地震から1週間が経ちました。
ようやく、落ち着いてきた気がします。くらくら揺れているような感じもしますが、それは徐々になくなるだろうし、こうやって文字にすることもできるようになりました。
最大震度のとき、神奈川の自宅にひとりでした。パソコンで作業していて、足元では犬が寝ていました。
ぐらっと揺れ、あれ?地震と思った瞬間から、どんどん揺れが強くなっていきました。目の前のラックからCDが飛び出してきたとき、これはやばいと思った。あわてて犬をエサでおびきよせ、一緒に机の下に隠れたところで、台所でパリンと皿の割れる音がした。それを聞いて、これはそうとう大きい地震だぞ、と思いました。
それから揺れがおさまってテレビをつけても、つかない。ネットでヤフーにつなげようとしてもつながらない。今の揺れがなんなのか、どれくらい大きいのか、どこが震源地なのか分からない。頭に浮かんだのはニュージーランドの地震で、「みんなもあのニュースを見ているから、けっこうビビってるだろう」なんて変に客観的にもなりながら、あわてて外に出る準備をしました。
手荷物は、犬の餌と犬の散歩グッズと通帳と財布。とにかくそれだけを持って外にでました。
わたしのようにあわてて外に出てきたおばちゃんがいて「怖かったわねぇ」と話したとき、ちょっとホッとしました。人と話すことで、まずひとつ情報が得れたから。それはみんなも怖くなるくらいの地震だったってこと。
そしていつもの散歩道を歩いていたら、ラジオを聴いているおじちゃんが立ち止ってくれました。「どこで起きた地震ですか」「東北らしいよ。フジテレビも燃えてるらしい」「えー!!」。
フジテレビが燃えているというのはビビったけど、とにかくもうひとつ情報が入った。東北が震源地らしい。ということは東京にいる家族は大丈夫なのだろうか?
それからメールで何度もエラーになりながら、何十回目に連絡がつき、みな大丈夫だったのだけど、あのときの感覚が忘れられません。
情報がないときの、おそろしさ。頭が真っ白になるような恐怖。
なんにもわかんないんです。今じぶんがどういう状況に置かれているのか、じぶんが将来どうなるかもしれないのか、周りの人がどうなのか。
もちろんラジオなどの防災グッズを持っていないわたしが悪いのだけど、あの状況を思い出すとぞっとする。
情報というのはいかに大切か、と思うのです。冷静に対処しようとしても、情報がなければできません。情報がない状態で冷静にしているのは、じぶんの感覚を殺して鈍感でいるだけであり、無感覚でいようと努力をすることのように思えます。
その情報が、正しいか正しくないかは二の次です。
わたしにとっての必要な情報とは、じぶんが判断できる、じぶんが選択できるための資料なんです。
地震から1週間が経ち、情報を得れば得るほど、報が正しいか正しくないかは、誰にもわからない、と感じています。いや、分からないというのは正しくないですね。情報の正しさは人によって違う、ということが情報を貯めれば貯めるほど分かってきました。
経済活性化に貢献しよう、と叫ばれる一方で、節電に努力しよう、と諭され、できることを行動しよう、と言いながらも、なるべく外食して、と促される。情報がものすごい勢いで回っていて、プラスもマイナスも、ネガティブもポジティブもごったがえし。生の情報があふれかえっています。
あぁ、そうだ…。
今までも世の中はこんなに不確定な情報ばかりがあふれていたのか。
単にわたしにとっての正しいを選んできただけなんだ。
考えてみれば、物事にプラスとマイナスはあるわけで、立場や考え方でそれはどちらにも転ぶわけで、それを選択してわたしたちは生きてきているわけで。当たり前のことなんです。
そのことが今回の震災で、じぶんのなかで浮き彫りになった、と感じています。そして、今、ここで、わたしがどの情報を選ぶか、それはどんな生き方をするか、迫られています。
まだうまくいえないですが、じぶんがどう生きたいか。それを考えています。