・`ω・) 役に立たない!カトリックまめ知識&雑学のblog

日本では少数派なカトリックの家庭に生まれ育ったワタシが、雑学やマメ知識等を綴るblogです。ご覧いただいた方の、知識の足しになれれば幸いです。

NEW !
テーマ:
~フランシスコの宗教観~

さて、ここで一旦話は横道に逸れますが、
宣教に生涯を捧げたフランシスコの
生き様を知るにあたって、
理解しておくべき点が3点あります。

これらは、フランシスコ・ザビエルに限らず、
当時のカトリックの宣教師のほぼ全員に
共通したことですが、まず当時は、
エキュメニズム(宗派の共存)と言う概念がなく、
宗派は対立することが前提でした。
折しも当時は、プロテスタント諸派が
勢力を拡大しつつあった時代。そのタイミングで、
キリスト教と未接触の地域や民族があることを知った
当時の宣教師たちには、「先にツバをつけておかねば」
と言う意識が芽生えたようです。
当時の宣教とは、裏を返せば、
早い者勝ちの縄張り争いのようなものでした。

次に理解しておくべきことは、
フランシスコ及び当時の宣教師たちは、
カトリック以外の宗教に一切の価値を見出しておらず、
他宗教を信仰する人々は、未開で幼稚で、
野蛮な人々と捉えていたことです。
現在でそう思う人がいたら、了見の狭いヤツですが、
それが「常識」だった当時の宣教たちの心境を平たく言うと、
「我々が正しい宗教を示してあげるから、
 愚民の君たちはさっさと改宗したまえ。」
と言ったものであったようです。

最後に理解すべきことは、
フランシスコ自身に改宗の経験がなく、
改宗する人々の心境を、なかなか
理解することができなかったことです。
改宗を勧められる立場からしたら、
それまでの宗教を
放棄しろと言われているのと同じこと。
余計なお世話もいいところ。
「はい、そうですか」
と納得する人の方が少ないに決まってます。
昔の人であるフランシスコたちは、
この点、理解が浅かったようです。

さて、次回からは本題の、
フランシスコザビエルの生涯に戻ります。
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テーマ:
~はじめてのインド~

さて、ポルトガルからインドのゴアまで、
1年強かけて到着したフランシスコ。

当時のゴアはポルトガル領で、
カトリック教会が既に根を張っており、
現地には病院や学校も、司教座聖堂さえも揃っていました。
また、ポルトガルから移住する人々で街は賑わい、
ポルトガル語やラテン語も通用したようです。

フランシスコは、現地語であるタミール語を
この時に学び始めたと推測できますが、
賢いフランシスコにとって、新たに言語を一つ習得することは、
そう難しくなかった筈です。
タミール語を学ぶためのマニュアルもある程度
整っていた事でしょうから。

フランシスコにとって、初めて訪れたアジアでありながら、
生活基盤が整っていたゴア。
後に宣教師としてアジア各国を股に掛けるフランシスコが
第一歩目を踏み出す環境としては、申し分ないものだった筈です。

さて、そんなフランシスコは、
いままでと同じように、病院で人々の看病をしたり、
人々に教理を教えたりしながら、半年ほど暮らしました。

ゴアに滞在したこの期間は、
後に宣教師としての本領を発揮するための、
準備期間になったに違いありません。
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テーマ:
~船上のフランシスコ~

さて、ポルトガルからインドまで、
船で一年以上かけて移動したフランシスコ。

船の乗り組み員は、
600~700名ほどで、5隻の編隊。
他の船も乗組員数は500名前後。
かなり大規模な集団ですね。

一言で言えば、それだけのことですが、
この船旅、深く考えれば考えるほど、
私は当事の乗組員たちの精神力の強さを
疑わずにはいられません。

まず、エンジンなど勿論ない時代でしたから、
動力源は帆で受ける風のみ、強いていればオールです。
風のない日はほとんど動けません。
長旅のうえ、予定通り進めなくて当たり前。

さらに海賊に襲われるリスクもありましたから、
無事に到着できる可能性は現代に比べて、
かなり低いものであった筈です。

次に、当時は通信技術もありませんでしたから、
船の上はある意味、密室状態。
長い船旅の間に見えるものは、ひたすら空と水平線。
代わり映えするのものと言えば、夜空の星くらい。
しかも、トラブルがあっても、
外部に助けを呼ぶことすらできません。
たとえ転覆しても、人知れず死んでいくのみ。

当事の船旅とは、ストレスもリスクも
現代とは桁違いだった筈です。

ちなみに、このとき初めて船旅を経験したフランシスコは、
船酔いに悩まされました。
ところがここは、鋼鉄のド根性の持ち主であるフランシスコ。
自らが体調を壊しながらも、乗組員たちに教理を教えたり、
他の病人の手当てを行ったりしながら、船上で過ごしたそうな。

そして、アフリカ大陸で2回の乗り換えを経て、
1年強かけて、インドのゴアに到着したのでした。
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テーマ:
~そうだ、インド行こう~

前回の更新では、
フランシスコたちにより新たな修道会が結成され、
「イエズス会」として教皇から正式に修道会として
認可されたところまでお話しました。

そんな折、教皇の元にポルトガルの国王より、
インドへ派遣している宣教師を増員したい旨の申請が届きます。

当時のインドはポルトガル領でしたから、
ポルトガルとインドの間には太いパイプがあり、
既に宣教師が多数、根を張っていましたが、
ポルトガル国王はさらなる強化を図ったということでしょう。

それを承認した教皇は、
イエズス会の代表者であったイグナチオに打診し、
命を受けたイグナチオはフランシスコにその役を託します。
喜んでそれを受け入れたフランシスコ、
なんと翌日にはポルトガルの首都リスボンへ出発しました。
フランシスコ、動きが素早いです。
即断即決が求められるのは、
近代のビジネスも、当時の宣教も共通のことのようです。

余談ですがフランシスコは、
18歳でバスクからパリに移住したことから始まり、
移動に移動を繰り返してきました。
当事の移動手段と言えば、徒歩か馬。
道中には追い剥ぎで生活する輩が
多数いたに違いありません。
よって、フランシスコが道中で
追い剥ぎに出くわしたことは、
一度や二度ではないと推測できますが、
多くの移動を繰り返しながらも、
毎回、目的地に到着できたことは、
個人的には不思議でなりません。
考えたくはありませんが、移動中にフランシスコが、
賊を返り討ちにしていたと考えるほうが自然です。

また、裏を返せば、道中で命を落とし、
歴史に名を残すことなく散っていった、
第二第三のフランシスコが居たに違いありません。

さて、話を元に戻しまして、
かくしてローマからリスボンまで、
馬で3ヶ月かけて到着したフランシスコ。
その時33歳になっていました。
ちなみに、道中では彼の故郷である
バスクの間近を経由しているようですが、
彼がバスクに立ち寄った形跡はありません。
実家付近を素通りしたようなのです。
フランシスコ、意外と淡白です。
故郷に未練がなかったのか、それとも、
故郷を避けたい理由があったのでしょうか。

そんなこんなで到着したリスボンは、当事の港町。
諸外国の貿易商人たちで賑わい、
それまで彼が見てきたバスク・パリ・ローマでは
見聞きできなかった、様々な知識を、
フランシスコは吸収したようです。

フランシスコはリスボンで、
船の定期便を待つ事にしました。
ちなみに当事は、定期便と言えど、
エンジンなどない世の中で、
予定通りに運航できなくてあたりまえの時代でした。
フランシスコはリスボンで、1年弱もの期間、
出航の時期を待つことになりました。

その期間は、人々に教理を教える傍ら、
病人たちの世話等をしていたそうな。
医療の発達していなかった当時、
病人の世話も神父の役割だったのですね。

そしてついに、出航の時がやってきました。
出航したのは、1541年4月7日。
折しもその日は、彼の35歳の誕生日でした。


つづく。
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テーマ:
~青年期~

前回の更新では、フランシスコが
留学先のパリで級友となったイグナチオの
呼びかけによって集まった数人で、
イエズス会の前身が結成されたところまで
お話ししました。

さて、後の世に大手修道会「イエズス会」となる彼らですが、
初期メンバーは、フランシスコやイグナチオを含む7人。

この時フランシスコは大学の哲学過程を修了し、
教鞭をとる立場になっていました。
また、他のメンバーたちも、それぞれ
パリで教育や医療活動、慈善事業活動等をしていました。

当時の社会では教会と病院がイコールの関係でしたから、
病人の手当は教会や修道会の役割だったのですね。

ちなみに、現在では世界宣教の代名詞と言っても
過言でもないイエズス会ですが、
結成当初のイエズス会が目標としたのは、
イエズスの暮らした街であるエルサレムで活動し、
自分たちの生涯をイエズスに捧げることでした。

ところが、当時彼らが謁見した
教皇の助言で、歴史は大きく変わります。
その助言とは、
「あなたがたは何故、エルサレムにこだわるのか。
 イエズスと共に働きたいなら、
 いずれの地も、そこがエルサレムとなる。」
というもの。

こうして教皇により、
彼らは叙階(神父デビュー)とともに修道会として認められ、
「イエズス会」が正式に結成されました。
フランシスコたちは、教皇の意向に従い、
世界各地で宣教のために奉仕する決意を表明しました。
ちなみに、この出来事を「モンマルトルの誓い」と呼びます。
1534年年8月15日、聖母被昇天の祝日にして、
32歳での出来事でした。

ちなみにこの時代は、宗教改革により
プロテスタント諸派が勢力を強め始めた時代。
時を同じくして、アジアや南米など、
ヨーロッパ人にとっての「新大陸」が次々と「発見」されてきた時代。

教皇からの世界宣教の意向とは、裏を返せば、
(言葉は悪いですが)プロテスタント対策です。
宗派対立が本格化しはじめたのと同時に
接触したことのない民族や地域の存在を知り、
「他所よりも先に、自分たちがツバをつけねば」と言う
競争意識が各宗派に芽生えた時代です。

いまでこそ、宗派の共存が一般化し、
宗派対立は死語になりつつありますが、
当時は「プロテスタント=排除すべき異端」との
思想が「常識」だった世の中だったのですね。
現在の価値観で「プロテスタント対策」と聞くと、
物騒で了見の狭い奴に聞こえますが、
そうではないので、この点ご理解ください。

つづく。
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テーマ:
~大学時代~

さて前回の記事では、
フランシスコがナバラ王国(現在のスペインの一部)で生まれ育ち、
パリに留学することが決まったところまでをお話ししました。

ちなみに当時、陸上の移動手段と言えば、
徒歩か馬しかありませんでしたから、
留学と言う言葉の持つニュアンスは、
飛行機や自動車が普及している現代のものとは大きく異なります。
当事に留学を決心することは、一生故郷に帰らないのが前提。
また、道中何が起こるか判りませんので、
目的地に到着するとは限らない、命がけのものでした。
よってパリへの留学の決意は、故郷との別れを意味しました。
実際にフランシスコは後の生涯で、
故郷に足を踏み入れることはありませんでした。

貴族階級の生まれで、故郷での裕福な生活が
約束されていたにも関わらず、家族に別れを告げ、
学問の都であったパリを目指したフランシスコ。
相当な勇気の要る決断だった筈ですが、
親しみを込めてあえて言うなら、変わった奴です。

兎にも角にも、パリで大学生になったフランシスコ。
通信技術など勿論なかった当時、
流通する情報はごく限られていましたから、
それまでのフランシスコにとっての「世界」とは、
せいぜいヨーロッパのみでした。

ところが、学問の最高峰であった当時のパリは、
さまざまな地域の情報が入ってくる都市。

フランシスコはこのとき初めて、
ヨーロッパの外には見知らぬ世界が広がっており、
アフリカ・南米・インド等、フランシスコにとって
未知の地域や民族が存在することを、理解したようです。

後に世界に向けて宣教の旅に出ることになった
フランシスコ。使命感のスイッチが入ったのは、
この時期だったのかも知れません。

そんなフランシスコは、大学入学直後に
なんと悪い仲間と関わってしまいます。
授業をサボったり、夜中に寮を抜け出したりして
遊びにいくこともあったんだとか。
ちょっと意外ですね。

もちろん、このままではいけないと感じ、
彼らとの付き合いを辞めたかったフランシスコ。
若かった彼にとって級友との付き合いを断ち切ることは、
勇気の要る決断だったとは思いますが、
そこは、鋼鉄のド根性の持ち主であるフランシスコ。
当時の悪い仲間たちと絶縁しました。
ちなみに、絶縁した元友人のうち一人は、
その後間もなく、病死しています。

そんなこんなで、新しく級友となったのは、
イニゴ・デ・ロヨラ。後のイグナチオ。
この出会いがフランシスコの一生を
大きく動かすことになります。

イニゴは当時38歳でありながら新入生。
軍隊を除隊してから学生となった、今で言う社会人学生。
フランシスコの兄たちの所属していたナバラ軍と
戦ったこともあったためか、
フランシスコとイニゴの間に当初は確執があったそうな。

ところが間もなく二人は意気投合し、数人の仲間たちと共に、
「自分たちの生涯をイエズスに捧げよう」と決心します。
この仲間たちこそが、現在では
世界最大規模の男子修道会として名高い、
「イエズス会」の前身です。

ちなみにこの時期にフランシスコは、
母と姉が亡くなった知らせを受けています。
彼の学生生活は、悲しみに打ちひしがれながらの
ものであったに違いありません。

つづく。
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テーマ:
~生い立ち~

前回
に告知したように、今回から複数回にわたって、
フランシスコ・ザビエルについて解説します。

さて、フランシスコの生涯については、
彼の人生、山場がないとでも言いますか、
裏を返せば、全ての時期が山場。
生まれてから、46歳で亡くなるまでの間、
非常に濃厚な人生を送った人物であります。

そんなフランシスコの生き様を表すキーワードは、
強運・勇気・根性・頑固、の4つであります。
彼の思いを実現するための様々な環境に恵まれた、
ものすごい強運の持ち主であることに加えて、
鋼鉄のド根性の持ち主であり、
桁違いの頑固さと、勇気の要る決断で、
歴史を動かした人物であると言えます。

さて、そんなフランシスコ・ザビエルは、
1506年、ナバラ王国の行政執務にあたる父と、
貴族の家系の母のあいだに、
5人兄弟の末っ子として生まれました。
実家は貴族階級のお金持ちです。

ちなみにフランシスコの父は、
フランシスコが誕生した時点で60代で、
彼の幼少期に亡くなっています。

フランシスコの出身地は、「バスク地方」。
現在ではスペインの一部ですが、
元来スペインとは区別される地域です。
しかしながら、フランシスコの出生後間も無く、
バスク地方は、スペイン軍によって占領されてしまいます。
フランシスコが幼少期と青春時代をを過ごした時代は、
戦乱の世の中だったのですね。

そんな戦乱の世で育ちながらもフランシスコは、
母国語であるバスク語のほか、
スペイン語・ラテン語・フランス語等を
解すほどの教養を身につけました。
戦乱にめげず勉強しつづけたフランシスコ。
この時にすでに、持ち前の根性を発揮しております。

そして19歳になったフランシスコは、
当時、学問の街として最高峰であった、
パリに留学することになりました。

つづく。
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テーマ:
このblogを開設して、約3年半が経過しました。

このblogは、カトリックについての
素朴な疑問を解消したくて検索した方々を
主なターゲットとしております。

あっ、どうも僕です。フランシスコです。

さて、blogの書き手として楽しいのは、
みなさんがどんな言葉で検索して、
僕のblogを見つけたかを知ることができることです。

ご降誕(英名:クリスマス)や、バレンタイン
はたまた、復活節(英名:イースター)等の季節には、
それにちなんだ語句で検索される方が多くいらっしゃいます。
季節を問わず多く見られる検索ワードもございます。

さて、そんな季節を問わない検索ワードの中で、
頻繁に検索されていて、常に上位にある言葉は、
「フランシスコ・ザビエル」。

過去にフランシスコ・ザビエルについて
軽く触れたことがあったので、
その記事を参照してくださっているようです。
(該当記事はこちら)

当blogの開設当初は、フランシスコ・ザビエルに
これほどの需要があるとは思っておりませんでした。

ところが、それはそれで、嬉しい誤算。

実は僕、暇さえあれば
フランシスコ・ザビエルで検索したり、
書籍を探してしてしまうほどの、
フランシスコ・ザビエル・ファン。

そこで改めて、
フランシスコ・ザビエルの生涯を調べて要約し、
次回から複数回に分けて、
記事にしてみようと思います。

m9っ ・`ω・) Stay tuned...
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テーマ:
「奇跡」とは辞書によると、
「常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象」
のことなんだそうですが、聖書とりわけ福音書には、
多くの奇跡が登場します。

あっ、どうも僕です。フランシスコです。

福音書に登場する奇跡とは、、

・イエズスの母マリアは、
 男性を知らずしてイエズスを身ごもったとか、
 (ルカ1・34)
 
・イエズスが水をぶどう酒に変えたとか、
 (ヨハネ2・1~12)

・2匹の魚と5つのパンで、
 約5000人が満腹になったとか、
 (マタイ14・13~21)

・イエズスが水面を歩いたとか、
 (マタイ14・25~33)

・イエズスが嵐を鎮めたとか、
 (ルカ8・22~25)

・死刑執行された三日後に復活しただとか。
 (ヨハネ20・1~30)

など。

さてそんな、常識で考えたら起こる筈のない、
不思議な出来事の数々。
聞いていきなり「はい、そうですか」と
納得するヤツは、現代にはあまりいないわけで、
宗教の有無を問わず多くの人が、その「史実」に首を傾げます。

でも、その奇跡に対してどう向き合うかと言うと、大抵の人は、

(1) 聖書を書いたヤツが、幻覚を見た等、
   なんらかの勘違い等をしていたと理解するか、

(2) 聖書を書いたヤツは、最初から
   嘘を書くつもりだったと理解するか、

(3) はたまた、史実としてそのまま納得すべきなのか、

の3つのうち、どれか一つしかないと言わんばかりに、
首を傾げ続けるわけです。

では、奇跡に対してどう向き合うべきか。
私見なりに説明します。

まず結論から申し上げますと、わかりません。
こればっかりは仕方ないです。
なんてったって、昔のことですから、

約2000年前のイスラエルでの出来事について、
いまさら確認や証明の手立てもなければ、
否定の手立てもあるわけがないので、
永遠の謎としか言い様がないのです。
タイムマシンでも開発されれば話は別ですが。

でも、わからないで終わってしまっては、つまらない。
よって、上記3点のどれでもなく、4つ目の選択肢として、

(4) 現代の常識では受け入れがたいものの、
   当時の人々はそれを事実として受け止めた。

と理解してみてはどうでしょう?
つまり当時の人々にとってイエズスは
それほど特別な存在であったと読み取れるわけです。

そうすると、当時のユダヤ人たちの民族性や、
イエズスに対する期待の高さが見えてきて、
奇跡以外の記録についても、自然と理解が深まります。

確かに、数々の奇跡はどれも、非現実的なものばかり。
でもそれを「絶対ウソだ!」と言って、
耳をふさぐかのように、学ぶ姿勢を失ってしまったら、
知識の吸収はそこで停止してしまいます。

奇跡について現代の我々がどう向き合うべきかと言うと、
それが本当なのか嘘なのかを知ろうとするよりも、
奇跡を奇跡として記録した人々が、
どんな心境でそれを書いたかを
理解しようとすることなのです。

・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

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テーマ:
僕は、教会以外の人間関係において、
必要以上に自分の宗教を言わないことにしています。
もちろん、聞かれた場合や会話の自然な流れで
言うことになった場合には言いますし、
隠すこともしませんが。

それは、聞かれてもいないのに、
いきなり自分の宗教を言うことは、
日本人の文化としてあまり一般的ではないと思うことと、
相手に、特に無宗教の人に対して「私に警戒しなさい」
と言っているに等しい行為と思うからです。

なぜなら、無宗教の人にとっての宗教とは、
良し悪しを区別することが難しく、
古今東西全ての宗教をひっくるめて、

・世界史で起こった数々の戦争の原因となったもの。
 (歴史上一番多く人を殺したのはカトリックですから…)

・パーティーやセミナー等と称して、
 洗脳を企んでくるかも知れないもの。

・高額な商品を不当に売りつけてきたり、
 多額の金銭を要求してきたりするかも知れないもの。

・自分たちの思想に賛同するよう、
 強要してくるかも知れないもの。

・飲食や嗜好品の制限を強要してくるかも知れないもの。

・その他、意味不明なルールの強要や、
 予想のつかない何かを企んでいるかも知れないもの。

など、不安になる要素も多く持つ文化。
それが、無宗教の人から客観的に見た宗教の姿です。

よって、冒頭で申し上げたように、
聞かれてもいないのに自分の宗教を言う行為は、
人を遠ざけようとしているようなもの。

この行為、先だって申し上げた
「宗教下手」な方々に散見される行為なので、
もし心当たりのあるかたは、ご注意あれ。

・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

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