• 29 May
    • 澤口たまみさん

      ここ一ヶ月、朝一時間早起きして、天気のよい日は出勤途上近所の公園に立ち寄ることにしています。ベンチに座って、朝の空気と光に触れ、時には本を読んだりします。 こんな柄にもないことを始めたのは、先日紹介いたしました澤口たまみさんの本を読んだためです。 澤口さんは岩手県にお住まいの、生き物のお好きな作家さんであり、お母さんであります。そして私たちと同じブロガーさんであります。 本書は澤口さんがご自身のブログ『たまむし日記』から60編を採択し、若干の修正を加え、一冊にまとめたものです(本書「プロローグ」より)。 『たまむし日記』のURL→http://moon.ap.teacup.com/tamamushi/ 以前ご紹介しましたように、澤口さんは生き物に対してとても優しいまなざしをもっていらっしゃいます。 これは本書のタイトル『虫のすむ家 雑草の庭』からもうかがえます。虫や雑草は、とるに足らない存在として扱われることが多い。虫が入ってきたら排除し、雑草が生えてくれば引き抜いてしまう方もいることでしょう。そんな彼らを文字通り住まわていせる澤口さんの目はどんな小さな生命もとらえ、その心は彼らのメッセージを受け取り、そして私たちに伝えてくれます。 もちろん虫や雑草ばかりでなく、そのまなざしは犬や猫、鳥、園芸植物といった私たちに近しい生物、そしてご自身のお子さんをはじめとする子供さんたち、そしてお母さん方にも及んでいます。 「虫が好き」というと「変わり者」あるいは「人間嫌い」というイメージを抱く方がいらっしゃるかもしれません。中には『コレクター』という映画を想起される方も。 確かに私は多少虫好きで傲慢な人間は嫌いですが、世の中、虫も嫌いで人間も嫌いな方もいれば、両方とも好きな方、人間好きで虫嫌いな方などさまざまで、そこは他の事物が好きな方と変わらないと思います。 ただ、失礼ながらえらそうな事を申しますが、虫も生き物である以上、虫好きな方は生き物が好きな方となるわけです。そして世間の評価として「生き物が好き」=「優しい」というのもある。ということは 虫好き=生き物好き=優しい という評価が下せるであろうことを付け加えさせていただきたい。ちょっと強引だけど。 *ここでいう虫は昆虫ばかりでなく、やまと言葉の虫、「ミミズだってオケラだって」の虫と解釈願いたい さてさて虫好きにこだわりすぎてしまいました。本書は先述しましたように虫や草の話ばかりでなく、お子さんのお話やご自身の子供の頃や若き日の話、旅行記、そして郷里岩手県の偉人である宮澤賢治のことなど多岐にわたっています。ご自身の「ずぼら」も包み隠さず書いていらっしゃる。 犬や猫を飼ったことがある方、飼ったことがなくてもお好きな方はきっと本書を読んで心温まる、また胸つまされる場面が多かろうと思います。またお母さん方は子育てや家事の描写にうなずかれることでしょう。 私が冒頭柄にもない話をしましたのは、本書に収められた賢治の話に影響されたからです。 本書4話目「光の子ども」では朝の光をあびるお庭の話から賢治の話へとつながり、そして賢治の言葉を受けて 人間の場合、光や風をエネルギー源にして、養分を作り出すことができるとすれば、それは心の栄養にほかなりません。 (18ページ) と述べていらっしゃいます。 私はこの言葉に非常に感銘を受けました。いわば「賢治流光合成」あるいは「澤口さん流光合成」と呼べるこの考えに触れたときに、陳腐な表現ですが、雪が日の光に当たったように、私の中の何かかたくななものが溶けてゆくのを感じました。 それ以来雨の降らない日には早朝近所の公園に行き、朝の空気と光に触れています。南北を大通りに区切られたこの公園は「ビジネス街のオアシス」として近所の人々にも親しまれているとか。早朝のことゆえ車も人の通りもほとんどありませんが。 私はこの公園で朝の光を浴びながら、多量の排気ガスの中辛抱して立っている木々たちに感謝し、時折通りかかる人々と挨拶を交わし――「おはようございます」という挨拶は、他のどんな言葉よりも交わしやすいものですね――時にはお気に入りの本を読みます。 『たまむし日記』もそうしたお気に入りの一つであることは言うまでもありません。

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  • 28 May
    • 井上ひさし 『井上ひさしの 子どもに伝える日本国憲法』

      子どもさんだけでなく、万人向け! 井上 ひさし, いわさき ちひろ 井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法 国民投票法以来、改正するのしないのとにぎやかです。ところで「一気に改正を狙っている」という方々には失礼ですが、それは杞憂であると思います。国民投票にもってゆくまでがえらく大変ですし、国民投票になっても、過半数を得られるかどうかわかりません。 それよりも、愚かな私は、改正手順をもう少し具体的にしてほしいなんて思いますね。103条もある憲法の、どこを改正するかをどう論議するのか、その情報は国民にどう伝えられるのか。具体的にどのような投票になるのでしょうね。まさかイエス/ノーの二者択一ではないでしょう。イメージがわかないのですよ。どうも騒いでいるわリには中身がないような気がします。 103条もある憲法を、全部読んだ人はどれくらいいるのでしょうか? いや、読んでいないからあかん、いうてるわけじゃあないんです。ただ9条ばかりがクローズアップされるけれど、それは改正=9条=軍国化というプロパガンダに乗せられているんじゃないかな、なんて思います。 103条もある憲法だけど、実はそんなに長くはない。中学高校の教科書巻末付録に必ず載ってまして、それも十数ページでおさまります。しかし授業で全部扱うことはまずない。それは失礼ながら中学生には少し難解だから。 まあ、そんな訳で先回ご紹介したような書籍が出ているのですね。先回ご紹介した以外にも文庫で数冊出ています。そこでも申しましたが、そんな立派なやつでなくていい、文庫で十分。憲法は中身に権威があるのであって、変な飾り立てはそ、れこそ宗教書やレーニンや金日成の巨大な像のごとくうさんくささがつきまとう。 いたずらに神聖視するのはカルトみたいでよくないと思うのですが、、軽視するのもよくないでしょう。憲法の三原則――基本的人権の尊重、国民主権、平和主義はとても大切なものです。政治家にならなくても、日々の生活の中で心得ていなければいけないものです。だから「公民」というのですね。権利ばかりを主張する声が大きくなった昨今、特に大切だと思います。ところがその公民で憲法をすべて読むことはめったにない。週休二日になった現在ではまずないでしょう。 童話屋編集部 あたらしい憲法のはなし 『あたらしい憲法のはなし』は昭和22年、憲法公布の翌年に中学1年生の社会科副読本として旧文部省から出された本です。 これほど平明な憲法の解説書を私はまだ見たことがありません。なぜ教材からはずれたんでしょうね。 現在では写真の童話屋編集部のものが比較的簡単に入手できます。なにせ300円です。子供向けとはいえ、大人が読んでも決して損はありません。 挿絵がないものでしたら、ネットでも読むことができます。 http://www.nginet.or.jp/box/newkenp.htm 井上ひさしさんが書かれた『子どもに伝える日本国憲法』は、次の三つの部分から成り立っています。 ・憲法の原則「平和主義」を表している前文と第9条を子供むけに「翻訳」した「絵本 憲法のこころ」 ・井上さんが朝日小学生新聞に連載したものをまとめた「お話 憲法って、つまりこういうこと」 そして付録として ・日本国憲法全文 挿絵にはいわさきちひろさんの絵を用いていまして、「絵本」の部分はカラーになっています。 井上さんは劇作家であり、日本語を誰よりも大切に扱っている一人です。言葉やその周辺の文化をわかりやすく説明した本をこれまでにもたくさん書かれています。そんな井上さんが「翻訳」した憲法は実に読みやすい。 ただ第9条は翻訳というより意訳、しかも井上さんの思いがこもっていて、本来の条文より長いものとなっています。 憲法前文は崇高なものです。この部分は理念を語っているのですから、それでかまわないと思います。しかし現代人にはややこしすぎる。井上さんは本書で「格調高い、すばらしい文章だと、私は思います」とおっしゃり「声に出して読んでみてください」と呼びかけていますが、正直ここだけは首を傾げざるを得ません。致命的なのは一文がだらだらと長いこと。修飾と非修飾の関係があいまいになるし、読みづらい。原文である英文の方が読みやすいくらいです。 「お話」の方は9つの部分にわかれ、憲法の理念と、いくつかの条文について解説しています。 学校ではせっかく学ぶ機会、教える機会がありながら、なおざりにされているところでもあります。 特に「7 『個人の尊重』ってなんだろう」、「8 日本人であるということ」は必読です。 当たり前のことですが、個人は尊重されなければならない。つまりお互い他人を尊重しなければならない。これこそが民主主義の根本であると私は考えます。単に多数決でいこう、というのは数の横暴に過ぎません。そして社会科教育のもっとも大切なことであるとも考えています。 学校で歴史を学ぶのは、単にナショナリズムや自虐史観を植えつけるためではなく、もちろん年号年代を暗記するのでもなく、人間の多様性を学ぶことだと思うのです。それぞれの時代の、それぞれの生き方―成功失敗を問わずを見る。つまり他人の行いを見るのですね。そして地理は世界の多様化を学ぶのです。それぞれの地域の環境や文化を見る。歴史にしても地理にしても、自分とは異なる存在、自分たちとは異なる価値観があることを学ばなければならない。そして民主主義の根本原則である個人の尊重を学ぶ。 「日本人」という言葉はあいまいです。法的には日本国籍を持っているもの、となるのでしょうが、私たちの多くは日本に生まれ、育ち、なんとなく「日本人」をしている。 ところが井上さんは「そうじゃないんだよ」とおっしゃっています。私たちには外国に移住する自由もあるし、外国人になる自由もある。私たちはさまざまな理由から、日本に住むことを選んでいる。主体的に「日本人」をしているんだと。 そして第22条を「翻訳」されています。 ほかの人に迷惑がかからなければ 私たちはどんなところに住んでもいいし、 どんな仕事を選んでもいい。 また、親が日本人だから一生、 日本人でなければならないということもない。 (本書51ページ) ちなみに原文はこうです。 第22条  何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。 一昔前(ふた昔前?)CMではやった「職業選択の自由、アハハン」というやつです。 言われてみれば確かに私たちは日本人であることを選んでいるのですね。井上さんにはぜひ全文を「翻訳」して欲しいなあ。 さて、主体的に日本人であるということはどういうことか、を井上さんはこう説明されています。 私たちが「もうこの国はいやだ」といって外国に移住すれば、日本という国はなくなる。私たちひとりひとりが、自分の意思で日本に住むことを決めたのだから、日本があるのだと。 *異論はおありかと思いますが、「住む国を自由に選べ」と言われれば日本を選ぶ方が多いのではないでしょうか。それは日本がすばらしいからではなく、文化や習慣、そして言語など実際の問題で。 ここは特に名文だと思います。国の成り立ちや主権在民について実にわかりやすく説いている。 本書は子供ばかりでなく、万人向けの本であります。 *先回の本をこき下ろしておいて、今回は持ち上げる。なんて一貫性のないやつだ、とお思いになるかもしれません。 あるいは井上ひさし、いわさきちひろという名前に目がくらんでいるのだろう、とおっしゃる方もいるかもしれません。 確かに私はご両人のファンであります。 しかし私は井上さんの護憲論には賛同していません。それでも憲法の理念はすばらしいものであることは井上さんと同意権です。 本書は憲法を押し付けているのでなく、わかりやすく説いている点で先回の本とは大きく異なっています。 特にネット社会で自己主張ばかりして他者を軽んじる方が少なからずいます(私もそうかもしれない)。そのような方の言葉を見るにつけ、憲法の「個人の尊重」をもっと広く知ってもらいたいと願ってやみません。 また上から口調になってしまった。。。

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  • 26 May
    • 美川圭 『院政―もうひとつの天皇制』

      私のミッシングリンクがまた一つ埋められた 美川 圭 院政―もうひとつの天皇制 私はヘンリー5世を中心に英仏百年戦争からばら戦争、テューダー朝あたりまでのイングランドの歴史を追い、機会があれば紹介しているのですが、現在ばら戦争で足踏み状態です。われわれ日本人になじみがないものをどうやって紹介すればよいかを悩んでいます。百年戦争ならジャンヌ・ダルク、テューダー朝なら「青ひげ」やトランプのキングのモデルであるヘンリー8世、『王子と乞食』のエドワード6世、カクテル「ブラッディマリー」にその名を残すメアリ1世やかのエリザベス1世と有名人があまたいるのですが、その谷間であるばら戦争は。リチャード3世がもっとも有名になるのでしょうか。彼は日本で言えば吉良上野介のように、芝居のイメージが実在を上回り、ずい分損をしている人です。 一つ考え付いたのがキングメーカー(国王製造人)という言葉をとっかかりにできないかな、ということ。キングメーカーは歴史用語であるとともに、現在でも政界や財界の実力者に使われる普通名詞でもあります。ゲームの好きな人なら『プリンセスメーカー』という作品をご存知でしょうか。このタイトルも、製作者が意図しているかどうかはともかく、キングメーカーを想起しますね。 院政。この言葉もキングメーカー同様、歴史用語であるとともに、現代でも長老政治の代名詞として使われています。 歴史上では白河天皇が譲位し、上皇となって政治を始めた1086年に始まり、以後鳥羽、後白河、後鳥羽4代の専制期(正確に言えば平清盛の傀儡であった高倉院政があって、後白河院政を中断している)、鎌倉後期の制度化された院政が続き、後醍醐天皇の親政の後は形骸化し、断続的に江戸時代まで続きました。最後の院政は尊号事件で松平定信とやりあった光格天皇の1817年~1840年です。彼は明治天皇のひいおじいさんにあたります。そう思えば、ずい分最近まであったわけです。 中学では白河が上皇となってから、高校ではその前の三条天皇の親政から、それまでの摂関政治から院政へ移行したと学びます。しかし、考えてみれば白河以前にも上皇となった人はたくさんいたわけです。上皇となれば院庁と呼ばれる、上皇をお世話する役所が作られ、何名かのお役人がそこで働きます。この院庁と「院政」の院庁とどう違うのか。また摂関家が衰退した原因が、天皇に就ける外孫を設けることができなくなったからだ、というのが一般的な説明ですが、その後も摂関は続き、大きな権力を振るっているわけです。歴史というのは人の営みの積み重ねですから、よほどのことがない限りそれは継続であり、断続ではない。教科書のような線引きは、問題をある程度明瞭に捉えることはできますが、深く考えようとすると疑問がどんどんわいてくる。 本書は、そんな疑問にほぼ完全に答えた傑作でしょう。特に白河院政を詳しく分析し、その成立過程をわかりやすく説明しています。50年近くも院政をしき、「天下の三不如意」賀茂川の水・双六の賽(さい)・山法師はどうしようもならぬ、つまりそれ以外は意のままであると豪語したと伝えられる白河上皇。望月の歌をよんだ藤原道長や「朕は国家なり」のルイ14世を彷彿させますが、果たして彼らのような権勢を誇ったのか、どうか。 結論を言えば、院政とは王家(中世日本の院政を行う上皇を家長とした天皇家を、それまでの、そして近世以後の皇室と区別して王家と呼ぶ)と摂関家の妥協の産物であり、妥協したがゆえに摂関家は勢力を減退させ、王家へと権勢が移っていったのです。 院政期の話題で避けて通れないのは荘園と武家ですが、これらも史料を丹念に追い、一般に流布したイメージとは異なる像を映し出してくれます。 摂関家への荘園の集中、普通これは摂関の全盛期、道長・頼通父子の時代がもっとも盛んであったと語られますが、実はそうではなく、院政期に王家に対抗するために荘園の集中が始まり、王家、摂関家による荘園争奪戦みたいなものが行われていたそうです。 鳥羽以降の記述は、残念ながら事件を追うばかりといった観がいなめませんが、それでも保元・平治から平家の政権には、一般に流布した軍記物のイメージを覆す解釈が施され、非常に興味深いものです。 土地制度、王家、公家から見た武家政権の成り立ちが語られ、自分が今までいかに軍記物やそれを題材にした解説書、小説、ドラマなどに影響されていたかがわかり、正直恥ずかしかったです。 特に私の印象に残ったのは清盛の福原遷都です。 通常平家政権の失敗は平家の公家化、摂関家の猿真似で語られることが多く、頼朝は在地武士の利益を代表する存在に徹したから「新しく」、清盛はそれらを考慮しなかったから「古い」とされています。 実はこの見解には長年疑問を抱いていました。いつか詳しく語りたいのですが、簡単に言えば、結果からのやや強引な見解ではないかなと思っていたのです。 本書はそのような私の長年の疑問に答えてくれた本であり、また、私にとって長年不明であった摂関から院政へのミッシングリンクを埋めてくれた本であります。 そして物事は常にいろいろな角度から見なければいけないという大切なことを痛感させてくれた本でもあります。

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  • 25 May
    • 「写楽」編集部  『日本国憲法―ピースブック』

      日本国ハ神聖ニテ不可侵ナル憲法之ヲ統治ス 「写楽」編集部 日本国憲法―ピースブック 本書はルビつき大活字の憲法全文と合間合間にきれいな写真を載せ、付録に英訳憲法と大日本帝国憲法をつけたハードカバーのきれいな本です。 憲法に親しみやすい配慮がこらされています。 改憲護憲騒がしい中、憲法に目を通すことは有意義なことでしょう。 しかしながら、申し訳ないのですが、私はこの本を読んで居心地の悪さを感じました。 「日本国憲法ってすばらしいんだよ」 奇麗事を子供に押し付けるような、と言えば言いすぎでしょうか、そんな姿勢が何とも気持ち悪い。 聖書の言葉(聖句)を親しみやすい現代語で表現し、写真とともに載せた本がありますが、それを想起しました。写真の質がなんとなく似通っているからでしょう。もちろん写真はきれいなものです。 でも憲法と聖書は違うんじゃないですか? 聖書は、科学的でなく宗教的な解釈ですが、一言一句変わることなく、はるかなる昔から現代まで続いています。 しかし憲法は、いくら最高法規であるとはいえ、人間の作ったものに過ぎません。聖書やコーランなどの聖典は一言一句不変で結構ですが、憲法がそれじゃあ困ります。96条に改正の手順が明記されていますから、不変にこだわるのは違憲であると解釈できないこともないわけです。 さらに。聖書やコーランは朗読、時に暗誦するために、語句が洗練された名文であります。アラビア語で詠唱されるコーランを聞いていますと、意味はわからなくとも心に染みるものがあります。聖書(原文は旧約がヘブライ語、新約がギリシャ語ですが)も、英語ではキングジェイムズバージョン(欽定訳)、日本語では文語訳がしばしば文学などで引用されます。 ところが日本国憲法はそうではありません。むしろ悪文ではないか、という意見もあります。皆が知っておかなければいけない大切なものならば、少なくとも義務教育を終了した人間ならすらすらと読めなければならないのに、ややこしい表現が多い。聖典も難解な文章ですが、こちらは独特のリズムがある。憲法は聖典ではないですから、詠唱できなくてもよいでしょうが、恣意的な解釈ができるような余地が多すぎる。 私はここで憲法の中身を云々しているのではありません。憲法を神聖視するかのような風潮や、この手の出版に居心地の悪さを感じているのです。 憲法は改正されるものだということをまったく考慮しない装丁の出版物だからです。 ちなみに日本国憲法は大日本帝国憲法に明記された改正の条項に従って改正されたものです。押し付けかどうかはともかく、法的手続きをきちんと踏んでいます。 ですから、同様に現憲法がいつ改正されても、決しておかしいことではありません。 (どこをどう改正するか、あるいは改正しないかということは別として) 童話屋編集部 日本国憲法 憲法に親しむのならこちらの本がずっと優れています。値段が安く、小型で荷物にならず、どこでも広げられる。寝転がって読むこともできる。もちろんこちらもルビつきで、活字も大きく、読みやすいです。 *「憲法は国民に向けて書かれたものではない」という解釈もあります。国民向けではなく、国家権力をしばるために書かれたという意味です。 *個人的な意見を述べれば、憲法100条~103条、「補則」はいらない。というより、なぜ憲法に盛り込んだのかがわからない。旧体制から現憲法への暫定処置が書いてあるだけのものですから。しかしこれらを削除するのにも96条の改正の手続きを踏まなければいけないので、ずっとそのままにされています。 日本国憲法 補則 第100条 この憲法は、公布の日から起算して6箇月を経過した日から、これを施行する。 2 この憲法を施行するために必要な法律の制定、参議院議員の選挙及び国会召集の手続並びにこの憲法を施行するために必要な準備手続は、前項の期日よりも前に、これを行ふことができる。  第101条 この憲法施行の際、参議院がまだ成立してゐないときは、その成立するまての間、衆議院は、国会としての権限を行ふ。  第102条 この憲法による第一期の参議院議員のうち、その半数の者の任期は、これを3年とする。その議員は、法律の定めるところにより、これを定める。 第103条 この憲法施行の際現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。

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  • 24 May
    • 小林多喜二 『蟹工船』

      プロ文の傑作 小林 多喜二 蟹工船・党生活者 小林多喜二と『蟹工船』は、プロレタリア文学の代表として国文学および日本史の教科書に必ずと言ってよいほど載っています。恐らくほとんど全国の中学生・高校生の目に触れ、耳に入っている名前です。 そしてその際作品よりも多喜二の生涯が、正確に言えば多喜二の思想と死がいつも語られています。 こばやしたきじ 【小林多喜二】(1903-1933) 小説家。秋田県生まれ。「1928 年 3 月十五日」でプロレタリア文学の旗手として登場。「蟹工船」「党生活者」など労働運動・革命運動の現実を書いた。地下活動のさなか、官憲の手で虐殺された。 [ 大辞林 提供:三省堂 ] 作家の生涯が作品と絡めて語られることはよくあります。太宰治や三島由紀夫など、その生涯や思想が好んで語られる作家ですね。それでも彼らはたくさんの著作があり、作家=作品というとらえ方はされない。それが多喜二の場合、若くして死んだことから著作がすくなく、また共産党活動をしていたこと、そしてセンセーショナルな死とあって、作品を独立して語られることが少ない。かく言う私も色眼鏡で見、相当敷居の高い作品だと思っておりました。 高校時代にはとてもじゃないが読む気にならず、初めて読んだのは大学を出てからです。 「プロ文(プロレタリア文学)のプロはプロパガンダのプロだ」 なんてうそぶく友人もおりました。かの太宰治も、プロレタリア文学を評して 「無理な、ひどい文章だ」 と語ったことがあります。 (太宰の指摘はまことにごもっともなのですが、彼自身党活動を支援し、転向してしまった。彼にとっては活動支援というのはファッションのようなもので、このせりふの背景にはそういった自分を恥じる意識があるのだと、勝手に思ってます。) 確かに主義主張を押し出すあまりに、人物描写、場面描写が形骸化することはよくあります。現在でもそのような書籍が多く見られます。 しかし作品を読まずにあれやこれや言うことのなんとむなしいことか。太宰は作品を読んでの発言ですが、太宰ファンだった高校生の私は、太宰の文学評を聞いて、食わず嫌いになっていたのです。一度でも本作を読めばそれがいかに愚かなことであるか、はっきりとわかります。 本書はプロ文の本来の特質である現実主義に徹した文学です。実際にあった事件をもとに、新聞社に勤めているという立場を活かして十分に取材し、ただ単に事実を羅列することなく、劣悪な労働環境にいる人々を見事に描いています。これは共産主義をうたった作品でもなければ、資本家や当時の支配層を告発した作品でもありません。人間を描いた作品です。 タイトル通り蟹工船「博光丸」――オホーツク海に蟹漁に出向き、水揚げし、船内の工場で缶詰に加工する船が舞台であり、登場人物の全天地となっています。さまざまな事情から期間労働者として集められた人々は「糞壷」と呼ばれる狭い空間に住居し、会社の代表である淺川監督から文字通りこき使われ、リンチされ、生きながら殺されつつあります。主人公といえる中心的なキャラクタはおらず、時折名前が出てくるものの、それで識別できるような人物は監督である淺川意外は皆無といってよく、糞壷に住居する群集全員が主人公といってよいでしょう。 資本家の手先(なんて書くとプロパガンダ文学めいてますが)である淺川たちは船の上層で清潔かつ豊かに過ごし、労働者達は船の下層で不潔に暮らしています。その不潔さや、彼らの無学さも無骨な文体でリアルに描かれています。また彼らの交わす会話を通じて、当時の工場や鉱山での様子も語られます。 私は本作以前に夏目漱石の『坑夫』――これは漱石には珍しくドキュメンタリータッチの作品なのですが――を読んだのですが、それが牧歌的に思えるほど、悲惨な状況が語られています。 夏目 漱石 坑夫 *とはいえ、決して『坑夫』は牧歌的な作品ではなく、これはこれでシビアな内容です。また朝日新聞に移る前の漱石はしばしば社会問題を取り扱った作品を書いております。 正直申しまして彼らの不潔さと無学、そして無知には時折軽い嫌悪を感じます。 何の楽しみもない彼の性欲というのも大変であって、雑夫として乗り込んでいた少年達を、お菓子などでつってその捌け口にするなど、読んでいてやるせない場面もいくつかあります。淺川を恐れ憎みつつも、アメとムチを使い分ける(といってもムチが圧倒的なのですが)手法に簡単に乗せられる。護衛として付き従う海軍の駆逐艦、そこに掲げられる日の丸。それらを見て頼もしさを感じたりする純朴さも持ち合わせている。つまり彼らは私達と変わらぬ人間なのです。 私が彼らに軽い嫌悪を覚えるのは、私が清潔かつ健康的な環境に充足しているからであって、現在でも劣悪な環境で働いている人は少なくないでしょうし、そのような人々の有様は本書の彼らとそう変わりはないでしょう。 私達は本書に何を見るか。プロ文とか、共産主義とか、各種お題目を取り払って何を見るか。 そのような意味で本書は文学を読むとはどういうことかをも私達に教えてくれる作品です。

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  • 23 May
    • 谷川流 涼宮ハルヒシリーズ

      角川に望むこと (各画像がアマゾンへのリンクです) シリーズとして現在出ている9巻までを読みました。 受賞作である1作目『涼宮ハルヒの憂鬱』に比しうるのは、4作目の『涼宮ハルヒの消失』くらいでしょうか。ただこれもSFでは定番のネタ、人気の仕掛けを用いているのですから、個性あふれる1作目には及びません。 正直に申しましてシリーズ化は無理があったと思います。量産できる作家さんではないと思います。 これは私の想像ですが、谷川さんには初め続編の構想はなかったのではないでしょうか。1作目の終わり方からも、主要人物の一人である古泉一樹(こいずみ・いつき)の設定からもそれがうかがえます。かわいそうに彼は2作目以降はいてもいなくても同じ扱いとなりました。 かつて(現在も?)少年漫画の格闘もので、敵の強さのインフレという風潮がありました。主人公の成長にしたがって、敵がどんどん強大化してゆくのです。そしてかつての敵は仲間となり、強くなった主人公の前座に落ちぶれるというパタンもよく見られました。 古泉に与えられたポジションがまさにそれで、2作目以降は単なる解説役に落ちぶれてしまいます。9作目まで見ても彼の活躍の場はほとんどありません。無理なシリーズ化の最大の犠牲者が古泉でしょう。 また漫画との比較になってしまいますが、人気作がその人気ゆえに連載を終了できず、ずるずると長引く例が過去現在たくさんあります。このハルヒシリーズもそんな印象を受けます。受賞作である1作目、これは秀作でなかなか面白いのですけれど、それを大々的に売り出し、かつ長期的な売り上げを確保するためにシリーズ化をする。そのためにどんどん内容が薄くなってゆく。 私は、谷川さんは短編向きの作家さんだと思います。ファンの間で評価の高い4作目『涼宮ハルヒの消失』にしても、分量的には1作目よりも短く、この作者の欠点である冗長な表現を削れば中篇となるボリュームです。 短編は秀作と駄作が入り混じっています。これも無理な量産のためでしょう。ネタがなくただキャラクタのどたばたを描いているものも少なくありません。シリーズの後半になればなるほどだれた表現が目立ち、読むのがつらくなってきます。 1作目のキャラクタ設定が破天荒なゆえにキャラクタに人気が出、それゆえに同じキャラクタを使わざるを得なくなった。これは不幸なことではないでしょうか。 角川に望むことは、無理な量産を強いて才能をすり減らすのではなく、じっくりと育てること。 安易なキャラクタ人気に頼ることなくストーリーで勝負してほしいことです。 今回かなりえらそうなことを書きました。不快に感じる方がおありかと思いますが、私なりの愛着の表れということご了承を。

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  • 16 May
    • 谷川流 『涼宮ハルヒの憂鬱』

      キョンと言っても鹿の仲間のキョンではありません 谷川 流, いとう のいぢ 涼宮ハルヒの憂鬱 諸書によれば「おたく」という言葉はコラムニストの中森明夫さんが1983年に使ったのが最初だそうです。その定義は人によってかなりの幅がありますが、最大公約数的なものを述べれば 俗に、特定の分野・物事を好み、関連品または関連情報の収集を積極的に行う人。狭義には、アニメーション・ビデオ-ゲーム・アイドルなどのような、やや虚構性の高い世界観を好む人をさす。 ・ 漫画― 〔補説〕 多く「オタク」と書く。二人称の「おたく(御宅)」を語源としエッセイストの中森明夫が言い始めたとする説が有力。1980 年代中ごろから用いられるようになった →マニア [ 大辞林 提供:三省堂 ](下線引用者) ということになりましょうか。異論は多々あると思いますが、普通の辞書に載っている解釈ですので、ご年配の方々を含めた一般的な見方ではないかと思います。 そして事象は言葉に先行するものであります。ならば、ガンダムの第一作を題材にした漫画を読めば当時の声優さんの声が脳内で自動再生される私は、オタク第一世代といってもよいでしょう。私の周囲の人間も同じ解釈のようです。 ところがいつの間にか私は時代に取り残されておりました。 「萌え」という言葉に拒絶反応をし、アニメ絵を見れば避けて通るようになりました。簡単に言えば若いオタクさんたちと話が合わないのです。アメーバーヴィジョンなどに投稿されているその手の動画も苦手です。 これではいかん。なんとか社会復帰せねば。 なんてことを思いましてね。「社会復帰」という言葉がふさわしいのかどうかは怪しいのですけれども、本当にそう思ったのだからしょうがありません。 アニメ絵に拒絶反応があるというのは損なことです。表紙やイラストが漫画チックなものが多くなって久しいのですから。見た目で判断してしまうと、名作傑作を逃してしまうことに。 とうことで今話題の(と書いてる時点で私は遅れているのか?)『涼宮ハルカの憂鬱』を入手。初めてライトノベルというものを読みました。 ライトノベルがオタク文化に属するかどうか、これまた多々意見がありましょうが、imidas等でそのように分類されているので世間一般にはそうなのでしょうし、私もそう感じます。 ライトノベル ラノベと略される。漫画・アニメ調のキャラクターをカバーイラストや挿画に用い、その魅力が商品力の少なからぬ部分を担っている小説のこと。漫画・アニメ・ゲーム分野の潮流をくみ、そのような人物設定や世界観を用いているところに内容的な特徴がある。 (中略) ラノベは一般の文芸に対して低く見られているが、ラノベ出身の直木賞作家も数人出ている。 〔imidas2007より 下線引用者〕 実にわかりやすい説明であります。欲を言えば「ラノベ出身の直木賞作家」を挙げていればもっとわかりやすかったでしょう。 そして下線部の観点からすれば、本作はまさしくライトノベルの王道を行っていると言えるでしょう。漫画・アニメ・ゲーム。その中でも特にゲーム、それもいわゆる美少女ゲームをやったことがない方、あるいは苦手な方には本書は読みづらいかもしれません。ええと、私はそれらに抵抗がないので十分楽しめましたよ。 ヒロイン涼宮(すずみや)ハルヒと語り手であるキョン(これはあだ名で、本名は最後まで不明です)のキャラクタになじめるかどうかが大きな分かれ目です。 ハルヒは本文でも書かれているようにはなはだエキセントリックな性格で、幼稚かつ自己中心的であります。加えて美人(本作の女性キャラは全員美少女なのですが)。実はこの手のキャラクタは決して特殊ではなく美少女ゲーム定番です。 対するキョンは受動的。周囲の状況に心中突っ込みは入れます――それもかなり饒舌な突込みを入れますが、ハルヒの行動に振り回されてばかりで、主体的に行動することは滅多にありません。実はこれもゲーム世界では普遍的なのです。ほとんどすべての美少女ゲームに共通しているといってもよいのですが、プレイヤの分身である主人公はゲーム世界の中で女性キャラクタの言動を受けて自分の言動を選択してゆきます。女性キャラの行動を待たねば物語が進まないからであります。(これまた異論はありましょうけれども) キョンはまさにゲームの主人公的なニュートラルなのです。その無個性さゆえに語り手となりうるのです。地の文における彼の饒舌さもゲーム世界そのままで、ゲームでは主人公の一人称視点で語られることが多く、周囲の状況に一人で突っ込み(時には一人でボケとツッコミの両方をやることも)ます。 本名が不明だというのもゲームの主人公と同じ無個性さを象徴しています。 キョンの、ひいては物語のゲーム的性格がもっとも顕著にあらわれているのはその会話においてでしょう。 彼の台詞はしばしばカギ括弧でくくられずに書かれています。しかしそれが心の中のつぶやきかと思えばそうではなく、他の人物がちゃんと言葉を返しています。 作者が意識的にしたことなのか、はたまた無意識なのかはわかりませんが、この仕掛けはすぐれてゲーム的であり、ゆえにゲーム世代の読者は物語に引き込まれてゆくのです。 本書の評価が二つに分かれるのもこういった物語の性格にあります。 私は他のライトノベルを読んだことがないのでわかりませんが、実は上記の事柄はライトノベルには多く見られるものなのかもしれません。たとえそうであるにせよ、すぐれた仕掛けであることには変わりはありません。 物語の前半はお約束なキャラクタがお約束なドタバタを演じて過ぎてゆきます。ハルヒとキョン以外のキャラクタも美少女ゲームに出てくるものばかりなので、作中でハルヒ自身がそのようなキャラクタを集めた(あるいは集まった)と言っており、ここでも自己突っ込みが見受けられます。正直私には前半はつらいものでした。このままダラダラで終わるのならば、私のオタク社会復帰は無理だろうと感じましたね。 ところが後半で物語りは変貌を遂げます。そのゲーム的な性格は相変わらずなのですが、主役、つまり主体的なキャラクタであるハルヒの立ち居地がまったく反対になってしまうのです。彼女の性格は相変わらずのままなのに、です。クライマックスでは彼女が狂言回しであったこと、ゲームでいうところのプレイヤの位置であったことがわかり、逆にキョンが登場人物物語を引っ張るのです。 この逆転が本作のスニーカー大賞(角川主催のライトノベルを対象とした文学賞)を受賞した理由であり、人気の理由でしょう。 そして見事なことに世界観が逆転してもそのゲーム的性格は変わらず、むしろ強まっているのです。 これはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』あたりから描かれてきたのですが、観察者のいない世界は存在が不確か(かもしれない)であり、観察者の中心である自己が認識しうる世界が現実であるというもの。世界の中心は自分であり、自己の変革により世界が変わるというもの。 ゲームはまさにそうですね。ゲーム世界に存在するすべてのキャラクタ、すべての施設はプレイやの分身である主人公のために準備され、主人公次第で変わってゆく。このように申しますと先述した受動的な主人公キャラクタと矛盾していると思うかもしれませんが、主人公は世界を観察し、それを受けて行動し、その主人公の言動で世界も変わってゆくということです。 私はネットゲームをやったことがないのでわかりませんが、一人でやるロールプレイングやアドヴェンチャー、シミュレーションゲームではそうです。 本書がアニメ化され深夜枠で放送、そこで大きな人気を得たのは、上記imidas定義での優れたライトノベルの証明でしょう。

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  • 10 May
    • 金城模 『マンガ 嫌日流』

      *お断り 今回の記事に関しては複数の方に内容が適切かどうか判断をお願いしております。それゆえ内容の変更または記事全体を削除する場合もあります 内容をあれこれ言う前に、出版社に問いたいことがたくさんある 金 城模 マンガ嫌日流 今回はレビューではありません。本書の内容はアマゾンや他のブログ等で多くの方がレビューを書いておられる。しかし、私には内容よりもなんで本書を出版したのかが問題だと思うのです。 扱うのはマンガ。マンガは別ブログで語っているのですが、本書は以前扱った『マンガ 嫌韓流』に関連したものなので、こちらにも載せました。 本書の出版元は『マンガ嫌韓流』と同じ晋遊舎。てっきり『嫌韓流』のブームに便乗した他社からの出版だと思っていましたので、びっくりしました。 本書の最後に「出版社からのお知らせ」として、出版理由が書かれています。少し長くなりますが、以下に全文引用いたします。 出版社からのお知らせ 最後まで本書にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。読者の皆様はどのような感想を持たれたでしょうか? いろいろなご意見があると存じますが、まずは「事実誤認が多すぎる」と思われたのではないでしょうか? 事実、本書で紹介されている「歴史の事実」は、明らかな誤りや勘違い等が散見されます。事件や出来事の解釈も、日本人の感覚からは受け入れ難いものばかりといっても過言ではないでしょう。 「ではなぜこのような本を出版するのか? いったいどんな意義があるのか?」と疑問に思われるかもしれませんが、小社は次のような理由で本書の出版を決意いたしました。 キム氏は本書の第1話でも述べているように、『マンガ嫌韓流』を読んで、その反論として『嫌日流』を描いたと公言しています。他の日本の出版社がどこも扱わないのであれば、『マンガ嫌韓流』を出版した小社が引き受ける「義務」があるのではないか、韓国側にも反論の機会を与えるべきではないかと考えました。また一般の韓国人がどのような歴史観、対日観を(誤った認識を含めて)持っているのかを知る上で、またとないテキストになりうるのではないか、とも考えて最終的に本書の出版を決断しました。本書が読者のみなさまの日韓関係に対する理解をより深めていただくきっかけに、さらには日韓友好の一助となれば幸いです。 株式会社 晋遊舎 (『マンガ 嫌日流』291ページより 下線引用者) 確かに私も読んでいて正直申しまして不快に感ずる部分はありました。 しかし繰り返しますが、本書の内容云々は問題ではありません。日本にも歴史事実を誤認した説もあり、本もあります。どんな内容であろうと主張するまたは出版するのは自由です。 私は本書の内容よりも本書を出版した晋遊舎に不快を感じざるを得ません。 確かに『嫌韓流』の派生物ではあるでしょう。しかしあえて出版する必要を少しも感じません。本書の内容すべてが韓国人の多数意見かどうかがまずわかりません。先述したように韓国、日本、中国、アメリカ、ロシア、、、どこの国でも唯我独尊的ナショナリズムの主張・書物は存在するのです。 もし韓国人の多数の意見を本書が反映しているとしても、出版する意義をかんじません。引用部に書かれているように、本書の内容はお粗末なものです。「反論の機会を与える」のであれば、もっと上質なものを紹介すべきでしょう。 あるいは著者である金氏が出版を打診してきたのかもしれません。それでもこのような紹介のされ方を著者が望んだでしょうか。 *誤解がないように書き添えますが、最終ページ以外はおそらく手を加えずに出版されています。明らかな事実誤認に対しては欄外に註をつけていますが。 著者はわざわざ「日本版特別あとがき」といいうマンガを書き下ろして最終章として付け加えているのです。主張の是非は読者が決めることで、わざわざ出版社からお知らせしてもらわなくても結構です。この日本版を、「出版社からのお知らせ」を、著者は、そして韓国の読者はどう思うでしょうか。 本書に対する正直な感想は、『嫌韓流』の縮小再生版である、というものです。 ですから『嫌韓流』の欠点が如実に出ております。 かつて私の友人に、このような暴言(?)を語った者がおりました。 「推理小説なんて所詮はフィクションさ。犯罪トリックを考えるのも作者なら、それを暴くのも作者。最初から犯罪者と捜査官が馴れ合っているのさ」 確かに皮肉な見方をすればそうでしょうね。だからと言って創作の苦しみが減るわけではありませんが。 『嫌韓流』、本書、その他類書の内容ははまさにこの友人の言う「なれあい」です。作中何度も議論がなされますが、反論する側も作者が書いているのですから、結果はおのずから決まっているのです。きつい言い方をすれば自論を補強するためのまやかしの議論に過ぎません。 誤解しないでいただきたいのは、「だからだめだ」と申しているのではないのです。自作自演の反論であれ、調べられる限り公平に描いているのでしょうから。 しかし読者が本書を読んで嫌悪感を覚えるとすれば、それは『嫌韓流』にその責任があるのです。同じ手法でやり返されたのです。その質の高低の差はあるでしょうが、同じ手法なのです。 つまり、私が言いたいのは、出版するのであれば著者と出版社側の、あるいは著者と『嫌韓流』の著者との対談を設けるなど他の方法でなすべきではなかったか、と言うことです。 今回の出版は失礼ながら出版社の自己満足、一部読者への迎合としか感じられません。

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  • 09 May
    • 武田邦彦 『環境問題はなぜウソがまかり通るか』

      最大の欺瞞は「地球に優しい」「環境に優しい」というコピーだろう お詫び 今回は特定人物のマイナス評価をしております。このような姿勢、話題がお嫌いな方は「続きを読む」をクリックしないでください。 最近言い訳ばかりだなあ…… 武田 邦彦 環境問題はなぜウソがまかり通るのか なんとも刺激的なタイトルであります。環境保全というのは今や人類の最大課題の一つといってもよいでしょう。個人から市町村、国家、はては国際スケールにいたるまでさまざまな取り組みがなされています。そういった流れに警鐘を鳴らすタイトル。思わず手に取ってしまいました。 実を言えば私はこのような姿勢には常に好意を抱いております。世の大勢にかかわらず自分の正しいと思うところを主張するというのは勇気と忍耐がいるところであります。例えば凶悪犯罪が起こるたびに罰則の強化が叫ばれますが、それに動ずることなくずっと死刑反対を訴えている方、逆にマスコミなどのバッシングにあっても被害者遺族の気持ちを訴え続ける方。立場は異なれ、一事の風潮に流されることなく辛抱強く活動を続けてゆくさまには尊敬の念を抱かずにはおれません。 かつて日本が真珠湾を攻撃し、アメリカ世論が一気に開戦やむなしに傾いたときにもあくまで戦争反対を訴えていた人々がおりました。彼らの主張の是非はともかく、反対意見が主張できることは民主主義の根本原則であり、反対意見に耳を傾けることもまた民主主義社会の大切な原則なのではないでしょうか。 しかしこの本を読むのには苦労をしました。私が環境保護を推進しているから、読みたくなかったのではありません(私は観光保護推進派でも反対派でもありません。個人的にごみが増えるのがいやで、それなりに工夫しているだけです)。読解力が不足しているのかもしれませんが、ともかく読みづらいのです。 アマゾン等のレビューで高い評価を受けていますが、私にはそうは思えません。 *アマゾンのレビューでも低い評価がいくつかありました。最初に表示される、最新5件だけを見て判断していました。申し訳ありません。ですから皆様も本書のレビューをチェックされるには、すべてに目を通すのがよろしいかと思います。 著者の武田さんがこの本で主張されたいことはタイトルどおり。 しかし、こうした地球にやさしいはずの環境運動が錦の御旗と化し、科学的な議論を斥け、合理的な判断を妨げているとしたらどうだろうか。環境活動という大義名分の下に、人々を欺き、むしろ環境を悪化させているとしたら――。 (本書3ページ Introductionより) そしてこの問題定義通り、国家や企業は「環境活動という大義名分の下に、人々を欺き、むしろ環境を悪化せせている」ことを、ペットボトルのリサイクル、ダイオキシン報道、地球温暖化問題など個々の例を挙げ、説明されております。マスコミの報道が偏っており(あるいは不正)、特定企業・団体に利益を誘導するシステムになっており、既得権を守るために政府は法を作り、国民を欺いているというのです。 まことにショッキングなことです。私たちが善意から行っている行動のほとんどが騙されている、踊らされているというのですから。 さて読者である私たちの多くは素人であります。専門家である武田さんがおっしゃる事にうなずかざるを得ません。武田さんも素人である読者のためにわかりやすく図表や例を挙げて、説明を試みていらっしゃいます。 私が読みづらさを感じたのは実にここなのです。それほど多くはないのですが、図表のいくつかに出所が記されておりません。たしかに私たちは素人ですが、重要なデータは検証したいと思う方も出てくるでしょう。だのにいくつかでそれができないのです。もっともひどい例はごみの分別をやめた地方公共団体の紹介で、「長崎県の海沿いにある伝統のある市」としか書いていない。なぜはっきり書いていないのでしょうか。理解に苦しみます。またグラフの読み取りが明らかにおかしな記述がいくつかあります。そして例やたとえになるとわかりづらく、これはおかしいな、と思わざるを得ないのがかなりあります。 どうやらかなり思い込みの激しい人物らしいぞ というのが私の武田さんにたいする正直な感想です。 例を挙げましょう。 JR東海が流した 「東京と大阪間を飛行機で行くのに対して、新幹線を使えば二酸化炭素の発生量が10分の1になる」 というテロップの欺瞞を暴くのに、こう説明されています。 確かに単純な燃料消費なら10分の1になるだろうとした上で、しかし新幹線はレール、橋、トンネルなどの設備設置および維持、安全点検のために人件費等費用がかかるとして、欺瞞であると結論付けているのです。 ここで武田さんはJR東海の欺瞞を暴くという正義感に燃えすぎで、航空機にも同じように設備設置と維持、安全点検の費用がかかることを忘れてしまっています。これはあまりに片手落ちというものです。 これは武田さん、および彼の著作を読んだ方々の主張する「指定ごみ袋、マイバッグの方がレジ袋より環境に負担がかかる」にも言えます。これも上記のように本書には文章の記述だけですまされています。しかし、素人の私が考えても、レジ袋がすべてごみ袋として再利用されるわけではないのですから、一枚当たりの資源消費、製造コストなどの安易な比較では結論の出るものではないでしょう。 本書ではいくつか大切なことも書かれております。例えばペットボトルのリサイクルの現状、ダイオキシン騒動における報道の無責任などは私たちも十分注意すべきでしょう。 それでも武田さんの思い込みの激しさゆえに、踏み込みが足りないものもまたかなりあります。 地球温暖化にたいしては 「北極・南極の氷がとけ、海面が上昇する」 という報道および世間の思い込みに過剰に反応しすぎています。確かに北極の氷がとけて水面が上昇することはない。私はそのような報道がされたこと、そう信じている人が多いことは知らなかったのですが、例として引いている朝日新聞の紙面こそ小さくて見えないものの、年月日を明記しており、また武田さん自身の教え子さんの例も書かれておりますから、そうなのでしょう。しかしそれをいつまでも引っ張りすぎなのです。さきほどの新幹線の例と同じで、そのことばかりを問題視する。せっかく 「南極周囲の海面は年々低下している」 という事実を国際機関のデータを示しながら、科学的にわかりやすく説明しているのに、それを発展させることなくデータ提示で終わっている。あまりにも中途半端。このように読者自身が危機感を感じる重要問題は中途で放り出し、わかりきっている世間の誤解をくどくど繰り返されたのも、読むのをしんどくさせたのです。 結論を言えば、本書は見るべき主張はあるものの、全体としてトンデモ本といわざるを得ません。 そして残念なことに、本書はある人々の錦の御旗と化しています。おそらくこれは武田さんの本意ではないでしょう。 本書は各種ある仮説の一つに過ぎないのです。

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