徳川光圀と徳川吉宗

"水戸黄門"と"暴れん坊将軍"のことです。
ドラマのファンの方、怒らないでください。。。


来年のNHK大河ドラマの主人公は「源義経」。
私にとっては思い出の人物です。
あれは小学校5年生、転校して間もないころ。。。

読書好き、という共通項があり、転校してまもなく仲良しになったI君。彼が読んでいたのが「源義経」。子供向けの伝記でした。
刺激された私も同じ本を読みました。
これが歴史とのファーストコンタクトでした。
義経の次は秀吉、信長……と主に伝記から入っていったのです。
もし、I君がいなかったら、この経験がなければ、私は(私の嗜好は)自然科学系へ進んでいたでしょう。

さてさて、源義経。
のめりこみました、日本にこんなかっこいいヒーローがいたなんてと。
何度も何度も読み返しました。
しかし、読んでいるうちにこんな疑問がわいてきました。
「なぜ義経は敗れ、死んでいったのだろう」。

戦争の天才であり、美男子であり、品行方正でありながら(伝記にはそう書かれていたのです)、実の兄に疎まれて、、、とここまでは理解できました。頼朝や梶原景時の嫉妬が原因だと(実はこれは誤りなのですが)。
理解できなかったのは家来の武士たち(正確には頼朝の家来、御家人)が、源氏方の武士たちがなぜ義経を助けなかったのだろうか、ということです。
「義経ってあんがい人気がなかったのかもしれない」
1年くらいたつと、かすかな疑念を持つようになりました。

やがて
中学に進み、吉川英治さんの『源頼朝』や司馬さんの『義経』、またいくつかの歴史雑誌を読むようになり、伝記には描かれなかった義経の実像を知りました。
 戦争の天才でありながら、政治音痴だった事
 その天才も当時の常識ではシロウトの発想と紙一重だったこと
その他にもいろいろありましたが、このころには私の脳内義経と頼朝、すっかり立場逆転してました。
「義経ファンなんてシロートだよ」なんて嘯いてみたりもしました。・・・なんてかわいげのないお子様でしょうね。
今考えてみると、子供ながらにショックだったのかもしれません。初めて価値観の逆転を経験し、本に書いてあることがいつも真実とは限らない、と知ったのですから。(それでも少年向けの伝記にはヒーローは必要だと思います)

さて本題。
光圀も吉宗もテレビドラマの主人公として高い人気を誇っています。人気の面では光圀のほうが先輩で、講談、映画の時代から人気者でした。私も小学6年生のころはテレビの大ファンで、講談の「水戸黄門」も読みました。吉宗のほうは私の知る限り、松平健さんの「暴れん坊将軍」ではじめて国民的人気を得たのではないかと思います。当初はどこまで続くかと不安でしたが、いまやパチンコにまで登場するほどの人気を得ています。

歴史上の2人はどうだったでしょうか。
まあ少なくともお忍びやチャンバラはテレビの作り事としても、やはり名君ではなかったか。。。というと、そうも単純にはすまないようです。
何をもって「名君」とするかは人により違うでしょう。しかし、批判を恐れず述べますと、私には2人が名君であったとは思えません。光圀のほうは暴君ではなかったかとさえ思っています。
大石慎三郎さんの『徳川吉宗とその時代』[中公文庫¥462(税込)]によれば自分の藩の収入も考えずに「大日本史編纂」を企て、年貢をバンバン取り立て、庶民の怨嗟をかったそうです。隠居も自発的なものでなく、幕府の意図だったかもしれないとのこと。
確かに「大日本史編纂」は偉大な文化的事業でした。しかし、私見ですが、その勤皇思想は、御三家の一つである水戸家で幕末、血で血を洗う政争が起こったことの遠因にもなりました。(尾張徳川家も勤皇思想が強く――むしろこちらが元祖なのですが――、幕末に「青松葉事件」という粛清事件が起こっています)

吉宗はどうでしょうか。
「暴れん坊将軍」というのはドラマのタイトルから来た名で、それまでは「江戸幕府中興の英雄」という評価と「米公方」(公方は将軍のこと)というあだ名で知られていました。家康は別格として、徳川将軍の中では一二を争うほど有能でありました。
でもそれはあくまで幕府から見た立場、または直接利害のない後世のわれわれの立場から見たものです。
当時の人々から見ればどうだったでしょうか。
さすがに光圀ほどむちゃくちゃはやりませんでしたけれども、(単純に言えば)年貢率を引き上げました。その結果、天領(幕府の領地)で初めて一揆が起こったほどです。また「百姓とゴマの油は絞れば絞るほど出るものなり」という暴言を吐いた勘定奉行神尾若狭守はこの吉宗の時代に活躍した人です。
また都市部では、もちろん、見るべき政策もありましたが、総論でいえば猛烈なデフレ政策をしています。結局、幕府は黒字になりましたけれども、同じ手が2度も通用しないのはその後の「寛政の改革」、「天保の改革」が物語っています。
吉宗は当時の人から
 「公方、乞食に似たり」
とまで皮肉られています。
さらに光圀と同じく後世に要らぬ混乱の種をまいたものとして、「御三卿の成立」をあげることができます。もっとも、「御三卿」がすべてそろったのは吉宗の死後ですが。
御三卿は御三家と違い、将軍家の部屋住みの立場。御三家のような自分の藩を持っておりません。あくまで血のリザーブとしての存在なのです。御三家なら自分の領地を富ませる、などやることはいくらでもありますが、御三卿は将軍になれなければ意味がなく、そのため御三卿成立後の将軍家のお家騒動が陰湿の度を増していったのも当然でありましょう。そしてその最もたるものが有名な「安政の大獄」なのです。
この御三卿、吉宗が自分以後の将軍家を己の血統で独占したいがため、御三家(特に尾張家)を排除するために設置したとの説が有力です(もしそうでないなら、なぜ分家――藩を持たせる――にしなかったのでしょうか)。


誤解しないでいただきたいのは、以上は私の感想で、「それでもやはり名君だった」という人もたくさんいます。私も吉宗は「あと少しで名君」だったと思います。
さらにドラマ、小説と史実はあくまで別物です。史実のほうも今後どう変わるかもわかりません。ご意見、ご批判は受け入れますが、この点、ご容赦ください。

それでもフィクションの力は大きいものだと改めて感じます。
忠臣蔵の浅野家も重税で藩民からはうらまれていて、取り潰しの際は赤飯炊いて祝ったという話も残っています。

だがその同じ忠臣蔵で今の赤穂市が潤っているのも事実。
子供向けの伝記に偉人(それが虚像を含んでいても)が必要なように、大人のわれわれにも美しいフィクションが必要なのかもしれません。
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