谷川流 『涼宮ハルヒの憂鬱』

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キョンと言っても鹿の仲間のキョンではありません


谷川 流, いとう のいぢ
涼宮ハルヒの憂鬱


諸書によれば「おたく」という言葉はコラムニストの中森明夫さんが1983年に使ったのが最初だそうです。その定義は人によってかなりの幅がありますが、最大公約数的なものを述べれば


俗に、特定の分野・物事を好み、関連品または関連情報の収集を積極的に行う人。狭義には、アニメーション・ビデオ-ゲーム・アイドルなどのような、やや虚構性の高い世界観を好む人をさす。 ・ 漫画―

〔補説〕 多く「オタク」と書く。二人称の「おたく(御宅)」を語源としエッセイストの中森明夫が言い始めたとする説が有力。1980 年代中ごろから用いられるようになった →マニア

[ 大辞林 提供:三省堂 ](下線引用者)

ということになりましょうか。異論は多々あると思いますが、普通の辞書に載っている解釈ですので、ご年配の方々を含めた一般的な見方ではないかと思います。

そして事象は言葉に先行するものであります。ならば、ガンダムの第一作を題材にした漫画を読めば当時の声優さんの声が脳内で自動再生される私は、オタク第一世代といってもよいでしょう。私の周囲の人間も同じ解釈のようです。

ところがいつの間にか私は時代に取り残されておりました。

「萌え」という言葉に拒絶反応をし、アニメ絵を見れば避けて通るようになりました。簡単に言えば若いオタクさんたちと話が合わないのです。アメーバーヴィジョンなどに投稿されているその手の動画も苦手です。

これではいかん。なんとか社会復帰せねば。

なんてことを思いましてね。「社会復帰」という言葉がふさわしいのかどうかは怪しいのですけれども、本当にそう思ったのだからしょうがありません。


アニメ絵に拒絶反応があるというのは損なことです。表紙やイラストが漫画チックなものが多くなって久しいのですから。見た目で判断してしまうと、名作傑作を逃してしまうことに。

とうことで今話題の(と書いてる時点で私は遅れているのか?)『涼宮ハルカの憂鬱』を入手。初めてライトノベルというものを読みました。

ライトノベルがオタク文化に属するかどうか、これまた多々意見がありましょうが、imidas等でそのように分類されているので世間一般にはそうなのでしょうし、私もそう感じます。

ライトノベル
ラノベと略される。漫画・アニメ調のキャラクターをカバーイラストや挿画に用い、その魅力が商品力の少なからぬ部分を担っている小説のこと。漫画・アニメ・ゲーム分野の潮流をくみ、そのような人物設定や世界観を用いているところに内容的な特徴がある

(中略)

ラノベは一般の文芸に対して低く見られているが、ラノベ出身の直木賞作家も数人出ている。

〔imidas2007より 下線引用者〕


実にわかりやすい説明であります。欲を言えば「ラノベ出身の直木賞作家」を挙げていればもっとわかりやすかったでしょう。

そして下線部の観点からすれば、本作はまさしくライトノベルの王道を行っていると言えるでしょう。漫画・アニメ・ゲーム。その中でも特にゲーム、それもいわゆる美少女ゲームをやったことがない方、あるいは苦手な方には本書は読みづらいかもしれません。ええと、私はそれらに抵抗がないので十分楽しめましたよ。

ヒロイン涼宮(すずみや)ハルヒと語り手であるキョン(これはあだ名で、本名は最後まで不明です)のキャラクタになじめるかどうかが大きな分かれ目です。

ハルヒは本文でも書かれているようにはなはだエキセントリックな性格で、幼稚かつ自己中心的であります。加えて美人(本作の女性キャラは全員美少女なのですが)。実はこの手のキャラクタは決して特殊ではなく美少女ゲーム定番です。

対するキョンは受動的。周囲の状況に心中突っ込みは入れます――それもかなり饒舌な突込みを入れますが、ハルヒの行動に振り回されてばかりで、主体的に行動することは滅多にありません。実はこれもゲーム世界では普遍的なのです。ほとんどすべての美少女ゲームに共通しているといってもよいのですが、プレイヤの分身である主人公はゲーム世界の中で女性キャラクタの言動を受けて自分の言動を選択してゆきます。女性キャラの行動を待たねば物語が進まないからであります。(これまた異論はありましょうけれども)

キョンはまさにゲームの主人公的なニュートラルなのです。その無個性さゆえに語り手となりうるのです。地の文における彼の饒舌さもゲーム世界そのままで、ゲームでは主人公の一人称視点で語られることが多く、周囲の状況に一人で突っ込み(時には一人でボケとツッコミの両方をやることも)ます。

本名が不明だというのもゲームの主人公と同じ無個性さを象徴しています。

キョンの、ひいては物語のゲーム的性格がもっとも顕著にあらわれているのはその会話においてでしょう。

彼の台詞はしばしばカギ括弧でくくられずに書かれています。しかしそれが心の中のつぶやきかと思えばそうではなく、他の人物がちゃんと言葉を返しています。

作者が意識的にしたことなのか、はたまた無意識なのかはわかりませんが、この仕掛けはすぐれてゲーム的であり、ゆえにゲーム世代の読者は物語に引き込まれてゆくのです。

本書の評価が二つに分かれるのもこういった物語の性格にあります。


私は他のライトノベルを読んだことがないのでわかりませんが、実は上記の事柄はライトノベルには多く見られるものなのかもしれません。たとえそうであるにせよ、すぐれた仕掛けであることには変わりはありません。


物語の前半はお約束なキャラクタがお約束なドタバタを演じて過ぎてゆきます。ハルヒとキョン以外のキャラクタも美少女ゲームに出てくるものばかりなので、作中でハルヒ自身がそのようなキャラクタを集めた(あるいは集まった)と言っており、ここでも自己突っ込みが見受けられます。正直私には前半はつらいものでした。このままダラダラで終わるのならば、私のオタク社会復帰は無理だろうと感じましたね。

ところが後半で物語りは変貌を遂げます。そのゲーム的な性格は相変わらずなのですが、主役、つまり主体的なキャラクタであるハルヒの立ち居地がまったく反対になってしまうのです。彼女の性格は相変わらずのままなのに、です。クライマックスでは彼女が狂言回しであったこと、ゲームでいうところのプレイヤの位置であったことがわかり、逆にキョンが登場人物物語を引っ張るのです。

この逆転が本作のスニーカー大賞(角川主催のライトノベルを対象とした文学賞)を受賞した理由であり、人気の理由でしょう。


そして見事なことに世界観が逆転してもそのゲーム的性格は変わらず、むしろ強まっているのです。

これはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』あたりから描かれてきたのですが、観察者のいない世界は存在が不確か(かもしれない)であり、観察者の中心である自己が認識しうる世界が現実であるというもの。世界の中心は自分であり、自己の変革により世界が変わるというもの。

ゲームはまさにそうですね。ゲーム世界に存在するすべてのキャラクタ、すべての施設はプレイやの分身である主人公のために準備され、主人公次第で変わってゆく。このように申しますと先述した受動的な主人公キャラクタと矛盾していると思うかもしれませんが、主人公は世界を観察し、それを受けて行動し、その主人公の言動で世界も変わってゆくということです。

私はネットゲームをやったことがないのでわかりませんが、一人でやるロールプレイングやアドヴェンチャー、シミュレーションゲームではそうです。

本書がアニメ化され深夜枠で放送、そこで大きな人気を得たのは、上記imidas定義での優れたライトノベルの証明でしょう。

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