・`ω・) 現代人は奇跡とどう向き合うべきか | ・`ω・) 役に立たない!カトリックまめ知識 & 雑学のblog

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カトリック信徒以外の方々が、カトリックに対する素朴な疑問を解消することを目的として雑学やマメ知識を公開しています。たまにカトリックに無関係なことも書きます。

「奇跡」とは辞書によると、
「常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象」
のことなんだそうですが、聖書とりわけ福音書には、
多くの奇跡が登場します。

あっ、どうも僕です。フランシスコです。

福音書に登場する奇跡とは、、

・イエズスの母マリアは、
 男性を知らずしてイエズスを身ごもったとか、
 (ルカ1・34)
 
・イエズスが水をぶどう酒に変えたとか、
 (ヨハネ2・1~12)

・2匹の魚と5つのパンで、
 約5000人が満腹になったとか、
 (マタイ14・13~21)

・イエズスが水面を歩いたとか、
 (マタイ14・25~33)

・イエズスが嵐を鎮めたとか、
 (ルカ8・22~25)

・死刑執行された三日後に復活しただとか。
 (ヨハネ20・1~30)

など。

さてそんな、常識で考えたら起こる筈のない、
不思議な出来事の数々。
聞いていきなり「はい、そうですか」と
納得するヤツは、現代にはあまりいないわけで、
宗教の有無を問わず多くの人が、その「史実」に首を傾げます。

でも、その奇跡に対してどう向き合うかと言うと、大抵の人は、

(1) 聖書を書いたヤツが、幻覚を見た等、
   なんらかの勘違い等をしていたと理解するか、

(2) 聖書を書いたヤツは、最初から
   嘘を書くつもりだったと理解するか、

(3) はたまた、史実としてそのまま納得すべきなのか、

の3つのうち、どれか一つしかないと言わんばかりに、
首を傾げ続けるわけです。

では、奇跡に対してどう向き合うべきか。
私見なりに説明します。

まず結論から申し上げますと、わかりません。
こればっかりは仕方ないです。
なんてったって、昔のことですから、

約2000年前のイスラエルでの出来事について、
いまさら確認や証明の手立てもなければ、
否定の手立てもあるわけがないので、
永遠の謎としか言い様がないのです。
タイムマシンでも開発されれば話は別ですが。

でも、わからないで終わってしまっては、つまらない。
よって、上記3点のどれでもなく、4つ目の選択肢として、

(4) 現代の常識では受け入れがたいものの、
   当時の人々はそれを事実として受け止めた。

と理解してみてはどうでしょう?
つまり当時の人々にとってイエズスは
それほど特別な存在であったと読み取れるわけです。

そうすると、当時のユダヤ人たちの民族性や、
イエズスに対する期待の高さが見えてきて、
奇跡以外の記録についても、自然と理解が深まります。

確かに、数々の奇跡はどれも、非現実的なものばかり。
でもそれを「絶対ウソだ!」と言って、
耳をふさぐかのように、学ぶ姿勢を失ってしまったら、
知識の吸収はそこで停止してしまいます。

奇跡について現代の我々がどう向き合うべきかと言うと、
それが本当なのか嘘なのかを知ろうとするよりも、
奇跡を奇跡として記録した人々が、
どんな心境でそれを書いたかを
理解しようとすることなのです。

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