• 24 Jun
    • 津原泰水 他 『十二宮12幻想』

      趣向を凝らした、おしゃれな競作集 著者: 津原 泰水 タイトル: 十二宮12幻想 世の中には三種類の人間がいます。 占いを信じる人と、占いをまったく信じない人。そして少しは気にする人。 乱暴ですか。決め付けていますか。ワンパターンですか。スミマセン。 ちなみに私は「まったく信じない人」です。信じる、信じないはその人の自由ですものね。 占いの中でポピュラーなものが血液型と星座でしょうね。 窮めれば奥が深いとはいえ、血液型は4パターン、星座なら12のパターンしかないのですから。ですから大抵の雑誌には星座占いが載っています。最近では自分の干支は知らなくても星座を知っている人は多い(どちらも同じ12あるのですが)。 これはそのなじみが深い黄道12宮をネタにした競作集。 12星座それぞれに生まれた12人の作家が、自分と同じ星座生まれの女性を主人公とした短編を競い合う、というもの。ものすごく凝った趣向です。作家を集めるだけでも大変そうですね。それが見事に集まっています。それも男女6人ずつ。 12の短編それぞれの扉には心理占星術家の鏡リュウジさんによる、その星座生まれの人の性格などがコンパクトにまとめられています。例えば私の生まれ、牡牛座なら ―――――――――――――――――――――――――――――― 金牛宮   毎年の太陽通過 4月21日頃から5月21日頃   不動の地の宮   支配星 快楽の星・金星   鍵言葉 我所有する (I have)   色彩 緑                                  <文庫版35ページ> ―――――――――――――――――――――――――――――― といった具合にデータが掲げられ、また、その星座の象徴性が述べられた後、 ―――――――――――――――――――――――――――――― 金牛宮は基本的には温厚で穏やかな性質である。(中略)しかし、それは目の前の現実にしがみつこうとする態度にも通じる。(後略)                                   <上同> ―――――――――――――――――――――――――――――― とその人の長所短所まで解説されています。コレを見るだけでも占い好きな人には面白いのではないでしょうか。 そして12人の主人公は鏡さんの分析どおりのキャラクタを持ち、物語が展開されます。そのジャンルはホラー、サスペンス、そして表題にあるように幻想小説まで幅広い。どちらかといえば暗い展開が多いため、各キャラクタもその星座が象徴する暗い面が外に出ていますが。。。 ともあれ、趣向も面白いですが、決して見掛け倒しの本ではありません。それぞれの作品の質もそろっています。 星占いを信じる人でも、まったく信じない人、少しは気にする人でも存分に楽しめる1冊です。

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  • 22 Jun
    • 木村俊一 『算数の究極奥義教えます―子どもに語りたい秘法』

      わからんパワーを炸裂させよう! 著者: 木村 俊一 タイトル: 算数の究極奥義教えます―子どもに語りたい秘法 世の中には二種類の人間がいます。 算数(数学)が好きな人と算数(数学)が嫌いな人。 ちょっと乱暴ですか。決め付けてますか。 これが他の科目だとはっきり二分できない。国語、理科、社会、英語などは好きでも嫌いでもどっちでもいいや、という人が少なからずおります。だのに算数(数学)はわりとはっきりと分かれてしまう。それほど算数(数学)には「勉強」というイメージが付きまとっているんですね。また日常でよく使うものだけに学校を出た後でも縁が切れることがないのですね。 かく言う私めも算数は嫌いでした。 苦手なもの、嫌いなものは読書でカバーしてきた私。算数・数学本が目に付くと思わず手にとってしまいます。「読書」の対象ですから、問題集や参考書ではありません。算数本、数学本です。 数学の先生方も「算数嫌いな人が多い」と思ってらっしゃるのか、いろいろ面白い本を書いております。 私の書棚にも矢野健太郎さんの本が何冊かあります。 そんな中で最近のお勧めがコレ。 なにせ「究極奥義」ですからね。しかも数学でなく、算数、というのが嬉しいじゃあないですか。 表紙にはアラビアンナイト風な美女のイラストが。これまたインチキ臭くて怪しげで嬉しいじゃあないですか。 この本ではストーリー仕立ての前半と解説文の後半の二部構成で、数学ならぬ算数の楽しさを教えてくれます。 数学と算数の違いは人によりさまざまだと思うんですが、私は「手探りで実感できるのが算数」だと勝手に思っております。 だから ・なぜ0で割ってはいけないのか ・なぜマイナスかけるマイナスはプラスなのか ・なぜ分数の割り算は逆さにしてかけちゃうのか なんて疑問を 「そういうルールなんだ」 と割り切ってしまうのは数学で、 「これこれこうだから」 と実感させるのが算数かな。ちょっと分かりにくいですか。 ちなみに「マイナスかけるマイナスはなぜプラス?」の疑問でよく反論として 「借金に借金を重ねても借金が膨らむだけやんか(涙)」 なんて言う人がいますが、この本では 「それはマイナス同士をかけてるんじゃなくて足してるんじゃないか!」 とバッサリ。誤解をといています。確かにその通り。 かけ算に例えるならば 「100円ずつ3人からもらう」 となりますから、マイナス同士なら 「マイナス100円ずつマイナス3人からもらう」 となり、この場合答えは明確に、、、あれ? ややこしいな。おかしいな。木村さんはもっとスマートに説明してくれてたはずなんだけどな。。。 。。。どうやら私もまだ充分にわかってないようです。もう一度読み直そうっと。 さてさて、本書は二部構成となっておりますが、面白いのはストーリー仕立ての第一部よりも第二部の 「わからん力(パワー)炸裂!―怒涛の解説編(算数という言葉)」 の方。 文字通り怒涛のごとくさまざまな問題(先ほどの疑問を含む)を解説してくれています。 わからん力炸裂! とは解説がわからんようになってるわけではもちろんなく、わからんときはわからんとはっきり意思表示をすること。そして説明を聞いたり自分で考え直したりすることの大切さを言っているのです。 その実例としてアメリカでの大学での講義中に 「4分の1足す4分の1が2分の1になるのがワカリマセン」 という質問を受けたことを語っています。これが日本なら 「そんな計算がワカラヘンなんてとてもじゃないけど聞けないじゃあないか」 と殻に閉じこもってしまう。そしてそこに引っかかっちゃって後の講義が上の空になる。これがよくない、というんですね。 木村さんは黒板にざっと円を描き、それを4分割して説明したそうです。質問した学生も、他の学生も、当たり前のように講義を聴き続けたとか。 しかし授業中にこのような根本的疑問が出てもきちんと説明ができなければいけないとすれば教師はなかなか大変ですね。 少し難しい式や証明、話も出ますけれども、そこは「ひょいと一跨ぎ」しても大丈夫なように、ちゃんと「ひとまたぎ」の印までついてます。だから安心して読むことができます。 算数の究極奥義、身につけてみたいと思いません?

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  • 21 Jun
    • 幕末編  長州征伐

      兄弟は他人のはじまり。 同じ血のつながりといっても親子と兄弟では違うようです。 源頼朝と源義経。足利尊氏と足利直義。歴史上相争った兄弟はたくさんおります。 現代でも有名人の兄弟争いが時折ワイドショウをにぎわしてますね。 現代はともかく、歴史上の対立は個人的な憎しみよりも政治的な立場からきたものが多い。尊氏は情の篤い人で弟と争うことを最後までためらったといいます。 高須家の兄弟たちも政治的立場を異にし、望むと望まざるとにかかわらず、対立するようになりました。 16代藩主 徳川義宜 1862年に前尾張藩主(14代)慶勝(よしかつ)が復帰すると、現藩主茂徳(もちのり)の立場は宙に浮いてしまいました。翌年、茂徳は引退。16代藩主には慶勝の息子、元千代(後、義宣=よしのり)が就任。わずか6歳の少年でしたから、実権は父慶勝が握っていたことは言うまでもありません。実際は慶勝自身が京都で将軍補佐をつとめるなどしていましたので、藩政は金鉄組の面々が行っていました。 尾張藩から身を引いた茂徳はどうなったかといえば、こちらは兄とは逆に江戸へ下向。上洛中の将軍家茂(いえもち=14代将軍)に代わり、江戸城留守居役となりました。彼が直面した問題が生麦事件の賠償金支払い問題です。 生麦事件とは前年の1862年、島津久光(ひさみつ)が江戸から京都に帰る途上で起こった外国人殺傷事件です。久光という人は四賢侯の中では一番の問題児で、このときの上洛でも寺田屋事件が起こり、帰る途中でこの生麦事件が起こっています(明治維新後も版籍奉還に反対したりして、大久保利通や西郷隆盛を困らせています)。この生麦事件が後の薩英戦争の原因になりました。 茂徳は賠償金支払いやむなし、との結論を伝えに上洛。兄慶勝の不興を買っています。 1863年における兄弟の所在をまとめますと   徳川慶勝  京都で将軍補佐   徳川茂徳  江戸城留守居   松平容保  京都守護職 第一次長州征伐 1863年~64年、事態はめまぐるしく変化します。 最初は尊攘派(反幕府)がイニシアチブを握っていました。海外の実情が分からず、いたずらにおびえていた朝廷、長い間封じ込められ幕府を快く思っていなかった公卿をたきつけ、将軍家茂を上洛させ、むりやり攘夷決行を誓わせます。 そして自分たちも攘夷を決行。 それは外国人殺傷=テロであり、外国船砲撃でありました。 その急先鋒を担っていたのが長州藩です。後に同盟を組む薩摩藩は、尊攘派の下級武士などもおりましたが、藩主の父、島津久光など上層部は公武合体派。尊攘派のもたらす無秩序を嫌い、むしろ会津藩と行動を共にしていました。 会津、薩摩は長州追い落とのクーデタを仕掛けます。尊攘派の公卿七名を追放(八・一八政変)。これに激怒した長州の過激派は翌年(1864年)、武力で事態をひっくり返そうとし、会津・薩摩の返り討ちに会います(蛤御門の変)。「蛤(はまぐり)御門」の名前で分かるように、皇居に武器を向けたのです。 ちなみに新撰組が大活躍した池田屋事件もこの頃のお話(1864年6月)。 これで長州の勢力は完全に失墜しました。皇居に武器を向けたのですから、朝敵となってしまったのです。 これを好機と見た幕府は西日本の諸大名に長州征伐を命じます。 その長州征伐の総督に元尾張藩主徳川慶勝が任ぜられました。参謀に薩摩藩士西郷隆盛もいました。 幕府首脳は長州憎しの思いが強かったのですが、慶勝は穏健派。そして参謀の西郷ははじめ長州を断固うつべし、との姿勢でしたが、勝海舟と出会い、穏健派に変わります。 西郷と勝。後に江戸無血開城を成し遂げた二人はこのとき初めて出会ったのです。 この時勝が西郷に示唆したことは幕末維新の上で誠に重要なことでした。 もともと会津藩と歩調を共にし、長州藩をライバル視していた西郷に対して、  今長州を撃つのはよくない。国家多難の折、同胞相撃つの愚を避けよ。 と諭したのです。そして  現在の幕閣には多難な国内外の状況に対処することはできない。  雄藩連合による「共和制」こそが日本のとるべき道である。 とも言いました。これは横井小楠(よこい・しょうなん)、松平春嶽(しゅんがく)らの思想で、勝と弟子の坂本竜馬もこの路線で活動していたのです。 これは大変なことでした。勝は幕府の機密(幕府の人事や政策など)を西郷に漏らしたのです。 勝が幕府を売った、売国奴である、との主張が今でもなされますが、確かに一理ありますね。 しかし、勝が救おうとしていたのは幕府ではなく、皇国=日本でした。勝はそれを「公(おおやけ)」という言葉で表しています。「公」こそが大切であって、幕府だの朝廷だの、藩だのにこだわり、徒党を組むのは「私(わたくし)」ではないかと。 彼の行為の是非はそれぞれの判断にゆだねるとして、この勝との出会いが西郷を大きく変えました。 西郷、そして薩摩のとるべき道を明確に示してくれたのです。西郷は盟友の大久保利通にあてた手紙の中で勝を絶賛します。  勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くような人物であった。最初はやっつけるつもりで会ったのだが、会ってみると、ほんとうに頭が下がる思いになった。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどである。 征長総督慶勝は西郷に意見を求め、その意見に従い、長州に寛大な処置を持って当たることを基本としました。幕府の思惑のように長州藩をつぶすことをせず、話し合いで事を解決しようとしたのです。 慶勝の承認を受けた西郷は和平に向け動き回り、最終的には何と敵本陣まで赴いて説得に当たります。 当時長州藩内でも外国船砲撃の報復で痛めつけられていたこともあり、穏健派が実権を握り、和平に応じます。 益田右衛門介・国司(くにし)信濃・福原越後の三家老の自刃と藩主父子の伏罪書を提出を見て征長軍は撤退。 こうして武力衝突なしに長州征伐は終わったのです。 西郷の活躍も見事ですが、その西郷を信頼し、全権を与えた慶勝もまた見事でした。 著者: 童門 冬二 タイトル: 慶喜を動かした男―小説 知の巨人・横井小楠 ↑横井小楠を扱った小説ではこれがお勧めです。

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  • 20 Jun
    • 長沢寿夫  『中学3年分の英語を3週間でマスターできる本』

      英語と学習者に対する愛が満ち溢れている本 著者: 長沢 寿夫 タイトル: 中学3年分の英語を3週間でマスターできる本―長沢式英語ミルミル上達法 実はここだけの話なので伏字で書きますが(でもドラッグしたらバレバレ) 塾の教師として採用された当初、私の英語力はトホホな状態でした。 「関係代名詞ってなに?」 「仮定法! うげえ~~」 英検でいえば4級程度の実力しかなかったのです。 そんな私の担当科目がよりによって文型科目(国語・英語・社会)! これは早急に何とかしなければなりません。 という訳で買ったのがこの本。 今から20年近く前の話です。 「3週間で」というのが心強いじゃあないですか。ちょっと怪しいじゃあないですか。嬉しくなってしまいます。 今でも『××日間で○○ができる』という本を見かけますが、これはそのはしりかも。 ちなみに私が目にした『××日間で~』の傑作は  『1時間で1次関数がわかる本』  『2時間で2次関数がわかる本』 の2冊。タイトルに偽りなく、数時間で関数を理解することができます。惜しいことに絶版となりましたが。 それにしても『××日間で~』という断言はどこから来るのでしょうか。実際にデータを取ったのでしょうか。 そうは考えられません。『××日!』という断言は「駅から歩いて××分」と同じく消費者を釣るえさであることが多い。 そう、私は半信半疑で購入したのです。 ページをめくれば著者長沢さんからのこんなメッセージが。。。  三週間というのは正確なものではありません。  でも、そのくらいわかりやすいのだという意気込みでタイトルをつけました。 何だ、3週間というのはイメージなんだ。でもいいや。わかりやすいのなら、それで。 半信半疑が人三化け七信三疑七になりました。が、ともかく読みすすめました。 それが今ではあらゆる英語参考書の中で一番ボロボロになってしまいます。 私の愛用書のひとつであります。 どこがそんなに気に入ったのかといえば。。。 ・学習者の立場に立った記述 ・学ぶことは楽しいのだという姿勢 コレに尽きます。 『三週間で~』のタイトルが示すように対象は英語を忘れてしまった大人が主なので、要領よく明快な説明になっております。英語が苦手なために彼らの頭に定着してしまった、むずかしいというイメージを払拭するため、システマチックに説いています。 ですから文法が主体。英会話や英文読解の本ではありません。 もちろん現役の学生さんが読んでも有用ですけれども。 巷間様々な英語学習書があふれていますが、英語をやり直したい、という方(そして理系思考の方)にお勧めです。また、これから家庭教師をされる方も読んでみて損はありません。英語が苦手な人にどうアプローチすればよいのかのヒントになると思います。 長沢さんはこの後、たくさんの英語学習書を書きましたけれども、一番最初のコレが私のお気に入りです。

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  • 19 Jun
    • 幕末編  慶喜と春嶽

      再び勤皇と佐幕 昨日、司馬遼太郎さんと子母澤寛の対談を読んでいましたら、こんな件が目に付きました。 幕末の知識人は皆尊王家であった。当時、尊王というのは現代の民主主義と同じく普遍的なものだった。 子母澤さんは『勝海舟』、『新撰組始末記』など多くの幕末物を書いた作家さんです。司馬さんの『燃えよ剣』は子母澤さんの新撰組三部作(『始末記』『異聞』『物語』)をかなり意識して書かれたとご自身で仰っています。 そのお二人が「尊王は普遍的だった」と仰っているんですね。ただし「知識人は」と限定されていますけれども。当時の武士は読み書きのできる「知識人」でしたから、武士はほとんどが尊王家であったといってよい。 尊王は佐幕と対立する思想ではなかったのです。 日本には天皇がいる「神国」、「皇国」である。この意識は時には思い上がりとなって過激な攘夷思想と結びつきましたが、一方で「日本は一つである」という国家意識を養い、幕末から明治にかけての多難な時期にプラスに働きました。大政奉還、版籍奉還など為政者の思惑はどうあれ、発想の根本がここにあったため、受け入れられたのです。 もっとも当時の人口の大多数を占めていた庶民は天皇の存在を知らないものも多かった。当時日本で一番偉いのは公方様=将軍で、その上があるとは思いもしなかったそうです。 松平春嶽と一橋慶喜の対立 徳川慶喜(よしのぶ;御三卿の一橋家当主のため一橋慶喜とも呼ばれる)と松平春嶽(しゅんがく)。文久2年の改革を推し進めた両者でしたが、だんだんとズレが生じてきました。 慶喜はなんと、かつての政敵、井伊直弼と同じ幕府権力の強化を目指します。歴史というものは面白いものですね。反井伊の旗印であった慶喜が結果的に井伊の後継者となっている。慶喜は非常に頭のよい人でしたから、日本内外の現状を見て幕府権力の強化が大切であると判断したのでしょう。もっとも慶喜と老中たちの間にも対立があって、ことは単純に行きませんでしたけれども。 一方の春嶽は雄藩連合、公武合体派でした。幕府のみが政治権力を握っている以上、事態は好転しない。朝廷や各藩も政治参加するべきだとしたのです。これは彼のブレーンであった横井小楠(よこい・しょうなん)の思想で、勝海舟や坂本竜馬もこの立場でした。 慶喜からすれば朝廷には政権担当能力はない。反幕派にいいように利用されているに過ぎない存在で、雄藩と呼ばれる各藩の口出しもいたずらに政治的混乱を招くものと思ったのでしょう。 両者のこのような対立の原因は、慶喜の有能さにあったと思います。 春嶽も有能でしたが、それは「殿様としては」というただし書きがつく。飛びぬけた存在ではなかったのです。 現に「幕末四賢侯」と呼ばれた有能な大名=松平春嶽、山内容堂(やまのうち・ようどう;前土佐藩主)、伊達宗城(だて・むねなり;前宇和島藩主)、島津久光には宗城以外は維新後の活躍はありません。殿様という立場がなくなれば活躍できなかったのです(宗城は例外で明治4年に日清修好条規締結に活躍しています)。 ところが慶喜は現代でも政治家として通用するほど凄腕だった。西欧の絶対君主に比すことができるほどです。自分を頼む所が多く、自分の能力を発揮するには幕府権力の強化が必要だったのでしょう。 春嶽は慶喜の変化(と、彼にはそう思えた)に嫌気がさし、政治総裁を辞任します。 春嶽の辞任後、前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)は将軍補佐のため京都に滞在することが多くなりました。 著者: 子母沢 寛 タイトル: 父子(おやこ)鷹 (2) 巻末に司馬さんと子母澤さんの対談が載っています

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  • 18 Jun
    • 幕末編  京都守護職 松平容保

      文久2年の幕政改革 司馬遼太郎さんによると、テロによって歴史が前進した例はほとんどなく、桜田門外の変はその数少ない例外なんだそうです。 それほど井伊直弼(なおすけ)の存在は大きく、安政の大獄の傷は深かったのですね。 後世への影響では吉田松陰などの処刑が大きかったですが、当時はむしろ一橋派の大名たち、幕吏の更迭の方が世に与えた影響、混乱が大きかった。特にその間に薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)、そして開明派の岩瀬忠震(いわせ・ただなり)が相次いで死去。旧一橋派の最も有能なリーダーと最も有能な人材が失われたのが大きかった。 残されたものたちは南紀派も旧一橋派も同じ道を、井伊の政策の一つ、公武合体を推し進めます。すなわち将軍家茂(いえもち)と皇女和宮の婚姻です。前尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)も公武合体派となりました。 一方安政の大獄の反動はすさまじく、幕府の権威失墜もあり、反幕的攘夷派(いわゆる尊王攘夷=尊攘派)がテロを繰り広げます。 幕府の権威失墜により力を得たのは尊攘派のみならず、朝廷、雄藩も同じでした。 文久2年(1862年)、斉彬の弟で薩摩藩主忠義の父である島津久光(ひさみつ)が兵を率いて上洛。公武合体による朝廷の威信を復興すると共に幕政改革を建白することにあると説明し、幕政改革に関する意見書を提出しました。その大要は、薩摩藩が兵を率いたまま京にとどまり、その武力で朝廷の権威を確立し、その朝廷の権威をもって、一橋慶喜・前越前藩主松平慶永(よしなが=春嶽)を登用させて幕政を改革しようというものでした。 薩摩藩と朝廷の介入により、将軍後見職に慶喜が、政治総裁職に春嶽が任命されます。彼らは朝廷と雄藩の介入を嫌う老中らの抵抗にあいながらも、時には辞職をちらつかせながら、種々の改革を推し進めます。 ・参勤交代の緩和、大名の妻子(人質として江戸にいなければいけなかった)の帰国許可 ・安政の大獄による逮捕者などの赦免 ・軍制改革 ・京都守護職の設置 そして京都守護職には慶勝の実弟で会津藩主の松平容保(かたもり)が任命されました。 会津藩主松平容保   ↑クリックすると大きな画像がご覧になれます 会津藩は2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の庶子、保科正之(ほしな・まさゆき)を藩祖とし、3代正容(まさかた)より松平姓を名乗り、親藩に列せられました。 正之は庶子として控えめに行動し、御三家のように将軍家と張り合うことがありませんでした。ために異母兄である3代将軍家光の信用あつく、家光は死に臨んで正之を枕頭によびよせ、わずか11歳のわが子家綱(いえつな=4代将軍)の補佐を頼みました。これに感激した正之は将軍家への絶対的な忠誠を誓います。 彼が後に定めた『会津家訓十五箇条』の第一条には 「会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、藩主が(将軍家を)裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」 と記されています。正之以降の藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。 高須松平家から養子に迎えられた容保もまたこの家訓をよく知っていました。ですから京都守護職を拝命されたときは藩内を2分するほどの意見の紛糾を見たにもかかわらず、将軍家への忠誠からこれに従います。 この時期の京都は尊攘派が闊歩し、治安が悪化しておりました。その京都に赴くのですから、治安維持を任されたのですから、尊攘派の逆恨みを食らうのは目に見えています。わざわざ火中の栗を拾うようなことはよせ、というのが守護職就任反対派の意見でした。 事実は彼らの言うとおりになります。容保は苦難の道を歩むこととなります。 容保は1862年から67年まで、京都の守護に忠実に取り組みます。その忠勤振りは天皇も認めるところでした。 佐幕派の中心人物として、明治維新後は「朝敵」とされた容保ですが、その本当の姿はきわめてまじめな勤皇家でした。孝明天皇(明治天皇の父)が最も信頼していたのは三条実美や岩倉具視ではなく、この容保だったのです。

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  • 17 Jun
    • 帝国書院の復刻版地図帳 地図で見る昭和の動き―戦前、占領下、高度経済成長期4巻セット・解説書付

      東西南北も現在過去も自由自在に 皆さんは昔学校で使っていた地図帳をどうしてらっしゃいますか? 私は捨ててしまいました。後悔しています。 なぜなら学校で使っていた地図帳はその時代、その時代の貴重な資料であるからです。 小学校の4年生になると学校から地図帳がもらえる。 そして身近な地域から自分たちの住んでいる市町村、都道府県、そして日本、世界へと扱う地域をだんだん拡大しながら学んでゆきます。 中学に行っても高校に行ってもやはり地図帳を手にします。 地理の勉強で使うのはもちろんですが、自習の時間などに「地図あて」なんて遊びをやった方もいらっしゃるのではないでしょうか。 だれかが適当なページを開いて、目に付いた地名を読み上げます。他のメンバーはそれがどこに載っているのかを必死に探す、という他愛のない遊びです。それでも結構盛り上がりました。 また、変な地名をわざわざ捜したりもしました。 有名な所では 南太平洋に浮かぶエロマンガ島。オランダにあるフリョーニンゲン(もっと詳しい地図にはスケベニンゲンというのも載っている)。中部地方にある野口五郎岳。歌手の野口五郎さんはこの山のようにビッグになろうと、山から芸名をもらったそうです。 この学校でもらえる地図帳、各種出版されていますが、最大大手は帝国書院でしょう。 帝国書院では学校用の地図帳だけでなく、一般向けにもさまざまな地図帳を出版しています。 TVのそばに一冊 ワールドアトラス タイトルが全てを示していますね。 テレビのニュースやドラマで舞台となる地名が気になったらどうしますか? そんなときすぐそばに地図帳があると意外と重宝します。テレビに出ている土地が、どのような場所にあり、どうやったら行けるのか。身近にあると調べるのも楽ですから、気になるとすぐ手を伸ばすようになります。 もしも学生時代に使っていた地図帳をまだもってらっしゃるなら、テレビのそば、居間においておくことをお勧めします。進学したお子さんは、今までの学校で使っていた地図帳をテレビのそばにおいておくといいかもしれませんね。 歴史地図帳 地図帳は何も現代の国々や地形をあらわすものばかりではありません。 日本の歴史や世界の歴史をテーマにした地図帳も多く出されています。 帝国書院からも出ていますが、ここではもっともよく目にする山川出版のものを。 源平の争いや織田信長の野望、アレクサンドロス大王の夢の跡や偉大なるローマの領域、春秋戦国、漢楚、三国の攻防などを多くはカラーで紹介しています。 複雑に入り組んだ領域を見るたびにそこに繰り広げられた人間のドラマ、悲劇などに思いをはせ、わくわくしたものでした。 復刻版の地図帳 もちろん、歴史地図帳ばかりが歴史資料ではありません。 すでに社会人になった方にとって、学生時代に使っていた地図帳は、その時代を映す鏡であったのです。 ときおり復刻版として、昔の地図帳が出版されることがあります。 この帝国書院版復刻4冊セットは値段が張りますが、それぞれの時代の地図帳が忠実に再現され、歴史的資料として、また青春の思い出として貴重なものであるといえます。 かく言う私も、高度経済成長期の青い表紙の地図帳を手に取った瞬間、一挙に中学時代の自分に帰ることができました。 まだ東西に分かれていたドイツ。経済成長しているとされていた北朝鮮。少し厚手の青い表紙も、巻末の資料も、十代半ばの私が手にとったそのままでした。 昔の地図帳が出てきたら、昔のアルバムのように大切にとっておきましょうね。 著者: NoData タイトル: 帝国書院の復刻版地図帳 地図で見る昭和の動き―戦前、占領下、高度経済成長期4巻セット・解説書付 著者: 帝国書院編集部 タイトル: 大きな文字のTVのそばに一冊 ワールドアトラス 著者: 亀井 高孝, 林 健太郎, 三上 次男, 堀米 庸三 タイトル: 世界史年表・地図 著者: 児玉 幸多 タイトル: 日本史年表・地図

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  • 13 Jun
    • 半村良 『戦国自衛隊』

      まま子扱いされている自衛隊を受けとめた時代、作家。 著者: 半村 良 タイトル: 戦国自衛隊 日曜日に『戦国自衛隊1549』を観てきました。 内容は、、、ネタバレになるから余り書けませんけれども、予告編のキャッチにあるように今度の敵は織田信長。あれ? でも、1549年だったら信長はまだ16歳。親父の信秀の代で彼個人は無名だったはずだけど。 そこらへんのからくりは映画をご覧になって納得してください。納得できない方もいるかもしれませんが。 映画を観たら久しぶりに半村良さんの『戦国自衛隊』が読みたくなりました。 私の持っている角川文庫版はなんと永井豪さんが挿絵を描いたもの。長尾景虎のダイナミックなちょんまげとひげがたまりません。 『戦国自衛隊』。自衛隊が演習中に戦国時代へタイムスリップするというお話なんですけど、「続」ができたり、この「1549」ができたりと根強い人気があります。 後の作品になるにつれ規模が大きくなってきますけど、半村さんの『戦国自衛隊』では戦車、装甲車、掃海艇、ヘリコプター各1ずつという最小戦力で、階級も主人公の伊庭三尉(旧陸軍少尉に相当。学校出たばかりのペーペーが任官)が最高でした。最新装備の軍隊なんだけど、最小戦力で戦国時代に突入するわけですね。それがどこまで通用するか。 そこにこの物語の面白さがあった。 最初はやはり圧倒的なんだけど、そのうち敵側にも手の内を読まれたり対策を立てられたりする。また武器弾薬、燃料などは現地調達できないですからどんどん消耗してゆく。 そんな中で隊員たちは自分たちの存在意義を模索します。調べてみると自分たちが迷い込んだ世界はもとの日本とは微妙に異なる歴史を持っている。この世界には織田信長も、木下藤吉郎もいない。なぜだろう。そしてなぜタイムスリップが起こったのか。歴史は自分たちに何をさせようというのか。 それはそのまま現代の自衛隊にも当てはまることです。憲法でその存在を否定された、戦うべき相手もいない軍隊。時には自国民から罵倒される平和国家日本の「まま子」。一体我々国民は彼らの存在をどう思い、何をさせたがっているのでしょうか。 半村さんはそんな彼らを意味ある存在として、十二分に活躍させたくて、戦国時代に送り込んだのでしょうか。 そしてこの問い(自衛隊の存在意義)を今回の「1549」で鹿賀丈史さん演ずる一佐(旧陸軍大佐に相当)が再び我々に突きつけてきます。

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  • 12 Jun
    • 幕末編  桜田門外の変と慶勝の復帰

      勤皇と佐幕と こんな私でもたまにはカラオケに行きます。十八番のひとつに『侍ニッポン』(詞・西条八十;曲・松平信博)という古い歌がありまして、その2番の歌詞はこんな風です。   きのう勤皇 あしたは佐幕   その日その日の 出来心   どうせおいらは 裏切り者よ   野暮な大小 落とし差し これは同名の小説、映画の主題歌で大河内伝次郎演じる新納鶴千代(にいろ・つるちよ;ただし歌ではしんのう・つるちよ)の揺れ動く心を描いた見事な歌です。鶴千代は実は井伊直弼の御落胤。そうとは知らされず剣に生き、水戸浪士らと交わり、尊皇攘夷思想に激しく惹かれます。ですが父直弼の真情を知った後は攘夷思想に疑問を抱き、最後には襲撃される父を救わんとしたが果たせず、父と共に桜田門外にて散ってゆくのです。 「きのう勤皇 あしたは佐幕」韻を踏んだ歌いやすいフレーズの中に鶴千代のやるせなさが伝わってくるようです。 苦悩する鶴千代さんには悪いのですが、当時の日本は「勤皇か佐幕か」と二分化されていたのではありませんでした。それは幕末の最終局面、戊辰戦争の段になってやっと表れてきた問題です。当時はもっと混沌としていました。   攘夷か開国か 外交問題ではこの二つが対立していました。攘夷は国際社会の現実にはそぐわない精神論の部分が大きかったのですが、西洋列強と貿易が始まると物価が跳ね上がったこともあり、この思想は庶民にも指示されていました。   勤皇か佐幕か 内政問題ではこの二つ。というのはウソ。この時点ではまだ勤皇佐幕は対立する概念ではありませんでした。当時の知識人は皆勤皇で(少なくとも建前は)、同時に幕府を支えてゆこうとする人たちばかり。幕府にもっとしゃんとしろ、というのが多くの意見だったのです。 ですから当時はその幕府を支えてゆく方法として、   幕権強化か雄藩連合か が模索されていたのです。前者は従来の幕府官僚と譜代大名だけが政治を行うやり方、後者は水戸斉昭(なりあき)、島津斉彬(なりあきら)ら有能な君主と彼らのもとにいる有能な人材を活用しようというやり方です。 これら外交・内政の諸問題が絡み合って、次のようなさまざまな立場が生まれました。  A 幕権強化開国派   井伊直弼ら  B 雄藩連合開国派   島津斉彬、岩瀬忠震(いわせ・ただなり)ら  C 幕権強化攘夷派   多くの譜代大名たち  D 雄藩連合攘夷派   水戸斉昭ら そして井伊の安政の大獄による弾圧により反幕と攘夷が結びつき、最も急進的な  E 反幕攘夷派      水戸浪士ら が生まれます。これがいわゆる「尊王攘夷派」です。(広義にはDとEが尊王攘夷派と呼ばれる)  *上記A~Eはあくまで私見です。正式な歴史用語ではありません 井伊は幕権強化を急ぐあまり反対派をどんどん処分してゆきました。岩瀬忠震、川路聖謨(かわじ・としあきら)、水野忠徳(みずの・ただなり)といった有能な改革派の幕臣、ペリー来航以来外交の第一線に立って苦労してきた開明派も左遷しています。彼の本心が開国になく、攘夷であったと言われるゆえんです。吉田松陰や橋本佐内を処刑したのも有名ですね。 この井伊の行為は結局自分で自分の手足を切り捨てたようなものでした。 彼が処罰した幕臣の中で特筆すべきは岩瀬忠震で、川路や水野が消極的開国、現状やむを得ずの開国派であったのに対し、この人は積極的に開国を図りました。交易の実をもって国を富ませ、国防にあてる。明治政府が後に行ったことを彼は10年も先取りしていたのです。井伊が岩瀬をもっと重用していたら強引な開国はなくなり、安政の大獄もなく、ひいては桜田門外もなく、幕府はもう少し長生きできたかもしれません。 惜しいことに永蟄居の処罰を受け、失意のうちに1861年に亡くなりました。まだ46歳(数え年)でした。 強引な弾圧は強力な反発を生みます。 1860年、江戸城桜田門外で登城中を水戸浪士らに襲撃され、井伊直弼死亡(46歳)。 井伊の横死により針は再びぐいっと戻され、処分を受けていた者たちが復帰を果たします。ただ岩瀬は体が弱っていたために復帰せず、また水戸斉昭、島津斉彬は既に死去していたためにかつての一橋派は大きく力を落としました。 隠居謹慎処分を受けていた先代の尾張藩主、徳川慶勝(よしかつ)もまた許されました。 これで慶勝の弟で現藩主の茂徳(もちのり)の立場は非常に微妙なものとなります。

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  • 11 Jun
    • 岡崎いずみ 『あの素晴らしい日ペンの美子ちゃんをもう一度』

      ええっ? もう今はいないんだ、美子ちゃん。 著者: 岡崎 いずみ タイトル: あの素晴らしい日ペンの美子ちゃんをもう一度 少年漫画誌や少女漫画誌の裏表紙または裏表紙見返しにはさまざまな商品広告が載ってます。 その中でも昔からの定番なのが、  歯を白くする器具  睡眠学習法  各種ステッカーや銀のアクセサリー  幸運になるお守り などなど。 妖しげな、そしてどこかわくわくさせるラインナップがたまりませんでした。特に睡眠学習はかなり真剣に購入を考え、何度も親に怒られましたねえ。 少女漫画誌によく掲載されていたのが「日ペンの美子(みこ)ちゃん」。 ご覧になった方も多いのでは。 その名の通り、日ペン、すなわちボールペン習字講座の広告漫画で、一回が必ず3×3の9コマ。導入とオチはストーリー仕立てになって、年賀状を書いたり、ボーイフレンドにラブレターを出したりするときに  日ペンで勉強していてよかったわ と美しい字が書ける自分をさりげなく(?)アピール。そして日ペンの紹介に移るんですが、これは毎回決まっていました。  ○十年の歴史を持つ日ペンで習ったのよ。先生方も超一流よ。  教材もバインダー式で使いやすいの。  1日20分程度の練習でペン字検定にも合格できるわ。  ○級合格者の○割が日ペン出身なの。 というセリフが必ず入っていて、これだけで3~4コマはありました。広告漫画だから当たり前なんですけど、毎度毎度お決まりのワンパターンが実に30年近く続いていたんです。 ワンパターンながらも誰もが「見たことある」漫画で、その存在感はそこらの連載漫画よりはるかに大きいかも。 そんな日ペンの美子ちゃん。いつの間にか見なくなったなあ、と思ったらもう連載されていないんですね。 初出が1972年で、1999年まで続き、その間4名の漫画家が担当していた。つまり初代~4代の美子ちゃんがいて、それぞれが時代に合わせ、それぞれのキャラクタを持っていたんです、なんてことをこの本を読んではじめて知りました。 基本的なデータとして担当していた漫画家さん、担当時期、などはもちろん、それぞれのバージョンの美子ちゃんの性格からファッションからボーイフレンドや同性の友達のことまでじつに詳しく調べられています。 リカちゃん人形とその家族、お友だち人形と同じように詳しく。キャラクタ設定や世界設定を通じて、その当時の日本の様子がわかるんですね。 初代の美子ちゃんは美人でボーイフレンドも多く、美しい字が書ける=できる女性、といったイメージなのに、代を重ねるに従ってドジな面も出てきて、どこのクラスでもいるような女の子になってゆきました。 これ、まさに少女漫画のヒロインやキャラクタのあり方、その移り変わりと似ていますね。 広告漫画だし、ワンパターンだからきちんと保管してある人なんてめったにいないだろうに。しかも72年から99年まで30年近くの長期「連載」。よくここまで調べたものです。 ちなみに、一番「在籍」が長かったのは初代の美子ちゃんで1972年から1984年までの12年間。作者(画)の矢吹れい子さんとは実は中山星香さんのことなんだそうです(!)。言われてみれば、そうなんですね、確かに中山さんの絵です。 私がよく見かけたのもこの初代美子ちゃん。 もう今は連載されなくなってしまった美子ちゃん。 復活を望んでいる人も多いんじゃあないでしょうか。

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  • 10 Jun
    • 幕末編  15代藩主 徳川茂徳

      私も学生時代にはさまざまなアルバイトをしました。 今の仕事につながる家庭教師や塾教師をはじめ、スーパーマーケット、内装工事、交通量調査、めずらしいものではカメラマンのアシスタント(といってもただの荷物持ち)、ヘアモデル、占い師の助手などなど。短期バイトを含めると十数種はやったと思います。怠け者の今の私には自分のことながらよくやったなと思ってます。 そんな中でもっとも華やかな職場だったのが大阪の大丸デパート。年がばれちゃいますが、その大丸デパートがオープンした年の冬の1ヶ月間、ボーナス商戦まっさかりの時期にバイトしました。なにせオープン1年目ですから店員さんはどれも他店からの選りすぐり。デパートは女性の職場、といわれますようにただでさえ華やかな世界ですが、私のいた頃はそりゃもう宝塚に及ばずながらもきらびやか、華やかな世界でした。皆颯爽としている、てきぱきしている。かっこいい制服を着こなし、背筋がしゃんとして、にこやか。ですから皆美しく見える。まあ、私がおぼこい田舎ものだったせいもありますが。その女性の職場で一番苦労したのは派閥。 女性の方、怒らないでくださいね。 私がいたフロアでも大きく二つの派閥がありました。そんなこと知るはずのないバイトの私でも昼食に誰に誘われついていったか、だれに包装の仕方を教えられたか、で属する派閥が決まってしまったようです。 売り場ではレジ打ちの女性が権力を握っています。忙しいときには私のもっていった商品のレジ打ちが後回しにされたり、逆に優先されたりしたことが何度かありました。 女性とは恐ろしいものだということがよおく分かりましたです。 女性の方、怒らないでくださいね。 まあ、それが苦になるほどどっぷりと業界にはつかりませんでしたし、男の私は商品センターでの品物管理などもあったので、全体としては楽しいバイトでしたよ。 さて、幕末の尾張藩でも大きく二つの派閥がありました。 一つは慶勝(よしかつ)擁立の箇所でも述べた金鉄組。藩政改革を志し、慶勝擁立を願い、どんな苦難にあってもくじけぬよう、金鉄の如き意志を持って集った藩士たちです。慶勝の時代には藩政に活躍する場が増えました。 もう一つはふいご党。金鉄をも溶かすふいごのような存在として名づけられたそうです。金鉄組に対抗して佐幕派となりました。 どんな集団でも主流派がいれば反主流派がいる。尾張藩の場合、藩主の座をめぐって幕府と何度か衝突しましたから、最初は反主流として金鉄組が形成されました。一度そういったまとまりができてしまうと不思議なもので、自然と別のまとまりができてしまう。人間のすることですから、高度な政治理念のみで金鉄組に入るものばかりではないのですね。縁故入会や何となく、とか金鉄の時代になったからオレも、なんてのもあったでしょう。ふいご党も然り。金鉄が勤皇なら佐幕の連中が集まってくる。そりの合わない奴があっちにいるからオレはこっちにしよう、なんてのもあったでしょう。 もっともふいご党の方は金鉄組ほどはっきりとしたまとまりはなく、藩内の佐幕派をあとからまとめてふいご党と呼んだのだ、という説もあります。それにしても金鉄組に対して別の思惑を持った藩士たちがいた、別の集団がいくつかあった、ということは違わないでしょう。 慶勝の失脚は金鉄組の没落を意味し、同時にふいご党躍進を意味しました。 慶勝引退を受け15代藩主になったのは弟の茂徳(もちのり)。 ここで慶勝のお里、高須藩を振り返って見ますと、慶勝の藩主就任を見届けた父義建(よしたつ)はその翌年(1850年)に引退し、藩主の座を五男の義比(よしちか)に譲ります。この義比が兄の失脚後15代尾張藩主となり、将軍家茂から一字もらって茂徳と名乗るのです。茂徳のあとの高須藩はその年に生まれた茂徳の子、秀麿(ひでまろ)が継ぎます。 慶勝から茂徳の政権交代時はまだ父義建も健在でしたから胸中は複雑でしたでしょう。 尾張藩主に就任した茂徳の周りには自然とふいご党の面々が集まってきました。全国的には安政の大獄の嵐が吹き荒れ、開国に反対した攘夷派が次々と左遷させられたり、処罰させられたりしていました。 茂徳個人の思惑がどうであれ、兄と同じ道を歩むことは不可能でした。 個人レベルでは対立点のなかった兄弟でしたが、時代が2人の道を2つに分けてしまいました。 茂徳は徹底した佐幕開国派となります。 そして他家に養子に行ったもう二人の弟、会津松平家の容保(かたもり)と桑名松平家の定敬(さだあき)も、もう少し後のこととなりますが佐幕派に位置づけられることになります。 恐ろしきは派閥抗争。 15代茂徳はその犠牲者といえましょう。

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  • 08 Jun
    • 山下静雨 『もっと「きれいな字!」が書ける本』

      ワタシ、キレイ? 著者: 山下 静雨 タイトル: もっと「きれいな字!」が書ける本 きれい。普通はほめ言葉ですね。人間、大抵は汚いよりきれいが好き。 「きれいなお姉さんは好きですか?」なんてキャッチコピーもありました、昔。 きれいなものは喜ばれます。特に女性には。  きれいな花  きれいな石  きれいな金属  きれいな布  こんなものを贈ると喜ばれます。 さりとて何でもきれいなものがよいとは限りません。  きれいな虫  きれいなカエル なんてのは人によっては逆に怒り出す場合もあるので注意が必要です。それでも  きれいなヘビ は嫌われますが、  きれいなヘビの革でできたバッグ は喜ばれるから難しいですね。また  きれいな心 のように目に見えないものは贈っても効果がありません。  「オレのプレゼントはオレの愛だ!」 なんてやっても白けてしまうばかりです。 まあそれでもきれいなものが好かれるのは事実。最近は昔ほど書く機会がなくなりましたが、字もきれいなものが書けるに越したことありません。 でもきれいな字=うまい字、達筆。普通の人には読みにくい、というイメージをもってらっしゃる方もいるのではないでしょうか。私はそうでした。だから  「多少汚くても相手に読みやすい字の方がいい」 なんて思ってました。自分の字についても  「きれいでなくても個性的だからいい」 と思ってました。学生時代のように手書きで何枚もレポートを書くという機会がなくなり、何でもワープロで済ませるようになったこともあり、特に気にかけることはありませんでした。 ところが。 先日漢字検定を受検しまして、つくづく思い知ったのです。  「私の字は、見て恥ずかしい」 罫線のない、わりと大き目の解答欄に縦書きで書きましたから、字のバランスが取りにくい。だめな所が目立っちゃうんですね。すごく読みにくい、まではいかないと思うけれども、あまり人には見せたくない字になってしまいました。 そんな時書店でこの本を発見。 帯には  きれいな字が書ける「ちょっとしたコツ」がわかる  読んだ後、驚くほど上手くなる! なんてことが書いてあるじゃあありませんか。「ちょっとしたコツ」というのがお手軽でいいですよね。早速購入しました。 導入部には  きれいな字を書く人は知的に見られます。 なんてことが書いてあります。汚い字でサインしたために取引が上手くいかなかった例なども紹介されていて、危機感をあおっています。大丈夫かな、私は。 で、本編にはキャッチの言葉通り「ちょっとしたコツ」が紹介されております。  縦画はまっすぐ、横画は右上がりに  起筆でアクセントをつける  字の中心をつかめば、崩れないし、曲がらない などなど。確かにちょっとしたことで、今まで気にかけなかったことが多い。それらに気をつけながら試しに書いてみると、上手くなった! ような気がします。気がする、では無責任なので確実なことを言えば、たしかに字体が少し変わり、バランスがよくなりました。 効果あるじゃあないですか。 ちょっとしたコツばかりでなく、他にもさまざまな注意点が書いてありました。 一つの文章中に楷書と行書を混ぜるのはよくない、とか、一つの字の中に楷書と行書を混ぜてはいけない、とか。 う~ん。確かに私はやっちゃってます。「よくない」ことを。自分勝手に字をつなげたり、字体を混ぜたりしていました。自分勝手に行書にしたりつなげたりすると読みにくくなってしまいます。 きれいな字というのはやはり読みやすい字のことだったんですね。

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  • 07 Jun
    • 幕末編  開国と慶勝の失脚

      藩政改革にある程度成功しすると、慶勝(よしかつ)は海防問題に取り組みます。 敬愛する叔父(母の弟)、水戸斉昭(なりあき)とともに、攘夷論を主張。 1853年、ペリーが浦賀へ来航したときも老中阿部正弘(あべまさひろ)の諮問を受け、意見書を提出します。  開国には断固反対  西洋に対抗できる武備の充実を とはいえ、武備充実のための資金をどうするのか、という問題については幕府提出の意見書には書かず、叔父斉昭に打ち明けております。  参勤交代を取りやめること 後年、文久の幕政改革でこれは実現しますが、このときはまだ時期尚早だったようです。 日和見な意見、内容のない意見書の中では確かに立派なものでしたが、理想を述べるだけで具体性に欠けていました。 数ある意見書の中で勝海舟のものは群を抜いています。 彼は攘夷を果たすために積極的に開国を主張。交易の利をもって武備を充実させることを提案しました。 そして、ここからが彼のすごいところですが、単に物品を揃えただけでは国防にならない。なにより人材の育成が急務であるとしています。これが後に長崎海軍伝習所につながるのです。 勝の意見は非常に優れたもので、これをきっかけに彼は幕府上層部に注目されるのですが、それは別の話。慶勝に話をもどしましょう。 この年、12代将軍徳川家慶(いえよし)死去。ただ一人成長した息子の家定(いえさだ)が13代将軍となりますが、暗愚で多病であり、常に手足が痙攣していたそうです。恐らく何か障害を持っていたのでしょう。これでは世継ぎが望めるはずもありません。幕府存続の危機です。 慶勝は家定の将軍就任で無駄な出費をした幕閣を非難。徐々に対立してゆきます。 14代将軍を巡って、江戸幕府最大の後継者争いが始まりました。  一橋派  斉昭の子、一橋慶喜を推戴。慶喜は英明の誉れ高く、家慶にも愛され、御三卿の一橋家を継いでいました。水戸斉昭、松平春嶽(しゅんがく)、島津斉彬(なりあきら)など有力大名が名を連ねていました。 その多くは攘夷派です。  南紀派 家定の従兄弟、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を推戴。慶福は2歳で紀伊藩主となり、この時わずか12歳でしたが、血統の上から現将軍家に一番近い存在でした。井伊直弼(なおすけ)ら譜代大名が名を連ねています。 慶勝自身は将軍候補には挙がりませんでした。もはや御三家(尾張、水戸)に後継を求めず、紀伊家ないしは御三卿から後継を出すのが暗黙の了解となっていました。特に一橋家は11代将軍家斉(いえなり)の実家だったこともあって、将軍後継の最有力でありました。 ところが慶喜の父、斉昭はうるさ型として幕閣、それに大奥にまで嫌われていました。 折悪しくも将軍後継問題と、開国を巡る政争が重なってしまい、幕府最大のお家騒動となるのです。 慶勝は水戸斉昭と政治活動を共にしていましたから、一橋派とみなされていました。が、実際は慶喜を推戴する意思はなかったようです。慎重派の彼のこと、英明とはいえ、ほとんど面識のない、まだ若い従兄弟のことを自分の目で確かめるまでは後継争いには中立でいようとしたのです。更に、家中が割れ、党派を組み、お互いが争うの愚は、尾張藩主となるまで散々見てきましたから、一橋にせよ、南紀にせよ、一方に組することを嫌ったのです。むしろ両者の仲介になろうとしていました。 ところが1858年、南紀派の井伊直弼は米国公使ハリスとの間に日米修好条約を結んでしまいます。 それも朝廷の許可なく独断でしたのでした。 元来、外交にしても内政にしても幕府が全て任されていますから、勅許(天皇の許し)を得る必要はないのですが、それは幕府の権威の高かった時期のこと。ペリー来航以来、幕府は諸大名に意見を求め、介入を許すという例を作ってしまいました。弱腰になったのです。諸大名は今まで政治に参画できなかった分を取戻すために介入を強めました。将軍後継問題もその一つです。 そして諸大名が幕府に対抗するために権威のよりどころとしたのが朝廷です。もっともこの時期の朝廷の政治力はほとんどありませんでしたが。 そのため、この頃になると開国問題も当然、朝廷と有力諸大名の承知の上で議論されるべきと思われていました。しかし井伊は問題を引き伸ばすの愚を悟り、強権を発動します。勅許無しの通商条約締結です。 このことが本来一橋派でなかった慶勝の運命を決定付けました。 勅許無しの締結に激怒した水戸斉昭らとともに、本来登城日でないのに江戸城に登城(不時登城)し、井伊を詰問します。しかし井伊はしたたかな男。議論を避け、そうそうに別室に退去。 相手のしくじりを逃さず、井伊は将軍継嗣問題も一挙に解決を図り、慶福あらため家茂(いえもち)が14代将軍に就任。井伊は反対派をどんどん粛清してゆきます。 水戸斉昭(水戸家隠居)は謹慎、水戸藩主慶篤(よしあつ)、一橋慶喜は登城停止。尾張慶勝、松平春嶽は隠居。 「安政の大獄」の始まりです。

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  • 06 Jun
    • 勝海舟と福沢諭吉

      出会いがその後の関係を不幸にしてしまった? 勝と福沢についていくつかコメントを頂きました。これにお答えするにはコメント欄では不足と感じましたので以下に記します。 昔、とある歴史雑誌で著名人100名にアンケートで歴史上の好きな人物・嫌いな人物を聞くという企画がありました。好き、嫌いそれぞれ1名を理由をつけて回答するものですが、中でも星新一さんの回答が振るっていました。  好きな人物  曹操:えげつないから(陽気)  嫌いな人物  家康:えげつないから(陰気) さすがショートショートの神様ですね。 家康を嫌い、という人は結構いました。嫌いと答えた人でもその偉大さを否定することはありませんでしたが。信長や秀吉と比べると華がないからでしょうか。 好き、嫌いがはっきり分かれる人物に勝海舟がありました。家康の場合とは異なり、嫌いと答えた方は海舟の業績にも否定的です。 歴史小説での扱いを見ても海舟は好き、嫌いがはっきり分かれておりますね。 嫌われる理由は『氷川清話』『海舟座談』などで幕末維新での出来事をなんでも「オレがオレが」と自分の業績にしたがるから、法螺吹きだから、というのが大きい。 海舟嫌いは彼の生前からあったことで、福沢諭吉が「痩せ我慢の説」で海舟と榎本武揚(えのもと・たけあき)を批判したことは有名です。江戸無血開城を果たした海舟と、函館にこもり最後まで旧幕府のために戦った武揚の業績を認めつつも明治以後の「転身」を批判したのです。そして強者にこびない、自主自立の痩せ我慢の精神喪失を嘆いています(この点では江戸無血開城をも批判してます。確かに無用の争乱を避けたかもしれないが、同時に自主自立の痩せ我慢の精神を放棄した策であると)。 「痩せ我慢の説」が公開されたのは海舟の死後のことでしたが、生前に海舟と武揚のもとへ送っており、感想を求めました。これに対する海舟の答えは以下のように簡潔なものでした。  行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。」  (出処進退は自分の責任、それを批判するのは他人、私は預かり知らぬことと考えています。) この勝負(?)、海舟に軍配が上がると思うのですが、いかがでしょうか。 海舟が明治政府の要職を得たのは困窮する旧幕臣のため、経済援助のためでした。また幕府から明治政府へと維新をプロデュースした一人として、明治政府を見守らねばならぬという責任感もあったでしょう。 明治維新という急激な変革の中で士族の叛乱があちこちで起こりましたが、最大の敵性団体である旧幕臣たちはついに叛乱を起こしませんでした。これはひとえに海舟、山岡鉄舟などが旧幕臣を抑えたり援助していたからです。 さて福沢ですが、「門閥制度は親の仇」といい、西洋の合理主義を説いていた彼が「痩せ我慢の精神」などというアナクロニズムを言い出したのは奇妙なことです。よほど福沢は海舟が嫌いだったのでしょう。 この二人は咸臨丸(かんりんまる;1860年に遣米使節随行艦として太平洋を横断)で初めて出会っています。この出会いがその後の二人の関係を(というよりは福沢の勝嫌いを)決定付けたようです。 よく咸臨丸の艦長は勝海舟である思っている方がいらっしゃいますが、正確には艦長なるものは存在しませんでした。幕府の身分制度がそのまま艦内に持ち込まれていたのです。軍艦奉行木村喜毅(きむら・よしたけ;ちなみにこの人の号もかいしゅう=芥舟)が代表者で勝はその下、艦内ナンバーツー。これを受けて福沢は『福翁自伝』で木村を艦長、勝を指揮官としていますが、アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいました。木村、勝、福沢の他に有名人としてはジョン万次郎も乗り込んでいました。 勝にしてみればこれは大いに不満。能力もないくせに家柄がいいというだけでなぜ木村が自分の上に立つのか。艦内に不要な人間がなぜ自分の上司なのか。 一方なんとしてもアメリカに行きたかった福沢は木村の従者となって船に乗り込みました。そこで福沢が見たものは船酔いでへばっているくせに口だけは達者で、木村に対して当たりがキツイ勝の姿。 さて木村ですが、この人は確かに家柄はいいが、決して無能な人物ではない。勝が無能だと思ったのは彼の欠点で、育ちのいい人には辛い評価を与える傾向がある。木村に対しても確かにいい感情は持っていなかったようです。木村は自分の立場、勝の不満をよく分かっていました。勝の死後、「咸臨丸中の勝」という述懐の中で当時の様子を述べていますが、「勝は傑物である」と評価しています。 こうして見ると穏やかな木村を挟んで勝、福沢というあくの強い同士の傑物が対立しているわけですね。 勝も福沢もある面では非常に似ている。ともに切れ者、頭がいい。咸臨丸の面々、及び遣米使節の人々が彼我の文化の違いに驚き、度肝を抜かれ、それでも技術面を吸収しようと熱心に観察していたのに対し、勝と福沢の両者はアメリカの政治制度をよく理解し、来るべき日本のあり方を模索しました。 アメリカに渡り、福沢が「ワシントンの子孫は今何をやっているのか」とたずね、「知らない」との答えにびっくりしたそうです。ワシントンといえば日本では徳川家康に相当する。その子孫がどうなっているのか分からない、ここに福沢は民主主義国家アメリカの姿を見ました。 一方の海舟もこんなエピソードが残っています。アメリカに行った報告を済ませた海舟。老中から呼び止められ、こんなことを聞かれました。  老中「そなたは一種の眼光を備えた人物だから、アメリカへ行って何か感ずることがあったろう。申してみよ」  海舟「人間というのは皆同じものです。古今東西やっていることは大して変わりありません」  老中「そんなことはあるまい。遠慮は要らぬ、申してみよ」  海舟「さよう、あえて申し上げますればかの国では上に立つ人物ほど優秀な者が多うございます。この点、わが国とは反対かと」  老中「無礼者! ひかえおうろう!」 福沢と同じく封建制、門閥制のない近代国家の特長を理解していたのでした。 かように頭のよかった二人。だから余計対立しちゃったのでしょうね。 海舟は西郷隆盛や坂本竜馬など自分と異なるタイプとは理解しあえましたが、福沢、佐久間象山、徳川慶喜などとはそりが合わなかったようです。  

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  • 05 Jun
    • 幕末編  慶勝の政治思想

      慶勝は非常な勤勉さで改革を進めていきました。 自分に寄せられる期待を充分認識していたのです。そして一歩間違えれば、多大な期待は失望と反感に変わることを不遇の経験から知っていました。 彼は身分の上下にかかわらず有能な人材を抜擢し、法を整備しました。 破綻しかけた財政を立て直すために自ら倹約し、豪農富商と膝を交え、藩と領民のためにお金を引き出します。 それは前代までの藩主には見られなかった真摯な姿勢でした。 彼のこの姿勢はやはり不遇の時代から国を憂う心があったからでしょう。 藩主就任がほとんど不可能となったときにも自暴自棄にならず黙々と学問に取り組んだ、強い精神力。 恐らく彼には藩主になれなくとも高須家として尾張藩政を補佐しようという思いがあったに違いありません。 彼とほぼ同年代の勝海舟(1823年生まれなので慶勝の1つ年上)も不遇の時期に学問に励みました。 海舟の有名なエピソードの一つにオランダ語の辞典を二部書き写した話があります。 貧乏で辞書が購入できない代わりに、借りてきて書き写してしまう。しかも貸し出しの損料や紙代などを稼ぐために二部書き写して一部を売ってしまうんですね。 この辞書の末尾には海舟の自筆で、貧窮の中辞書を写したこと、そして身につけた学問が役に立つ日が来るのだろうかというようなことが書かれています。 後年の彼からは考えられない素直な不安、あせりがにじみ出ています。そしてそれでもこの学問を続けるしかないのだという信念を新たにしています。 不遇の時期にしっかりと自己を研鑽する。その場限り、目前の利欲のためでなく、いつ来るか分からない自分の出番のために。この勝の姿勢が慶勝にもあったのかもしれません。 着々と実績を上げる慶勝でしたが、藩政以上に関心を寄せていたのが海防問題でした。 叔父の水戸斉昭(なりあき)はパリパリの攘夷論者。そんな叔父の影響を受け、慶勝も攘夷論者でした。そして島津斉彬(なりあきら)、松平春嶽(しゅんがく)といった賢君たちと交わっていました。 春嶽は慶勝の前代でライバルであった慶臧(よしつぐ)の実の兄ですから、恩讐を超えた交わりを結んだんですね。 オランダからの、ペリー来航の予告情報を斉彬から教えてもらったこともあります。また、黒田藩が海軍設立建白書を提出するんですが、幕府から無視される、その建白書が慶勝の所に保存されているんですね。 この当時慶勝は開明派として水戸斉昭、島津斉彬に次ぐ存在として認識されていたのです。

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  • 04 Jun
    • ヘルマン・ヘッセ 「アウグスツス」

      愛されること=幸せ? ヘッセは日本で最も愛されている作家の一人でしょう。 『車輪の下』は各種文庫本が出され、新潮文庫の100冊の中の常連ですし、中学校の教科書には「少年の日の思い出」が収められています。自然を愛し、西洋と東洋の融合を夢見たヘッセ。近年ではヘッセのガーデニング本も有名です。 私も『車輪の下』から始まり、主に新潮文庫、高橋健二さん訳を読みました。水色の地に白いヘッセのサインが無数に入ったおしゃれなカバーがステキでした。今では絶版になったものも多く、少年の日にもっと沢山読んでおけばよかったと悔やまれます。 「アウグスツス」は『メルヒェン』という短編集に収められた一編。大人向けの創作童話であります。 やや抽象的なお話でありますが、そのインパクトの強さは20年以上経った今でもその内容をはっきりと思い出せるほどです。 若く貧しい母親が死の間際に望んだことはまだ幼いわが子が「誰からでも愛されるように」というものでした。子を持つ親としてはしごくまっとうな願い。アウグスツスと名づけられた幼子は母親の望みどおり誰からでも愛される美しい青年に成長し、高い地位とたくさんの財産を手に入れます。しかし彼は自分を不幸と感じ、絶望のあまり自ら命を絶とうとします。 一体なぜ?  全ての人から愛されることは幸せではないのでしょうか。 自らは何もせずとも人から愛され、物質的にも豊かになる。これが彼の心を空虚にしたのでした。 亡き母が良かれと思った望みが彼を苦しめることになろうとは、何たる皮肉でしょう。 アウグスツスがまさに死なんとしたその時、彼の名付け親であり、亡き母の望みをかなえた不思議な力を持つ老人が現れます。そして母親に言った同じことを彼にも言うのです。 「ひとつだけ望みをかなえてやろう」と。 アウグスツスが何を望んだのか。幸せを得るためにどんな願いをしたのか。 ここは私のへたくそな文章よりも、ぜひご自分で読んでみてください。 (そんな暇なんて無いよ、とおっしゃる方は以下を読んで推理してみてくださいね) 人は愛することよりも愛されることを求めます。一部の例外はありますでしょうが。 プレゼントを贈るよりももらうほうが楽だし、嬉しいだろうと思うわけです。 でも実際にプレゼントを贈ってみると、自分が贈ったプレゼントをもらって喜ぶ顔を見るほうが何倍も楽しいことに気づくでしょう。プレゼントはもらうより贈る方が楽しいもの。求めるより与える方が幸せなもの。 そして心が成長すると、たとえ見返りが無くとも与えることに喜びを感じるようになるのではないでしょうか。 アウグスツスの願いはまさにそれだったのです。 著者: ヘッセ, 高橋 健二 タイトル: メルヒェン

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  • 03 Jun
    • 幕末編  ある八百屋の死

        徳川慶勝 (名古屋城叢書『名古屋城青松葉事件』口絵写真より) 過去の記事と重なる部分もありますが、慶勝の藩主就任までを振り返ってみます。 徳川慶勝(とくがわ・よしかつ)は1824年、尾張家分家である美濃高須藩松平義建(まつだいら・よしたつ)の次男として生まれました。幼名は秀之助。長男が早世したので彼が嫡男とされました。 *秀之助は元服後、義恕(よしくみ)→慶恕(よしくみ)→慶勝と名を変えます。しかしややこしいので、ここでは初めから慶勝で通します。 高須松平家は尾張徳川家の分家として、藩主幼少のときはコレを補佐し、本家に跡継ぎがいないときは藩主に就任するなど切ってもも切れない関係にありました。三万石の小藩ながら家格は高く、それに見合うだけの生活を維持するためにも本家から常に経済、人材上で援助を受けておりました。 もっとも尾張徳川家でも高須家でも藩祖義直(よしなお)の血統は途絶えておりまして、慶勝の祖父松平義和は水戸徳川家の出身、さらに慶勝の母も水戸家のお姫様であります。 ですから最後の将軍徳川慶喜とは血の濃いいとこの間柄であったのです。 ↑クリックすると大きな画像でご覧になれます 本家の尾張家では義直の血筋が絶えて以来、紀州系の押し付け養子が相次ぎ、一度も名古屋に来なかった殿様、幕府の言いなりになる殿様に藩士領民の反感がつのりました。 どっかりと名古屋に腰を据えた名君が現れないものか。 幼少時から英明の誉れ高い慶勝に人々の期待は集まります。 1839年、慶勝16歳の時、尾張11代藩主斉温(なりはる)死去。12代藩主には慶勝をと尾張の人々は熱望しました。しかし将軍家斉の息子が12代藩主となり、人々の期待はあえなくつぶされてしまいました。 このとき人々の反感の強さを憂慮した幕府は7代藩主宗春の罪を許し、それまで墓にかぶせてあった金網を撤去します。 1845年、慶勝22歳。13代藩主斉荘(なりたか)死去。今度こそ藩主就任なるか、と思いきやまたもや幕府側は養子を押し付けます。しかも今回は慶勝より若い10歳の少年。 これで慶勝藩主就任の夢はもはやかなわぬものとなりました。悲憤慷慨する藩士たち。 これより以前、慶勝を藩主にし、藩政改革を志す藩士たちは結束し、「金鉄組」と呼ばれるグループを作るようになっていました。 しかし彼は内心はともあれ、表向きはそのような世間の騒動に心動かされることなく、学問に打ち込みました。彼の祖父、母の実家は水戸家。水戸黄門(光圀)以来学問に篤い家系です。特に勤皇精神が高く、「水戸学」と称されたそのイデオロギーは幕末において波乱を招いております。 慶勝も学問を修めるにつれ、勤皇精神を高めていったのでしょう。また、尾張藩の現状を憂えたことでしょう。 1849年、慶勝26歳。まさかの出来事が起こりました。彼より年下の少年藩主がわずか14歳で死んだのです。今度こそ慶勝の藩主就任か、と思いきや、幕府は性懲りもなく御三卿の一、田安家から養子を押し付けようとします。ここにまた金鉄組を中心とする藩士、領民と幕府首脳、保守派の藩重臣たちとの対立が始まりました。 そんな折、名古屋で八百屋を営む男が熱田沖で入水しました。慶勝の藩主就任を熱望してのこの行為に擁立運動の勢いはいやがうえにも増してゆきます。 こうしてその年の6月、徳川慶勝が尾張家を相続。14代藩主となりました。 16歳の少年は26歳の青年へと成長を遂げておりました。 やっとつかんだ藩主の座ですが、慶勝には藩士、領民の期待が痛いほど分かります。 彼は早速藩政改革に着手しました。

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  • 01 Jun
    • 遠藤周作 『イエスの生涯』

      孤独であり、苦悩する、心優しきイエス像 著者: 遠藤 周作 タイトル: イエスの生涯 とらさんの『沈黙』にTBしまして。 またまた個人的なことで恐縮ですが、私は遠藤周作さんから読書というものを教わったような気がします。 あれはいつだったか、正確な年は忘れてしまったのですが、遠藤さんがNHK教育テレビに出てらっしゃって、日本文学について、読書について語ってらっしゃったのを見た覚えがあります。中学、高校生向けの番組だったでしょうか。その中で遠藤さんは、読書にはさまざまなスタイルがあり、アプローチの仕方もさまざまであることを仰ってました。例えば気に入った作家さんの本ばかりを読んでみたり、気になったテーマの本ばかりを読んでみるのも面白いんじゃないか。最後まで読まなければならない、なんて決まりはないのだから途中で投げ出したっていいじゃないか。なんてことです。 大切なのは読書は楽しいものだ、ということ。何かを得ようとして読む場合もあるけれどそれでも楽しんで読むことが大事。読書は苦行ではないのだ、ということでした。また、ある程度の量を読まなければいい本、悪い本なんてことは分からないのだからどんどん楽しんで読むべし、と仰ってました。 楽しく読めばいい、楽しくなかったら読まなくてもいい。途中でうっちゃってもいい。 「本をたくさん読む良い子」と見なされ、いつしかカッコつけのために難しい本ばかりを読むようになっていた私はガツンと来ましたね。 遠藤さんは個々人の自主性を重んじていらっしゃるんだなあと感じました。 その少し後くらいでしょうか、遠藤さんの作品が大学入試問題に使われたことがありました。その模範解答を見て仰るには、 「作者である私も分からなかった」 とのこと。このエピソードからも先ほどのお仕着せの読書、解釈を嫌い、個々人の自主性を大切にされていたお人柄がしのばれます。 さて、遠藤さんといえばカソリック作家として有名ですが、ここでも宗教者に時折見られる頑固な、偉そうな雰囲気などは少しもありません。信仰とは何かという部外者には分かりにくいことをとても丁寧に語ってくれます。 とはいえ、答えを教えてくれているわけではありません。一緒に考えよう、というスタンスです。 『イエスの生涯』は遠藤版「福音書」(新約聖書にあるイエスの記録。福音とは良い便りのことで、イエスの教えを意味します)とも言うべき内容で、イエスという多くの伝説につつまれた人物を私たち非キリスト者にも分かりやすく、等身大に描いてみせています。 イエスといえばさまざまな奇跡を行った方ですが、まずはじめの奇跡といえば聖母マリアの処女懐胎。まずこれでふつうの人は「ウソだあ~」と感じるでしょうね。 一説には初期教会、聖書では処女懐胎の記述はなかったそうです。マタイ伝に引用されている「乙女が身ごもって男の子が生まれる」という予言(旧約聖書イザヤ書にあった予言)の「乙女」とは処女ではなく単に若い女性を意味する言葉である、という説があるそうです。 いろいろな説があるのですが、カソリックではイエスは処女から生まれたとしていますから、遠藤さんも処女懐胎を信じておられる。ではご自分の信じていることをどのように私たちに説明しているかといえば、これが説明をしていないんですね。先ほど述べたように上段から答えを教える教師の立場ではないんです。一緒に考えよう、という立場ですから。処女懐胎についてもこれは事実だと押し付けてもいなければ、懐疑的だと擦り寄ってもいない。 だから答えを求めようとしている人にはまだるっこしいかもしれません。 ですが、信仰というものは元来そんなものではないでしょうか。 一から十まで説明されて理解する。証明されたことを受け入れる。これは信仰ではなく、納得です。信じるということはまだ証明されぬもの、まだ見ぬもの、まだ形のないものを待ち望むことではないでしょうか。対人関係で考えると分かりやすいと思います。他人を信じるというのは証明を求めない。証明を求めることは不信。その人を信じていないから根拠や証明を求めるのですね。 とはいえ、何の証もなく闇雲に信じる、盲信とも異なります。 他人を信じ続けた結果がいつかえられるように、まだ見ぬものを待ち焦がれている人々はいつか待ち人を迎え入れることができる。信仰と理性、宗教と知性・学問は決して相反するものではないからです。 処女懐胎という最初から高いハードルが設けられていますが、イエスの生涯はこの後も奇跡、癒しが続きます。魚を分けて沢山の人を満腹にしたり、水の上を歩いたり。病人を癒し、死人をよみがえらし、まさに八面六臂の活躍です。 しかし遠藤さんはこの力強きイエスではなく、非力な、優しいイエス像を重要視しております。 奇跡があったか、どうかではなく、イエスが常に漁夫や収税人、病人や寡婦、貧しき人々とともにおられ、彼らを癒されたことを注目されています。奇跡はなかったかもしれない。それでもイエスは常に彼らとともにおられた。ここでも遠藤さんは解答をずばっと突きつけてはおりません。 イエスの活動からその死にいたるまで、そこに感じられるのは非キリスト者である私たちが思うような神々しい姿ではありません。イエスに過剰な期待を寄せる弟子たち、群集たち。そして本質を理解されないイエスの孤独。その死に際しては群集も弟子たちもイエスを見捨てました。見捨てなかったのは一部の女性たちだけでした。 おそらくこの『イエスの生涯』は非キリスト者、特に日本の我々にとってもっともわかりやすいイエスの伝記だと思います。 西洋文明の背骨の一つであるキリスト教。そのキリスト教を理解するために一度は読んでみたい本です。 著者: 遠藤 周作 タイトル: キリストの誕生 イエスを裏切り、見捨てた弟子たちが、イエスの死後殉教もいとわぬ使徒になったのはなぜか。 遠藤版「使徒行伝」といえる一冊です。

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