小林多喜二 『蟹工船』

テーマ:
プロ文の傑作
小林 多喜二
蟹工船・党生活者

小林多喜二『蟹工船』は、プロレタリア文学の代表として国文学および日本史の教科書に必ずと言ってよいほど載っています。恐らくほとんど全国の中学生・高校生の目に触れ、耳に入っている名前です。 そしてその際作品よりも多喜二の生涯が、正確に言えば多喜二の思想と死がいつも語られています。

こばやしたきじ 【小林多喜二】(1903-1933) 小説家。秋田県生まれ。「1928 年 3 月十五日」でプロレタリア文学の旗手として登場。「蟹工船」「党生活者」など労働運動・革命運動の現実を書いた。地下活動のさなか、官憲の手で虐殺された。
[ 大辞林 提供:三省堂 ]

作家の生涯が作品と絡めて語られることはよくあります。太宰治三島由紀夫など、その生涯や思想が好んで語られる作家ですね。それでも彼らはたくさんの著作があり、作家=作品というとらえ方はされない。それが多喜二の場合、若くして死んだことから著作がすくなく、また共産党活動をしていたこと、そしてセンセーショナルな死とあって、作品を独立して語られることが少ない。かく言う私も色眼鏡で見、相当敷居の高い作品だと思っておりました。 高校時代にはとてもじゃないが読む気にならず、初めて読んだのは大学を出てからです。


「プロ文(プロレタリア文学)のプロはプロパガンダのプロだ」

なんてうそぶく友人もおりました。かの太宰治も、プロレタリア文学を評して

「無理な、ひどい文章だ」

と語ったことがあります。

(太宰の指摘はまことにごもっともなのですが、彼自身党活動を支援し、転向してしまった。彼にとっては活動支援というのはファッションのようなもので、このせりふの背景にはそういった自分を恥じる意識があるのだと、勝手に思ってます。)

確かに主義主張を押し出すあまりに、人物描写、場面描写が形骸化することはよくあります。現在でもそのような書籍が多く見られます。


しかし作品を読まずにあれやこれや言うことのなんとむなしいことか。太宰は作品を読んでの発言ですが、太宰ファンだった高校生の私は、太宰の文学評を聞いて、食わず嫌いになっていたのです。一度でも本作を読めばそれがいかに愚かなことであるか、はっきりとわかります。

本書はプロ文の本来の特質である現実主義に徹した文学です。実際にあった事件をもとに、新聞社に勤めているという立場を活かして十分に取材し、ただ単に事実を羅列することなく、劣悪な労働環境にいる人々を見事に描いています。これは共産主義をうたった作品でもなければ、資本家や当時の支配層を告発した作品でもありません。人間を描いた作品です。


タイトル通り蟹工船「博光丸」――オホーツク海に蟹漁に出向き、水揚げし、船内の工場で缶詰に加工する船が舞台であり、登場人物の全天地となっています。さまざまな事情から期間労働者として集められた人々は「糞壷」と呼ばれる狭い空間に住居し、会社の代表である淺川監督から文字通りこき使われ、リンチされ、生きながら殺されつつあります。主人公といえる中心的なキャラクタはおらず、時折名前が出てくるものの、それで識別できるような人物は監督である淺川意外は皆無といってよく、糞壷に住居する群集全員が主人公といってよいでしょう。

資本家の手先(なんて書くとプロパガンダ文学めいてますが)である淺川たちは船の上層で清潔かつ豊かに過ごし、労働者達は船の下層で不潔に暮らしています。その不潔さや、彼らの無学さも無骨な文体でリアルに描かれています。また彼らの交わす会話を通じて、当時の工場や鉱山での様子も語られます。

私は本作以前に夏目漱石『坑夫』――これは漱石には珍しくドキュメンタリータッチの作品なのですが――を読んだのですが、それが牧歌的に思えるほど、悲惨な状況が語られています。

夏目 漱石
坑夫

*とはいえ、決して『坑夫』は牧歌的な作品ではなく、これはこれでシビアな内容です。また朝日新聞に移る前の漱石はしばしば社会問題を取り扱った作品を書いております。



正直申しまして彼らの不潔さと無学、そして無知には時折軽い嫌悪を感じます。

何の楽しみもない彼の性欲というのも大変であって、雑夫として乗り込んでいた少年達を、お菓子などでつってその捌け口にするなど、読んでいてやるせない場面もいくつかあります。淺川を恐れ憎みつつも、アメとムチを使い分ける(といってもムチが圧倒的なのですが)手法に簡単に乗せられる。護衛として付き従う海軍の駆逐艦、そこに掲げられる日の丸。それらを見て頼もしさを感じたりする純朴さも持ち合わせている。つまり彼らは私達と変わらぬ人間なのです。

私が彼らに軽い嫌悪を覚えるのは、私が清潔かつ健康的な環境に充足しているからであって、現在でも劣悪な環境で働いている人は少なくないでしょうし、そのような人々の有様は本書の彼らとそう変わりはないでしょう。


私達は本書に何を見るか。プロ文とか、共産主義とか、各種お題目を取り払って何を見るか。

そのような意味で本書は文学を読むとはどういうことかをも私達に教えてくれる作品です。

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