秦健日子 『推理小説』

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アンフェアなのは……俺だな

秦 建日子
推理小説

今回はちょっと辛口で。

夏目漱石の作品には強い女性、恐れないヒロインがしばしば登場しました。いや、ほとんどの作品のヒロインがそうであるのかもしれません。『草枕』那美『虞美人草』藤尾『三四郎』美禰子など主体的な生き方をする「新しい女性」が有名ですが、『それから』三千代『行人』お直など「家」に取り込まれた主婦も、どうしていざとなるとものおじしません。むしろ男の方がうろたえている。もっともおとなしい(と私が思っている)『門』お米ですら、過去の過ちに追いつかれようとして怯える夫の横で、静かな寝息を立てている。それは夫から何も知らされていないからなのですが、恐らく知らされたとしても彼女は夫ほど悶々とせず、逃げるなり立ち向かうなりの行動をとったのではないかと思います。それほど漱石が見る女性は現実への適応能力がある。
*実は藤尾はきつい性格ではあるけれど、弱い女性です。

実際は社会的に弱い立場にある女性――昔の話ですよ――が、強者の男性よりも強い面を持っている。実はこれ、男性ゆえの恐怖なのかもしれませんね。未知への憧れと恐怖。
戦後靴下と女性は強くなったと言いますが、フィクションの世界においても、漱石が昔描いたような、主体的に人生を切り開く女性が多数登場しました。彼女らはやはり魅力的で人気があります。漫画でも、華奢とはいわないが、どう見ても筋肉のあまりついてない女性がしばしば怪力を発するものがある。「火事場のクソ力」は女性の方が強いと言うけれど、危機一髪でなくても常に強い女性が描かれています。
まあ、男性が強く女性が弱いというのは、あまりにもベタなんでしょうかね。


本作は『推理小説』というタイトルにかかわらず、推理小説ではありません。ミステリを何冊か読んだ方なら簡単に見破られる、過去にも数例ある●●トリックと犯人。作中「フェアかアンフェアか」という問題も語られ、ヴァン・ダインの十戒ロナルド・ノックスの二十則も(名前だけ)出てきますが、さりとてミステリが内包する矛盾を描いたものでもありません。それに、それならすでに東野圭吾さんの優れた作品があります。
東野 圭吾
名探偵の掟  名探偵の呪縛

ミステリとしてはアンフェアでも犯罪者の、あるいは人間の心理として自然だ、との記述も出てきますが、それも付けたしの観が否めない。それにこれもまたドストエスフキイ『罪と罰』で見事に描ききっています。
ドストエフスキー, 工藤 精一郎
罪と罰 (上巻)  罪と罰 (下巻)

無差別殺人が行われ、主人公の関係人物にまで魔の手が伸びるか? という部分もありますが、ドキドキハラハラのサスペンスとも言えません。ドキドキハラハラとはこういうのを言う。
ウイリアム・アイリッシュ, 稲葉 明雄
幻の女


何とも中途半端な作品です。本作は後にドラマ化されたのですが、ドラマの原作というよりも、先に書かれてはいるものの、ドラマのノベライズと言った方がしっくりきます。
つまり内容が薄っぺらいのです。手軽に読めるのはよいのですが、せっかく用意した設定をいかしきっていない。
私は本作を読んでしばしば既視感を覚えました。

・エキセントリックなヒロインと、それに振り回される常識的な(つまり小物臭をただよわせた)男性
・読者への配慮が欠ける、お手軽な文章

そうです。最近読んだ『涼宮ハルヒ』シリーズです。
つまりこれはラノベ(ライトノベル)とは言わないまでも、キャラクタ小説なのです。
冒頭申し上げた漱石が描いた女性の強さとは異なる、パワフルかつエキセントリックなヒロイン、雪平夏見(ゆきひら・なつみ)――この凝ったネーミングもラノベっぽいと言える――は確かに魅力的です。篠原涼子さんが演じてみたいとおっしゃったのもうなずける。役者ならこういう矛盾を抱えたキャラクタは演じてみたいと思うでしょうね。ロバート・デ・ニーロ『レナードの朝』の主演を熱望し、ジャック・ニコルソンをはじめ多くの名優が『カッコーの巣の上で』で見事な演技を披露しました。
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
レナードの朝
ワーナー・ホーム・ビデオ
カッコーの巣の上で
*雪平夏見がサイコであるという意味ではありません。個性的なキャラクタは多くの名優を惹きつけるということです。念のため。

日常生活ではだらしなく、事件に対しては精力的というのも初期のホームズを思わせます。 つまり「名探偵」の条件にバッチリ。
しかし、ここでも難を言えば、彼女を「無駄に美人」とか、すばらしいプロポーションと書いたのは、まさに「無駄なこと」だったと思います。「美人」というのは一番陳腐な形容ですよね。篠原さんも、読者も、彼女のアクティブさに惹かれるのであって、それを通じて美しいと思う。彼女の強さも弱さも、そしてその生き様も、すべてひっくるめてかっこいい、美しいと感じる。その点ではすごいと思う。主人公の存在感はすごいと思います。
「美人」と書かなくても美しいと思うのですから、「美人」というのは余計な表現。 きついことを言えば安っぽい。
また、作中人物が発した 「読者が本を選ぶのではなく、本が読者を選ぶ」という旨の言葉がありますが、実はこの作品こそが、表現の至らなさで読者層を狭めている。
例えば大物芸能人として浜崎あゆみさんの名前が出てくる。浜崎あゆみと誰々が結婚しないかぎり話題独占云々という文章があるのですけれど、これもまた先の「美人」と同じく、安易な例えですよね。秦さんはテレビ界のお人だし、出版社もそちら側の人間だからスルーしたのでしょうが、失礼ながら浜崎さんは全世代に知られているわけでもないし、その人気の寿命も読めない。単に「大物芸能人」とすればすむ。他にも同じような例は数箇所あります。
星新一さんは風俗描写を避けた。それはショートショートという特殊なジャンルゆえの配慮かもしれません。それでも星さんのおっしゃるように「風速描写は腐りやすい」。今をときめく芸能人や人気のテレビ番組も、五年十年もすれば注釈抜きではわからなくなる。もちろん浜崎さんがそうだと言っているのではありません。そうでないとも言えませんが。だから少し気を利いた人なら、このような描写は避けるはずです。 風俗描写が必要ならばともかく、文脈から見ても必要がない。単に配慮が足りないだけなのです。
まあ、こんな具合に『ハルヒ』シリーズと同じく限られた読み手に放った文章をつづっているんですよ。
要するに書かなくてもいいことを書き、書かなければならないことが書いていない。

それに正直な話、「強い女性」と「おとなしい男性」には食傷気味です。今後も出てくるでしょうが、恐らく漱石の描いた女性のような魅力は感じないでしょう。

ドラマは未見ですけれど、恐らくかなり面白いでしょう。秦さんが文章で書くことができなかったあれやこれやを見事に表現するでしょうから。


アンフェアなのは安全なところからアレコレ言っている私かもしれませんね。
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