一門の弟子たちはこの清規をよく守り、黙ってこれを拠り所としてほしい。」


 

管理する側は、集団でトラブルを避けるために規則を増やしてしまいがちだ。そして一つトラブルが起こると、さらにそれを抑制するための規則を上塗りしたり、穴埋めしたりする。

規則を規則で縛り、違反したら罰を与える。とにかく押さえつけるのが何かと手っ取り早く管理できるからかもしれない。

しかし隠元禅師は清規を、押さえつけるものではなく「拠り所」と表現した。

自分の中になまけ心が芽生えた時、寺として僧侶としてあるべき姿に迷いが生じた時はこの清規を頼りなさいという、なんとも親心にあふれた言葉だと私は感じる。


 

さらに禅師はこうも付け加えている。

「もし今後、優れた禅僧が出てきて、その者が黄檗清規を見て『こんなものは無駄だ』と言うならば、これこそ宗門にとってありがたいことだ。」

 

手を使わないよう注意しながらプレーするサッカー選手などいないように、僧侶として当たり前のことは本来、無意識の内に身に付けているべきである。

当たり前のことをわざわざ規則にするのは「息を吸ったら、吐かなくてはいけない」というようなばかばかしい決まりを作るに等しいことだと。



社員として、親として、学生として、人として、
私たちは
自身の心の中にルールを持たなければならないのだ。

もしも自分自身、ルールに縛られていると感じているならば、それは自分の未熟さを示しているのかもしれない。

AD