明歴歴露堂堂

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もじばけじゃないよ?「メイレキレキロドウドウ」
心眼をめいっぱい開き明らかに物事をみよということ。

天気の良い日に外に出て、都会では少なくなった草木を香り、食べるときにはただ食べ、飲むときはただ飲む。世の中にあるものには何の裏もなく、隠し立てもなくただその姿をありのまま現している。そこにある理由もなく、またどうならねばという思惑もない。なのにひとはその物事の裏を知ろうとし、なんとか出し抜き、うがった見方で本来のもの以上をそこに感じようと躍起になる。インターネットで検索をして、誰かの噂に耳をそばだて、雑誌をよみあさる。それらのほうがよっぽど、断片化した欠損のおおい情報だとは気づかずに。

めいれきれきろどうどう
ただそこにあるものをそれ以上でもなくそれ以下でもなく、ありのままを心に映せたとき、やっと自分自身の考えや物事の理が、風流と一緒にやってくるのかもしれない。
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「死」とはなんだ

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人間は死ぬ。ほおっておいてもいつか死ぬし、自分で命を絶つということもできる。また人の命を奪うこともできる。その場合、直接ナイフを突き刺して、返り血を浴びて真っ赤になれば、痛みと恐怖を感じるだろう。スイッチを押すだけの殺人や、気がつかないうちに誰かを貶め死に追いやった場合はその痛みは感じないないかもしれない。人が死んだことに気づきさえしないのかもしれない。 他者が死ぬということと自分が死ぬということは、同じ現象に見えて全く違うことだ。他者の死に対しては、それを受け入れ、乗り越え、納得し、そして悲しみに暮れてあげる時間的な猶予ががある。他者の死のあとでも自分は生きているのだから。しかし、自分の死に対しては猶予がない。死んでみたあとでは、なんの対策も講じられない。その正体すらわからないまま死を待つだけだ。死ぬということは、そこで自分が無くなる、無になるということだ。そういう意味で、死は生の延長上や、ましてや対極に有るものでは無いのかもしれない。生と死が全く別の概念、カテゴリーの中に有るのだとしたら、死の無い(死とは関係のない)生もあるということなのかもしれない。
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論語読みの論語知らず

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知ったような顔をしているが、物事の本質を理解していない、ということを喩えて言った言葉だが、普段我々がこのような状況になってしまっている事は多い。しかし、掛かるに足る程度ものを理解して、行動を起こすことができなければ物事は進んでもいかない。やや、別の話ではあるけれど。物を知らないことを知っているとといった哲学者もいるし、確かで無いことだけが唯一確かなことであるといった、旅行家もいた。物事の核心や本質がどこにあるのか、それを追究することの限界は何処にあるのか。いや、それ以前に物事の本質を知らないことで、どのように自分に不利益や不信がおこるのか。考え出せばきりがない。しかし人は知りたがる。知っていること言うことは自信であり、尺度であり、可能性でもある。多くの人は、それを求めることは善と理解しているだろうし、事実そうであるともおもう。知ることの魅力とはなんなのだろう。
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たとえば、今日のランチは何を食べようか、ラーメンにしようかカレーがいいか。生活の中で人は本当に沢山の選択をしていて、その分岐の先に今日1日の終わりがやってくる。気分良く終われればそれでよし。そうでないときは、「ああ、あのときこうしていれば」と考えることは無くても、何かの因果律が働いていたかも知れない。とはいえ、そんな些細なことで、ましてや後になって後悔を繰り返すのもおかしい。そんなとき、自分の気持ちを少しでも楽にするのは、小さな必然を感じることだ。「あのときはこうするしかなかった」「結果、ああなったからいいじゃないか」と自分を納得させられる何かが有れば、後悔をせず、気持ちよく1日を終わらせることができる。それがたとえ、合理的な理由でなくとも。占いやおみくじの類もそういった物かもしれない。誰かのいった一言や、雑誌の小さな記事に踊らされてみるのもいい。そういったコントロールがうまい人は、いわばこじつけでも、自分の行動に必然性を持たせてしまう。しかし、それこそが説明のつかない「啓示」そのものなのかもしれない。

社会的役割の認識

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社会的役割の認識が、成長のどの段階で行われるかについて、学者たちが議論する中、ある学者が実体験を語った。 学者A「昨年の夏、家族連れで海に行ったのですが、三才になる三女がどうしても、家族のために自分がソフトクリームを買うと言って聞かないのです。」 学者B「なるほどね。しかし、それを『社会的役割の認識』と言っていいものか?」 学者A「いえ、続きがあるのです。案の定、家族全員分のソフトクリームは彼女の小さな手には大きすぎて…。ひとつポロリと落としてしまったんです。すると彼女はじっと私の顔を見てこう言いました。 『ごめん、パパのソフトクリームを落としちゃった』」

精霊信仰

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アミニズム(万物有魂論)的世界観における、万物の根源をなす気、万物に宿る魂が人格化したものを「スピリット(spirit)」と言うが、精霊はこの訳語としても使われている。 古来人類は森羅万象を神秘のものととらえ、身の周りのもの全てに精霊が宿ると信じてきた。これらが宗教や信仰と重なり、独自の物語が作られたりしながら擬人的に扱われ感情移入されていくことになる。 日本人にあってはその傾向は顕著だ。神話の物語や土着の風習と結びつき、平成の時代までこういった考え方が続くということは、欧米の世界からは異様にさえ思えるかもしれない。また、このアミニズム信仰が時に神秘的でロマンに満ちたものに見えることもあり、他のアジア文化とともにもてはやされる事にもなっている。 この多面的で柔軟に思える日本人独特の神や魂のとらえ方は、決して古くさび付いたものではなく、どんなに時間を経ても確実に伝えうけつがれてゆく。人間という器に情報があり、時代と共に洗練されグローバル化されていく中で、なんとも奇妙なもののようにも感じる。

人を殺す理由

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いまの日本は、良きにつけ悪きにつけ、戦争のおかげで存在している。日本だけでなく世界全体がそうだろう。何しろ最後の世界規模戦争なのだから。日本はこの戦争で、民主化を得、本当の意味での西洋文明の流入を体験した。単体での西洋文化は明治以降はいってきていたが、この戦争以降西洋の考え方、西洋式の政治システム、生活様式が全ての日本人に広く影響を与え始めた。敗戦の痛手からの回復とさらなる巻き返しを図るためがんばりに頑張り抜いた日本は世界有数の経済大国になり、飢えや不便を知らない先進国家になった。その多くは日本人自身の素養と資質、努力から生み出されたことは間違いないが、あの戦争が契機で合ったこともまた事実だろう。 しかしだからといって戦争を肯定してはいけない。どのような理由があれ、その後にどのようなビジョンやメリットがあり、その対価としてどれだけの人の幸せが結果として見込まれたとしても、人を殺すことはいけない。いや、厳密にはいけないということではなく、そのことを躊躇したり、まっとうな罪悪感と良心を麻痺させることには畏怖し憎悪の念を抱き続けるべきだ。原爆、ホロコースト、神風特攻隊。どれも異常な行動で、本来通常の思考、精神状態ではおいそれと選択できる行動ではない。しかし、人間はやってしまった。それが戦時だったから?集団のなかでの決定だったから?最終的に突き進んでいった理由はそうだろうが、それでも実際に人を殺すのだと言うこと、自分がこの世から無くなっていくのだと言うことを忘れられたわけではないだろう。その時、人は人個人の選択を迫られているはずだ。それでも自分を肯定し、赦すことができたのだとしたら、やはり異常であったとしかいえない。軽蔑し嫌悪の対象と考えなければならない。 それでは自分は、戦争で死んでいったものを軽蔑して不遜な気持ちを持つことができるのだろうか。いや決して出来ることではない。なぜなら、その恐怖の行動、選択を起こす間際に、最後に自分を赦すために目の前に現れたのは、自分の肉親の顔であり、家族の姿であり、自分が生まれ育った田舎の風景だったからだ。損得勘定ではない、ただ一心に守りたい、壊されたくないと願った全てのものが、人非人となることを躊躇させなかった対価だったからだ。おかげで自分は存在している。何不自由のない文明生活を謳歌している。そして何より現在の平和はこのおかげで与えられているものだ。このことを感謝しない、敬意を払わないことなど、それこそ軽蔑の対象だ。 それでも「ヒトハ ヒトヲ コロシテハイケナイ」。それは人間だけが唯一持つ、他の動物にはない、「本能に刻まれた倫理観」だからだとおもう。本来倫理観とは、ことなる文化、人種、生活スタイルによって、後天的に、人為的に作られるものだ。しかし、人を殺すことの罪悪感や恐怖は、そういった教育なしに人は誰でももっている。かといって、他の動物がそれに嫌悪や罪の意識を感じないのだから、生物本来の本能とも違うのだと思う。人は人を殺す事を、本能的に悪と見なしながら、それに変わる理由をみつけて実行する生き物だ。いやそれだけなら、野生の中の動物も、飢えを凌ぐという理由で他者をおそう。人は、時にさしたる理由がなくても、もしくはその秤かけを誤って判断し、人を殺す理由、赦しを、自分の中に捏造できてしまう。戦争だからは理由にならない。戦争でなくてもそれをする人はいるし、そもそも戦争とは、至極理性的に政治手段として遂行されるべきものなのだから。 そのような、熱にうかされ、盲目的に物事の判断を正しくつけられない人間にはなりたくない。これは、決して、人を殺すことや、自分の命を捨てること自体を否定しているのではなく、その行動全てにおいて、本当に価値があるか、いや価値など無くてもいい、最後に人として自分の中でそれを赦す対価に成り得るのかを考えて行動すべきということだ。そして、その比べるべきものは、世の中にはそれほど多くなく、自分の心の中の、極めて原始的なもの、「愛情」「誇り」「存在」といったものとしか比べることを許す気にはならない。
多くの日本人は積極的に政治や経済、世界情勢などに関する情報を入手する質ではない、所謂一般的なニュースソースしか持たない者が大半だ。そこから流れてくるニュースは、時にアメリカの横暴さやアラブの暴力的な行為や、日本の官庁の不正、汚職、警察の怠慢といった、自分の知らないところで起き、どうやっても抗えない大きな力にによる抑圧や統制、搾取を感じさせるものも多い。是はたんにマスコミからの情報だけを信じてそう信じ込ませられているだけだろうか?北朝鮮は日本人の拉致を認め、核の保有を認めた。社会保険庁の立てたグリーンピアをはじめ、税金や保険料が無駄遣いされているのは善悪を問うのは別にして事実だろう。警察や、社会や経済に影響を与える地位のある人の不正の疑惑、退陣は間違いなく伝えられている。これらが全て自分に関わりのない問題ならどんなに良いだろう。偽善や正論で物事を考えるのは良くない。これらのことが全て改善されるなんてことは決してないだろうし、そういったことが全体のバランスを作っていることもある。所謂必要悪も存在するだろう。私のようなものは何もできないのだろうか?選挙に行く?プラカードを掲げる?不買運動をする?投書をする?そんなことで、北朝鮮や自民党やロスチャイルドや警視庁がどうこうなるとは思えない。旅客機がビルにつっこんで5000人が死んでも、アメリカは変わらなかったのだから。

このブログはFeel the FujiのWEBサイトのコンテンツの一環として始める訳だが、現在連載(といってもかなり自堕落な、無責任ペース)するのは5人。それぞれに適当に書き連ねていくのだが、一応テーマというか中心に据えるものがある。

で、このブログでは、一言で言って「こむずかしいこと」をやろうとおもっている。こむずかしいことは、小がついてはいるが難しい。かといって難しいを解らない、嫌い、ダメと関連づけてはいけない。難しい話をなんとか理解して、なんとなく偉くなってみるのもいいことだ。(実際はそんな適当ないい加減な理由でこむずかしいことを考えてる人はいないと思うが。)


哲学に関することを、さらさらーっと並べ立てて、それでもわかりにくけば、もう少し具体的なたとえ話なんかして。で、もうそんなことしても、なにをしてもわかんねぇ!ってばあいは、ぽかーんとなにかが残る位でまあいいかというスタンスなので適当に読んでくれればいい。今日は哲学の哲の部分はおいといて、学のぶぶん。


学。学問だ。

私は結構こういう「うんちゃら学」にすぐ興味持つ方だ。でも一つのことを深く掘り下げていくと、いつかおもしろくない部分に突き当たって、そのうち飽きてしまう。でもそれでイイと思って、大体は次にいく。わすれたころにまた戻るみたいな。


で、いまのところ特に興味が有る物は。

歴史 物理 語学 数学 論理 民俗学 ナドナド。

苦手なのは、

化学 法学 電気 とか。


やあ、是をみてみると、なんとなく法則性があると感じる。物理や論理などは、ある規則に従って物事をとらえようとするものだし、歴史や民俗学、語学などは、人間くさく感じるが、実は行動学や社会学などの規則性にも関係していて、実は極めて規則学的なところがあるのだとおもう。

かたや化学や電気。これも法則、規則じゃないか!というかもしれないが、なんとなく私のなかでは、「こう!だからこう!」みたいに、無条件に決めつけられているだけで予測不可能な感じがするだ(笑)。目に見えないからそう思ってしまうのでだろう。H2Oとか、みえないじゃん!みたいな。法律や、経済もそう。誰かが誰かの「思惑」や「思想」によって決めた尺度を、ただ単に守ったり、歩かされたりしているだけのような気がしてしまうのだ。


学問とはいくつかのパターンに分けることができる。その技術や知識が、現在もしくは未来に発生する問題の解決に役だっり新しいものを作るのに利用されたりする学問もあれば、過去の出来事や思想、思考、心理などを調査・研究して、理解し、それを別の場面でも役立てようとする学問もある。訓練や勉強という言葉とあいまいな部分もあるが。



実は「哲学」とは、「実際に何かに役だったりすることがない学問」といわれることがある。

物事全体に関わる、原理原則を見いだし、絶対法則を見つけようという学問ではあるが、その議論自体に明確な答えがない以上、利用することもできない。議論することが「哲学」の本質だからだ。見方によっては、結局「人間」が納得したいだけの「幻」なのかもしれない。


しかし、その幻が、まさに哲学でいうところの、「主観」や「自我」をつくっているのだし、そんな人間があつまって、この世界をつくっているのだ。


東照大権現

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徳川家康は、死後神格化され、東照大権現として、東照宮をはじめ多くの神社にまつられた。

この権現という言葉は、仏が仮に神の姿をかりて現れるといういみで、神格の一つだ。権という文字自体が「仮の」を表す意味をもっていて、権大納言、とかも仮の大納言といういみになる。ちなみに、日本語ではこのように一文字で階位や立場を言い表せる語句がたくさん有って、知るとおもしろい。

正月帰省した際、地元の神社に初詣をした。私の地元は某御三家なので意外と文化財がおおい。で、行ってきたのは「東照宮」。日光の東照宮が有名だが、日本全国の大名が競って建立(神社は建立というのか?)し、現在でも約130社残っている。そのなかでもこの「紀州東照宮」は格式も、規模も日光に次ぐものでかなり霊験灼かな空気が漂っている。



和歌浦という、歌にも詠まれた名勝にあり、湾のすぐ正面にすぐ山という独特の地形。段数はそれほどではないが尋常じゃなく急角度な階段を上りきったところに拝殿が建っている。拝殿の背後はすぐ山で、その威厳にさらに拍車をかけているようにおもう。

年に1度ここでお祭りが行われるのだが、これがまたすごい。この急勾配の階段を、御輿を担いで駆け下りるというのだ。階段の左右は斜面だし、石灯籠はたってるし、なにより落ちるような急角度。で、まさにお飾り程度の御輿かとおもいきや、展示ぶつをみるとこれまた尋常じゃないおおきさ。案の定、過去に何人(いや1600年代からある神社なので何百人?)も、事故でなくなっているらしい。しかし、神事の最中に死ねるなんて、あやかりたい。いやいや気の毒な。


ちなみにこの東照宮は、隣に天満宮も並んでたっており、観光の際は見逃さないようにお気をつけ下さい。実際、はじめていったときは東照宮だけみて、後で聞かされ残念な思いをしました。


紀州観光協会(自称)からのお知らせでした。