・`ω・) フランシスコ・ザビエルの生涯(4/26) ~そうだ、インド行こう~ | ・`ω・) 役に立たない!カトリックまめ知識 & 雑学のblog

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カトリック信徒以外の方々が、カトリックに対する素朴な疑問を解消することを目的として雑学やマメ知識を公開しています。たまにカトリックに無関係なことも書きます。

~そうだ、インド行こう~

前回の更新では、
フランシスコたちにより新たな修道会が結成され、
「イエズス会」として教皇から正式に修道会として
認可されたところまでお話しました。

そんな折、教皇の元にポルトガルの国王より、
インドへ派遣している宣教師を増員したい旨の申請が届きます。

当時のインドはポルトガル領でしたから、
ポルトガルとインドの間には太いパイプがあり、
既に宣教師が多数、根を張っていましたが、
ポルトガル国王はさらなる強化を図ったということでしょう。

それを承認した教皇は、
イエズス会の代表者であったイグナチオに打診し、
命を受けたイグナチオはフランシスコにその役を託します。
喜んでそれを受け入れたフランシスコ、
なんと翌日にはポルトガルの首都リスボンへ出発しました。
フランシスコ、動きが素早いです。
即断即決が求められるのは、
近代のビジネスも、当時の宣教も共通のことのようです。

余談ですがフランシスコは、
18歳でバスクからパリに移住したことから始まり、
移動に移動を繰り返してきました。
当事の移動手段と言えば、徒歩か馬。
道中には追い剥ぎで生活する輩が
多数いたに違いありません。
よって、フランシスコが道中で
追い剥ぎに出くわしたことは、
一度や二度ではないと推測できますが、
多くの移動を繰り返しながらも、
毎回、目的地に到着できたことは、
個人的には不思議でなりません。
考えたくはありませんが、移動中にフランシスコが、
賊を返り討ちにしていたと考えるほうが自然です。

また、裏を返せば、道中で命を落とし、
歴史に名を残すことなく散っていった、
第二第三のフランシスコが居たに違いありません。

さて、話を元に戻しまして、
かくしてローマからリスボンまで、
馬で3ヶ月かけて到着したフランシスコ。
その時33歳になっていました。
ちなみに、道中では彼の故郷である
バスクの間近を経由しているようですが、
彼がバスクに立ち寄った形跡はありません。
実家付近を素通りしたようなのです。
フランシスコ、意外と淡白です。
故郷に未練がなかったのか、それとも、
故郷を避けたい理由があったのでしょうか。

そんなこんなで到着したリスボンは、当事の港町。
諸外国の貿易商人たちで賑わい、
それまで彼が見てきたバスク・パリ・ローマでは
見聞きできなかった、様々な知識を、
フランシスコは吸収したようです。

フランシスコはリスボンで、
船の定期便を待つ事にしました。
ちなみに当事は、定期便と言えど、
エンジンなどない世の中で、
予定通りに運航できなくてあたりまえの時代でした。
フランシスコはリスボンで、1年弱もの期間、
出航の時期を待つことになりました。

その期間は、人々に教理を教える傍ら、
病人たちの世話等をしていたそうな。
医療の発達していなかった当時、
病人の世話も神父の役割だったのですね。

そしてついに、出航の時がやってきました。
出航したのは、1541年4月7日。
折しもその日は、彼の35歳の誕生日でした。


~つづく~