• 30 Mar
    • ありがとうございました

      27日に皆様に呼びかけました、小5のお嬢さんが無事に家に戻られました。 ほんとうに良かったですね。 このブログをご覧になった方にも協力をいただき、ありがとうございました。 お嬢さんが直接もどられるきっかけになったのはニュースを見て、とのことだったそうですが、 この殺伐とした世の中で、お母様やおば様の呼びかけに多くの方がこたえ、善意で動く人がたくさんいるのだということを目の当たりにし、改めてネット社会のあり方を考えさせられました。 皆様ありがとうございました。 そしてご家族の方々、ほんとうに良かったですね。

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  • 27 Mar
    • 名古屋城と映画「禁じられた遊び」

      いよいよ開幕いたしました愛知万博、「愛・地球博」。ここ名古屋城内でも万博に並行して「新世紀名古屋城博」が、3月19日~6月19日まで開催されています。 そんなわけで早速やってきたのですが。。。 「キミのその髪型、すげえなあ。お蝶夫人みたいじゃないか」 「センパイ、古いなあ。年がばれますよお。これは『名古屋嬢』なんですよ」 「名古屋嬢というと名古屋に住んでいるお金持ちのお嬢様およびそれを模倣したスタイルの女性というヤツ?」 「はい。『名古屋嬢、名古屋城へ行く!』です」 「……」 「センパイこそ、何ですか! スネ夫君みたいなヘアスタイルで」 「違わい! これは矢吹丈なんです! 『明日のジョー、名古屋城を行く』」 「……」 特設パビリオン「金シャチドーム」で天守閣から降ろされた金のシャチホコを見学しました。残念ながら写真撮影は禁止。ここでは実物大レプリカを直接手で触れることもできるんですが、時間待ちが長いので断念。 「金シャチって近くで見ると結構大きかったですね」 「うん。それに結構災難にあってもいたんだね」 「盗賊に狙われたり、尾張徳川家の財政を救うためにたびたびそのウロコが使われたりしたそうです」 「それにしても金シャチがおろされた天守閣って、なんかしまりないよね」 「センパイは名古屋城天守閣が大好きですもんね」 「そう。ボクは郷土愛が強いのだ。城は名古屋城、野球はタイガース。。。」 「どこがですか!」 「ああ、でもいつ見ても美しいなあ。天守閣。一階と二階の床面積がほぼ同じで、どっしりとした安定感があるよね。あの美しい緑色した銅ぶきの瓦を見たまへ。昭和20年の空襲でお城が燃えたときは、緑色の炎が燃え上がったというよ」 「(ああ、またセンパイのウンチク垂れ流しが始まった。。。)」 「昭和34年の再建の時には銅を腐食させて緑色にするため、わざと尿をまいたらしいよ」 「(アイムハングリ~~)」 「江戸時代の名古屋の殿様たちは天守閣に住んでいて、町を見下ろしていたんだろうね」 「! おっとっと、センパイ、江戸時代の天守閣は住居空間ではありませんぜ」 「本当?」 「はい~。大名は本丸内の御殿に住んでいたんです。そこが居住空間であり、政庁でもあったんですね」 「本丸御殿って、今再建を計画してさかんに募金を呼びかけているアレかあ」 「もっとも、名古屋城の場合、本丸は『お成り御殿』といって将軍が滞在するところで、藩主は二の丸御殿に住んでいたんですけどね」 「そうかあ。それなら、住むためでなければ、なんであんなにでっかい建物を造ったんだ?」 「それじゃあお教えしますから、ついて来てくださいな」 というわけでやって参りましたのは名古屋中心部を東に少し離れた覚王山(かくおうざん)。 大通りを北へ、曲がりくねっただらだら坂を上ると、あるお寺に着きました。 「ここが日本唯一の全宗派寺院、日泰寺(にったいじ)です」 「全宗派寺院?」 「宗派を超えて建てられたお寺なんです」 「ほほう。そりゃまた、なんで?」 「明治33年(1900年)にシャム国(今のタイ)皇帝から贈られたシャカの遺骨をまつってあるんです」 「ええ? 本物なの?」 「1898年、インド北部の古墳で見つかった壷に入っていたそうです。で、『宗派を超えて、全ての仏教徒に』と日本に贈られたので、この日泰寺が建てられたんです」 「へえ~。このお寺のどこにまつってあるの?」 「『奉安塔』というんですが、普段は見れないんですよ。何でもインドやタイに見られるストゥーパ様式で建てられたそうですよ」 「ストゥーパ? なんか聞いたことあるぞ」 「ストゥーパ(stupa)はサンスクリット語で、卒塔婆(そとうば、そとば)と音写されます。略して塔婆(とうば)塔ともいいます」 「塔婆といったらお墓の脇にある。。。」 「はい、経文なんかが書いてある塔の形をした木片ですね。仏塔を簡略化したものです。ここの奉安塔も、法隆寺などに代表される五重塔も、お墓の塔婆もルーツは同じなんですね」 私たちは喫茶店で休憩しました。やっと春らしい気候になり、歩き疲れたせいか、薄く汗ばんでいます。 「つまり天守閣は五重塔のようなものだ、ということだね」 「天守閣は屋根の上にやぐらをのせたのが始まりといわれています(さまざまな説あり)。その後どんどん巨大化し、信長の頃は天守閣に住んでいたこともあったそうですが、江戸時代には将軍や大名のシンボルとして建てられ、実際に住むことはなくなりました」 「それでも人が住めるように造ってあるけど?」 「そうですね。初期の居住型の名残なんでしょうね」 「そこが最初からモニュメントだった塔とは違うところだね」 「思えば『ここに何々があるぞ』と人に知らしめるためには塔婆、墓石、塔、天守閣など、遠くから見えるものを建てる必要があったんだね」 「とくに墓石、墓標の場合、それがなければ人に踏みつけられてしまいますよね」 「そうか! それで、西洋では聖書の教えに反して死んだ人は墓標もたてず、十字路などに埋めたのか。。。人に踏みつけられるように」 人の哀れさに思いをはせ、すっかり冷めてしまったコーヒーをすすっていると、どこかで聞いた音楽が流れてきました。 「これは。。。」 「映画『禁じられた遊び』の主題曲じゃないですか」 「ああ、そうだった。。。そうだ、ボーレットが次々とお墓をつくって、十字架を立てていくよね?」 「ああ、センパイ、ネタバレはだめですよう!」 「う。まあ、ここまでならいいんじゃない?  。。。あの十字架は何を人々に示したかったんだろうか。何を人々に忘れてほしくなかったんだろうか」 喫茶店を出、日が傾いた街を歩きながら今日のことを頭の中で思い返していると、 「今回はシリアスな終わり方でしたね」 「初めてですな」 「! 私は急に『禁じられた遊び』がしたくなりました!」 「え!?」 と言うなり彼女はパチンコホールに向かって行きました。 「待て~! それのどこが禁じられているんだ~!」 「私は18歳未満なんですう~」 「ウソツキ」

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    • ご協力お願いします

      アメブロガーの、ウカブ2ばんめさんの親戚のお子さん(小5の女の子)が3月16日より行方知れずとのことです。みなさん、こちらをクリックしていただき、記事をご覧になってください。そしてぜひ、みなさまのブログでも呼びかけてください。私一人ができることはわずかなことですが、ブログの広がりをもってすればわずかなことも集まって大きな力になると思います。微力ではありますが、この場で皆様に呼びかけて行きたいと思います。

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  • 26 Mar
    • 6代 徳川継友  8代将軍決定と不遇の後半生

      ↑クリックして、拡大画像をご覧ください いよいよ愛知万博開幕。そして開幕後初めての週末です。 仕事からの帰路、終電にもかかわらず人出がままありました。 「名古屋は夜が早い」なんて言われてますが、万博中は街全体、夜更かしが続きそうです。 そんな賑やかな平成の世と反対に、今回のお話は沈んだものになります。 正徳6年(1716)4月30日、将軍家継が死去。後継者を巡り、幕閣、大奥も二派に別れました。 家継の母・月光院、側用人の間部詮房は尾張継友を 6代将軍家宣の正妻・天英院と譜代大名たちは紀伊吉宗を それぞれ推しました。 結果は皆様ご存知のとおりです。吉宗がはれて8代将軍を継ぎました。 継友、及び尾張藩としては御三家筆頭であり、祖母が将軍家光の娘であることもあって、将軍になるのは当たり前と思っていたようです。そのため、これといった根回しも活動もしていませんでした。 対する紀伊家では前々から大奥・幕閣にもしっかり働きかけ、尾張家にも間者を放つなど努力を怠りませんでした。 何より綱吉の寵臣、柳沢吉保以来側用人の勢力拡大を恐れた譜代大名たちの支持を取り付けたことが大きかったようです。 公平に見れば経験豊富な吉宗がこの時期に将軍になったのは幕府にとっても日本にとっても幸運でした。 吉宗はこの後、いわゆる「享保の改革」を推し進めていきますが、自分を支持してくれた譜代大名層やかつてのライバル尾張家に気を配ることは忘れていません。 もしも継友が将軍になっていたらそこまではできなかったでしょう。家督相続のときの行動を考えれば、他への気配りはあまり期待できそうにありません。 やはり若いときから苦労している吉宗にはかなわないでしょう。 この後継友は物価の高騰や名古屋大火など度重なる天災人災克服し、財政を再建。弟宗春飛躍はゆたかな尾張の土地柄とこの兄あってのことでした。 1718年結婚。1722年には側室との間に男の子(八三郎)をもうけますが、翌年早世。さびしい家庭でした。 1730年、麻疹と思われる病気で死去。弟宗春に後を託しました。

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  • 25 Mar
    • 6代 徳川継友  吉宗のライバルだった男

        1716(正徳6年、6月に享保と改元)年、将軍家継が数え年8歳で死去。当然子供はいません。ここで初めて御三家のいずれかが8代将軍になる可能性が出てきました。 1716年時点での尾張家、紀伊家の系図を掲げます。 クリックしていただくと、大きな画像でご覧になれます。 このとき候補に挙がったのは尾張家6代の継友(つぐとも)25歳と紀伊家5代の吉宗35歳。 水戸家は御三家とは言え、家格が低いため、最初から候補には入っていませんでした。 継友は1713年に兄、甥の死により家督を継ぎ、倹約に努め財政回復を図っていましたが、吉宗と比べると見劣りがするのは事実。 何しろ部屋住みが長かったため、尾張家を継ぐことが決まったとたん、酒宴を始める始末。自分自身はめでたいとは言え、先々代、先代の死を考えれば顰蹙ものです。これには重臣たちもあきれたとか。どうも先々のことを深く考えない性格のようです。 軽率なことは事実としても、継友の身になれば分からないこともありません。 江戸時代、大名、武家の次男以下は血のスペアとしての存在でしかありません。男尊女卑で女性が貶められていた封建社会の中で、その女性よりも低い価値しかありませんでした。 女性なら他家に嫁ぐなり、側室になるなり、身を立てる道はいくつかありました。しかし、大名の次男以下の男たちは分家するか、家臣となるか、他家に養子に行くか、そうでなければ「部屋住み」として、生涯飼い殺しにされました。江戸中期ともなれば分家するにしても、家臣となるにしても、そんな経済的余裕などあるわけもなく、他家から養子の声がかかるようにせっせと文武に励むしかありません。 しかも継友の場合、実質上の次男(早世した兄弟を合わせれば11男)でしたので、「おひかえ」として、他家に養子に行くことも許されませんでした。「おひかえ」とは嫡男が万一死んだときのためのスペアです。 系図をご覧になればお分かりのとおり、弟(義孝)が分家の養子となるのを指をくわえてみているしかありませんでした。 そして、部屋住みの間は結婚も許されません。結婚して子をなし、一家を構えればそれは分家ですから。 それが御三家筆頭の当主となったのです。しかも7代将軍家継は病弱でしたから、うまくいけば将軍になれるかもしれないのです。 おそらく継友はかなりハイになったのではないでしょうか。 一方の吉宗もこれまた幸運で紀伊藩主となった男です。 系図でもお分かりのとおり、父、兄たちが次々に死んで1705年に5代藩主となりました。 ただ、吉宗の名前から分かるように、当時はまだ5代将軍綱吉の世。紀伊藩主となったからといえ、次は将軍になれる、という予想は全くつかなかったでしょう。家継のときに尾張家を継いだ継友との違いの一つです。 また、当時の紀伊家は深刻な財政難で、手放しで藩主就任を喜べる状況ではありません。継友との違いの二つ目です。吉宗はその紀伊藩を引き受けてからは、浮かれることなく、後の「享保の改革」の原点となった改革をしてゆきます。そして着実に成果を上げていきました。 吉宗が将軍と決まったときに一番がっかりしたのは尾張家でも、継友でもなく、紀伊の領民だったそうです。それほど吉宗は領民から慕われていたのでした。 1716年、家継が死んだ時点で吉宗は藩主就任10年、着実に実績を重ねていました。一方の継友は藩主就任3年、これといった実績もありませんでした。 それでも継友は自分が将軍になるものだと思っていました。 その根拠は何だったのでしょうか。 次回は「8代将軍決定と不遇の後半生」です。

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  • 24 Mar
    • 岡田淳 『雨やどりはすべり台の下で』

      雨と子供たちのにおい、「不思議」と「優しさ」がつまったお話 昨日は書評をお休みし、失礼しました。 心配してくださったみなさん、ありがとう。 一日おくれですが、みなさんにおすすめの本のしょうかいをしたいと思います。 著者: 岡田 淳 タイトル: 雨やどりはすべり台の下で 私はふだん、じゅくで国語や社会を教えています。ですから、色々な学校で使っている教科書や色々な問題集を読みます。市や県がちがうと、教科書もちがう場合があるのです。 そして何よりうれしいのは、そういった教科書や問題集で様々なすばらしい物語や説明文を読めることです。 国語の教科書や問題集は、本好きの人にはたまらない、ステキな物語の宝箱なんです。学校の授業で読むだけなんて、すごくもったいないです。 特に心をひかれたものは作者や出版社を調べて本を買います。以前は本屋さんや図書館、出版社に電話したものですが、今はインターネットで色々調べられるので、さらに便利になりました。 この『雨やどりはすべり台の下で』も、教科書にのっていたものです(光村図書「中学国語1」平成5年~平成8年)。もっとも、教科書にのっていたのは最初の一編「スカイハイツオーケストラ」だけですが。 また問題集にも一編の一部(「真夜中のコンニチワ」)がでていました。 街中の大きな本屋さんで探したら、なんと「店員さんのおすすめ」という手書きのカードがたなにはってありました。 「この本を読むと優しい気持ちになれます」 茶色のペンで書かれたその字も優しい感じがしました。 「夏休みちゅうに、最低いちどは、グループ登校のメンバーで遊ぶこと」 という変わった宿題を出された一郎君。同じ「スカイハイツマンション」に住んでいる、いつもいっしょに班を組んで登校している子供たちと遊ばなければなりません。 去年の班長、中1の照男君のアドバイスもあって、照男君を入れた10人で三角ベースをやることになりました。 それなりに盛り上がっているところへ一人暮らしのおじいさん、雨森さんが通りかかります。雨森さんがかさを差すと激しいにわか雨が降ってきました。 急いで大きなすべり台の、かべの中にうめこまれた土管のトンネルに雨やどりした10人。 「見ただろ、みんな。この雨、雨森さんがふらせたんだ」 一郎の言葉にびっくりするみんな。 しかしみんなにも雨森さんに関する不思議な体験があるのでした。 雨宿りの土管の中で10人がそれぞれに体験を話していきます。 それは子供たちがさびしかったり、悲しかったり、退くつだったりした時に経験した不思議な、心温まるお話です。 雨森さんは本当に魔法(まほう)つかいなんでしょうか。 なぜ一人で暮らして、人とあうこともなく、動物も飼わず、ベランダに花もかざらないのでしょうか。 なぜ雨森さんは 「お礼をいったりいわれたり、ほめたりほめられたりするのが、おじさん、きらいなんだ」 と言ったのでしょうか。 子供たちから見たらずっと変わることがないように見えるおとなたちにも「むかし」 と「これから」があります。 子供たちの不思議な話を通じて雨森さんとその優しさがわたしたちの心に静かに広がっていきます。 そして。 その雨やどりの日の晩に雨森さんが引っこすことを知った子供たちは、感謝とお別れを言うためにステキなことを考え付きます。 「お礼をいったりいわれたり」するのがきらいな雨森さんに、どんなことをしてありがとうとさようならを伝えるんでしょうね。 それはこの物語を最後まで読んだ人だけがわかるステキなプレゼントです。 名古屋は今日も雨。 雨にぬれる窓から外をながめながら、何度読んでもステキなこの物語の余いんにひたっています。

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  • 22 Mar
    • 5代 徳川五郎太  2ヶ月在職した幼年藩主

      五郎太、この聞き慣れない名前は尾張徳川家代々の嫡男が名乗っていた幼名です(ちなみに将軍家嫡男の幼名はご存知、竹千代)。 尾張徳川家初代、義直の幼名は初め千千代といいましたが、後に五郎太と改めました。城壁を築く時に楔(くざび)として打ち込む石を五郎太石といいます。石垣の大きな石と石の間につめます。家康は義直が天下の楔になるように、という願いを込めて五郎太と名付けたそうです。 5代目の藩主、五郎太は元服前に死去しましたので諱(いみな、本名)はありません。 1713年、わずか2歳7ヶ月で家督を継ぎましたが2ヶ月で死去。当然子供はなく、6代目を継いだのは叔父の通顕(みちあき)。将軍家継より一字をもらい、名を継友(つぐとも)と改めます。時に22歳でした。 嫡流に生まれたために幼児であることお構いなしに家督を継がされた五郎太。 幕府・藩が安定してくると、将軍や藩主個人の力量よりも血筋の正しさが求められました。幼児であろうと、存在さえしていれば藩は存続し、家臣の生活も安定するのです。将軍も、殿様も「そこにいればいい」という、飾りだけの存在となりました。 もしも五郎太が当主の座に着かなければ、いま少し長生きできたかもしれません。 もとより体の弱い子供だったので断言はできませんが、藩主として表に出ざるを得ない生活がこの子の命を縮めたのかもしれません。 それにしても藩主として、飾りとしてだけ存在していたのでは、この子の2年数ヶ月の一生は何だったのでしょうか。あまりにもかわいそうです。 それは7代将軍となった家継も同じでした。 家継は将軍位にあること4年、1716年、わずか8歳(数え年。満6歳9ヶ月)で世を去りました。 ここに8代将軍を巡って、尾張と紀伊、継友と吉宗の争いが始まったのです。

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  • 21 Mar
    • 4代 徳川吉通  恋多き母と謎の死

      吉通の名君ぶりも伝えておきましょう。 吉通は武にすぐれ、尾張柳生の九世伝承者でありました。 尾張柳生流とは柳生新陰流の正統継承流儀で、そのため、正伝柳生新陰流ともいいます。伝承者の中には時代小説でも有名な柳生兵庫助や柳生連也斎などもいます。 ちなみにこれも時代小説のヒーローである柳生十兵衛は江戸柳生の剣士であり、尾張とは別系統となります。 もっとも吉通の伝承者継承は尾張藩主ゆえ、という見方もあります。が、いわゆる「殿さま芸」の域を脱していたことは確かです。 どうも先に述べた水練のことといい、大酒のみであったことといい、体力には自信があったようです。 その他儒学・国学・神道を修め、木曽山林政改革に取り組んだそうです(江戸時代、木曽の山林は尾張家のものでした)。 今の宮様同様、当時の殿様は学問に熱心でしたから、これだけでは名君とはいえないでしょう。また、木曽山林改革は叔父の松平義行の功でしょう。 でもこれを見る限り、少なくともバカ殿ではなさそうです。 では、先日述べたようなバカ殿ぶりは一体どうしたことでしょうか? ここに吉通の母親、お福の方(3代綱誠死後は落飾して本寿院と呼ばれました)の悪影響がありました。 本寿院はよく言えば「情熱家」「享楽家」、ストレートに言えば性欲の強い人だったようで、綱誠死後、35歳で落飾して後も藩士や役者、出入りの町人たちを屋敷に引っ張り込み、あれこれと噂が立てられました。「千姫ご乱行」などのモデルになった女性です。 吉通はそんな母をかばい続けましたが、重臣に疎まれ、ついに母は藩邸に閉じ込められてしまいました。 藩主の生母でなければ別の生き方もあったのでしょうに。 西洋でもイングランド国王ヘンリー6世の母キャサリンは、結婚後2年足らずで夫(ヘンリー5世)に先立たた後、ずっと未亡人として再婚も許されませんでした。国王の母に悪い虫がついたら大変、と言うわけです。 それでもひそかに納戸役のオーエン・テューダーと結婚。ちなみにこの二人の子供の子孫がかのエリザベス処女王に連なるテューダー王朝になるのです。 キャサリンはまだ幸せでした。秘密裏とは言え、恋する人と結ばれたのですから。 哀れなのは本寿院です。『元禄御畳奉行の日記』、朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」によれば男を絶たれ、ノイローゼになった本寿院が屋敷内のもみの木につかまって、奇声を発したと言う噂まで書かれています。 そのような享楽的な母と、持ち上げることしか知らない側近の悪しき影響が名君たりえたかもしれない若者の心を蝕んでいったのでしょうか。 体だけは丈夫になった吉通の命を奪ったのは酒でした。 1713年、自分を後継にと考えてくれた将軍家宣の死の翌年のことでした。 享年25歳(数え年)。 別の史料では饅頭を食べて死んだと書かれています。 どちらにせよ、あまり格好のいい死に方ではありません。 ただ、これも黒い噂があって、苦しみ出した吉通を、医師はおろおろするばかりで何の手当てもしなかったそうです。近臣たちも同様。わが身のことばかり考え、おろおろするばかり。あまつさえ、吉通が死んだとなるや、調度などを盗む始末。 一部の小説やドラマではこれを紀伊家の暗殺とするものもありますが、確かにそれも疑われるべき状況ではあります。ただ、吉通が死んでも、嫡子の五郎太がおり、弟たちも健在でしたから、そこまでの危険を冒したかどうか。いずれにせよ、真相は藪の中です。 こうして8代将軍に最も近かった男、吉通はあっけなく死んでしまいました。 後を継いだのは嫡子五郎太。わずか3歳でした。 次回はその五郎太のお話をいたしましょう。

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  • 20 Mar
    • 作家二人

      花粉症がひどくて外に出るのが億劫です。 でも季節は春! 家にいるのももったいないし、思い切って外出しましたが、既に夕方。宵闇迫る時刻でございました。 そんなに長時間はおれないな、どこか喫茶店にでも入ろうか、と坂の多い町を左に曲がり、右に折れ、その次をまた右に、、、と彷徨ううちにすっかり道に迷ってしまいました。 だれが言ったか「誰そ彼」時。この世とあの世の境目もぼやけてくるのか、夕闇に浮かぶ人影もどこかぼんやりしています。 そんな中にその喫茶店はありました。 今風のおしゃれなお店ではなく、薄暗い店内にはマスター以外誰もおりません。 「いらっしゃいませ」 マスターはやや眉毛の濃い、鼻筋の通った渋い中年男。どこかで見た顔です。 「あれっ?」 「生まれてスミマセン」 「やはりあなたは太宰治先生! するとここが話に聞く冥界喫茶店ですね」 「死んでスミマセン」 「いや、私に謝られても、、、。先生、なぜこのようなところで喫茶店などをやっているんですか?」 「喫茶店でスミマセン」 「いや、別に責めてるわけじゃないですよ。私、長年のファンなんです。お会いできて光栄です」 「なんだ、ボクのファンなの。てっきり富栄さん(とみえ=山崎富栄:太宰とともに玉川上水に入水した女性)の親戚の方かと思ったじゃないか」 「(なんか、急に態度がでかくなったような)先生、先生がお亡くなりになったのは1948年。もう60年近く前のことなんですよ」 「そうか、そんなに経つのか。それでもまだボクのファンがいるんだね?」 「ええ、先生の作品は、夏目漱石、芥川龍之介と並んで、最も人気があるものの一つです」 「ボクの作品が! 芥川先生と肩を並べているだなんて!」 (すごく感激してる。結構無邪気なんだなあ) 「それでキミはわざわざボクに会いに来てくれたんだね。どうやってこっちに来たの? やはり、入水? それとも首吊り?」 「え、縁起でもない! 私はたまたまここに迷い込んだだけですよう」 「いや、照れなくてもいいよ。前にもボクの弟子(田中英光:1949年太宰治の墓前で自殺)がボクに会いに来てくれたことがある。 そうだ、せっかく来てくれたんだ。誰か会いたい人はいないかい? ボクが呼んできてあげるよ」 「強引に話を進めるなあ。。。ああ、そういえば私、『歴史と人物 相似形』なる文章を書いておりまして、歴史上の人物の共通点を考察しております。その関係でお会いしたい方が」 「ほう、キミも書いたりするのかい? 見せてみたまえ」 「い、いえ、先生ほどの天才から見たら塵芥に等しいものですよ」 「天才? ボクのことを、世間ではそう呼んでいるのかい?」 「(泣いてしまった。。。)あのう、それで会いたい人の事なんですけど。。。」 「いや、みなまで言うな。冥界では思っただけで通じるもの。もう呼んであるよ。ホラ、今やってくる」 ふと顔を上げると窓越しに一人の人影が見えたのでした。中折れ帽をかぶり、コートのポケットに手を突っ込んで、うつむき加減に歩いています。そのシルエットは写真で見たそのままでした。 かの人は店内に入ると帽子を取り、はにかんだような笑顔をこちらに向けました。 「宮沢賢治先生!」 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、春の杉花粉にも負けず、やってまいりました」 「確かに宮沢さんは岩手、ボクは青森と東北出身という共通点はあるね」 「私はイーハトーヴォ(岩手のエスペラント語表記)を愛し、この世の楽園とする気持ちでした。   『おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ    かれらすべての田園とわれらのすべての生活を    一つの巨きな第四次の芸術に創りあげようではないか』」 「一方、ボクの方は東京に出てからあまり故郷を考えたことはなかったなあ」 「でも、『津軽』という名作があるじゃないですか」 「まあね。でもボクには故郷は帰りづらい場所だったんだよ。特に実家はね」 「実際、『津軽』にでてくる懐かしい人々は旧友だったり、かつての使用人だったりですね」 「父や兄にとってはボクは家の恥、だったのだ」 「それは私も同じです」 「え?」 「私は生前、ついに自立することなく、父の賄いで暮らしていました」 「しかし、4年間花巻農学校で教えていたではありませんか」 「農学校をやめた後は職につかず、羅須地人協会を設立したり、農民楽団を作ったりしましたが、周囲からは『金持ちの息子の道楽』と見られていたし、親にもなんと思われていたか」 「それはお体が弱かったからでしょう? 決して卑下することはありませんよ。父親の政次郎さんも、弟の清六さんも先生のご家族であることを誇りにしてましたよ。先生の遺稿を守ったのは清六さんなんですよ」 「私がお二人の共通点だと感じるところは、もちろん、お二人とも文学史上の大物ですが、それ以外に三つあります。一つには弱者に対する暖かいまなざしです。そしてお二人とも理想主義であった。三つ目は先の二つに関連していますが、おしゃれであったこと」 「ボクはマルクス主義だったよ」 「一時期そうでしたね。マルキシズムは理想主義ですし。 私は何となく、お二人はこの世とは別のところに何かを求めていらっしゃった気がするんですよ」 「私は岩手をイーハトーヴォにしたかった」 「そうして農民たちとさまざまな活動をしましたね。でもあまりにも理想にはしりすぎて周囲の理解はあまり得られなかった。宮沢先生のなさることはおしゃれすぎたんですよ。作った野菜をただで配ったり、西洋音楽の演奏会をしたり」 「ボクもおしゃれ、『いい格好したがり』だったなあ」 「太宰先生の場合、いつでも他者の視線を意識していたような気がします。『自分のために書いた』とおっしゃっている『人間失格』でさえ、読者に配慮した痕跡がたくさん見られます。それがいまだに人気を誇るゆえんなんですが。 そういった面でやはりお二人ともご実家との関係が大きく影響していると思います」 「私のうちは質屋でした。農家の方が貧しさのため父に金を借りにくるのをたくさん見ました」 「ボクの実家、津島家は地主でね、『金木の殿様』と呼ばれるくらい大きかった。でもそれは小作人の血と汗で築かれたものなんだ」 「そういった贖罪意識から、ご実家との溝を深め、法華経やマルキシズムに没頭したのですね」 「フフフ。法華経といえばボクも少しかじったんだよ」 「本当ですか? 太宰治が法華経信者だったとは」 「信者といえるかどうかは別にして、興味はあったね」 「今日はなかなか面白い話が聞けたよ」 「そうですね。今でも人々は我々のことを、我々の作品を読んでくれると知って、嬉しかったです」 「お二人にそう言っていただけるなんて、私、感激です」 「いや、キミは素直でよろしい。何ならずっとここにいるといいよ。ここに来る方法を決めようか。入水がいいかい? それとも。。。」 「そ、そ、それは、遠慮します!」

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  • 19 Mar
    • 4代 徳川吉通  なぞの殿様

      同じような名前ばかり出てくるので、ややこしいですね。 家宣死去(1712年)時点での系図を作ってみたので参照して下さい。 クリックをすれば大きな画像が見られます。 徳川吉通は三代藩主徳川綱誠(つななり、またはつなのぶ)の9男として誕生しました。9番目の男子である彼が家督を継いだのは、それ以前に生まれた子供がみな早世したからであります。 綱誠という人は子沢山で、なんと21男17女、計38人の子供をもうけています。尾張家歴代でもトップです。 しかし、この38人の中で綱誠の死後も生き残り、成人まで育ったのはわずか6人。 吉通、通顕(みちあき、後の6代藩主継友)、義孝(尾張家分家高須松平家を継ぐ)、通温(みちまさ)、通春(後の宗春)、そして松姫(加賀藩主前田吉徳室)。 これ以外はほとんどが1~3歳(数え年。満で言うと0~2歳)で死去しています。 (ちなみに末っ子の松姫は綱誠が48歳で死んだ半年後に生まれております。) この時代、特に大名家の乳幼児の死亡率は高く、11代将軍家斉も歴代最多の55人の子供をもうけましたが、そのうちの34人が早世しています。 これは当時の医学レベルが低かったこともありますが、一番大きな原因は乳母たちが胸までぬっていた白粉に鉛が含まれていたためだそうです。 身分が高いのがあだになるとは、何と皮肉なことなのでしょう。 それにしても綱誠の胸中はいかばかりであったか。 子供ができても片っ端から死んでゆく。 当時の大名の重要な使命は跡継ぎをもうけることでした。綱誠はあせったでしょう。 まるで女王蜂か女王蟻のように次々に子供をもうけていくさまは哀れでさえあります。 (ですから、私は秀吉の女漁りを一概にとがめられないのですが。。。) 今で言えば 「あそこの嫁はまだ子供を生まんのか」 みたいなものすごく失礼な陰口がたたかれ、プレッシャーを感じていたでしょうね。 そんな中でやっと育った吉通。 四歳で(兄たちが死んでしまったため、)嫡男として扱われ、名前をそれまでの藪太郎→吉郎から、尾張家嫡男の証、五郎太と改めます。七歳で嫡男としてお披露目されます。 しかし、彼が元服したのは11歳のとき。昨日申しましたように将軍綱吉から一字をもらい吉通と名乗るのですが、これは父綱誠の死去があったため。それにしても遅い元服です。 元服とは今で言う成人式のことですが、この時代の大名家では嫡男はとにかくはやく元服させ、当主がいつ死んでもいいように準備するのが普通。吉通の祖父、光友は9歳、父綱誠は6歳で元服しています。 これはやはりどこまで育つか不安だったからではないでしょうか。 吉通の前では6歳まで生きていたのが最も長生きでした。吉通の弟にはせっかく12歳までそだったにもかかわらず、早世した者もいます。 吉通を語る場合、まずこのガラスの置物を扱うかのような大切な育てられ方は無視できないと思います。 吉通は宗春のような個性にあふれた殿様ではありません。記録をたどってみても彼がどんな人物だったか、あまりわかりません。これもその育ちゆえかと思われます。 吉通については英邁であった、というものもあれば、暗愚であった、というものもあります。 例えば『元禄御畳奉行の日記』で有名になった、尾張藩士朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」に描かれているのはこんな姿です。 ・無類の酒飲みで、東海道53次の宿名をつけた杯を次々と飲んだ。しかも、上り下りで何往復もした。 ・水練(水泳)をするためにプール(大きな桶でしょう)を作ったが、水が冷たいので湯を沸かさせ、入れた。しかもプールが漏れていたため、せっかく作ったのにすぐやめてしまった。 なんとまあ、あきれるバカ殿さまではありませんか。 もっとも、朝日文左衛門が書いたのはあくまで噂。しかも下級武士の耳に届く噂ですから真偽のほどは定かではありません。 それでも下級の家臣にまで変な噂をささやかれるほど吉通がだらしないか、当時の尾張藩がゆるんでいた、とも言えます。 そんなこんなでなぞの多い吉通ですが、はっきり言えば影が薄い。 11歳で藩主となった、ということですから、政治ができるわけはありません。 彼を支え、藩政を見たのは叔父の松平義行でした。 吉通の名君という評判は義行の功かもしれません。多分そうでしょう。 ここら辺はやはり11歳で家督を継いだ4代将軍家綱と叔父の保科正之(ほしなまさゆき:家光の異母弟で、会津松平家祖)の関係にそっくりです。そういえば家綱も影の薄い将軍でした。 大切な跡取りとして乳母日傘で育てられ、影の薄かった吉通。 家綱以外にもう一人思い当たる人物がいます。 そう、豊臣秀頼。秀頼には淀殿という個性の強いお母さんがいて、その影に隠れてますが、吉通にもそれはそれは個性的なお母さんがいたのです。 次回「恋多き母となぞの死」でお話しましょう。 著者: 神坂 次郎 タイトル: 元禄御畳奉行の日記

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  • 18 Mar
    • 閑話  大名の名前について

      吉通の話を進める前に、大名の名前について整理しておきたいと思います。 日本史の苦手な方、嫌いな方に話を伺うときよく聞かれるのが 「人物の名前がね、よく似ててさあ、誰が誰だか、こんがらがるんだよね~」 というお言葉。なるほど、ごもっとも。 例えば藤原道長の兄弟は  道隆・道兼・道綱 と皆「道」の字がついてます。ややこしいですね。 日本の場合、親や祖先、兄弟の名前から一字もらったり、主君が家臣に自分の名(諱:いみな、元服時に名乗る本名のこと)の一字を与えたりします。だから一族で似た名前が多いのですね。 これを「通し字」と「偏諱」(へんき)といいます。 通し字とは一族で共通の一字を使うことです。 藤原氏の時代は先ほどのように兄弟――系図で横並び――で通し字を持っていましたが、武家の時代になりますと系図の縦ラインで通し字を持つようになります。 足利将軍家の「義」(義満、義政、義昭など)や徳川将軍家の「家」(家康、家光、家綱、など)などがそうです。徳川将軍の「家」は源義家にあやかったそうです。 ですから名前に「家」がつかない将軍は2代将軍の秀忠を除けば、傍流(嫡流でない、次男以下の家)から将軍になった人ばかりです。 綱吉(5代)、吉宗(8代)、慶喜(15代) がそうですね。 家宣(6代)、家斉(11代)、家茂(14代)も傍流から将軍家を継ぎましたが、そのとき元服したか名前を変えたくちです。 では秀忠はどうかといえば、秀忠の「秀」は豊臣秀吉の「秀」をもらったのです。もちろん、秀吉から。 これが「偏諱」です。偏諱とは主君など身分の高い人の名前の一字をもらうことです。 偏諱を受けることは義理の親子であることを意味します。ときに忠誠の証として、あるいは褒美として与えられました。 秀忠が元服した頃はまだ豊臣の世でしたから、家康の子、次男秀康と三男秀忠は秀吉から偏諱を受けたのです。 そして徳川の世になると徳川将軍が武家のトップになりますから、大身の大名や武士たちは将軍から偏諱を受けました。 先ほどの綱吉は兄である4代将軍、家綱から。 吉宗はその綱吉から、さらに以前にお話した尾張家の宗春はその吉宗から一字をもらったのです。 御三家は皆トップクラスの大名ですから、当主と嫡男は将軍から一字をもらいます。ですから逆にその字を見ればどの将軍の時代に元服したか、どの時代に生きていたかが大体分かります。 御三家の中で最も有名な水戸家の徳川光圀は3代家光の時代に元服。4代家綱と次の綱吉の時代に活躍しました。 今回の主役である徳川吉通は吉宗と同じく綱吉の時代に元服。綱吉と次の家宣の時代に藩主を務めました。 尾張家の宗春ははじめ松平通春(みちはる)と名乗っていました。通春とは兄であり、主君である吉通の字をもらったものです。そして吉宗の時代に尾張家を継ぎましたから、宗春と名乗ったのです。

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  • 17 Mar
    • 4代 徳川吉通   将軍の後継になりかけた男

      愛知万博まであと1週間。 開催まで紆余曲折していましたが、さすがに秒読みとなると盛り上がってきています。 思えば1988年、名古屋は「名古屋にオリンピックを」と異様なまでに盛り上がり、最終的にソウルに決まり、激しく落ち込みました。イベント招致に成功してもどこか冷めた雰囲気があったのはそのせいでしょうか? さて江戸時代中期、宗春登場以前にも同じように名古屋は挫折を味わっています。 ここで今一度江戸時代の名古屋の殿様のお話しをしましょう。 「生類憐みの令」で庶民を苦しめた「犬公方」、五代将軍徳川綱吉の後を継いだのは、甥の徳川家宣(いえのぶ)。彼は温和で学問好きな君主として知られ、学問の師新井白石、側近の間部詮房(まなべあきふさ)を登用。積極的に政治の刷新を図りました。 家宣の人柄を表すこんなエピソードがあります。 綱吉は死に際して、 「生類憐みの令は子々孫々守ってゆくようにせよ」 と遺言します。しかし、生類憐みの令でたくさんの人が迷惑しているのは家宣も知っています。家宣は綱吉死後、さっそくこの令を廃止し、庶民の喝采を得ました。このとき八千人以上の人が獄から解放されたそうです。 これは大胆なことでした。なぜなら、当時の学問・道徳の根源であった儒教ではなにより「孝」、親孝行を重んじています。遺言を守らないのは最大の不孝。 先代の遺言を守るか、民の幸福を図るか、まじめな家宣の答えは決まっていました。 「先代のご遺言ゆえ、自分ひとりは生涯この令を守ってゆこう。 しかし、生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。余は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする。 自分ひとりが守ることによって、先代にも申し訳が立とう」 叔父の綱吉に嫌われなかなか後継に指定してもらえず、48歳になってやっと将軍になった我慢強い苦労人でした。 しかしもともと体の弱かった家宣は将軍にあることわずか4年でこの世を去ります。跡継ぎの息子、鍋松は当時わずか4歳(数え年なので、満年齢では2,3歳)。 死の一か月ほど前、将来を憂えた家宣は新井白石を病床の枕元に呼び、相談します。 「天下のことは私すべきではない。跡継ぎが無くはないが、幼いものを立てて世を騒がしくした例も多い。 そこで余の跡は尾張の吉通(よしみち)殿に譲ってはどうか。ないしは鍋松に継がせておき、尾張殿を西の丸に入れて後見とし、政治を任せるか。 どちらがよいであろうか」 白石は即座に答えました。 「ご立派なご配慮ではございますが、どちらも必ずしも適切とは存じませぬ。 お跡継ぎが二、三に分れたときの派閥の争いが世を騒がせました例は、不幸にも過去に繰返されて参りました。上様(家宣)のお世継ぎに鍋松君がおありなのに尾張様の名があがれば、心無く二た手に動きだす者もできて参りましょう。 御三家をはじめ御一門の方々、譜代の御家来がかくお揃いのうえ、守り立てますれば、若君が御代を継がれまして何のご懸念がありましょうか」 「幼い者に万一のことがあれば」 「その為に神君(家康)は、御三家をお立てになりました」 その言葉に家宣も安心し、1712年死去。こうして鍋松が七代将軍となり、家継(いえつぐ)と名乗りました。 ここで家宣の後継にと言われた尾張吉通こそ、宗春の兄、四代尾張藩主徳川吉通その人です。彼が長生きしていたら確実に将軍家を継いだであろうことは多くの学者も認めています。 そして家継はこれも在位4年、1716年、わずか8歳(満年齢では6,7歳)で世を去り、八代将軍の座を巡って尾張と紀伊の争いが始まるのです。 ではその吉通はどんな人物だったのでしょうか。そしてなぜ将軍になれなかったのでしょうか。 次回「4代 徳川吉通 なぞの殿様」に続きます。  

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  • 16 Mar
    • ジャクリーン・ウィルソン 『バイバイわたしのおうち』

      だいじょうぶ、うまくやってゆけるよ 著者: ジャクリーン ウィルソン, Jacqueline Wilson, Nick Sharratt, 小竹 由美子, ニック シャラット タイトル: バイバイわたしのおうち 『大草原の小さな家』も『若草物語』も、そしてわが国の「サザエさん」もみなすばらしい家族です。あんな家庭で生活できるのって――そりゃつらいことや苦しいこともあるけれど、――ステキなことだと思いませんか? でも、これらはもう本やテレビの中にしかない家庭。今ああいう世界で生きる人々っていないんじゃない? じゃあ、今生きている私たちの家庭は、家族は、どうなんだろう? テレビや本にあるのと同じくらいすばらしい家庭ってもうないのでしょうか。 ウィルソンさんは常に現代の家庭を、子どもを、そのすばらしさを書いている作家さんです。 お父さんとお母さんが離婚(りこん)することになって、 「どっちについていくの?」 と決断をせまられたアンディー。 彼女の出した結論は お父さんの新しい家とお母さんの新しい家を一週間ごとに行ったり来たりすること、 でした。 すごいですね。 「どっちについていくの?」 というのはおとなの勝手なつごう。アンディーにとってはどちらも今までどおり「お父さん、お母さん」なんだからどちらと別れるのもいや。本当は今まで住んでいたマルベリーのおうちで3人いっしょに暮らすのがいちばんの望みなんだけど、もう後もどりできないことはわかっている。 だからこう決めたのでしょう。 子どもってここまで考えるものなの? と思いたくなりますが、ここまで考えるものなんです。 やはり今まで暮らしてきたたいせつな家族のことだから、おとなには考えられないくらい一生けん命考えちゃう。 そうして出した結論だから、いやなことがあってもがんばっていかなきゃいけない。 そう、いざ始めてみると、この暮らしもなかなか大変。お父さんの新しい家族と、お母さんの新しい家族。それぞれに子どもがいるんだけど、いろいろあって、「なかよしこよし」とはいかない。ごたごたが続いて、「もとのおうちに帰りたい」とひとりかくれてなくこともあります。 かなしいですか? しかし、ウィルソンさんの作品は明るさと優しさに満ちあふれています。 アンディーから見たらどんなにいやな人でも、決して悪人にはえがかれていません。アンディーも「もとのおうちに帰りたい」という泣き虫な子どもから、「うまくやっていけそうだ」と考える前むきな子どもへと成長してゆきます。 ときにはお母さん、お父さんのグチを聞いてあげたりもしています。 ローラの家も、ジョーの家も、そしてワカメちゃんの家も、それぞれ問題をかかえながら、その問題を乗りこえることによってずばらしい家となっているのです。 今は昔よりも複雑な家庭が増えているかもしれません。 でもアンディーは自分で本当の居場所、家族を、家庭を見つけました。 幸せな場所はテレビや本、どこかよその場所にあるのではなく、自分で作っていくものだということをアンディーは教えてくれました。 そして私たちみんなもきっとできると思います。 著者: Jacqueline Wilson, Nick Sharratt タイトル: The Suitcase Kid

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  • 15 Mar
    • 鯨統一郎  『新・世界の七不思議』

      歴史バトルの面白さ! 推理小説における名探偵はしばしば歴史の謎も鮮やかに解いて見せます。 その元祖はジョセフィン・ティの『時の娘』、最高傑作はやはり高木彬光の『邪馬台国の秘密』でしょう。 「真実は時の娘である(Truth is the daughter of time.)」――英国の古い諺からタイトルをとったこの作品は悪名高きリチャード三世の真の姿を、入院中の名探偵、グラント警部が解き明かします。 もっともこの作品に出てくるリチャード像はその当時既に学会でも一般化したもので、決してティのオリジナルではありません。しかし、名探偵が室内から一歩も動かず、数々の歴史資料を分析して実像に迫っていくというスタイルを確立したばかりでなく、内容の面白さ、レベルの高さから言っても歴史ミステリの開祖であり、代表作であるといえましょう。 (リチャード三世はシェイクスピアの同名の歴史劇の主人公であり、その悪人ぶりは英米ではとみに有名です。わが国で言えば忠臣蔵の吉良上野介といったところでしょうか) 一体、歴史の謎とはきちんとした資料さえあれば解き明かせることができるものなのでしょうか。 それはわかりません。歴史の真実は藪の中。我々は限りなくそれに近づけましょうが、それをつかむことはできないのではないでしょうか。 (同時代の人間の営みすら、真実を知ることはできないでしょう?) それでも探偵が手にする史料は読者にもすべて明示され、分かりやすく解説されています。歴史ミステリはある意味で最もフェアな本格推理と言えます。 高木さんの作品は日本での『時の娘』とも言える作品で、このシリーズの成功により、日本でも歴史ミステリがたくさん書かれたのでした。 シリーズには三作あり、名探偵神津恭介が都合三度にわたり(これも入院中に)、ジンギスカンの正体、邪馬台国の場所、そして古代天皇の秘密を解明してゆきます。 こちらは『時の娘』とは異なり、高木さんなりの解釈を打ち出しているところが特色――もっとも第一作目の『成吉思汗の秘密』は別。源義経=ジンギスカン説を論証していますが、知的遊戯、読者サービスといった意味合いが強いです――とは言え、それも今まであった学説の一つを支持しているのであって、まったくの新説ではありません。 それゆえ説得力もあるのですが。 この神津恭介歴史ミステリ三部作の中では『邪馬台国の秘密』が最も出来がよいと思います。「金印の発見地=奴国所在地」という常識を覆し、邪馬台国の所在地に迫るまでの論理もスムースです。 それゆえ、歴史物としては最も面白いのですが、「義経=ジンギスカン」とした一作目の奇想天外さは影を潜めています。 つまり、歴史ミステリを「ミステリ」の面で考えれば奇想天外な結論ほどできがよくおもしろいし、「歴史」を重点に置けばあまりにも突飛で強引な解釈はついていけなくなり、白けてしまいます。この後続々と出てきた歴史ミステリは大方、「歴史」重視ものが多く、それはそれで十分面白いのですが、前者の奇抜なミステリももう少しほしいところです。 鯨統一郎さんのデビュー作、『邪馬台国はどこですか』はまさにその奇想天外な面白い歴史ミステリの後継といえましょう。 場末のバーで繰り広げられる自称「歴史家」の宮田六郎と美人で勝気な、というより高飛車な本職の歴史家、早乙女静香の歴史バトルはそりゃ見ものです。 もちろん、主役であり、奇抜な結論を提示するのは宮田六郎。ですが、静香の存在もこの作品の大きな魅力です。 彼女は歴史学会の常識を代表する立場、なのですが、それ以上に激しい言葉のやり取りが読者をぐいぐい引き込んでいきます。 「あなたってもしかしたら今世紀最大のバカかもしれないわね」 「多分違うだろう。君がいるからな」 (61ページ) どうです、すごいでしょう? でもこれなんかまだいいほうです。なにせ宮田がまぜっかえしてますし、静香の二人称も「あなた」ですからね。話が進むほど(この本は6編の連作)静香の毒舌は容赦がなくなります。例えば「あなた」は「あんた」になり、「っていってるでしょ!」が「つってんでしょ!」に変わります。 彼ら二人はけんかをしているわけではないのです。主に静香がキーキー言って、宮田がそれを静かに受け流している、そういったやりとりです。 こうして宮田は ブッダは●●ってなかったし、 邪馬台国は●●県にあったし、 聖徳太子は実は●●で●●だったし、 と次々と奇抜な論を展開し、ますます静香を怒らせるのです。 作品中では宮田の結論が「正しいだろう」ものとして、一番説得力を持ったものとされるのです。が、先ほども述べましたように、「歴史的に正しいかどうか」なんてことを詮索するのは野暮。 いかにその奇抜さを楽しめるか、バトルを楽しめるかがポイントです。 タイトルでご紹介しているのは長らく待たれていた続編。同じメンバーが今度は世界史の謎に挑みます、いや、それを肴にバトルします。 さすがにデビュー作から6年余り。前作に比べ、より読みやすいようにさまざまな工夫が凝らしてあります。 歴史バトルに読者だけ置いてきぼりを食らわないように、「探偵役」の宮田が、アトランティス大陸もピラミッドもモアイ像もナスカの地上絵も、あれやこれやすべて「聞いたことがある」ていどの知識しか持っていません。宮田は読者の代わりとなって静香やバーテンから一連の知識を授けてもらいます。そしてそれら聞いたばかりの情報を元にまたまた奇抜な論理を展開するのです。 静香の毒舌も更にパワーアップ。 「デスノートに名前を書くわよ」 なんて恐ろしい言葉を吐いたりもします。 さらに毎回毎回、カクテルや世界と日本の三大珍味のちょっとした知識もおまけについてます(舞台は場末のバー、なのです)。 ただね、これが前作に比べ見劣りする点にもなっているんです。 宮田が読者の代理、という設定はいいんです。問題はそれ以外のところ。 正直カクテルや料理の話は他のミステリにときどきある「薀蓄かたってるの。聞いててお得でしょ」なイメージがします。また、「デスノート」や「世界の中心で愛を叫ぶ」(ちなみに「愛を叫んだけもの」もちゃんとネタにされてます)といったはやりものをネタにするのもちょっと。。。風化が早そうなネタですものね。 奇想天外さは相変わらずなので、前作と同じようにそれだけで勝負してほしかったですね。 まあ、あくまで個人的な意見ですが。 著者: 鯨 統一郎 タイトル: 新・世界の七不思議 著者: 鯨 統一郎 タイトル: 邪馬台国はどこですか? 著者: ジョセフィン・テイ, 小泉 喜美子 タイトル: 時の娘 著者: 高木 彬光 タイトル: 成吉思汗の秘密 著者: 高木 彬光 タイトル: 邪馬台国の秘密 改稿新版 著者: 高木 彬光 タイトル: 古代天皇の秘密

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  • 14 Mar
    • 眉村卓 『まぼろしのペンフレンド』

      メル友じゃないよ、ペンフレンドだよ 卒業シーズン。 わが愛知県もすでに高校、中学の卒業式は終わり、小学校も今週末に卒業式が行われます。 懐かしいなあ。もはやウン十年前の出来事だけど、あの時のことはすぐによみがえって来ます。特に小学校の卒業式は大学と並んで印象深い。学生時代の初めてのと最後の、だからでしょうか。中学にあがれば今までとはまったく違う生活が始まるんだ、という不安と期待が入り混じった気持ちでした。 眉村さんのジュブナイルは当時の私があこがれた学生服と部活と勉強の世界がつまった作品です。 有名なものとしては『ねらわれた学園』、『なぞの転校生』、『とらえられたスクールバス』など。かつてNHKでドラマ化されたり、角川で映画化されたものが多々あります。 この『まぼろしのペンフレンド』もその一つ。 1966(昭和41)年に学研の「中1コース」に連載されていました。 もう今から40年も昔の作品ですから、言葉遣いなどにさすがに古さを感じてしまいます。それでも平凡な中1の少年が巻き込まれる、不思議な事件に現代の読者も魅了されるでしょう。 ここには中学にあがりたての子供の初々しさ、部活や勉強など先ほど申しました生活環境の変化に対する感じ方など、その描き方はさすが眉村さんです。少しも色あせていません。 そして題名からも分かるとおり、「文通」という、これも当時(私の小学、中学時代)の子供がかすかにあこがれたものを題材にしています。 今でも文通って行われているのでしょうか。 雑誌などで趣味を同じくするもの同士が手紙でつながり合う。もちろん、お互い見ず知らずの間柄なんですが。 何度かやり取りするうちに写真を同封したりして、その「写真ください」、「写真送ります」がなかなか切り出せなくて、実際に見るときは妙にドキドキして、、、 そういった一つ一つのまだるっこしさが魅力でした。 そして物語のもう一つの核は「侵略」です。当時のジュブナイルでもよくあるテーマでした。海外のSFでも繰り返し扱われたテーマです。 私には筒井康孝さん、眉村卓さんのジュブナイルがSF初体験。ですから今でも侵略ものというとここら辺の作品を思い出してしまいます。 そして最後にもう一つ、付け加えるとすれば、この作品の真のヒロインの魅力でしょう。 少年の日に感じた新生活に対する不安と期待。そして淡い恋(に対する期待)。 かつての私たちが仰ぎ見たまぶしい学生服の世界がここにあります。 著者: 眉村 卓 タイトル: まぼろしのペンフレンド

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  • 13 Mar
    • 源頼家と豊臣秀次

      「お久しぶりの『歴史と人物 相似形』。今回はちょっとマイナーな人物を取り上げます」 「本当、久々なんでもうやめっちゃったのかと思ってましたよ」 「ヒーローは出待ちが長いんです」 「だれがヒーローですか! 人生に疲れた顔をして」 「ちょっと待て! そおいうミエミエのボケにはだれも突っ込んでやらんぞ」 「それを言うたら『ひろう』でんがな!」 「ああ、暴走している。。。」 「それにしても西武王国もあっけなく倒壊してしまいましたね」 「う、露骨な前フリだなあ」 「たった二代、数十年でしたね」 「二代目って損だね。親と引き比べられるし」 「そうですね。『二代目』と言われるくらいだから、前代は偉大な人物と相場が決まってますよね」 「確かに勝海舟を『二代目』とは言わないなあ」 「親父さんが親父さんでしたからね」 「一種の傑物だったけどね」 「逆に長期政権を見ると二代目がしっかりしています。初代の陰に隠れて地味ですけど」 「うん。足利義詮(よしあきら)や徳川秀忠なんか、まさにそうだね」 「堤さんもがんばれば15代続いたのに。。。」 「そんなに続くんかい!」 「という訳で今回は『ダメな二代目』として源頼家(1182~1204)と豊臣秀次(1568~1595)を取り上げます」 「直接本人たちを呼び出さないんですか」 「う~ん、前回のでかなり懲りたからね。夢にまで見ましたから。。。」 「つまんな~い」 「他人事だと思って」 「まあ、次回までのお楽しみにしますか。めぼしい心霊スポットを調べときます」 (次回があるのか???) 「源頼家は源頼朝の長男。1199年、父の死後二代目の鎌倉殿となるんだけど(将軍位は1202~1203)、その若さに不安を感じた宿老たちは13人の合議制をひき、頼家の権限を制限してしまうんだ」 「二代目には先代の家臣なんて、目の上のコブ、でしょうね」 「うん。頼家も反発して側近や妻の実家、比企氏を重用し、対立は深まるばかり。 ついには1203年、病を得たことをきっかけに妻と子及び比企氏を滅ぼされ、自身も無理やり出家させられて、伊豆修善寺に幽閉されちゃうんだ。 そして翌年、暗殺されてしまった。頼家は武勇に優れていたため、風呂場で無防備なところを襲撃されたそうだよ」 「いやーん。おじいさま(源義朝)や大叔父様(源為朝)と同じ末路じゃないですか」 「ところで豊家二代目といえば秀頼ではないんですか?」 「秀頼はたしかに太閤の実子だけど、実際に政権の二代目を担ったのは(少なくともそうなるはずだったのは)秀次だよ。彼が秀吉に殺されなかったら、いくら家康でも簡単には天下を取れなかったかもしれない」 「秀次は秀吉の甥で、実子のいなかった秀吉の養子筆頭でした。確かに1591年に関白職を継ぎましたね。 でも1593年に秀頼が生まれると彼の立場も微妙になり、難癖をつけられて秀吉に切腹を命じられてしまった」 「秀次の関白在任中は当然、秀吉も生きていた。彼にどのくらい実権があったかは分からないけど、朝鮮出兵に専念したい秀吉に代わって、内政を見ることもあったらしいよ」 「家康、秀忠の二元政治と似ていますね」 「うん。信長も生前に家督を信忠に譲っていたしね」 「自分の目の黒いうちに政権を磐石にし、スムースに二代目に引き継ぎたかったんでしょうね」 「でも頼家も秀次も失脚したのは身から出たサビでしょ? かなりの乱暴者だったそうですよ」 「うん。頼家は家臣の妾を強引に奪ったり、所領争いの裁判が面倒くさくって、図面に勝手に線引きして判決を下したらしいよ」 「うわ~、サイテ~」 「秀次のほうは妊婦の腹を割いて胎児を引きずり出すなどして、『殺生関白』(せっしょうかんぱく)と恐れられたらしい」 「うげ~、食欲なくなりました。。。」 (と言いながらバクバク食べてるけど?) 「う~ん、サイテーな二代目でしたね。これじゃあ殺されるのも無理はないかな」 「そう、そこだよ」 ??? 「『殺されるのも無理はない』というイメージを作り上げるのが彼らの狙いだったのだよ」 (センパイ、口調がキバヤシになってきましたよ?)「彼らってまさか。。。」 「そう、頼家を殺した北条氏と秀次を追い込んだ石田三成ら秀吉側近だよ」 「大体、部下の女を奪うというのはダビデ王の昔から不徳な君主を描くお決まりのパターンだ。妊婦の腹を割く、というのも古代中国の紂王(ちゅうおう)やわが国の武烈天皇(ぶれつてんのう)の伝記に同じような記述がある。これも残虐さを際立たせるお決まりだね」 「つまりそのような事実はなかったと。。。」 「思うね。不徳や残虐さを際立たせるほど逆にうそ臭く感じるよ」 「でも証拠は?」 「難しいね。時の権力者によって抹殺された二人だよ? 記録もほとんど残っていないんじゃないかな。残された歴史から矛盾点を見つけるしかないよね。 先ほどの頼家の所領争いの件なんかそうだよ。13人の合議制の時期に頼家自身が採決を下せたかどうか。矛盾しているよ。 それから秀次は自領では名君と慕われていたらしい」 「本当ですか?」 「うーん、詳しくはこの本を読んでみてよ。学問好きなおだやかな青年君主だったらしいよ」 著者: 小和田 哲男 タイトル: 豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇 「頼家のほうはどうですか?」 「彼は典型的な悲劇の二代目だったと思うよ。父と同じく鎌倉殿独裁を目指したんだろうけど、時代はもうそれを望んでいなかった。 有能ではなかったけれど、それなりに抱負は抱いていたんだろうね。それをくじかれてしまった。 彼の悲劇は名作を生んだよ」 著者: 岡本 綺堂 タイトル: 修善寺物語・正雪の二代目―他四篇 「ここに書いてあることは史実ではない。実際幽閉中の頼家は寂しさのあまり側近を呼び寄せてほしいと母(北条政子)に訴えているが、聞き入れられなかった。出歩いたり、恋をすることなど到底許されなかった」 「かわいそうですね」 「そんな彼を、せめて創作の中だけでもなぐさめてあげたいよね」 「二代目といってもいろいろな人がいたんですね」 「そうだね。まあ、人間、必ず誰かの子供なんだし、望むと望まざるとにかかわらず『二代目』を背負ってるもんだヨ。親兄弟、同年代の他人などに引き比べられながら生きていくものさ」 「今回は二代目にあった二代目のお話でした」 ??? 「二代目、ニダイメ、イダイメ、イタイメ。。。バンザーイ、バンザーイ!」 「かなり苦しいぞ!」 著者: 石垣 ゆうき タイトル: MMRマガジンミステリー調査班 11 (11) ↑これがキバヤシ

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  • 12 Mar
    • 日本化学会 『化学・意表を突かれる身近な疑問―昆布はなんでダシが海水に溶け出さないの?』

      私たちは化学の中で生きている 理科、 と書くと少年の日のワクワクした思い出がいっぱいよみがえってくるのに 化学、ばけがく、ケミストリ、 と書かれると高校時代の無味乾燥な授業を思い出してしまいます。 中学のときまではよかったんですよ。 そのころはまだ「理科第一分野」。 先生が手のひらいっぱいの大きな硫酸銅の結晶を見せてくれたとき、その青く美しい傾いた直方体に目が釘付けになり、いっぺんで化学の虜になりましたっけ。 「理科第一分野」から「化学」に変わったころから、 化学式や公式を覚えてやたら問題を解くだけの作業に思えてしまって。。。 いや、怠惰な自分が一番悪いことは重々承知しているんですがね。 授業中初めて居眠りしてしまった、それが化学の授業でした。 皆さんはどうですか? そんな思いは化学の先生たちにもあるらしく、 「本当の化学はそんなものじゃない!」 といろいろな機会を捉えては化学の面白さを広めています。 著者: 日本化学会 タイトル: 化学・意表を突かれる身近な疑問―昆布はなんでダシが海水に溶け出さないの? 「まえがき」によれば、日本化学会は会員数4万。ほぼ10年に一度、「化学展」を開催し、暮らしと化学のかかわりや科学の面白さを伝えているそうです。 そういえば身の回りは「化学」でいっぱい。 料理なんて化学反応を利用しまくりだし。花火のきれいな色も化学変化の結果ですよね。 物質を扱うのが科学とすればわれわれは化学に取り囲まれている、生まれたときからその中で生きている、といえるわけです。 この本には身近な「なぜ?」をなんと70も取り上げて、化学の立場から解説をしています。 ・ビールはなぜペットボトルに入ってないの? ・コンビーフの缶詰はなぜあんな形なの? ・蛍光灯が古くなるとなぜ端っこに黒いシミができるの? ・お酒を飲むとなんでラーメンが食べたくなるの? などなど。なかなか興味をそそられるではありませんか? ただ、この本は少し難しい。一応、親とこの対話形式にはなっているものの、トピックを多くした分、ひとつ当たり2ページですべてを解説しているため、 高分子、浸透圧、β-デンプン、硫化アリル、 なんて言葉がバンバン出てきます。 もちろん、素人が読むことを配慮して、図や解説も出ていますが、 高校生、理科好きの中学生か、理系の方向けの本でしょう。 それでも10万部突破! と帯にありました。やhりトピックスの選出がいいのでしょう。それに難しい言葉を飛ばしてもある程度理解できるのもいい。 上記の科学用語にひるまなければお買い得の一冊です。 別にわからない言葉が出ればそれでもいいじゃないか、と思います。 ネットや本を使って調べることでさらに知識が広がりますからね。

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  • 11 Mar
    • 山岸涼子 『日出処の天子』と田中英道『聖徳太子虚構説を排す』

      古代史の深き森でさ迷い歩く楽しみ 前回の続き。 著者: 大山 誠一 タイトル: 「聖徳太子」の誕生 さまざまな方がそれぞれの論を展開していますが、 これらの説の共通項は 聖徳太子は日本書紀が作り上げた虚像である ということです。 そしてその根拠は 太子が作ったとされている十七条憲法や三経義疏は後世の作である、です。当時では使われていなかった語句があったり、現物が残っていなかったりすることがその理由です。 今では中学校の教科書でも  厩戸皇子(聖徳太子) とかっこつきの表記にされたり、  …十七条憲法を定めたといわれています。 と伝聞になっていたりします。 一方でやはり聖徳太子は実在した、と主張する人もいます。 著者: 田中 英道 タイトル: 聖徳太子虚構説を排す この本の後半で田中さんは谷沢さん、大山さんの不在説に反論をし、さらに梅原さんの法隆寺論にも反論を書いておられます。 中には言葉の表面だけ捉え、少しむきになっている感じもしますが。 私たちは今、歴史が書き換えられるか否かの場面に直面しているといえましょう。 しかし、結論が出るのはまだまだ先のようです。 ひとり聖徳太子のみに絞っても、いや絞っているからこそ百家争鳴の状態です。 仮に聖徳太子がいなかったとします。 すると「日本書紀」には、その述べる歴史には、その部分だけぽっかり穴があくことになります。そしてそれを埋めることのできる説はいまだ出ていません。 これは不在説に限らず、「蘇我王朝説」「物部王朝説」など他の聖徳太子論にもあてはまります。 すなわち全体を俯瞰することができていないのが現状なのです。 だからといって、不在説が即誤り、とも言えないでしょう。 古代史の森に迷い込み、さまよう多くの人々の中で、いち早く抜け出て他を導いてくれる説ははたしていつ出るのでしょうか。 楽しみです。

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  • 10 Mar
    • 私を救ってくれた1冊の本

      とらさんの記事を読み強く感じるところがありました。トラックバックします。 私は以前カルト宗教とかかわっていた。私の青春はそれら宗教とのかかわりに費やされたと言っても過言ではない。 私自身後一歩で入信しそうになった。友人や恋人を失ったこともある。 以下は決して自慢話でも、過去を懐かしむ話でもない。 たくさんの方に迷惑をかけた事実は消えやしない。 愚か者の独白として聞いて欲しい。 こんな私を救ってくれたのは1冊の本だった。 もう絶版になったし、私のかかわったカルト宗教団体の名をあかすのは、多くの方のプライベートに関することなので、書名をここに書くことはできない。しかしその本の著者のおかげで私は立ち直るきっかけをつかめた。実際にお会いして色々お話を聞き、目が開かれた。 私は救われた。 そのカルト団体にのめりこみ、音信普通になった知人たちのことを考えると胸が痛むが、私は帰ってくることができた。 こんな私は特殊な人間だったろうか? 決してそうは思わない。 多少個性は強かったかもしれないが、どこにでもいる平凡な学生だった。 とらさんの記事にもあるように誰にでもカルトに洗脳されてしまう心の隙間を抱くときがあると思う。私も大学入試から初めての都会での一人暮らしという環境の変化で心の隙ができてしまった。私は寂しかったのだ。 青年特有の傲慢さで自分は特別だと思い込み、周囲と溶け込めないことを周囲のせいにし、孤独でいることが気高さの表れだと勘違いした。 そしてこれも若さゆえの傲慢か。汚れた世の中を何とかしたいと思った。 もう一世代上であったら学生運動にのめりこんでいただろう。学生運動家は衰退し、その間にカルト集団が勢いを増してきていた。 そんな時彼らと出遭ったのだ。 カルト集団の人々は純粋だ。世俗の垢にまみれず、崇高な目的の為に戦っている(と信じ込んでいる)。 実に美しい目をしていた。その美しい目でまっすぐ私を見、そして私の話をよく聞いてくれた。うなずきながら。 共に笑い、悲しみ、怒り、楽しんだ。 小説や映画、マンガで見る青春を私は送っているのだと思った。彼らこそ私の仲間だと思った。ここが私の居場所だと思った。 これは今流行の「コーチング」の手法だ。その原形だ。彼らは実によく研究しているのだ。人の動かし方を。マニュアルを作っている集団もあるくらいだ。不安な人の支えになり、じょじょに支配してゆく。 これはあくまで一つの例であり、人がカルトに入り込むきっかけは実に様々だ。 浮沈の激しい芸能界でのめりこむ人がいるもうなずけると思う。 学歴の高さなど関係ない。逆に勉強一本やりで視野が狭くなると危険だ。はまりやすい(ちなみに私は勉強などしない学生だったが)。 カルトにはまった人を理詰めで論破しようとしてはいけない。彼らにとってそれは信仰を試される試練であり、悪魔の誘惑なのだ。 それがたとえ親兄弟恋人であっても、だ。いや、逆に近しい人ほど誘惑者の手先になると教えられている。 苦難に遭えば遭うほど彼らの「信仰」はより堅固になる。 ではどうしたらよいのか。 マニュアルなどは無い。 私も含め多くの方の救われた事例を見ると、頭ごなしに否定せず(それは上記のように相手の思う壺)、話を聞いてあげること。コミュニケーションを持つこと。そのチャンネルを保ち続けることだと思う。これもコーチングの手法にある。 相手と同じ土俵に立って対峙しなければいけないだろう。 聖書の話をしているのなら同じく聖書を読むべきだろう。 聖書のことなら教会の方に、仏典のことならお寺の方に聞いてみるのもいい。 でも自分が飲み込まれたら元も子もない。ミイラ取りがミイラになってはいけない。だからこそ、多くの事例を調べ、正しい情報を見分けることが大事だろう。 以前書いた『ネット王子とケータイ姫』とまったく同じだ。メディア・リテラシー(情報を見極め、取捨選択できる能力)をつけなければいけない。 えらそうなことを書いてしまった。思いだけが先走り、私の筆は鉛のごとく重い。誤解を招く表現があったやもしれない。 私が脱会してから20年、技術の進歩には目を見張るものがある。しかし人間は変わらない。その弱さは変わらない。弱い存在だからこそ、われわれはすばらしいのだと思う。 以下に私が読んで大変役に立った本をいくつか挙げます。 もちろん、本だけですべてが解決しませんが。 著者: 大泉 実成 タイトル: 説得―エホバの証人と輸血拒否事件 著者: 井出 定治 タイトル: 異端とは何か―モルモン教・エホバの証人・統一教会 著者: スティーヴン ハッサン, Steven Hassan, 浅見 定雄 タイトル: マインド・コントロールの恐怖 著者: ウィリアム ウッド タイトル: エホバの証人「ものみの塔聖書冊子協会」―マインド・コントロールの実態

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  • 09 Mar
    • 三浦貞子, 森喜朗, 藤本四郎 『あひるのアレックス』

      有名人が書いたからってそれだけを話題にしないで! 著者: 三浦 貞子, 森 喜朗, 藤本 四郎 タイトル: あひるのアレックス 作者の一人森喜朗(もりよしろう)とは森前総理大臣のことです。 といっても小学生は知らない人のほうが多いかも。現に私の塾(じゅく)で聞いたところ、知っている人のほうが少なかったです。 逆に現在の小泉総理大臣が長い、ということですね。もう4年になりますか。 前総理大臣が書いた、ということがクローズアップされ、ニュースにもなりましたが、それだけで終わってしまうのは実にもったいない話です。 中には「選挙のための人気とりだ」という意見もあります。しかしこの絵本をすなおに読んでみれば作者の三浦さん、森さんのきまじめさと愛情を感じるはです。 物語は、そう、アンデルセンの「みにくいアヒルの子」のうら返しといったらよいのでしょうか。 アンデルセン童話はアヒルの家族からいじめられ、あちこちをさまよい、アヒルよりも美しく大きな白鳥に「出世」する話ですが、この絵本はカルガモの家族に育てられたあひるのアレックスが愛情につつまれ、あひるであることをだめだ、と言われていません。 アレックスは兄弟や両親とちがう姿に「どうしてぼくだけちがうの」とぎ問に思いながらも一生けん命家族にとけこもうとしています。そのために人一倍努力します。そして両親は温かく見守り、はげましています。 そして多くのことをできるようになります。 それでもアレックスにできないことが一つありました。それは。。。 ここには 「みんなと同じでないといけない」 とあせる現代の子供たちにたいし、 「そうではない、あなたはあなたのままでいいんだよ」 という作者たちからのやさしいメッセージがこめられています。と思います。 人よりも走るのがおそい 人よりも食べるのがおそい 人よりも背が大きい、小さい 人よりも。。。 くらべるな、といわれても集団生活の中ではどうしても気になってしまうものなんです。 それをその子の個性なんだ、とわり切れる大人が今どれくらいいるでしょうか。 計算のにが手な子 覚えるのに苦労する子 運動がにが手な子 もちろん、がんばってにが手をなくすことも大事です。アレックスも両親も最初から 「がんばらなくてよい」 とは考えていません。がんばった上でできないことはしょうがありません。 じゅう分がんばっている子に 「がんばれ」 というのは時にはざんこくになることもあるのではないでしょうか。 なか良く暮らすアレックスとカルガモ一家。 しかしカモは空を飛べますが、あひるは飛べません。 ラストにその現実に直面したアレックスたちは、一体どうしたか。 気になる方はぜひ手にとって読まれることをおすすめします。 このお話は現実を元に作者の人たちが半年かけてつくったそうです。 カルガモとなか良く暮らすアヒルを見て、 こんなお話を考えつくなんて、森さんも三浦さんもステキですね。 ちなみに物語に出てくるカメのおじいさんは、森さん自身の分身なんだそうです。

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