日本盗賊列伝 | 新労社 おりおりの記

日本盗賊列伝

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盗賊というと、泥棒のことで、むかしから社会での嫌われ者ですが、歴史があるだけに、興味深い盗人も存在します。アニメ「ルパン3世」などが人気のように、何かと気になる存在なのです。

 

藤原保輔

 

平安中期、貴族なのに子分を従えて大泥棒、という人物。「はかまだれ」という名で、強盗はもちろん、だまして殺して全部剝ぐというようなやり方もしたようです。藤原氏の権力争いに翻弄された人だったのでしょうか。最期は密告、裏切り、おとり捜査というような網の目につかまって、死刑を命じられ、切腹のはじまりになりました。

 

酒呑童子

 

11世紀の人物。京都北部に住み、京の財宝や姫君を拉致した伝説の大盗賊。源氏の先祖、源頼光が、金太郎のモデル、坂田金時はじめ四天王を連れて退治した話は有名です。もともと比叡山にいた捨て子で、中央政府の重税に耐えかねた領民を見た童子が、取られたものを都に取り返しに行ったという伝承もあります。

 

鬼同丸

 

これも頼光が暴れ者の鬼同丸に重罰を科し、それを恨みに思って、死んだ牛の皮をかぶって待ち伏せしたが逆に頼光に討たれました。盗賊というより“鬼”酒呑童子の子だという伝承もあります。酒吞童子同様、比叡山近辺を根城にしていました。

 

熊坂長範

 

源義経が牛若丸だったころ、奥州藤原氏のもとに向かう途中、襲った盗賊。野武士ともいい、幼少時に悪事を働いて味を占め、子分を集めて大泥棒になり、義経に返り討ちにされました。“義経伝説”の1つです。弁慶のようにその後許され義経の郎党になったという話もあります。

 

石川五右衛門

 

超人的な運動能力で、秀吉の大阪城の金のしゃちほこを狙ったともいわれる盗賊。権力者だけを狙った義賊でしたが、最期は秀吉暗殺の嫌疑で、子どもや一党とともにかまゆでの刑に処せられました。忍者の弟子だったとか、呂宋助左衛門と知り合いだったとか、いろいろな創作の材料になる伝説の人物です。

 

鳶沢

 

江戸初期の盗賊。後北条氏の家来でしたが、秀吉に滅ぼされて盗賊になりました。家康に許されて古着商になり、泥棒を防ぐ警察の役割、また更生する少年院や探偵のような仕事も行い、東京の日本橋富沢町にその名を残しています。

 

高坂甚内

 

武田家の家臣、高坂家の一族。宮本武蔵の弟子になったこともあり、東海道沿いが根城でした。戦国時代の盗賊、風魔小太郎を密告して手柄を立てましたが、裏社会から足を洗わず、戦国の世が収まるにつれ邪魔になり、家康に捕まって処刑されました。

 

日本左衛門

 

江戸時代中期の盗賊。尾張藩の下級武士の子で、名前のごとく派手好み。東海道沿いの静岡県沿いに犯行を重ねました。当地の大名が責任を問われて転封されるほど逃げ回りましたが、当時としては珍しく「全国指名手配」されて観念して自首し、獄門にされました。

 

裏宿七兵衛

 

本業は青梅の農民。 まれにみる俊足で、遠方の悪徳商人宅などに盗みに出向き、一夜のうちに山梨県、埼玉県、神奈川県内を引き返しては、盗んだ金品を貧者の軒先に恵む義賊。素知らぬ顔で日中は畑仕事をしました。現在彼にまつわるマラソン大会も開かれています。

 

柿木金助

 

江戸中期の名古屋の盗賊。農民でしたが、大凧で名古屋城の金のしゃちほこを盗もうとした伝説の人物。歌舞伎の題材になりました。ただ実際に押し入ったのは土蔵で、大凧でなく船で逃げたとも。ただ当時は人を殺していなくても打ち首獄門という極刑でした。

 

真刀徳次郎

 

18世紀の盗賊。移動時は公儀の御用であるように偽装し、関所等の警戒網を潜り抜けて押込強盗や海賊をしました。当時は警察は地方分権だったため、警視庁にあたる火付盗賊改方の長谷川宣以(鬼平)により捕らえられ、大勢の手下と共に獄門にかけられました。

 

葵小僧

 

徳川家の家紋を掲げて押込強盗を行い、女性コンプレックスから婦女を必ず強姦するという凶悪な手口をもって江戸中を恐れさせ、鬼平により捕らえました。今日のリベンジポルノのようなことを謀ったため、鬼平の専断により裁判もそこそこに、捕縛後10日ほどで獄門にかけられました。

 

鼠小僧

 

19世紀の盗賊、1度捕まって刺青を入れられ、もう1度捕まって獄門に遭いました。武家屋敷にばかり忍び込む手口で、政治批判の民衆には受けたのです。両親には勘当され、妻妾は離縁し、生活は清貧だったのですが、飲む打つ買うに浪費したという説もあります。

 

谷豊

 

盗賊兼日本陸軍諜報員。日露戦争後の不況で両親とともにマレーシアに渡りました。しかし教育は日本で受け、華僑の暴動で妹を殺され、マレー半島で盗賊になりました。マレー語とタイ語を操り、イスラム教徒でもありました。そのネットワークに目を付けた日本陸軍が彼を口説いて、マレー半島で英軍の妨害工作を行いました。シンガポール攻略まで大いに貢献しましたが、その後熱病で、日本軍の占領中に若くして亡くなりました。

 

どうも歴史に残る盗賊というのは、ただの泥棒ではないんですね。以下のような特徴があります。

 

・反権力、親民衆カラーで伝説を作る

・民衆にとって人気ある英雄(頼光、義経、秀吉、鬼平)の引き立て役

・悲劇的な最期

 

自分の欲得のための盗みなら、ただのコソ泥ですが、反面“盗賊らしくなく”多くの人のことを考え恩恵を施した、クサい話が一般大衆は好きなのです。そんな心理を、歴史上の盗賊たちは代弁していますね。