遠藤周作 『イエスの生涯』 | 東海雜記

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主に読書日記

孤独であり、苦悩する、心優しきイエス像
著者: 遠藤 周作
タイトル: イエスの生涯

とらさんの『沈黙』にTBしまして。

またまた個人的なことで恐縮ですが、私は遠藤周作さんから読書というものを教わったような気がします。
あれはいつだったか、正確な年は忘れてしまったのですが、遠藤さんがNHK教育テレビに出てらっしゃって、日本文学について、読書について語ってらっしゃったのを見た覚えがあります。中学、高校生向けの番組だったでしょうか。その中で遠藤さんは、読書にはさまざまなスタイルがあり、アプローチの仕方もさまざまであることを仰ってました。例えば気に入った作家さんの本ばかりを読んでみたり、気になったテーマの本ばかりを読んでみるのも面白いんじゃないか。最後まで読まなければならない、なんて決まりはないのだから途中で投げ出したっていいじゃないか。なんてことです。
大切なのは読書は楽しいものだ、ということ。何かを得ようとして読む場合もあるけれどそれでも楽しんで読むことが大事。読書は苦行ではないのだ、ということでした。また、ある程度の量を読まなければいい本、悪い本なんてことは分からないのだからどんどん楽しんで読むべし、と仰ってました。

楽しく読めばいい、楽しくなかったら読まなくてもいい。途中でうっちゃってもいい。
「本をたくさん読む良い子」と見なされ、いつしかカッコつけのために難しい本ばかりを読むようになっていた私はガツンと来ましたね。
遠藤さんは個々人の自主性を重んじていらっしゃるんだなあと感じました。

その少し後くらいでしょうか、遠藤さんの作品が大学入試問題に使われたことがありました。その模範解答を見て仰るには、
「作者である私も分からなかった」
とのこと。このエピソードからも先ほどのお仕着せの読書、解釈を嫌い、個々人の自主性を大切にされていたお人柄がしのばれます。

さて、遠藤さんといえばカソリック作家として有名ですが、ここでも宗教者に時折見られる頑固な、偉そうな雰囲気などは少しもありません。信仰とは何かという部外者には分かりにくいことをとても丁寧に語ってくれます。
とはいえ、答えを教えてくれているわけではありません。一緒に考えよう、というスタンスです。

『イエスの生涯』は遠藤版「福音書」(新約聖書にあるイエスの記録。福音とは良い便りのことで、イエスの教えを意味します)とも言うべき内容で、イエスという多くの伝説につつまれた人物を私たち非キリスト者にも分かりやすく、等身大に描いてみせています。
イエスといえばさまざまな奇跡を行った方ですが、まずはじめの奇跡といえば聖母マリアの処女懐胎。まずこれでふつうの人は「ウソだあ~」と感じるでしょうね。

一説には初期教会、聖書では処女懐胎の記述はなかったそうです。マタイ伝に引用されている「乙女が身ごもって男の子が生まれる」という予言(旧約聖書イザヤ書にあった予言)の「乙女」とは処女ではなく単に若い女性を意味する言葉である、という説があるそうです。

いろいろな説があるのですが、カソリックではイエスは処女から生まれたとしていますから、遠藤さんも処女懐胎を信じておられる。ではご自分の信じていることをどのように私たちに説明しているかといえば、これが説明をしていないんですね。先ほど述べたように上段から答えを教える教師の立場ではないんです。一緒に考えよう、という立場ですから。処女懐胎についてもこれは事実だと押し付けてもいなければ、懐疑的だと擦り寄ってもいない。 だから答えを求めようとしている人にはまだるっこしいかもしれません。
ですが、信仰というものは元来そんなものではないでしょうか。
一から十まで説明されて理解する。証明されたことを受け入れる。これは信仰ではなく、納得です。信じるということはまだ証明されぬもの、まだ見ぬもの、まだ形のないものを待ち望むことではないでしょうか。対人関係で考えると分かりやすいと思います。他人を信じるというのは証明を求めない。証明を求めることは不信。その人を信じていないから根拠や証明を求めるのですね。

とはいえ、何の証もなく闇雲に信じる、盲信とも異なります。
他人を信じ続けた結果がいつかえられるように、まだ見ぬものを待ち焦がれている人々はいつか待ち人を迎え入れることができる。信仰と理性、宗教と知性・学問は決して相反するものではないからです。

処女懐胎という最初から高いハードルが設けられていますが、イエスの生涯はこの後も奇跡、癒しが続きます。魚を分けて沢山の人を満腹にしたり、水の上を歩いたり。病人を癒し、死人をよみがえらし、まさに八面六臂の活躍です。
しかし遠藤さんはこの力強きイエスではなく、非力な、優しいイエス像を重要視しております。
奇跡があったか、どうかではなく、イエスが常に漁夫や収税人、病人や寡婦、貧しき人々とともにおられ、彼らを癒されたことを注目されています。奇跡はなかったかもしれない。それでもイエスは常に彼らとともにおられた。ここでも遠藤さんは解答をずばっと突きつけてはおりません。

イエスの活動からその死にいたるまで、そこに感じられるのは非キリスト者である私たちが思うような神々しい姿ではありません。イエスに過剰な期待を寄せる弟子たち、群集たち。そして本質を理解されないイエスの孤独。その死に際しては群集も弟子たちもイエスを見捨てました。見捨てなかったのは一部の女性たちだけでした。

おそらくこの『イエスの生涯』は非キリスト者、特に日本の我々にとってもっともわかりやすいイエスの伝記だと思います。
西洋文明の背骨の一つであるキリスト教。そのキリスト教を理解するために一度は読んでみたい本です。


著者: 遠藤 周作
タイトル: キリストの誕生
イエスを裏切り、見捨てた弟子たちが、イエスの死後殉教もいとわぬ使徒になったのはなぜか。
遠藤版「使徒行伝」といえる一冊です。