このコーナー「尾張徳川十七代」は。。。
名古屋人は普段は節約しているのに、いざという時は派手!
そんな気質の原因を
江戸時代の名古屋の殿様にからめて考察していくコーナーです。
現在皇室のあり方が問われています。
はたして女帝は誕生するのでしょうか?
戦後社会ではなかなか実感の湧かない血統の断絶。
血統の断絶はどのような事態をもたらすのでしょうか?
今から200年ほど前、尾張徳川家でも同じような問題がありました。
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先の記事で申しましたように、宗睦(むねちか)は藩政改革を推し進め、「名君」とみなされました。
しかし、家庭生活ではきわめて不幸な人でした。
40年に渡る長き在位。英国のヴィクトリア女王の例をみればお分かりのように、長期の在位は後継者の高齢化をまねきます。
その上、宗睦は後継者に次々と先立たれ、寂しい晩年を送りました。
<以下系図参照;年齢は全て数え年>
系図を見てお分かりのように、宗睦には2人の男子と一族から迎えた養子が数人いました。
大名の名前について で申しましたように、当主と嫡男は将軍の名前から一字もらいます。これを見ると、3人の男子が10代将軍、家治より一字もらっていることが分かります。彼ら3名はどうして宗睦の後を継げなかったのでしょうか。
1774年に長男、治休(はるよし)が21歳で死去。この長男は優しい人柄で、領民にも慕われていました。その死を知り、藩士も領民も嘆いたといいます。
1777年、次男の治興(はるおき)死去。兄と同じ21歳でした。
実子に先立たれた宗睦は、甥で5代高須藩主の松平義柄(よしえ)を養子に迎えます。
治行(はるゆき)と改名し、七代紀伊藩主、徳川宗将(むねまさ)の娘、従姫と結婚した彼も、宗睦の後を継ぐことはできませんでした。
1793年、徳川治行死去。34歳。
治行と従姫の間に生まれた五郎太も父の後を追うかのように亡くなります。
1794年、五郎太死去。14歳。
宗睦は次に甥の勇丸(いさまる)を養子に迎えますが、2年ともちませんでした。
1796年、勇丸死去。3歳。
こうして年代を並べてみると、何か怖くなってきます。
特に治行死去の1793年から宗睦死去の1799年までは死人のオンパレードです。
空想豊かな作家さんなら、
「尾張家乗っ取りを企む暗殺か?」
と、1本の小説が書けるかもしれませんね。
こうして一族の中での後継者選びをあきらめた宗睦は、11代将軍家斉の息子を養子に迎えますが、これもほどなく死去。
最後に養子に迎えた一橋治国の息子、斉朝(なりとも)が10代尾張藩主となります。
ここに藩祖義直(よしなお)の血統は断絶。紀伊家の血統の藩主がその後50年続くのです。
冒頭に掲げてあります、名古屋人の気質。いざと言うときは派手でも普段は地味、というより、お上に従順。でも反発心を隠し持っている、とうのは宗春時代と、この後の50年間の「押し付け養子」時代に培われたものだという説もあります。