暗部 | 岩手県一関市における集団ストーカー被害

岩手県一関市における集団ストーカー被害

もし、今もなお自分自身がこの経験をしていなかったならば…「集団ストーカーなんて妄想の産物だろう!?」…程度の認識に過ぎなかったことでしょう…。

『恐らく集団ストーカーも参議院選挙が終わるまでは静かにしているだろう。』

この読みに少しも違えることなく、6月中旬から、つい2、3日前まではおとなしくしていた集団ストーカーも、ここにきて全国各地で嫌がらせを再開した様だ。

前回の都議選において象徴的ともいえる自民の圧勝、また共産の議席数倍増(自民圧勝への反作用であり、所詮は一過性のものであろう)の陰で、その存在価値が薄くなりつつある公明党にとって、この度の参議院選挙は是が非でも議席数を増やし、与党の“毛玉”程度の存在感は示したいところではあったろうが、結果は“与党にあって議席数はたったの2増どまり”。
この結果は、公明党にとって事実上の負けを意味する。それも支持母体である創価学会の組織票をもってすらこの結果では、公明党の存在意義たるや既に風前の灯と言っても過言ではなかろう。

私がなぜにここまで公明党、そしてその支持母体である創価学会を嫌悪しているのかについては、前回のブログにおいてもその理由を述べてきてはいるが、今回のブログでは、さらに創価学会の暗部にまで焦点をあてて、その実態を読者の皆様方に知ってもらうべく書き進めていこうと思う。

私はすべからく宗教を否定する立場ではない。宗教に人生の救いを求め、実際それによって生きる喜びを見出だしている人たちがいる事も事実だからである。しかしその反面、宗教を組織化し、それを維持していくためには莫大な資金が必要となってくる。今の法人化された新興宗教ほど、しっかり確立された“集金システム”はない。見るがいい。信者がボロを纏って質素な生活をしている一方、その教祖や幹部連中のなんとまあ高級なスーツに身を包み、高級車で移動する高慢な“さま”を!
金のあるところには、必ず暴力団が介入する。かつて世間を騒がせたオウム真理教もそうだった。オウムがサティアンと呼んだプラントでは、実際にはサリンなどは製造されておらず、“いわゆる薬物”が大量に生産されていて、その売買には暴力団が関与していたらしい。それならば、あれほど話題になったサリンを、オウムはいったいどこから入手することが出来たのであろうか!?実はこの件に関してはトップシークレットになっているらしく、ここでもその臆測は避けたいと思う。

いよいよ本題に入ろう。では創価学会がつるむ暴力団とは、はたして!?
2010年5月、宝島社から『憚りながら(はばかりながら)』というタイトルで1冊の本が出版された。著者は、広域暴力団山口組系後藤組、後藤忠政元組長である。中身は彼の自叙伝であり、関係する人たちや組織にとっては一級の暴露本でもあった。
その一級の暴露内容とは以下、著述からの一部抜粋である…

『…そんな池田(創価学会教祖 池田大作)が裏で何をしてたかといったら、山崎(当時、創価学会顧問弁護士 山崎正友)やXをパイプ役にして、俺たちヤクザを散々利用し、仕事(汚れ仕事)が終われば知らんぷりだ。それで俺たちがちょっとでも、もの言おうもんなら、今度は警察権力を使って潰しにかかる。…』

この上記、抜粋した文章の前述には、それまで創価学会の指示を受けて行ってきた数々の悪事が長文で述懐されている。
そしてかつては創価学会と昵懇であった彼の言葉として、この述懐にも触れておきたいと思う…

『…それともうひとつ、創価学会、いや「池田教」が、この日本という国家を乗っ取ろうとしていることが、見過ごせないんだょ。…中略…公明党を作って政治に入り込んだり、創価大学を作って、“優秀な人材”を官僚にしたり、法曹界を牛耳るために人を送り込んだりしちゃいかんだろう。…』

ご理解いただけたであろうか?創価学会が暴力団を使って裏では違法な活動をしていたことは事実であり、これが常習的に行われていたことを考えると、創価学会は明らかに反社会的な体質を持った宗教団体であり、現在もなお集団ストーカーなどといった様々な犯罪行為を行っていることからも、非常に危険な組織であると断言出来よう!
また、創価学会を支持母体とする公明党は、都議会においては長期にわたって与党にあり、その予算を握っているために警視庁に圧力をかけることも容易である。さらには官僚組織においても、そこに入り込ませた信者たちが各省内で創価学会に都合の良い政策を立案“させている”のも事実である。この様な実情を背景にビューロクラシー(官僚主義思想)が蔓延しようものなら、国家の中枢は完全に創価学会によって掌握されてしまい、そこにある正義は民主主義における“それ”ではなく、創価学会による池田大作のための正義だけがまかり通ることになってしまうのだ。そこに“愛”はあるのか!?

かつてイエスは“隣人愛”を唱えた。釈迦は慈悲の心を説いた。そして信者たちは神や仏のもとに愛や慈悲の信仰にのみ従った。
またフロムはその著書『愛するということ』の中で、愛こそが現実社会の中でより幸せに生きるための最高の“技術”であると述べている。
愛こそが力の源であると私は信じている。そして…
“この人のためになら、俺の命は惜しくない”
…そう思える大切な家族や信頼出来る友人、尊敬する恩師、そしてこの様な愛する人たちが私にはいることこそ、幸せに生きることの出来る由縁なのであろう…。

目に映る、その家々の明かり1つ1つには人の生活があり、そしてそこにはささやかな幸せがある。と同時に…「普通の生活がしたいだけ、ただ普通の生活がしたいだけなのに」…恐怖に怯え、社会に出ることもままならず、そして自ら命を絶つまでに追い込まれている人たちがいることに心が痛む。私はそんなささやかな願いを叶えるためなら、我が身命も賭そう!創価学会が恐怖をもって蹂躙するのならば、私はわれらが正義をもってそれと闘うだろう…愛のためにッ!!