ランカスターとヨーク (シェイクスピアの史劇) | 東海雜記

東海雜記

主に読書日記

イングランドは長いあいだ狂気にとりつかれ、

おのれを傷つけてきた、兄は弟の、弟は兄の血を

見さかいなく流しあい、無法にも父はわが子の、

やむなく子はわが父のいのちを奪いあってきた。

無残にも分裂をかさね、長いあいだ

引き裂かれていたヨーク、ランカスター両家を、

おお、いま、それぞれの王家の真の継承者

リッチモンド、エリザベスの両名の手によって、

一つに結び合わせることこそ神の思し召しだろう!

 リッチモンド伯ヘンリー (『リチャード三世』第五幕第五場)



ランカスター、ヨークはともにイングランド北西部、北部の地名であります。現在でもランカシャー州にランカスター市が、北ヨークシャー州にヨーク市があります。

それぞれの地域を領地としたので、それが家名になったんですね。日本で言えば徳川御三家の尾張家や紀伊家と似た存在です。両家はもともと兄弟の間柄であったのです。


百年戦争を引き起こしたエドワード3世(1312~77)、在位は50年の長きにわたり、王妃フィリッパ・オブ・エノー(1314~69)との間に、なんと七男五女、計十二名の子供をもうけました。ちなみにこの後も頻繁に出てくる「オブ・~」とは生地あるいは生家をあらわす呼称です。フィリッパはフランスのエノー伯爵家の出身です。十二人中、成人したのは男子五名と女子三名でした。


エドワード三世 フィリッパ・オブ・エノー エドワード3世紋章

(エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノー;エドワード3世の紋章)



長男はブラック・プリンス(黒太子)として名高いエドワード・オブ・ウッドストック(1330~1376)。ウッドストック城に生まれ、百年戦争前半で活躍し、勇名を内外に轟かせましたが、惜しくも父よりも先に死去しました。なぜブラック・プリンスというロックバンドみたいな名前なのか、どんな武勇をたてたのか、詳しくはコチラ の記事を見てください。


黒太子エドワード ブラックプリンス ブラック・プリンス紋章
(エドワード黒太子の肖像画と彼の棺に飾られた木像;そして紋章)


次に生まれたのが長女のイザベラ(1332~79)。彼女もウッドストック城で生まれました。3歳の時に、父はカスティーリャの王子ペドロ(後のペドロ1世)に嫁がせようと考えましたが、なぜかこの話は没になり、その後数度結婚話があったのですけれども、いずれも縁がなく、結局33歳まで独身で暮らします。浪費家のオールドミスであったとの記録も残っていますが。。。なんとなく同情しちゃいますね。結局33歳でフランスの貴族アンゲラン・ド・クーシーと結婚します。ポワティエの戦いで捕虜になっていたフランス王ジャン2世が、身代金が払えずに、自由になるために交換に人質となったのがアンゲラン。ですから、彼も当時はイングランドにいたのです。父王は彼女に多量の宝石と莫大な生涯年収を与えたといいます。

その後、フランスに戻ることを許された夫とともに大陸に渡りますが、しばらく後、夫婦そろってイングランドに戻ります。

彼女は夫との間に二人の娘をもうけましたが、父の死後、夫、子供両方に引き離され、イングランドでさびしくその生涯を閉じました。彼女の財産はフランス王とイングランド王にほとんど没収されました。


次女は同じくウッドストック城で生まれたジョーン(1333~48)。彼女は父王お気に入りの娘であったそうです。姉と破談になったペドロと結婚することになりました。カスティーリャと婚姻を結んだのは、対立していたフランスを牽制するためでした。ところがカスティーリャへの旅の途中、フランスでペストにかかり、13歳であえなく世を去りました。彼女の死は父王に衝撃を与えたといいます。ペドロは結局フランス貴族の娘と結婚しますが、この正妻とは仲が悪く、幽閉してしまいました。


次男ウィリアム・オブ・ハットフィールド(1337)は生後5ヶ月で死亡。


三男ライオネル・オブ・アントワープ(1338~68)。その名のとおり、フランドル(今のベルギー)生まれ。彼は主にアイルランドで活躍しました。彼もまた、一人娘を残して父に先立って死にますが、その子供(つまりライオネルの孫)、ロジャー・モーティマーはリチャード2世から相続人に指定されます。しかし彼が王位を継ぐことはなく、男子は途絶え、その血は娘婿のヨーク家に続くのです。

ライオネル紋章

(クラレンス公ライオネルの紋章)


四男がランカスター家の祖、ジョン・オブ・ゴーント(1340~99)。ゲントで生まれたのですが、ゴーント。彼はヘンリー3世のひ孫、ランカスター公爵ヘンリーの娘ブラン首都の結婚により、広大なランカスターの領土を相続しました。


ジョン・オブ・ゴーント ジョン紋章
(ランカスター公ジョンと彼の紋章)

フランスにも広大な領地を得、父王死後、国内最大の領主となります。また少年王リチャード2世の最年長の叔父として、政治上でも絶大な勢力をほこりました。しかし兄黒太子と父王の死後はフランスとの戦況も思わしくなく、度重なる増税でワット・タイラーの乱を招くなど、人気を失ってゆきます。そして彼の強大な勢力を疎ましく思ったリチャード2世とその側近により遠ざけられます。彼は『リチャード2世』に描かれているような善人ではありませんでしたが、王位をうかがうほどの野心家でもなかったようで、身の潔白を証明するために苦心しました。

1386年には二番目の妻がカスティーリャ王ペドロ2世の娘であることを理由にカスティーリャ王位を主張。大陸に渡ります。もちろん王位実現はなりませんでしたが、その娘がカスティーリャ王に嫁ぎ、ジョンの血統が王位に就いたことは先述しました(下の系図を参照してください)。


ペドロ1世とエンリケ2世

(↑クリックすると図が拡大します)


ジョンの紋章2

(ジョンがカスティーリャ王を主張したときに使用した紋章。第2、第3クォーター《つまり右上と左下》にカスティーリャ王の紋章を使用している)


彼は生涯3度の結婚をし、そのいずれの結婚でも王となる子孫を残しています。

すなわち、最初の妻ブランシュとの間の子ヘンリー4世から始まるランカスター王家

2番目の妻コンスタンシアの孫がカスティーリャ王家

そして長年の愛人であり、コンスタンシア死後3番目の妻となったキャサリン・スィフォードとの子供、ボーフォート家は後にテューダー家と婚姻を結び、エリザベス女王で名高いテューダー朝へとつながってゆきます。


彼の留守中に息子ヘンリーは氾濫を企て、一度は許されますが、彼の死の前年には息子は国外追放となります。そして彼の死後、財産を没収するという王の乱暴な処置に、息子ヘンリーは怒り、結局王位を奪い取るのです。これがばら戦争の遠い原因となるのです。

ジョンは、政治家としても軍人としても有能とはいえませんが、その大きすぎる財産が、彼の生前も死後もイングランドを揺るがすことになったのでした。



五男エドマンド・オブ・ラングリー(1341~1402)。彼は兄ジョンとは違って無欲な人で、初代ヨーク公となったのも、乱かsたー公ジョンの勢力が大きくなるのを恐れたリチャード2世の政策でした。面白いことに、彼の最初の妻イザベラはジョンの2番目の妻コンスタンシアの妹、彼の2番目の妻ジョーンはジョンの息子の妻の姉でした。ランカスター、ヨークは最初から婚姻関係で結ばれていたという訳です。


エドマンド・オブ・ラングリー エドマンド紋章

(エドマンドの肖像と紋章)



三女ブランシェ(1342)は生後まもなく死亡。


四女メアリー(1344~62)はウィンチェスターの近くのウォルサムで生まれ、1361年にフランス貴族ブルターニュ公ジャンと結婚しますが、翌年死亡。子供はありませんでした。


五女マーガレット(1346~61)は王夫妻の末娘で、1353年に3歳年下のペンブルック伯爵ジョン・ヘイスティングズと結婚しましたが2年後に死亡。子供はありませんでした。


六男ウィリアム・オブ・ウィンザー(1348)は生後2ヶ月で死亡。


そして末っ子、七男のトマス・オブ・ウッドストック(1355~97)。長男と同じウッドストック城の生まれ。彼の妻エレノアは兄ヘンリー(後の4世王)の妻メアリの姉。つまりヘンリー5世の伯母さんにあたります。上流貴族の婚姻関係はごちゃごちゃしてますね。彼は父王の死後も生き残った男子として、グロスター公爵に任ぜられますが、エドマンドと違い、甥リチャード2世とはそりがあわなかったようです。彼は議院と結び王と対立しますが、後に投獄され、(おそらく王の命を受けた)ニコラス・コルフォクスにより暗殺されました。

このトマスの死がジョンの息子ヘンリーの再びの反逆→追放を引き起こすのです。

彼は妻との間に息子を一人、娘を四人もうけました。しかし彼の公爵位は息子に相続されることなく終わります。彼の長女のアンはイングランドの有力貴族スタフォード家に嫁ぎ、その子孫はばら戦争で活躍します。


トマス紋章 トマスの殺害シーン

(トマスの紋章と、トマスが殺害されるシーン)


余談ですがトマスが任ぜられたグロスター公爵、なぜか悲劇が付きまとい、次に任ぜられたヘンリー5世の弟ハンフリーは失脚後暗殺、その次に任ぜられたリチャードは後に王リチャード3世となりますが、これまた戦場で悲劇の死をとげます。


クラレンス公にしてほしいな、ジョージをグロスター公にして、

グロスター公爵というのはこれまで縁起が悪すぎるよ。

  リチャード(『ヘンリー六世 第三部』第二幕第六場)


上記の台詞はその事実を受けてのものなのですね。



ランカスターとヨーク、両家の争いの遠因は、そもそもエドワード3世の長すぎる在位と、子供たちに財産を分け与えた気前のよさ、そして長男の死にあるのかもしれません。幼くして王位に就いたリチャード2世は、強大な叔父を疎ましく思い、他の叔父たちにも公爵位を授けますが、それが新たな勢力を生んでいったわけです。


それにしてもカスティーリャ王ペドロ1世の名前が、これほど頻繁に出てくるとは思いませんでしたよ、もとさん!