• 07 Aug
    • 幕末編  青松葉事件

      佐幕派が幼君義宜(よしのり=16代藩主。当時10歳)を奪って江戸に下り、 旧幕軍に合流して京都に上ろうと企んでいる。 直ちに名古屋に帰城し、不心得者どもを鎮圧して欲しい。 慶応4年1月(1868年)、当時新政府議定(ぎじょう)として京都にいた元尾張藩主徳川慶勝(とくがわ・よしかつ)の元に、名古屋から密使が到着。驚愕の事実を伝えました。 驚いた慶勝は直ちに在京の家臣たちを収集し、話し合いをします。そして1月12日、岩倉具視(いわくら・ともみ。新政府参与。倒幕派公卿の中心人物)にこの事実を説明しました。1月15日、慶勝は京都を出立。1月20日名古屋に着くや直ちに御前会議を開き、同日夕刻重臣3名を 「朝命によって死を賜うものなり」 (朝廷の命令によって死を与える) と何の理由も説明せずに斬首しました。 1月20日処刑された3重臣  渡辺新左衛門在綱     御年寄列 2500石  榊原堪解由正帰      大御番頭 1500石  石川内蔵允照英      大御番頭格 1500石 また、翌日より25日にかけて次の11名を斬首。 冢田愨四郎有志   安井長十郎秀親   寺尾竹四郎基之   馬場市右衛門信広   武野新左衛門信邦   成瀬加兵衛正順   横井孫右衛門時足   沢井小左衛門貞増 横井右近時保   松原新七直富     林紋三郎信政 その理由はいずれも 「年来姦曲の処置があったので(以前より悪い行いがあったので)」、「年来志不正により(悪いたくらみがあったので)」 「朝命により死を賜う」というもので、先の3重臣同様、どのような「姦曲の処置」「志不正」があったのか、具体的なことがわかりません。 残された家族も家名断絶の憂き目に会い、自害した者までいます。 彼ら以外にも20名が隠居、謹慎などの処罰を受けました。 この尾張藩最大の粛正事件を青松葉事件といいます。 こうして慶勝は多くの血を流して藩内を勤皇に統一、東海の諸藩も雪崩をうって勤皇へと傾くのですが、この事件には大きな謎があります。 事件の真相は? それは次回!

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  • 06 Aug
    • 幕末編 王政復古の大号令

      実はまだ続いております。幕末編。 久々の更新なんで私も忘れてしまいそう。 ちょっと整理してみます。 徳川慶勝(とくがわ・よしかつ) 幕末時の尾張徳川家のリーダー。勅許無しの通商条約締結に抗議したため安政の大獄で藩主の座を追われますが、桜田門外の変後政界に復帰。第一次長州征伐では総督をつとめ、西郷隆盛を参謀に任命。国内相争うの愚を避け、武力衝突を避け、温和な処分で済ませます。 彼は始終福井藩の松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)と政治行動を共にしました。 高須四兄弟 尾張支藩高須松平家には尾張藩主となった慶勝をはじめ、幕末の政局で活躍した(あるいは時流に翻弄された)四人の兄弟が生まれました。 ←クリックすると拡大してご覧になれます 四兄弟の中、慶勝だけは幕府よりの立場をとらず、他の三人とは異なる道を歩んでゆきます。 王政復古の大号令 慶応3年10月14日(1867年)、15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は政権を朝廷に返上(大政奉還)。ここに頼朝以来700年続いた武家政治が終わりました。 もっとも慶喜の狙いは武力倒幕派の矛先をかわすことと、倒幕側の政権担当能力の低さを見越して、引き続き己が政務を取ることができると踏んだからです。つまり政権を返上し、一旦は諸侯(大名)と同じ立場になり、その諸侯代表として改めて政権を担う意思があったらしいのです。 事実、政権を支える官僚やシステムは幕府のそれが最も発達していました。明治維新後も新政府は幕府の「遺産」を大いに利用しました。 さて倒幕の密勅を下し、クーデタを画策していた朝廷は肩透かしを喰らいます。 そして慶応3年12月9日(1868年)、王政復古の大号令を出します。 大政奉還を受け、幕府を廃止。ですがここまで2ヶ月近くかかったことを思えば、慶喜の作戦がある程度成功しかけたことが分かるでしょう。 王政復古の大号令で廃止されたのは幕府だけではありません。摂政、関白といった朝廷の旧システムも廃止しました。そして新たに総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職からなる新政府が発足しました。  総裁 有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王         →将軍家茂(いえもち)の正妻となった皇女和宮の婚約者だった人  議定 島津忠義(しまづ・ただよし=薩摩藩主。久光<ひさみつ>の子)      徳川慶勝(元尾張藩主)      浅野長勲(あさの・ながこと=広島藩主)      松平慶永(まつだいら・よしなが=春嶽。前福井藩主)      山内豊信(やまのうち・とよのぶ=容堂<ようどう>。前土佐藩主)      他、皇族・公卿ら5名  参与 岩倉具視(いわくら・ともみ)をはじめとする公卿5名、      議定である尾張藩、越前藩、薩摩藩、土佐藩、広島藩から藩士3名ずつ そして同日夜の小御所会議にて 徳川慶喜の辞官納地(内大臣の辞職と徳川領400万石の返上)問題 京都守護職松平容保(まつだいら・かたもり=会津藩主)・所司代松平定敬(まつだいら・さだたか=桑名藩主)の罷免問題が中心議題となりました。 大政奉還がなされ、新政府が発足したといえ、依然として旧幕府の勢力が強いこと、また守護職・所司代が統幕派から憎まれていたことが分かります。 事実新政府にはお金がないのですから、納地問題は避けられないことでした。 ところがこれに慶勝、春嶽、山内容堂らが反対をします。彼らにとって、大政奉還した慶喜は同じ大名。しかも慶勝、春嶽にとっては一族に当たります。 会議は紛糾しましたが、武力倒幕派が暗殺までほのめかしたことによって山内容堂が押し黙ってしまい、ついに慶喜の辞官納地が決まったそうです。 そしてそれを慶喜に伝えたのが慶勝、春嶽。今やこの二人が新政府にあって徳川家の代表となったのです。 このクーデターを知った旗本、会津・桑名・譜代諸侯は二条城に集まり、城内は大騒ぎになったそうです。ですがここで手を出したら「朝敵」として立場が悪くなります。 慶喜は自重し、京都を去って大坂へ。容保、定敬はもそれに従いました。 この後1ヶ月近く、京都大坂でにらみ合いが続きます。慶喜は大坂城に各国公使を招き、政権を奉還したが引き続き外交は「大君」である自分が行うことを伝えました。 旧幕府側が動かなければ武力倒幕のきっかけがつかめません。慶勝、春嶽は慶喜に自重を説き、また、慶喜に嫌われて当時江戸にいた勝海舟も老中に対して自重の大切さを訴えています。 倒幕派は執拗に挑発を繰り返します。 江戸城二の丸が炎上したり、江戸城下で強盗が相次ぐなど。これに激昂した旧幕臣たち。ついに小栗忠順(おぐり・ただまさ=上野介)の命により、庄内藩兵、松山藩兵らが三田の薩摩藩の江戸屋敷を襲撃して焼払います。これを聞いた西郷隆盛は狂喜したといいます。 この報はただちに大坂に届き、旧幕臣、会津・桑名藩士らの興奮が強まり、慶喜の手に負えなくなります。 そしてこれが鳥羽・伏見の戦いへと続くのです。 小栗は ・横須賀造船所建設 ・フランス語学校設立 ・鉄鉱山の開発 ・日本最初の株式会社組織「兵庫商社」を設立 ・金札発行など金融経済の立て直し など多くの功績があり、落ち目の幕府をよく支えた人です。明治政府の行った改革も、その多くは小栗が既に幕末に提唱したことです。西郷、大久保、勝に勝るとも劣らぬ傑物といえましょう。 しかし彼の命で行われた薩摩藩邸焼き討ちが幕府(旧幕府ですが)の命取りになったこと、何より内戦を引き起こしたことは事実です。また、彼らが行った最後の幕政改革の財源が、フランスからの借款を当てにしていたことを考えると、彼の頭には「徳川家」あっても「日本」はなかった、といえましょう。 勝は小栗を「視野が狭いのはあの人のためには惜しかった」と評しています。 話を戻しまして。 慶応四年1月3日(1868年)、鳥羽伏見の戦が起こり、戊辰戦争の幕が切って落とされました。鳥羽伏見の戦は、その緒戦で、旧幕軍の敗北。慶喜は1月8日、海路で江戸に向かいました。 これ以前1月7日、既に慶喜征討令が発せられて、慶勝の嫡子、義宜(よしのり=16代尾張藩主。当時10歳)が征討軍東海道先鋒に命じられました。 ところがこの時、名古屋城から在京の慶勝の元へ密使が到着しました。 国許(=名古屋)で佐幕派が幼君義宜を奪って江戸に下り、 旧幕軍に合流して京都に上ろうと企んでいる。 というのです。 ここに尾張藩最大の藩内騒動、青松葉事件の幕が切って落とされました。

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  • 18 Jul
    • 幕末編  第二次長州征伐

      ペリーが来航したのが1853年。そして江戸幕府がなくなった大政奉還が1867年。この間足掛け15年。 思ったより長いな、というのが私の感想。皆さんはどうですか。 この15年の間に様々な事件がおき、国内であれほど強権を誇った江戸幕府が倒れました。 当初は誰も予想だにしなかったことでしょう。 開国時にリーダーであった島津斉彬、水戸斉昭、井伊直弼も 大政奉還時に政局の中心にいた徳川慶喜、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允も ここまでの変化が予想できていたでしょうか。 明治に改元後、時代は更に変化してゆきます。 ですがそれはまだ先の話。 京都所司代 松平定敬 元冶元年(1864年)四月、長州征伐の起こる半年前に、伊勢(三重県)桑名藩主松平定敬(まつだいら・さだあき)が京都所司代に就任します。京都所司代とは幕府が朝廷を監視するためにおいた機関で、いわば江戸幕府の京都出張所といえましょうか。この時代には京都の治安が乱れていたので、所司代だけでは心もとないことから譜代大名が任命される所司代よりももっと権限の強い京都守護職がおかれたのは既に述べたとおりです。 ここに高須四兄弟―慶勝(よしかつ)・茂徳(もちのり)・容保(かたもり)・定敬―がすべて政局に登場したことになります。   徳川慶勝(41歳)  元尾張藩主。現藩主の父。主として京都に滞在。   徳川茂徳(34歳)  前尾張藩主。江戸城にいて留守を任される。保守派。   松平容保(29歳)  会津藩主。京都守護職。禁門の変で尊攘派を追放。   松平定敬(18歳)  桑名藩主。京都所司代として兄容保を支える。   *数字は元治元年の年齢(数え年) 慶勝は長く松平春嶽(しゅんがく;前福井藩主)と政治活動をともにしていましたから、公武合体、雄藩連合共和派でした。国内分裂の愚を避けるために長州征伐総督となりながらも寛大な処置で済ませたことは前回述べたとおりです。そしてその寛大さが幕府保守派の嫌疑を招き、彼の立場はますます幕府から離れてゆくこととなります。 茂徳は攘夷派として謹慎処分を受けた兄の後を継いで尾張藩主となったことで当初から保守派と見られていました。藩主の地位を退いてからは主に江戸にあって、上洛の多かった将軍家茂(いえもち)の留守を守ります。江戸にいることがますます彼を保守へと導くことになります。この頃には政局の中心は京都にあり、通信・交通手段の未発達な時代にあって、遠く離れた江戸にいるとタイムラグが生じるため保守になりやすい。 容保は朝廷の守護、治安の維持に全力を傾けていました。当時治安を乱していたのが尊攘派でしたから、当然彼らを弾圧する結果となります。 定敬も兄容保の下について治安維持につとめましたので兄と同じ立場となりました。 この四兄弟に強い影響を与えたのが前出の松平春嶽ともう一人、徳川慶喜(一橋慶喜)です。 春嶽は雄藩連合を、慶喜は幕府権力強化を目標としていました。 ただ慶喜の姿勢は周囲にはあまり知られておらず、京都では容保とともに尊攘派から敵視され、江戸では幕府保守派から懐疑の目を向けられていました。 慶喜、容保、そして定敬は幕府倒壊の日まで行動をともにします。 第二次長州征伐 第一次の長州征伐は総督慶勝、参謀西郷隆盛の働きにより実際の武力衝突なく長州が降伏。 しかし幕府保守派はこれに満足しませんでした。 また長州でも高杉晋作ら倒幕派が実験を握ります。ここに初めて倒幕が一つの勢力としてまとまるのです。 長州の反幕的な態度を察知した幕府は今度こそ長州を徹底的につぶさんものと再度の征伐軍をおこします。これが第二次長州征伐(慶応二年=1866年)です。 第一次の総督慶勝はこれを快く思うはずがありません。総督にははじめ茂徳が任じられましたが、茂徳はこれを辞退。茂徳にもこの再征に意義を見出せなかったのでしょう。 また西郷、大久保など薩摩藩もこのころから幕府から離れてゆきます。そして長州に接近。これが後の薩長同盟へつながります。 (*薩長同盟については第二次長州征伐より以前に結ばれたか、以後に結ばれたかで諸説あり) 厭戦気分の高まる中、結局紀伊藩主の徳川茂承(もちつぐ)が総督に任命されます。 しかし旧式装備で士気の上がらない幕府軍は敗退。長州再征伐に失敗し、権威を落とすこととなるのです。

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  • 21 Jun
    • 幕末編  長州征伐

      兄弟は他人のはじまり。 同じ血のつながりといっても親子と兄弟では違うようです。 源頼朝と源義経。足利尊氏と足利直義。歴史上相争った兄弟はたくさんおります。 現代でも有名人の兄弟争いが時折ワイドショウをにぎわしてますね。 現代はともかく、歴史上の対立は個人的な憎しみよりも政治的な立場からきたものが多い。尊氏は情の篤い人で弟と争うことを最後までためらったといいます。 高須家の兄弟たちも政治的立場を異にし、望むと望まざるとにかかわらず、対立するようになりました。 16代藩主 徳川義宜 1862年に前尾張藩主(14代)慶勝(よしかつ)が復帰すると、現藩主茂徳(もちのり)の立場は宙に浮いてしまいました。翌年、茂徳は引退。16代藩主には慶勝の息子、元千代(後、義宣=よしのり)が就任。わずか6歳の少年でしたから、実権は父慶勝が握っていたことは言うまでもありません。実際は慶勝自身が京都で将軍補佐をつとめるなどしていましたので、藩政は金鉄組の面々が行っていました。 尾張藩から身を引いた茂徳はどうなったかといえば、こちらは兄とは逆に江戸へ下向。上洛中の将軍家茂(いえもち=14代将軍)に代わり、江戸城留守居役となりました。彼が直面した問題が生麦事件の賠償金支払い問題です。 生麦事件とは前年の1862年、島津久光(ひさみつ)が江戸から京都に帰る途上で起こった外国人殺傷事件です。久光という人は四賢侯の中では一番の問題児で、このときの上洛でも寺田屋事件が起こり、帰る途中でこの生麦事件が起こっています(明治維新後も版籍奉還に反対したりして、大久保利通や西郷隆盛を困らせています)。この生麦事件が後の薩英戦争の原因になりました。 茂徳は賠償金支払いやむなし、との結論を伝えに上洛。兄慶勝の不興を買っています。 1863年における兄弟の所在をまとめますと   徳川慶勝  京都で将軍補佐   徳川茂徳  江戸城留守居   松平容保  京都守護職 第一次長州征伐 1863年~64年、事態はめまぐるしく変化します。 最初は尊攘派(反幕府)がイニシアチブを握っていました。海外の実情が分からず、いたずらにおびえていた朝廷、長い間封じ込められ幕府を快く思っていなかった公卿をたきつけ、将軍家茂を上洛させ、むりやり攘夷決行を誓わせます。 そして自分たちも攘夷を決行。 それは外国人殺傷=テロであり、外国船砲撃でありました。 その急先鋒を担っていたのが長州藩です。後に同盟を組む薩摩藩は、尊攘派の下級武士などもおりましたが、藩主の父、島津久光など上層部は公武合体派。尊攘派のもたらす無秩序を嫌い、むしろ会津藩と行動を共にしていました。 会津、薩摩は長州追い落とのクーデタを仕掛けます。尊攘派の公卿七名を追放(八・一八政変)。これに激怒した長州の過激派は翌年(1864年)、武力で事態をひっくり返そうとし、会津・薩摩の返り討ちに会います(蛤御門の変)。「蛤(はまぐり)御門」の名前で分かるように、皇居に武器を向けたのです。 ちなみに新撰組が大活躍した池田屋事件もこの頃のお話(1864年6月)。 これで長州の勢力は完全に失墜しました。皇居に武器を向けたのですから、朝敵となってしまったのです。 これを好機と見た幕府は西日本の諸大名に長州征伐を命じます。 その長州征伐の総督に元尾張藩主徳川慶勝が任ぜられました。参謀に薩摩藩士西郷隆盛もいました。 幕府首脳は長州憎しの思いが強かったのですが、慶勝は穏健派。そして参謀の西郷ははじめ長州を断固うつべし、との姿勢でしたが、勝海舟と出会い、穏健派に変わります。 西郷と勝。後に江戸無血開城を成し遂げた二人はこのとき初めて出会ったのです。 この時勝が西郷に示唆したことは幕末維新の上で誠に重要なことでした。 もともと会津藩と歩調を共にし、長州藩をライバル視していた西郷に対して、  今長州を撃つのはよくない。国家多難の折、同胞相撃つの愚を避けよ。 と諭したのです。そして  現在の幕閣には多難な国内外の状況に対処することはできない。  雄藩連合による「共和制」こそが日本のとるべき道である。 とも言いました。これは横井小楠(よこい・しょうなん)、松平春嶽(しゅんがく)らの思想で、勝と弟子の坂本竜馬もこの路線で活動していたのです。 これは大変なことでした。勝は幕府の機密(幕府の人事や政策など)を西郷に漏らしたのです。 勝が幕府を売った、売国奴である、との主張が今でもなされますが、確かに一理ありますね。 しかし、勝が救おうとしていたのは幕府ではなく、皇国=日本でした。勝はそれを「公(おおやけ)」という言葉で表しています。「公」こそが大切であって、幕府だの朝廷だの、藩だのにこだわり、徒党を組むのは「私(わたくし)」ではないかと。 彼の行為の是非はそれぞれの判断にゆだねるとして、この勝との出会いが西郷を大きく変えました。 西郷、そして薩摩のとるべき道を明確に示してくれたのです。西郷は盟友の大久保利通にあてた手紙の中で勝を絶賛します。  勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くような人物であった。最初はやっつけるつもりで会ったのだが、会ってみると、ほんとうに頭が下がる思いになった。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどである。 征長総督慶勝は西郷に意見を求め、その意見に従い、長州に寛大な処置を持って当たることを基本としました。幕府の思惑のように長州藩をつぶすことをせず、話し合いで事を解決しようとしたのです。 慶勝の承認を受けた西郷は和平に向け動き回り、最終的には何と敵本陣まで赴いて説得に当たります。 当時長州藩内でも外国船砲撃の報復で痛めつけられていたこともあり、穏健派が実権を握り、和平に応じます。 益田右衛門介・国司(くにし)信濃・福原越後の三家老の自刃と藩主父子の伏罪書を提出を見て征長軍は撤退。 こうして武力衝突なしに長州征伐は終わったのです。 西郷の活躍も見事ですが、その西郷を信頼し、全権を与えた慶勝もまた見事でした。 著者: 童門 冬二 タイトル: 慶喜を動かした男―小説 知の巨人・横井小楠 ↑横井小楠を扱った小説ではこれがお勧めです。

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  • 19 Jun
    • 幕末編  慶喜と春嶽

      再び勤皇と佐幕 昨日、司馬遼太郎さんと子母澤寛の対談を読んでいましたら、こんな件が目に付きました。 幕末の知識人は皆尊王家であった。当時、尊王というのは現代の民主主義と同じく普遍的なものだった。 子母澤さんは『勝海舟』、『新撰組始末記』など多くの幕末物を書いた作家さんです。司馬さんの『燃えよ剣』は子母澤さんの新撰組三部作(『始末記』『異聞』『物語』)をかなり意識して書かれたとご自身で仰っています。 そのお二人が「尊王は普遍的だった」と仰っているんですね。ただし「知識人は」と限定されていますけれども。当時の武士は読み書きのできる「知識人」でしたから、武士はほとんどが尊王家であったといってよい。 尊王は佐幕と対立する思想ではなかったのです。 日本には天皇がいる「神国」、「皇国」である。この意識は時には思い上がりとなって過激な攘夷思想と結びつきましたが、一方で「日本は一つである」という国家意識を養い、幕末から明治にかけての多難な時期にプラスに働きました。大政奉還、版籍奉還など為政者の思惑はどうあれ、発想の根本がここにあったため、受け入れられたのです。 もっとも当時の人口の大多数を占めていた庶民は天皇の存在を知らないものも多かった。当時日本で一番偉いのは公方様=将軍で、その上があるとは思いもしなかったそうです。 松平春嶽と一橋慶喜の対立 徳川慶喜(よしのぶ;御三卿の一橋家当主のため一橋慶喜とも呼ばれる)と松平春嶽(しゅんがく)。文久2年の改革を推し進めた両者でしたが、だんだんとズレが生じてきました。 慶喜はなんと、かつての政敵、井伊直弼と同じ幕府権力の強化を目指します。歴史というものは面白いものですね。反井伊の旗印であった慶喜が結果的に井伊の後継者となっている。慶喜は非常に頭のよい人でしたから、日本内外の現状を見て幕府権力の強化が大切であると判断したのでしょう。もっとも慶喜と老中たちの間にも対立があって、ことは単純に行きませんでしたけれども。 一方の春嶽は雄藩連合、公武合体派でした。幕府のみが政治権力を握っている以上、事態は好転しない。朝廷や各藩も政治参加するべきだとしたのです。これは彼のブレーンであった横井小楠(よこい・しょうなん)の思想で、勝海舟や坂本竜馬もこの立場でした。 慶喜からすれば朝廷には政権担当能力はない。反幕派にいいように利用されているに過ぎない存在で、雄藩と呼ばれる各藩の口出しもいたずらに政治的混乱を招くものと思ったのでしょう。 両者のこのような対立の原因は、慶喜の有能さにあったと思います。 春嶽も有能でしたが、それは「殿様としては」というただし書きがつく。飛びぬけた存在ではなかったのです。 現に「幕末四賢侯」と呼ばれた有能な大名=松平春嶽、山内容堂(やまのうち・ようどう;前土佐藩主)、伊達宗城(だて・むねなり;前宇和島藩主)、島津久光には宗城以外は維新後の活躍はありません。殿様という立場がなくなれば活躍できなかったのです(宗城は例外で明治4年に日清修好条規締結に活躍しています)。 ところが慶喜は現代でも政治家として通用するほど凄腕だった。西欧の絶対君主に比すことができるほどです。自分を頼む所が多く、自分の能力を発揮するには幕府権力の強化が必要だったのでしょう。 春嶽は慶喜の変化(と、彼にはそう思えた)に嫌気がさし、政治総裁を辞任します。 春嶽の辞任後、前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)は将軍補佐のため京都に滞在することが多くなりました。 著者: 子母沢 寛 タイトル: 父子(おやこ)鷹 (2) 巻末に司馬さんと子母澤さんの対談が載っています

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  • 18 Jun
    • 幕末編  京都守護職 松平容保

      文久2年の幕政改革 司馬遼太郎さんによると、テロによって歴史が前進した例はほとんどなく、桜田門外の変はその数少ない例外なんだそうです。 それほど井伊直弼(なおすけ)の存在は大きく、安政の大獄の傷は深かったのですね。 後世への影響では吉田松陰などの処刑が大きかったですが、当時はむしろ一橋派の大名たち、幕吏の更迭の方が世に与えた影響、混乱が大きかった。特にその間に薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)、そして開明派の岩瀬忠震(いわせ・ただなり)が相次いで死去。旧一橋派の最も有能なリーダーと最も有能な人材が失われたのが大きかった。 残されたものたちは南紀派も旧一橋派も同じ道を、井伊の政策の一つ、公武合体を推し進めます。すなわち将軍家茂(いえもち)と皇女和宮の婚姻です。前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)も公武合体派となりました。 一方安政の大獄の反動はすさまじく、幕府の権威失墜もあり、反幕的攘夷派(いわゆる尊王攘夷=尊攘派)がテロを繰り広げます。 幕府の権威失墜により力を得たのは尊攘派のみならず、朝廷、雄藩も同じでした。 文久2年(1862年)、斉彬の弟で薩摩藩主忠義の父である島津久光(ひさみつ)が兵を率いて上洛。公武合体による朝廷の威信を復興すると共に幕政改革を建白することにあると説明し、幕政改革に関する意見書を提出しました。その大要は、薩摩藩が兵を率いたまま京にとどまり、その武力で朝廷の権威を確立し、その朝廷の権威をもって、一橋慶喜・前越前藩主松平慶永(よしなが=春嶽)を登用させて幕政を改革しようというものでした。 薩摩藩と朝廷の介入により、将軍後見職に慶喜が、政治総裁職に春嶽が任命されます。彼らは朝廷と雄藩の介入を嫌う老中らの抵抗にあいながらも、時には辞職をちらつかせながら、種々の改革を推し進めます。 ・参勤交代の緩和、大名の妻子(人質として江戸にいなければいけなかった)の帰国許可 ・安政の大獄による逮捕者などの赦免 ・軍制改革 ・京都守護職の設置 そして京都守護職には慶勝の実弟で会津藩主の松平容保(かたもり)が任命されました。 会津藩主松平容保   ↑クリックすると大きな画像がご覧になれます 会津藩は2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の庶子、保科正之(ほしな・まさゆき)を藩祖とし、3代正容(まさかた)より松平姓を名乗り、親藩に列せられました。 正之は庶子として控えめに行動し、御三家のように将軍家と張り合うことがありませんでした。ために異母兄である3代将軍家光の信用あつく、家光は死に臨んで正之を枕頭によびよせ、わずか11歳のわが子家綱(いえつな=4代将軍)の補佐を頼みました。これに感激した正之は将軍家への絶対的な忠誠を誓います。 彼が後に定めた『会津家訓十五箇条』の第一条には 「会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、藩主が(将軍家を)裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」 と記されています。正之以降の藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。 高須松平家から養子に迎えられた容保もまたこの家訓をよく知っていました。ですから京都守護職を拝命されたときは藩内を2分するほどの意見の紛糾を見たにもかかわらず、将軍家への忠誠からこれに従います。 この時期の京都は尊攘派が闊歩し、治安が悪化しておりました。その京都に赴くのですから、治安維持を任されたのですから、尊攘派の逆恨みを食らうのは目に見えています。わざわざ火中の栗を拾うようなことはよせ、というのが守護職就任反対派の意見でした。 事実は彼らの言うとおりになります。容保は苦難の道を歩むこととなります。 容保は1862年から67年まで、京都の守護に忠実に取り組みます。その忠勤振りは天皇も認めるところでした。 佐幕派の中心人物として、明治維新後は「朝敵」とされた容保ですが、その本当の姿はきわめてまじめな勤皇家でした。孝明天皇(明治天皇の父)が最も信頼していたのは三条実美や岩倉具視ではなく、この容保だったのです。

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  • 12 Jun
    • 幕末編  桜田門外の変と慶勝の復帰

      勤皇と佐幕と こんな私でもたまにはカラオケに行きます。十八番のひとつに『侍ニッポン』(詞・西条八十;曲・松平信博)という古い歌がありまして、その2番の歌詞はこんな風です。   きのう勤皇 あしたは佐幕   その日その日の 出来心   どうせおいらは 裏切り者よ   野暮な大小 落とし差し これは同名の小説、映画の主題歌で大河内伝次郎演じる新納鶴千代(にいろ・つるちよ;ただし歌ではしんのう・つるちよ)の揺れ動く心を描いた見事な歌です。鶴千代は実は井伊直弼の御落胤。そうとは知らされず剣に生き、水戸浪士らと交わり、尊皇攘夷思想に激しく惹かれます。ですが父直弼の真情を知った後は攘夷思想に疑問を抱き、最後には襲撃される父を救わんとしたが果たせず、父と共に桜田門外にて散ってゆくのです。 「きのう勤皇 あしたは佐幕」韻を踏んだ歌いやすいフレーズの中に鶴千代のやるせなさが伝わってくるようです。 苦悩する鶴千代さんには悪いのですが、当時の日本は「勤皇か佐幕か」と二分化されていたのではありませんでした。それは幕末の最終局面、戊辰戦争の段になってやっと表れてきた問題です。当時はもっと混沌としていました。   攘夷か開国か 外交問題ではこの二つが対立していました。攘夷は国際社会の現実にはそぐわない精神論の部分が大きかったのですが、西洋列強と貿易が始まると物価が跳ね上がったこともあり、この思想は庶民にも指示されていました。   勤皇か佐幕か 内政問題ではこの二つ。というのはウソ。この時点ではまだ勤皇佐幕は対立する概念ではありませんでした。当時の知識人は皆勤皇で(少なくとも建前は)、同時に幕府を支えてゆこうとする人たちばかり。幕府にもっとしゃんとしろ、というのが多くの意見だったのです。 ですから当時はその幕府を支えてゆく方法として、   幕権強化か雄藩連合か が模索されていたのです。前者は従来の幕府官僚と譜代大名だけが政治を行うやり方、後者は水戸斉昭(なりあき)、島津斉彬(なりあきら)ら有能な君主と彼らのもとにいる有能な人材を活用しようというやり方です。 これら外交・内政の諸問題が絡み合って、次のようなさまざまな立場が生まれました。  A 幕権強化開国派   井伊直弼ら  B 雄藩連合開国派   島津斉彬、岩瀬忠震(いわせ・ただなり)ら  C 幕権強化攘夷派   多くの譜代大名たち  D 雄藩連合攘夷派   水戸斉昭ら そして井伊の安政の大獄による弾圧により反幕と攘夷が結びつき、最も急進的な  E 反幕攘夷派      水戸浪士ら が生まれます。これがいわゆる「尊王攘夷派」です。(広義にはDとEが尊王攘夷派と呼ばれる)  *上記A~Eはあくまで私見です。正式な歴史用語ではありません 井伊は幕権強化を急ぐあまり反対派をどんどん処分してゆきました。岩瀬忠震、川路聖謨(かわじ・としあきら)、水野忠徳(みずの・ただなり)といった有能な改革派の幕臣、ペリー来航以来外交の第一線に立って苦労してきた開明派も左遷しています。彼の本心が開国になく、攘夷であったと言われるゆえんです。吉田松陰や橋本佐内を処刑したのも有名ですね。 この井伊の行為は結局自分で自分の手足を切り捨てたようなものでした。 彼が処罰した幕臣の中で特筆すべきは岩瀬忠震で、川路や水野が消極的開国、現状やむを得ずの開国派であったのに対し、この人は積極的に開国を図りました。交易の実をもって国を富ませ、国防にあてる。明治政府が後に行ったことを彼は10年も先取りしていたのです。井伊が岩瀬をもっと重用していたら強引な開国はなくなり、安政の大獄もなく、ひいては桜田門外もなく、幕府はもう少し長生きできたかもしれません。 惜しいことに永蟄居の処罰を受け、失意のうちに1861年に亡くなりました。まだ46歳(数え年)でした。 強引な弾圧は強力な反発を生みます。 1860年、江戸城桜田門外で登城中を水戸浪士らに襲撃され、井伊直弼死亡(46歳)。 井伊の横死により針は再びぐいっと戻され、処分を受けていた者たちが復帰を果たします。ただ岩瀬は体が弱っていたために復帰せず、また水戸斉昭、島津斉彬は既に死去していたためにかつての一橋派は大きく力を落としました。 隠居謹慎処分を受けていた先代の尾張藩主、徳川慶勝(よしかつ)もまた許されました。 これで慶勝の弟で現藩主の茂徳(もちのり)の立場は非常に微妙なものとなります。

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  • 10 Jun
    • 幕末編  15代藩主 徳川茂徳

      私も学生時代にはさまざまなアルバイトをしました。 今の仕事につながる家庭教師や塾教師をはじめ、スーパーマーケット、内装工事、交通量調査、めずらしいものではカメラマンのアシスタント(といってもただの荷物持ち)、ヘアモデル、占い師の助手などなど。短期バイトを含めると十数種はやったと思います。怠け者の今の私には自分のことながらよくやったなと思ってます。 そんな中でもっとも華やかな職場だったのが大阪の大丸デパート。年がばれちゃいますが、その大丸デパートがオープンした年の冬の1ヶ月間、ボーナス商戦まっさかりの時期にバイトしました。なにせオープン1年目ですから店員さんはどれも他店からの選りすぐり。デパートは女性の職場、といわれますようにただでさえ華やかな世界ですが、私のいた頃はそりゃもう宝塚に及ばずながらもきらびやか、華やかな世界でした。皆颯爽としている、てきぱきしている。かっこいい制服を着こなし、背筋がしゃんとして、にこやか。ですから皆美しく見える。まあ、私がおぼこい田舎ものだったせいもありますが。その女性の職場で一番苦労したのは派閥。 女性の方、怒らないでくださいね。 私がいたフロアでも大きく二つの派閥がありました。そんなこと知るはずのないバイトの私でも昼食に誰に誘われついていったか、だれに包装の仕方を教えられたか、で属する派閥が決まってしまったようです。 売り場ではレジ打ちの女性が権力を握っています。忙しいときには私のもっていった商品のレジ打ちが後回しにされたり、逆に優先されたりしたことが何度かありました。 女性とは恐ろしいものだということがよおく分かりましたです。 女性の方、怒らないでくださいね。 まあ、それが苦になるほどどっぷりと業界にはつかりませんでしたし、男の私は商品センターでの品物管理などもあったので、全体としては楽しいバイトでしたよ。 さて、幕末の尾張藩でも大きく二つの派閥がありました。 一つは慶勝(よしかつ)擁立の箇所でも述べた金鉄組。藩政改革を志し、慶勝擁立を願い、どんな苦難にあってもくじけぬよう、金鉄の如き意志を持って集った藩士たちです。慶勝の時代には藩政に活躍する場が増えました。 もう一つはふいご党。金鉄をも溶かすふいごのような存在として名づけられたそうです。金鉄組に対抗して佐幕派となりました。 どんな集団でも主流派がいれば反主流派がいる。尾張藩の場合、藩主の座をめぐって幕府と何度か衝突しましたから、最初は反主流として金鉄組が形成されました。一度そういったまとまりができてしまうと不思議なもので、自然と別のまとまりができてしまう。人間のすることですから、高度な政治理念のみで金鉄組に入るものばかりではないのですね。縁故入会や何となく、とか金鉄の時代になったからオレも、なんてのもあったでしょう。ふいご党も然り。金鉄が勤皇なら佐幕の連中が集まってくる。そりの合わない奴があっちにいるからオレはこっちにしよう、なんてのもあったでしょう。 もっともふいご党の方は金鉄組ほどはっきりとしたまとまりはなく、藩内の佐幕派をあとからまとめてふいご党と呼んだのだ、という説もあります。それにしても金鉄組に対して別の思惑を持った藩士たちがいた、別の集団がいくつかあった、ということは違わないでしょう。 慶勝の失脚は金鉄組の没落を意味し、同時にふいご党躍進を意味しました。 慶勝引退を受け15代藩主になったのは弟の茂徳(もちのり)。 ここで慶勝のお里、高須藩を振り返って見ますと、慶勝の藩主就任を見届けた父義建(よしたつ)はその翌年(1850年)に引退し、藩主の座を五男の義比(よしちか)に譲ります。この義比が兄の失脚後15代尾張藩主となり、将軍家茂から一字もらって茂徳と名乗るのです。茂徳のあとの高須藩はその年に生まれた茂徳の子、秀麿(ひでまろ)が継ぎます。 慶勝から茂徳の政権交代時はまだ父義建も健在でしたから胸中は複雑でしたでしょう。 尾張藩主に就任した茂徳の周りには自然とふいご党の面々が集まってきました。全国的には安政の大獄の嵐が吹き荒れ、開国に反対した攘夷派が次々と左遷させられたり、処罰させられたりしていました。 茂徳個人の思惑がどうであれ、兄と同じ道を歩むことは不可能でした。 個人レベルでは対立点のなかった兄弟でしたが、時代が2人の道を2つに分けてしまいました。 茂徳は徹底した佐幕開国派となります。 そして他家に養子に行ったもう二人の弟、会津松平家の容保(かたもり)と桑名松平家の定敬(さだあき)も、もう少し後のこととなりますが佐幕派に位置づけられることになります。 恐ろしきは派閥抗争。 15代茂徳はその犠牲者といえましょう。

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  • 07 Jun
    • 幕末編  開国と慶勝の失脚

      藩政改革にある程度成功しすると、慶勝(よしかつ)は海防問題に取り組みます。 敬愛する叔父(母の弟)、水戸斉昭(なりあき)とともに、攘夷論を主張。 1853年、ペリーが浦賀へ来航したときも老中阿部正弘(あべまさひろ)の諮問を受け、意見書を提出します。  開国には断固反対  西洋に対抗できる武備の充実を とはいえ、武備充実のための資金をどうするのか、という問題については幕府提出の意見書には書かず、叔父斉昭に打ち明けております。  参勤交代を取りやめること 後年、文久の幕政改革でこれは実現しますが、このときはまだ時期尚早だったようです。 日和見な意見、内容のない意見書の中では確かに立派なものでしたが、理想を述べるだけで具体性に欠けていました。 数ある意見書の中で勝海舟のものは群を抜いています。 彼は攘夷を果たすために積極的に開国を主張。交易の利をもって武備を充実させることを提案しました。 そして、ここからが彼のすごいところですが、単に物品を揃えただけでは国防にならない。なにより人材の育成が急務であるとしています。これが後に長崎海軍伝習所につながるのです。 勝の意見は非常に優れたもので、これをきっかけに彼は幕府上層部に注目されるのですが、それは別の話。慶勝に話をもどしましょう。 この年、12代将軍徳川家慶(いえよし)死去。ただ一人成長した息子の家定(いえさだ)が13代将軍となりますが、暗愚で多病であり、常に手足が痙攣していたそうです。恐らく何か障害を持っていたのでしょう。これでは世継ぎが望めるはずもありません。幕府存続の危機です。 慶勝は家定の将軍就任で無駄な出費をした幕閣を非難。徐々に対立してゆきます。 14代将軍を巡って、江戸幕府最大の後継者争いが始まりました。  一橋派  斉昭の子、一橋慶喜を推戴。慶喜は英明の誉れ高く、家慶にも愛され、御三卿の一橋家を継いでいました。水戸斉昭、松平春嶽(しゅんがく)、島津斉彬(なりあきら)など有力大名が名を連ねていました。 その多くは攘夷派です。  南紀派 家定の従兄弟、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を推戴。慶福は2歳で紀伊藩主となり、この時わずか12歳でしたが、血統の上から現将軍家に一番近い存在でした。井伊直弼(なおすけ)ら譜代大名が名を連ねています。 慶勝自身は将軍候補には挙がりませんでした。もはや御三家(尾張、水戸)に後継を求めず、紀伊家ないしは御三卿から後継を出すのが暗黙の了解となっていました。特に一橋家は11代将軍家斉(いえなり)の実家だったこともあって、将軍後継の最有力でありました。 ところが慶喜の父、斉昭はうるさ型として幕閣、それに大奥にまで嫌われていました。 折悪しくも将軍後継問題と、開国を巡る政争が重なってしまい、幕府最大のお家騒動となるのです。 慶勝は水戸斉昭と政治活動を共にしていましたから、一橋派とみなされていました。が、実際は慶喜を推戴する意思はなかったようです。慎重派の彼のこと、英明とはいえ、ほとんど面識のない、まだ若い従兄弟のことを自分の目で確かめるまでは後継争いには中立でいようとしたのです。更に、家中が割れ、党派を組み、お互いが争うの愚は、尾張藩主となるまで散々見てきましたから、一橋にせよ、南紀にせよ、一方に組することを嫌ったのです。むしろ両者の仲介になろうとしていました。 ところが1858年、南紀派の井伊直弼は米国公使ハリスとの間に日米修好条約を結んでしまいます。 それも朝廷の許可なく独断でしたのでした。 元来、外交にしても内政にしても幕府が全て任されていますから、勅許(天皇の許し)を得る必要はないのですが、それは幕府の権威の高かった時期のこと。ペリー来航以来、幕府は諸大名に意見を求め、介入を許すという例を作ってしまいました。弱腰になったのです。諸大名は今まで政治に参画できなかった分を取戻すために介入を強めました。将軍後継問題もその一つです。 そして諸大名が幕府に対抗するために権威のよりどころとしたのが朝廷です。もっともこの時期の朝廷の政治力はほとんどありませんでしたが。 そのため、この頃になると開国問題も当然、朝廷と有力諸大名の承知の上で議論されるべきと思われていました。しかし井伊は問題を引き伸ばすの愚を悟り、強権を発動します。勅許無しの通商条約締結です。 このことが本来一橋派でなかった慶勝の運命を決定付けました。 勅許無しの締結に激怒した水戸斉昭らとともに、本来登城日でないのに江戸城に登城(不時登城)し、井伊を詰問します。しかし井伊はしたたかな男。議論を避け、そうそうに別室に退去。 相手のしくじりを逃さず、井伊は将軍継嗣問題も一挙に解決を図り、慶福あらため家茂(いえもち)が14代将軍に就任。井伊は反対派をどんどん粛清してゆきます。 水戸斉昭(水戸家隠居)は謹慎、水戸藩主慶篤(よしあつ)、一橋慶喜は登城停止。尾張慶勝、松平春嶽は隠居。 「安政の大獄」の始まりです。

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  • 05 Jun
    • 幕末編  慶勝の政治思想

      慶勝は非常な勤勉さで改革を進めていきました。 自分に寄せられる期待を充分認識していたのです。そして一歩間違えれば、多大な期待は失望と反感に変わることを不遇の経験から知っていました。 彼は身分の上下にかかわらず有能な人材を抜擢し、法を整備しました。 破綻しかけた財政を立て直すために自ら倹約し、豪農富商と膝を交え、藩と領民のためにお金を引き出します。 それは前代までの藩主には見られなかった真摯な姿勢でした。 彼のこの姿勢はやはり不遇の時代から国を憂う心があったからでしょう。 藩主就任がほとんど不可能となったときにも自暴自棄にならず黙々と学問に取り組んだ、強い精神力。 恐らく彼には藩主になれなくとも高須家として尾張藩政を補佐しようという思いがあったに違いありません。 彼とほぼ同年代の勝海舟(1823年生まれなので慶勝の1つ年上)も不遇の時期に学問に励みました。 海舟の有名なエピソードの一つにオランダ語の辞典を二部書き写した話があります。 貧乏で辞書が購入できない代わりに、借りてきて書き写してしまう。しかも貸し出しの損料や紙代などを稼ぐために二部書き写して一部を売ってしまうんですね。 この辞書の末尾には海舟の自筆で、貧窮の中辞書を写したこと、そして身につけた学問が役に立つ日が来るのだろうかというようなことが書かれています。 後年の彼からは考えられない素直な不安、あせりがにじみ出ています。そしてそれでもこの学問を続けるしかないのだという信念を新たにしています。 不遇の時期にしっかりと自己を研鑽する。その場限り、目前の利欲のためでなく、いつ来るか分からない自分の出番のために。この勝の姿勢が慶勝にもあったのかもしれません。 着々と実績を上げる慶勝でしたが、藩政以上に関心を寄せていたのが海防問題でした。 叔父の水戸斉昭(なりあき)はパリパリの攘夷論者。そんな叔父の影響を受け、慶勝も攘夷論者でした。そして島津斉彬(なりあきら)、松平春嶽(しゅんがく)といった賢君たちと交わっていました。 春嶽は慶勝の前代でライバルであった慶臧(よしつぐ)の実の兄ですから、恩讐を超えた交わりを結んだんですね。 オランダからの、ペリー来航の予告情報を斉彬から教えてもらったこともあります。また、黒田藩が海軍設立建白書を提出するんですが、幕府から無視される、その建白書が慶勝の所に保存されているんですね。 この当時慶勝は開明派として水戸斉昭、島津斉彬に次ぐ存在として認識されていたのです。

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  • 03 Jun
    • 幕末編  ある八百屋の死

        徳川慶勝 (名古屋城叢書『名古屋城青松葉事件』口絵写真より) 過去の記事と重なる部分もありますが、慶勝の藩主就任までを振り返ってみます。 徳川慶勝(とくがわ・よしかつ)は1824年、尾張家分家である美濃高須藩松平義建(まつだいら・よしたつ)の次男として生まれました。幼名は秀之助。長男が早世したので彼が嫡男とされました。 *秀之助は元服後、義恕(よしくみ)→慶恕(よしくみ)→慶勝と名を変えます。しかしややこしいので、ここでは初めから慶勝で通します。 高須松平家は尾張徳川家の分家として、藩主幼少のときはコレを補佐し、本家に跡継ぎがいないときは藩主に就任するなど切ってもも切れない関係にありました。三万石の小藩ながら家格は高く、それに見合うだけの生活を維持するためにも本家から常に経済、人材上で援助を受けておりました。 もっとも尾張徳川家でも高須家でも藩祖義直(よしなお)の血統は途絶えておりまして、慶勝の祖父松平義和は水戸徳川家の出身、さらに慶勝の母も水戸家のお姫様であります。 ですから最後の将軍徳川慶喜とは血の濃いいとこの間柄であったのです。 ↑クリックすると大きな画像でご覧になれます 本家の尾張家では義直の血筋が絶えて以来、紀州系の押し付け養子が相次ぎ、一度も名古屋に来なかった殿様、幕府の言いなりになる殿様に藩士領民の反感がつのりました。 どっかりと名古屋に腰を据えた名君が現れないものか。 幼少時から英明の誉れ高い慶勝に人々の期待は集まります。 1839年、慶勝16歳の時、尾張11代藩主斉温(なりはる)死去。12代藩主には慶勝をと尾張の人々は熱望しました。しかし将軍家斉の息子が12代藩主となり、人々の期待はあえなくつぶされてしまいました。 このとき人々の反感の強さを憂慮した幕府は7代藩主宗春の罪を許し、それまで墓にかぶせてあった金網を撤去します。 1845年、慶勝22歳。13代藩主斉荘(なりたか)死去。今度こそ藩主就任なるか、と思いきやまたもや幕府側は養子を押し付けます。しかも今回は慶勝より若い10歳の少年。 これで慶勝藩主就任の夢はもはやかなわぬものとなりました。悲憤慷慨する藩士たち。 これより以前、慶勝を藩主にし、藩政改革を志す藩士たちは結束し、「金鉄組」と呼ばれるグループを作るようになっていました。 しかし彼は内心はともあれ、表向きはそのような世間の騒動に心動かされることなく、学問に打ち込みました。彼の祖父、母の実家は水戸家。水戸黄門(光圀)以来学問に篤い家系です。特に勤皇精神が高く、「水戸学」と称されたそのイデオロギーは幕末において波乱を招いております。 慶勝も学問を修めるにつれ、勤皇精神を高めていったのでしょう。また、尾張藩の現状を憂えたことでしょう。 1849年、慶勝26歳。まさかの出来事が起こりました。彼より年下の少年藩主がわずか14歳で死んだのです。今度こそ慶勝の藩主就任か、と思いきや、幕府は性懲りもなく御三卿の一、田安家から養子を押し付けようとします。ここにまた金鉄組を中心とする藩士、領民と幕府首脳、保守派の藩重臣たちとの対立が始まりました。 そんな折、名古屋で八百屋を営む男が熱田沖で入水しました。慶勝の藩主就任を熱望してのこの行為に擁立運動の勢いはいやがうえにも増してゆきます。 こうしてその年の6月、徳川慶勝が尾張家を相続。14代藩主となりました。 16歳の少年は26歳の青年へと成長を遂げておりました。 やっとつかんだ藩主の座ですが、慶勝には藩士、領民の期待が痛いほど分かります。 彼は早速藩政改革に着手しました。

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  • 31 May
    • 幕末編  高須四兄弟

      豊臣秀吉が天下を統一したときのエピソードです。 小田原北条氏を下し、天下を平定した秀吉は鶴岡八幡宮へ詣でました。そこには源頼朝の木像があったそうで、秀吉はこの木像にこう語りかけたそうです。 「ワシも貴公もともに天下人。己一人の才覚で天下をとった仲間であるな。 しかし御身には源家の嫡流という旗印があったが、この秀吉は文字通り裸一貫から天下をとったのじゃ。だからワシの方が上手かのう」 おそらく事実ではないと思いますが、実に面白いエピソードです。 秀吉の言うように頼朝は源家の嫡流。であるがゆえに天下をとれたと思われていますが、これも秀吉の言葉にあったように、平治の乱に敗れて伊豆に流され、源家の嫡流という看板以外は全く何もない状態から天下をとるまで昇り詰めたのです。つまりは秀吉と同じ成り上がり者。 もしも、もしもですが、頼朝が平治の乱に敗れず、そのまま父のもとで京で栄達していたら、恐らく天下人にはなれなかったでしょう。父義朝は坂東の経営を長子義平(彼は悪源太と呼ばれるほど勇猛な武将でした)に、中央での政治活動を頼朝に託す構想があったと思われます。であれば、義朝が弟の義賢(よしかた:木曽義仲の父で、悪源太義平に滅ぼされた)と争ったように、いずれは頼朝と義平の争いが起こったでしょう。 その時、坂東武士たちと太いパイプを持っていた兄義平にどこまで対抗できたでしょうか。 まさしく頼朝は一度全てを失うことで天下をとることができたのです。伊豆に流され、坂東武士たちの中で成長したのは誠に貴重な経験であったといえます。 このように歴史上の人物がどんな幼少期を送ったかは意外と重要なのかもしれません。特に挫折を味わっている場合には。 尾張徳川家14代を継いだ慶勝(よしかつ)も、その襲封までには紆余曲折がありました。藩内の士民の世論は彼を推していたものの、過去2回も後継争いに敗れ、挫折しています。上手くいけば16歳で12代藩主となるところが、26歳でやっと14代藩主となれました。頼朝の20年に比べれば短いですが、それは結果論であって、後継争いに敗れるたび、2度とチャンスは巡ってこないのではないか、という状況でした。 それでも慶勝は来る日を待って文武に励みました。 この雌伏の時期が後の慶勝の慎重な性格を作ったのでしょう。 慶勝は尾張徳川家の分家、高須松平家10代当主義建(よしたつ)の次男です。長男が早世してましたから、実質は彼が長男でした。 この義建という人がなかなかえらい人で、子供の教育に非常に熱心でした。当時大名の次男以下は部屋住みとして一生飼い殺しにされるか、他家の養子となるしか道はありません。そして他家の養子になるためには文武に優れていなければ声もかかりません。 義建は自身が3万石の小大名でありながら、男子6名全員(早世したものを除く)が大名になっています。いかに彼が教育熱心であったかがわかろうというものです。その様子には正室の兄である水戸斉昭(なりあき)も感心したそうで、わが子の慶喜(よしのぶ:後の十五代将軍)の教育方針の手本にしたそうです。   ↑クリックすると大きな画像でご覧になれます 彼の子供たちの中でも慶勝、茂徳(もちのり)、容保(かたもり)、定敬(さだあき)の4名は幕末の政局で活躍をしたので、「高須四兄弟」と称されています。 ですがその「活躍」とは兄弟相和して、には程遠いものでした。 徳川慶勝  尾張14代及び17代。藩内を勤皇に統一 徳川茂徳  はじめ高須家を継ぐ。後に兄慶勝の失脚を受け、尾張家15代。藩内の佐幕派とつながる。慶喜の将軍家継承の後を受け、一橋家を継ぐ。 松平容保  会津松平家を継ぐ。京都守護職として新撰組らを用い、尊攘派を取り締まる。戊辰戦争でも新政府軍と戦う。 松平定敬  桑名藩を継ぐ。京都所司代として兄容保とともに佐幕派として活躍。 兄弟が勤皇・佐幕に分かれてしまっています。とはいえ、個人的に仲が悪かったわけではなく、それぞれの家の立場、信条から分かれてしまったのです。

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  • 30 May
    • 城山三郎 『冬の派閥』

      尾張藩最後の殿様徳川慶勝と、北海道を開拓した旧尾張藩士の物語 「尾張徳川十七代」幕末編の主役が徳川慶勝(とくがわよしかつ)です。 おそらく名古屋の殿様の中で最も有名なのは七代藩主、徳川宗春(むねはる)。彼のユニークな治世は以前ご紹介しましたが、江戸時代の大名とは思えないほど個性的で優しい殿様でした。優しさゆえに政治家としては大成できず、ライバル吉宗に遠く及びませんでしたが、今でもその人柄はたくさんの人に慕われています。 その宗春に次ぐ知名度を持っているのがこの慶勝です。とはいえ、知名度では宗春とは天地の開きがあります。慶勝の方は幕末を取り扱った本に名前が出てくるか簡単な紹介がなされている程度でしょう。 知名度でこそ劣るものの、慶勝の生涯と業績は宗春よりもスケールの大きいものでした。 幕末の尾張家を率い、攘夷派として、後に勤皇派として、ひとり尾張藩のみならず周辺諸藩の動向に大きな影響を与えた人物です。幕末最終局面において、御三家筆頭の尾張が朝幕いずれにつくかは東海諸藩のみならず、全国の中立・日和見な藩に影響を与えました。 城山三郎さんは名古屋出身の作家として、また、義兄に尾張藩研究の第一人者、林薫一さんがおり、この慶勝を書くにはまさにうってつけの人物であります。 この本が出たとき私は高校生でしたが、著名な作家が尾張徳川家を題材に書いた小説の出現に狂喜しました。 幕末という難しい時代に、藩民の衆望を担って登場した慶勝。雌伏の時代が長かったこともあって、従兄弟の慶喜や弟である京都守護職松平容保(かたもり)、京都所司代松平定敬(さだあき)ら佐幕派とは異なる道を歩みながらも、きっぱりと彼らを切り捨てることができず、苦悩します。 そしてお膝元の名古屋で起こった「青松葉事件」。藩内の勤皇派と佐幕派の対立に苦慮しながらも慶勝は過酷な処分を下し、藩論を勤皇に統一。先述したように明治維新の歯車を大きく前へ動かしたのでした。 城山さんは慶勝の生涯だけでなく、旧尾張藩士たちの維新後の動向も書いておられます。 北海道渡島半島にある八雲町。維新後旧尾張藩士たちが開拓した町です。途中から藩の援助を一切当てにせず、自分たちの力で村づくりをしていった彼らの苦しみが胸を打ちます。 今でも北海道土産として有名な熊の木彫りも、慶勝の後、尾張家の当主となった義親(よしちか)が奨励し、八雲の人たちが始めたものだと言われています。 名古屋の郷土史としてだけでなく、変換機の時代を生きた普通の人たちの選択とその苦悩を知ることができる、なかなか面白い小説です。 『冬の派閥』は1998年秋、テレビ東京系で2時間ドラマ「尾張幕末風雲録~維新を動かした男・徳川慶勝」として放映されました。非常に残念ながら、私は見てません(涙)。三田村邦彦さんが慶勝を演じられたそうです。 著者: 城山 三郎 タイトル: 冬の派閥

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  • 15 May
    • 13代 徳川慶臧   松平春嶽の手紙

      1845年、斉荘の死後、幕府から送られてきたのは一橋斉匡(なりまさ)の息子、慶臧(よしつぐ)。わずか10歳の少年でした。当時もう22歳になった松平秀之助改め義恕(よしくみ)も金鉄組の面々も落胆しました。自分より年下の藩主ですから、もはや自分たちの出番はなかろうと。 そんな空気を知ってか、慶臧の実兄で福井藩の養子となっていた松平慶永(よしなが)――後に幕末四賢侯の一人として勝海舟や坂本竜馬、徳川慶喜らとともに活躍した松平春嶽(しゅんがく)――が弟に手紙を出しております。 尾張家を継ぐことはまことに幸運であること。 家臣や領民が今度の殿様はどんな人か見守っているのだから、学問をおろそかにせず、家臣の言うことをよく聞きわけること。 養父母を実家の父母以上に大切にし、孝行すること。 領民には慈悲の心をもって接すること。 などを優しくこんこんと説いています。 当時春嶽もまだ18歳で、家督を継ぐ前でしたが、さすが後に四賢侯の一人に数えられるだけあって、自分の立場はもとより、弟の置かれた状況もよく分かっています。そして、幼くして藩主となった弟に対する細やかな愛情。 かのマリア・テレジアも、幼くしてフランス王家に嫁いだ娘、マリー・アントワネットの身を案じ、何度も手紙のやりとりをして、身を慎むこと、気配りをすることなどを諭したといいます。残念なことにアントワネットにはあまり分かってもらえなかったようですが。 慶臧の方は藩主の座にあること4年、わずか14歳で世を去ります。 少年藩主でしたから、これといった事績は残っておりません。 そして、ここにようやく藩士・領民待望の松平義恕が14代藩主となるのです。 とりあえずのまとめ 名古屋人が普段は貯蓄に励み、いざというときは派手にふるまう。 そんな気質の歴史的背景を、尾張徳川家の歴代を追うことで見てきました。 御三家筆頭として優遇され、豊かな土地で蓄えの多かった尾張。そこに宗春という個性的な君主をむかえ、名古屋の文化が花開きました。 そんな輝かしい治世もつかの間。いくら御三家筆頭といえど幕府には逆らえず、宗春は罰せられ、地味な、堅実な生き方がよいのだという認識がなされるようになります。 そして相次ぐ押し付け養子の50年間。幕府、お上には逆らえないけれども決して迎合しない、そんな反骨の精神が培われ、いざとなったら東京にも大阪にも負けないのだ、という現在の名古屋人の自負心につながっていったのです。 結婚や葬式などが派手になるのは、一世一代のことだから。これなら宗春のように罰せられません。 以上はあくまで一つの論に過ぎず、支配者の歴史だけを追っていって全てが分かるわけではありません。 ただ、こういう解釈もあることは事実です。 以上をもって尾張徳川家と現在の名古屋人気質との関連の考察は終わりです。 ですがこの後も尾張徳川家は14代慶勝、15代茂徳など、幕末に活躍した君主たちが続きます。 少しお時間をいただき、「幕末編」としてまた皆様にご紹介してゆきたいと思います。

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  • 12 May
    • 12代 徳川斉荘   金鉄組の結成

      君主国の君主は、多くは血統でその地位を保ち続けています。 ですから他家からきた嫁や養子には容赦ないバッシングが行われることもあります。 ↑クリックすると大きな画像でご覧になれます 鳩を愛した斉温(なりはる)は1839年、子供を残さず死去。後を継いだのは実兄で当時田安徳川家を継いでいた斉荘(なりたか)、30歳。 彼は極めて冷ややかな目で尾張家に迎え入れられました。 前代の斉温が一度も名古屋に来ることなく、政治もほったらかしで鳩を買うことに夢中だったのですから無理もありません。 加えて尾張徳川家の分家、高須松平家に秀之助という優秀な少年がいたのです。藩士・領民たちは秀之助の藩主就任を待ち望んでいましたが、その願いもむなしく、またもや将軍家斉の子供が押し付けられたのです。しかも当時健在であった「大殿」斉朝(なりとも:10代藩主)にも一言も相談なく、幕府首脳と藩重臣のあいだで決められたのでした。 なぜ重臣たちは幕府の言いなりになっていたのでしょうか。 やはり逼迫した藩財政、だんだん修正のきかなくなった封建社会の矛盾があったからでしょう。時は天保。将軍は12代家慶(大御所家斉は健在)。家慶が将軍就任の1837年にはあの大塩平八郎の乱が起こっています。全国規模で社会制度のほころびが見え始めていました。 そんな時代ですから、将軍公子を藩主にいただくのは何かと心強い。いざとなれば幕府からの援助が当てにできます。一種の保険、というわけです。 しかし、それは掛け金の高い保険でありました。将軍家出身ですから、どうしても幕府に迎合してしまう。斉温が藩主のとき、江戸城西丸が炎上しました。多くの大名が「お手伝い普請」に駆り出されましたが、尾張家でも木曽の木材と巨額の金銀を献上しています。このとき尾張家の領地である木曽山林に幕府役人が無断で立ち入る、という事件がありました。そのときでも強い態度に出れなかったのはひとえに藩主が将軍公子だからであろう、と多くの藩士が解釈しました。 では高須松平家の秀之助が人気が高かったのはなぜでしょうか。 尾張徳川家の分家、高須松平家でも藩祖義直の血統は断絶していました。秀之助の祖父、松平義和は水戸徳川家の出身です。母規姫も水戸家出身。ですから秀之助は最後の将軍徳川慶喜とは父系ではまたいとこ、母系ではいとこの関係になります。 血縁で言えば秀之助も斉荘と同じく、尾張家の血筋ではありません。 しかし、将軍公子という上から押し付けられた養子ではなく、分家から格上げされた養子、ならば意識も違ってきましょう。中央ばかりに顔を向けるのではなく、尾張にどっしりと腰をすえて政治を行ってくれるでしょう。 さらに父義建(よしたつ)という人がしっかりした人で、将来尾張藩主になるであろうわが子を厳しく教育しました。伯父の水戸斉昭も秀之助には目をかけていて、自分の息子(慶喜)の教育にも大いに参考としました。 このように半紙や領民たちは秀之助に期待したのですが、ふたを開けてみればまたしても将軍公子の押し付け藩主となったのでした。 これにはさすがに黙っていられない藩士も多く、そのときに出された多数の意見書が今も残っています。特に水戸家では同じようなケースで藩士たちの推す斉昭の家督が実現していただけに、尾張家だけが軽んじられるのか、と憤慨した人も多かったそうです。 ですが秀之助も血統の上では尾張とつながっていないこと、大殿斉朝や重臣たちの必死の説得もあってなんとか斉荘の藩主就任が実現しました。 そんな中で幕府や重臣に不満を持つグループ、秀之助の藩主就任を熱望するグループが形成され「金鉄組」と称されるようになります。 尾張藩士民の動揺を憂慮した幕府は、斉荘家督にあたって、長年のあいだ罪人扱いし、墓石にも金網をかけていた七代藩主宗春の罪を許し、歴代藩主並みの官位を与え、墓石の金網も撤去しました。宗春は死後75年にしてやっと安らかな眠りにつくことができたわけです。 斉荘も藩士の融和につとめます。就任後、評判の悪かった倹約令などを次々と廃止。新たな政策を模索しました。しかし、悲しいかな彼には宗春や秀之助のようなビジョンというものがありませんでした。自分が尾張家をついだらどうするのか、どうしたいのか、が抜けていたわけです。 自分なりに頑張っていた斉荘ですが、その無策ぶりに実家の幕府からも意見されています。藩政に見るべきものが無い、法令の改廃は大抵にせよ、と。 あわれ斉荘。藩士領民から好かれず、幕府からも小言を言われ、現代の史家からも低い評価しかもらえず、何もなすことのないまま、在任わずか6年にして死去。36歳。 一子昌丸(まさまる)は一橋家を継いでいたため、ここにまた、13代藩主をめぐって、将軍家=幕府と秀之助との争いが始まるのです。 斉荘は前代の斉温に比べればずっと思いやりのある、大人だったでしょう。自分のおかれた位置をよくわきまえ、決して奢らず、藩内の融和に努めたことからそれが分かります。彼がもう少し早く生まれていたら、少なくとも10代の斉朝の時代であれば、名君にはなれずとも、あそこまで反感を買うことは無かったでしょう。 まったく生まれた時代が悪かった。尾張藩の窮乏は彼一人の責任ではありません。ですが他家出身であること、将軍家からの「押し付け」であったことが彼の立場をまずくしました。これも彼の責任ではないのですが。 彼の生涯を見るとき、現代でも繰り返されている嫁、養子いじめを思わずにはおれません。 皇室が今後も存続してゆくためには、もっと開かれた皇室にするか、逆に一切を閉ざし、神秘のベールにつつむしかないでしょう。現状のまま、ということは無いでしょう。 開かれた皇室をめざすなら、このような偏見からは脱却すべきでしょう。 もしも女帝を認めることになれば、独身を強いることは人道的におかしいですから、当然配偶者を迎えることになります。皇后、皇太子妃ですらバッシングを受けたことを考えたとき、未来の女帝に誰が配偶者となっても今以上のバッシングが起こることは目に見えています。 あわれ、斉荘。彼のような境遇の人がいなくならない限り、彼の悲劇は終わらないのです。 斉荘は茶人として名高く、教養豊かな人だったそうです。政治的には殆ど語られませんが、文化的には特出した存在でした。

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  • 10 May
    • 11代 徳川斉温      一度も名古屋に来なかったお坊ちゃま藩主

      このコーナー「尾張徳川十七代」は。。。 名古屋人は普段は節約しているのに、いざという時は派手!  そんな気質の原因を江戸時代の名古屋の殿様にからめて考察していくコーナーです。 現在皇室のあり方が問われています。 はたして女帝は誕生するのでしょうか? 戦後社会ではなかなか実感の湧かない血統の断絶。 血統の断絶はどのような事態をもたらすのでしょうか? 今から200年ほど前、尾張徳川家でも同じような問題がありました。   ↑クリックすると大きな画像がご覧になれます 斉朝の後を継いだのは将軍家斉の19男、斉温(なりはる)。 9歳で藩主となり、21歳までの12年間、一度もお国入り(参勤交代で、自分の領国に入ること)なく、江戸で死去。 先代の斉朝もそうでしたが、この斉温も、それに引き続く養子たちも影が薄い。他の藩主と比べ、残っている逸話が少ないのです。やはり「押し付け養子」として、当時から今に至るまであまり人気が無いからなのでしょうか。 この頃になると封建制の矛盾はもうどうしようもなくなってきていて、尾張藩でも慢性的な財政難に陥っていました。藩は領民たちに厳しい倹約令を出します。それがぜいたく品の使用を禁じるものであったので、領民たちの反感を買いました。宗春ならわかっていたでしょうが、ぜいたく品を禁じ、代わりに粗末なものを使え、では逆効果。質素な身なりをするのにお金がかかる、という馬鹿らしい現象を招くからです。また倹約、倹約では経済が沈滞してしまいます。 こうした社会の変化と時期が重なってしまったのも彼らの不運かもしれません。 彼らとて自ら望んで養子に来たわけではないでしょう。生れ落ちるところを望んだわけではないでしょう。 それでもこの斉温には感心できないところがあります。 まず、一度も名古屋に来なかったこと。幼少のときはともかく、自分で判断できる年齢になっても動こうとしなかった。重臣や近臣たちがそうさせたのかもしれませんが。おかげでますます藩士、領民との距離が広がってしまいました。 加えて彼には困った趣味がありました。彼はハトが大好きだったのです。それこそ何百羽というハトを飼育し、専任の役人まで任命しました。ただでさえ財政難にあえぐ藩士領民たちを尻目に、莫大なお金をかけて飼育し続けたのです。その費用をめぐって不正が起きたこともあり、人々の心はますます離れていきました。 政治そっちのけで動物をかわいがるというと、五代将軍綱吉が有名ですが、彼の生類憐みの令には人命尊重もうたわれており、戦国の遺風を振り払う意味も込められていました。 むしろ鶴を愛し、大臣にまで任命したという春秋時代前期の衛の君主懿公(いこう)によく似ています。衛が侵略されたとき、兵も国民もこの殿様を見捨てたといいますが、無理もないでしょうね。 斉温は平和な時代に生を受けただけまだ幸せだったのでしょう。 斉温にとって尾張藩とは何だったのでしょうか。 21歳で死んだのですから体は余り丈夫ではなかったでしょう。将軍の公子とはいえ、望まれぬ養子ということで周囲も冷ややかだったのかもしれません。 彼がハトに熱中したのは単なるバカ殿の道楽なのか、それとも孤独のなせる業だったのか。真相は既に土の下です。

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  • 09 May
    • 10代 徳川斉朝   押し付け養子  紀伊家・水戸家の場合

      家斉の押し付け養子は血統が絶えた尾張家だけでなく、紀伊家、水戸家でもありました。 紀伊家では11代斉順(なりゆき)、12代斉彊(なりかつ)。そして斉順の子で13代の慶福(よしとみ)は将軍家に戻り、14代将軍家茂(いえもち)となります。 紀伊家の場合は「将軍家のお里は紀伊である」という意識が強く、迎え入れる側もさほど抵抗は無かったそうです。8代藩主重倫(しげのり)、この人は早くに引退させられ、「大殿」と称されながら84歳まで生きていた人ですが、彼は斉順をみて、吉宗によく似ていると喜んだそうです。 水戸家では8代斉脩(なりのぶ)が子供無く病弱であったため、その後に家斉の子を押し付けられそうになりました。水戸側でも幕府に迎合するもの―主に保守派の重臣たちがいて、斉脩には弟がいるが、まともに生活のできない人間で後を継ぐことができない、是非家斉の子供を養子にしたい、と言ってきました。 これに憤慨した藤田東湖(ふじたとうこ)を中心とする改革派たちが斉脩死後、藩の禁を犯して無断で江戸へ急行し、弟襲封のため奔走しました。下士・農民ら数百人もこれに続き、関所で押しとどめられ、そのまま待機。 斉脩には遺言があり、弟にあとを継がせるとあったため事は収まりました。 この弟、保守派重臣たちに暗愚であるとされた人物こそ、徳川斉昭(なりあき)、烈公と称され藩政改革を断行し幕末の政局に大きな影響を与えた人物です。最後の将軍、慶喜(よしのぶ)はこの斉昭の7男になります。 水戸家よりもプライドの高かった尾張家のこと。押し付け養子はできることなら拒否したかったでしょう。 ですが水戸家と異なり、宗家も分家も血統が断絶していたことで養子を受け入れざるを得ず、幕府に対する反感も表に出せない分だけたまってゆきました。 名古屋人は中央に対する反骨精神はあるものの、普段はお上に従順であるとされています。 名古屋の特色である広い道路網――代表的なものは「百メーター道路」と呼ばれています――も、そのあらわれ。戦後焼け野原になった名古屋に、人家の前にまず道路を作り上げた当時の人々の先見の明もありますが、道路を作るから立ち退いてくれ、との指示に素直に従った人が多かったのも事実。 各所のお墓を集めた平和公園もそうですね。お墓の引越しまでしてるんです。 こうしたお上に対する従順さは、この江戸後期に培われたとの説があります。 尾張家10代斉朝(なりとも)は8歳~35歳まで、27年間藩主の座にありました。子供は無く、将軍家斉の19男、斉温(なりはる)に後を譲りました。引退後は名古屋に屋敷を構え、1850年、58歳で死去するまで終生名古屋で過ごしました。

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  • 07 May
    • 10代 徳川斉朝   一橋家、諸大名を血統で支配する

      このコーナー「尾張徳川十七代」は。。。 名古屋人は普段は節約しているのに、いざという時は派手!  そんな気質の原因を 江戸時代の名古屋の殿様にからめて考察していくコーナーです。 1799年、9代尾張藩主、徳川宗睦(むねちか)死去。また1801年には分家の高須松平勝当(かつまさ)死去。ここに藩祖義直の血統が絶えました。この後およそ50年間は将軍家、一橋徳川家から次々と養子が来、藩士領民の意向を無視した「押し付け養子縁組」に反幕の意識が高まってゆきます。 御三卿の成立 ↑クリックすると大きな画像でご覧になれます。 将軍吉宗は享保の改革の立役者であり、幕府中興の英主でありました。 しかし、彼も人の子。晩年は己の血統が将軍位を独占することを強く願いました。尾張家の宗春の反逆に手を焼いたのもその一因かもしれません。 最初、吉宗は宗春を隠居させた後の尾張家に自分の次男宗武(むねたけ)を押し付けようとしましたが、尾張家重臣たちの反対にあって断念。御三家を自分の子供に継がせるのが無理と知り、1746年、宗武と四男の宗尹(むねただ)にそれぞれ10万石を与え別家させました。 二人はそれぞれ徳川を名乗り、江戸城内に屋敷を与えられ、屋敷の所在地名をとって田安徳川家、一橋徳川家と呼ばれるようになりました。これに吉宗の死後の1759年に別家した、9代将軍家重の次男重好(しげよし)の清水徳川家を加えて御三卿が成立します。 御三卿は御三家より将軍家に近い存在として、独立した藩を持つことなく、単なる血のリザーブとしての存在でした。これ以降将軍後継争いは陰湿を極めます。 私はここに吉宗のエゴを感じ、「名君」「中興の英主」と彼を手放しでほめることに抵抗を感じるのです。 御三卿は将軍家の家族、部屋住みの存在です。独立した藩を持っていない。ですから彼らは将軍位を渇望し、あれこれ陰謀を張り巡らせました。 これが御三家なら、宗春のように自分の領地で自分の政治を行うという目標、存在意義があるのですが、御三卿にはそれがありません。将軍位につけなければ無用の存在なのです。そして将軍家に不幸があったときだけ、存在意義が出てくるのです。 幕末、将軍家最大の後継者争いが安政の大獄につながり、多くの人を巻き添えにしました。あそこまで陰惨を極めた後継者争いの責任の一端は、吉宗のエゴにあるといってよいでしょう。 一橋家の進出 さて、将軍家の不幸は尾張家の不幸とほとんど同じ時期に起こりました。 10代将軍家治(いえはる)の長子、家基(いえもと)は聡明をうたわれていましたが、18歳のとき、狩りに出かけた帰路、体調不調を訴え、急死します。一説には家基の聡明さを嫌った田沼意次の陰謀だと言われています。もっとも、家治、家基に死なれて一番困ったのは田沼なのですから、この説は根拠が弱い。 もしも、もしも家基の死が陰謀であるとするなら、その一番の容疑者は一橋徳川家の治済(はるずみ、はるさだ)でしょう。系図をご覧になればお分かりのように、彼の子供や孫は将軍家、大名家の後継となり、一番得をしております。 あの有名な松平定信を田安家から他家へ無理やり養子に出したのも、古くは田沼の陰謀といわれていましたが、最近ではこの治済が黒幕であるとされています。 こうして治済、および一橋家は将軍家、田安徳川家、尾張徳川家を支配することに成功しました。 そして、11代将軍となった家斉(いえなり)は歴代最多の56人の子供をもうけ、その大半は早世するも、たくさんの子女が大名家の養子となったり、大名家へ嫁いでゆきました。 こうして紀伊家、もっといえば一橋家の血統が全国に張り巡らされることとなりました。 ↑家斉の子供たち クリックすると大きな画像でご覧になれます 全国の大名の苦難は相当のものでした。将軍の子女を養子、または嫁に迎えることは莫大な支出を意味したからです。 有名な東大の赤門は、加賀藩前田家が家斉の娘、溶姫を迎えるために造った物です。 将軍、老中も子女の受け入れ先を見つけるのに苦労し、受け入れた家には家格の上昇をもって報いるなどしました。

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  • 01 May
    • 9代 徳川宗睦  血統の断絶  

      このコーナー「尾張徳川十七代」は。。。 名古屋人は普段は節約しているのに、いざという時は派手!  そんな気質の原因を 江戸時代の名古屋の殿様にからめて考察していくコーナーです。 現在皇室のあり方が問われています。 はたして女帝は誕生するのでしょうか? 戦後社会ではなかなか実感の湧かない血統の断絶。 血統の断絶はどのような事態をもたらすのでしょうか? 今から200年ほど前、尾張徳川家でも同じような問題がありました。 ↑クリックすると大きな画像でご覧になれます 先の記事で申しましたように、宗睦(むねちか)は藩政改革を推し進め、「名君」とみなされました。 しかし、家庭生活ではきわめて不幸な人でした。 40年に渡る長き在位。英国のヴィクトリア女王の例をみればお分かりのように、長期の在位は後継者の高齢化をまねきます。 その上、宗睦は後継者に次々と先立たれ、寂しい晩年を送りました。 <以下系図参照;年齢は全て数え年> 系図を見てお分かりのように、宗睦には2人の男子と一族から迎えた養子が数人いました。 大名の名前について で申しましたように、当主と嫡男は将軍の名前から一字もらいます。これを見ると、3人の男子が10代将軍、家治より一字もらっていることが分かります。彼ら3名はどうして宗睦の後を継げなかったのでしょうか。 1774年に長男、治休(はるよし)が21歳で死去。この長男は優しい人柄で、領民にも慕われていました。その死を知り、藩士も領民も嘆いたといいます。 1777年、次男の治興(はるおき)死去。兄と同じ21歳でした。 実子に先立たれた宗睦は、甥で5代高須藩主の松平義柄(よしえ)を養子に迎えます。 治行(はるゆき)と改名し、七代紀伊藩主、徳川宗将(むねまさ)の娘、従姫と結婚した彼も、宗睦の後を継ぐことはできませんでした。 1793年、徳川治行死去。34歳。 治行と従姫の間に生まれた五郎太も父の後を追うかのように亡くなります。 1794年、五郎太死去。14歳。 宗睦は次に甥の勇丸(いさまる)を養子に迎えますが、2年ともちませんでした。 1796年、勇丸死去。3歳。 こうして年代を並べてみると、何か怖くなってきます。 特に治行死去の1793年から宗睦死去の1799年までは死人のオンパレードです。 空想豊かな作家さんなら、 「尾張家乗っ取りを企む暗殺か?」 と、1本の小説が書けるかもしれませんね。 こうして一族の中での後継者選びをあきらめた宗睦は、11代将軍家斉の息子を養子に迎えますが、これもほどなく死去。 最後に養子に迎えた一橋治国の息子、斉朝(なりとも)が10代尾張藩主となります。 ここに藩祖義直(よしなお)の血統は断絶。紀伊家の血統の藩主がその後50年続くのです。 冒頭に掲げてあります、名古屋人の気質。いざと言うときは派手でも普段は地味、というより、お上に従順。でも反発心を隠し持っている、とうのは宗春時代と、この後の50年間の「押し付け養子」時代に培われたものだという説もあります。

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  • 29 Apr
    • 9代 徳川宗睦  尾張藩の「吉宗」  

      このコーナー「尾張徳川十七代」は。。。 名古屋人は普段は節約しているのに、いざという時は派手!  そんな気質の原因を 江戸時代の名古屋の殿様にからめて考察していくコーナーです。 宝暦治水工事で恩恵をこうむったのは沿岸の農民たちばかりではありません。 尾張徳川家もまたその恩恵にあずかりました。 「尾張」徳川家は、尾張国のみならず美濃、信濃にもその領地がありました。特に木曽の山林は石高に計上はされていませんが、尾張家にとって大事な財源でした。 9代藩主宗睦(むねちか)は、この治水工事の恩恵もあり、傾いた財政を修復するための尾張藩の「天明の改革」に一応成功しました。 彼の治世は四十年の長きにわたり、人材登用、人材育成、法令の整備などさまざまな改革を行いました。 しかし、その彼をもってしても封建制の矛盾は克服できず、晩年に行った藩札の発行はその後長く尾張藩財政を苦しめることとなります。 宗睦は文教政策にも心を砕き、藩校「明倫堂」を創設しました。 その初代督学(学長のようなもの?)に、米沢藩の名君、上杉鷹山(ようざん)の師である細井平洲(へいしゅう)を指名。その平洲の意見により、一般の人にも聴講が許され、幕末まで大きな影響を与えました。 もともと平洲は尾張国の農家出身だったのですが、はやくから京都、江戸などで活躍。上杉鷹山の師として、その藩政改革を補佐し、米沢だけでなく多くの大名、庶民の支持を得ていました。 幕末、14代藩主となった徳川慶勝(よしかつ)は宗睦を理想とし、藩政改革を進めました。松平定信、水野忠邦が吉宗の改革を理想としたように。宗睦は尾張家の「吉宗」といえましょう。 藩校明倫堂はその後、明倫中学校→明和高校として、現在も続いています。 明和高校は愛知県下尾張学区(愛知には尾張、三河の2学区がある)有数の進学校としてあまたの人材を輩出しています。

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