My Musical History 20

テーマ:
 Flying Walrus Next Live

 4/4 (Sat.) 横浜関内 Dragon Club The Vodka Presents "Rock'n Roll Train vol.4"


 with DJ:HiROYASU、EBI

 Flying Walrusは23時過ぎに登場!


My Musical History 20

 Dungが持ってきたのは、X JAPAN(当時はX)の前座の仕事だった。

 これを書くと出身校から年齢まですべてバレてしまうが、Xがメジャーデビューする直前の3月、YOSHIKIとTOSHIに故郷である千葉県館山市のフラワーパークにて、凱旋ライヴというべきコンサートが行われることになった。
 The Mafiaはその前座を勤めることになったのである。

 しかし。しかしだ。

 なぜか俺は、そのライヴでドラムを叩く事はなかった。なぜかDungと同じ年の、Pajabooというバンドでドラムをやっていたひとが叩くことにいつの間にかなっていた。
 記憶がいまいちハッキリしないが、卒業コンサートということで、その年高校を卒業するメンバーでライヴをやりたいとのDungの希望だった。
 
 それにしてはギターは彼の1コ下のイッキチだったが。

 Dungが当時吐いた言葉に、こんなのがある。

「俺の周りには敵か手下しかいない」

 まあ、この段階では俺はただの手下に過ぎなかった訳だ。

 そんな俺には、当日の会場警備のバイトがまわってきた。パーク内の芝生の広場に仮設で作られたステージの前に、ステージと客席を仕切る柵が設けてある。
 熱狂的なファンが押し寄せるので、その柵を押さえているための人足として雇われたのだ。
 柵にしがみつきながら、The MafiaとXのライヴを、俺は背中で聴いていた。

 The Mafiaのライブは、かなり熱の入ったものだった。30分弱のステージで、最後はレコードを客席にバラ撒き、気勢を上げた。

 Xの演奏は、当時既に完成されていた。後に発売されるライヴビデオ"爆発寸前GIG"と構成はほぼ同じ。故郷に錦ということで、さすがに気合い入りまくりのライヴである。
 "Endless Rain"で、会場が少し静まった頃、スタッフのひとがやってきてアルバイトに耳打ちしてまわった。

 「次の曲で花火上がります」

 「はい?」

 と言ってるうちに

 「くれないだー!」

 ステージ前方から花火があがった。

 あちー!

 柵を押さえる腕に、背中に火の粉がふりそそぐ。柵の向こうではお客が熱狂している。爆音と嬌声。

 「. . .俺ここでいったい何やってんだろう?」
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My Musical History 19

テーマ:
 Flying Walrus Next Live

  3/20 (Fri / Holiday) 吉祥寺 Black & Blue
  OPEN/START 21:00/21:30
  Ticket:1,000yen 1Drink付! Flying Walrusは3番手、22時半過ぎに出演


  4/4 (Sat.) 横浜関内 Dragon Club The Vodka Presents "Rock'n Roll Train vol.4"




 そのころ、Mephiyth(聖飢魔Ⅱのコピバン)はどうなっていたか。ドラムセットを手に入れてからは、そのドラムセットと簡易PA、ギターアンプを担いで休日の小学校の空き教室などで練習していたが、次のライヴの予定も決まらないまま、ダラダラと惰性で練習していた。そのうち聖飢魔Ⅱ以外の曲もやり始めたが、モチベーションは下がるばかりだった。サブラベルズのコピーとかしたなあ。誰か知ってる?
 結局、ヴォーカルの相川は脱退。それでも何となくバンドは続き、新しいヴォーカリストが加入することになった。
 新しいヴォーカリスト、ケンは、オリジナルの曲を何曲か書いており、それを演奏するバンドを探していた。だがそのオリジナルは、聖飢魔Ⅱのナンバーとは似ても似つかない、ポップなナンバーだった。メンバーは戸惑いながらもリハを続けるが、その回数は次第に減っていった。

 そして、Mephythはたった1度のライヴで流れ解散する。だが、活動していた期間としては2年あまりあったため、15曲以上の聖飢魔Ⅱのナンバーをコピーしたことになる。


 さて、The Mafiaがシングルレコードを製作したつぎの年。彼らの年代はいよいよ卒業である。

 ※ここで浜田麻里のコピーバンドの話を書こうと思ったのだが、よく考えてみるとそのコピバンはThe Mafiaがレコーディングをした年の3月、つまりまる1年前のことであったような気がする。以下、My Musical Historyの5と6の間の期間に相当する. . .んだよなあ、どっちだったかなあ?

 ブラスバンド部を手伝っていた頃、トランペットを担当している先輩(女性)の卒業コンサート限りのバンドを手伝うことになった。しかも、担当はベースである。ギターは一応弾けるようになったし、タブ譜も読めるので、なんとかなると思って引き受けた。メンバーはトランペットのK子先輩に、俺と同じ学年でK子先輩の妹のY乃さんと、キーボートにRさん。ギターはプロのミュージシャンを目指していたM原さん、ドラムは他校の先輩から、なぜか途中で俺と同じ学校のブラバンの先輩に変わった。確か最初のひとは、俺の前にThe Mafiaのドラムを叩いていたんじゃなかったかなあ?
 ギタリストの好みで、浜田麻里の他にハロウィンとアンスラックスのナンバーも演奏することになった。
 スラッシュメタルのベースは、ドラムとはまた違う意味での体力勝負だった。ギタリスト以外は全員ブラバン経験者なので、メトロノームを使ってキッチリ練習する。演奏を巧く聴かせるための第一歩は、正確なリズムとチューニングなのだ。

 本家同様、姉妹でのコーラスはバッチリ決まり、正確な演奏のそのバンド(名前忘れた!)は、結構ハイレベルだったと思う。録音が残ってたら聴きたいんだけど . . .Y乃さん?


 さて、卒業コンサートといえば(ここで時間軸戻ります)、The Mafiaは何をやったか。Dungはとてつもない話を持ってきたのである。

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My Musical History 17  The Mafiaのころ_7

テーマ:
 Flying Walrus Next Live
 2/14 (Sat.) 吉祥寺Black & Blue




 レコードをリリースしたDungは、進路指導の面接にそれを持参し、プロを目指すことを宣言した。The Mafiaは、ギターのウメさんが受験勉強のために脱退し、あらたにイッキチという、俺と同じ年のギタリストが参加した。ベースのカズも離脱し、レコーディング時のプロデューサーであったK氏がベースを弾くことになった。

 年があけ、それまでの地元の活動を総決算するため、Dungは走り出した。まずは、フルアルバムのレコーディングである。フルアルバムといっても、カセットでのリリースだ。今回は彼の知人に頼みこんで、リハスタでカセットMTRによる録音を敢行。
 ツアーと並行にレコーディングの準備をしているため、レコーディングのためのリハーサルの時間は限られている。しかも、カセットに収録予定の10曲のうち、シングルレコードの収録に漏れた1曲以外はほぼ新しく覚える曲だ。それらのナンバーを、レコーディングまでの短い時間に覚えなければならない。結局、レコーディング当日にはじめて聴いた、なんて曲もある。どうしたかというと、8ビートで何カ所かのキメさえ合っていればいい曲だったので、Dungが歌いながら合図を出し、それにあわせてキメを入れるという、綱渡りのようなレコーディングだった。

 思い出した。その曲"One Boy Dangerous"。

One Boy Dangerous 悪ガキが不良に変わり
道を外したところに また道はあったさ


という歌詞が非常に印象的だった。Dungはこんないいフレーズを結構書くんだな。

 さて、The Mafia以外の活動もいろいろやっていたのだが. . .
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My Musical History 16  The Mafiaのころ_6

テーマ:
Flying Walrus次回ライヴ 2009.2.14 吉祥寺Black & Blue


久しぶりに "My Musical History"の続きを書いてみます。これまでの道のりは、カテゴリ"Musical History" をクリック!


My Musical History 16  The Mafiaのころ_6


 レコードができた。

true-dung

 ドーナツ盤である。直径7インチ。

 表は、Dungのイラスト。裏には、ナイフがささった50,000$(?)札にDungの顔がはめこまれた写真と、クレジット。

 Drums . . .Akihi

 と書いてある。

 仕事をしたんだーという実感が湧いた。
 45回転レコードの収録時間の都合で、導入の、リハの雰囲気の音と、4曲収録したうちの1曲、"Bluesy Rider"がカットされ、3曲入りのシングルレコードという体裁に落ち着いた。
 「出来た」といって、学校で渡された時は、嬉しくて言葉にならなかった(と覚えている)
 初のレコーディングだ。しかも、ちゃんとした商品だ。


 さて、レコードが出来たらツアーである。Dungは早速、狭い市内を周り、ライヴ会場に使えそうな場所を押さえ始めた。前にも書いたが、ライヴハウスどころかロックが演奏できそうなバーすらこの時代ないのである。必然的に「○○公民館」とか「○○コミュニティホール」という名前が出てくる。
 対バンを集めるのはもちろんのこと、PAや照明(ほとんど会場の蛍光灯だけだが)、チケットや当日の会計まで、すべて手作りのコンサートだ。

 当時のPAのシステムといったら、リハスタがそのまま移設してきたようなものだった。まあ、キャパ(客席数)が、大きいところでもつめこんで100人みたいなところなので、それで間に合ってしまうのだ。
 ドラムは生音。ギター、ベースもアンプからの直音がオーディエンスに向けられる。プラスヴォーカル用のスピーカーが、仮設スタージの上下(かみしも)に1基づつ設置され、8チャンネルくらいのミキサーに繋がれたマイクの音がダイレクトに出てくる、というしろものだ。

 当然、音のバランスは演奏者が取らなければならない。楽器屋から借りてきた機材をいじりたおすうちに、演奏することの他に、音響そのものへの興味がわき上がってきた。

My Musical Histry 16  The Mafiaのころ_5

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My Musical History 16  The Mafiaのころ_5

 さあ、あとは細かい装飾を入れるだけ。"Teenage Gang"の導入部分は、ブルースハープにするか口笛にするか、Dungはさんざん悩んだ挙げ句、ブルースハープを選択した。ビリー・ジョエルの"Stranger"ではないが、この曲の場合、口笛のほうが雰囲気が出ると思うのだが. . .

 ハープの次は、いよいよオーラス、コーラスのダビングである。リハーサルでは細かいところまで詰めていなかったパートであるため、その場でアレンジをしながらの作業である。コーラスといっても、ハーモニーがある訳ではない。「ユニゾン」か、「かけ声」である。
 "1988"という曲のブレイクに、「みんなで叫び声を入れよう」ということになった。叫ぶついでに、「何かヤバい言葉を入れようぜ」と誰かが言い出した。

 . . .高校生である。ヤバい言葉といって思いつく単語はたかが知れている。

「オ○○コー!!」

 この数時間後、この曲の最終ミックスを聴きながら、誰かが言った。


「ウンコー!」としか聴こえねーじゃん。

 とにかく、レコーディングは終了した。あとはプレスから上がってくるのを待つだけである。

My Musical History 15 The Mafiaのころ_4

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My Musical History 1The Mafiaのころ_4

 X JAPAN (当時はただのX)は、ちょうどその頃、メジャーデビューにむけ、メンバーを固めつつあった。
 我が母校の先輩である(ということもあってDungは観ておきたかったらしい)YOSHIKIとTOSHIは、DYNAMITESなどのバンドを経て後Xを結成。自身のレーベル「エクスタシーレコード」を立ち上げ、シングル盤をリリースし、インディーズシーンで一目置かれる存在になっていた。そのシングル盤「オルガスム」が、当時なぜか自宅にあった。親父が知り合いだか何かから貰ってきたらしい。ジャケのルックスと、歌詞のあまりにも露骨な(というか笑える)描写に、お袋と、「何だろね」なんて言っていた。(うちの母親は短歌を詠むので、どんなジャンルの文章でも、 言葉の使いかたには興味を覚えるひとなのである)
 ファンの間では相当有名なこのシングルレコード、今はもう手放してしまったが、オークションでは高値で取引されているらしい。当時はまだPATA、TAIJI、そしてHIDEは参加しておらず、4人編成であった。
 そのXのYOSHIKIがヘルプで参加したバンドを、それとは知らず渋谷で目撃した訳である。

 レコーディングは続く。なんとかリズムセクションを録り終えた俺とカズはホッと一息。続いてはギターのオーヴァーダブだ。ウメさんはマーシャルに愛機ギブソンSGを繋ぎ、ひとり黙々とギターを弾く。トチると大声で「すんませーん!」
 実際、一人きりでブースに取り残されるのはかなりの緊張を伴う。ここでは皆、自分の出す音に責任を持たなければならない。誰も助けてはくれない。
 余裕を見ている筈のスタジオ時間もどんどん短くなってゆく。全員、祈るような気持ちでブースを見つめる。いや、余計緊張させてしまうことになってしまうので、わざと目を逸らす。

 2日目はギターソロ、ヴォーカル録りだ。ギターソロを取り終えるまでに時間が相当押していたので、Dungにはかなりのプレッシャーだが、そこはフロントマン。4曲ともほぼ1テイクでOKを出した。すばらしい。

My Musical History 14 1The Mafiaのころ_3

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My Musical History The Mafiaのころ_3

 レコーディングの前日に、渋谷の、今はなき"Live Inn"というライヴハウスに行く。ここはロン・ウッドとボ・ディドリーが出演したこともある、クアトロくらいのキャパのハコだ。その日は、ニューロティカやゾルゲなどのバンドが出演していた。最後に演奏したバンドには、長髪をウニのトゲのように立て、派手なアクションをキメるドラマーがいた。ヴォ-カルはスキンヘッドのおっさんだ。ハードコアな音に乗せ、「のむヨーグルト」みたいな意味不明の歌詞を叫んでいた。聞くと、セッションバンドみたいなものらしい。いろいろなバンドのメンバーが集まってこの日限りのステージをやったのだと言う。

 これが俺のライヴハウスデビューである。

 さて、レコーディングだ。場所は大塚ぺんた。6時間だか8時間だかのパックでスタジオとエンジニアを押さえ、2日がかりで4曲を録音するのだ。
 曲は"Almighty Baby" "1988" "Teenage Gang" "Blusie Rider"である。
 まず、ドラムの音決めだ。ライヴハウスの演奏であろうが、レコーディングであろうが、ロックの音録りは、キックの音を真っ先に決めていくのである。この瞬間、はじめてブースの中の孤独を体験する。ガラス越しのコントロールルームでは、DungとK氏の指示(指示といったって抽象的なことしか言えない高校生だが)で、ミキサーの方が音を作ってゆく。こちらには、ヘッドホンからたまに声が帰ってくるだけで、自分の出している音以外、何も聴こえない。笑われていてもわからない。こちらは、必死で緊張と戦う。
 ドラムの音が決まり、ベースのセッティングをする。ドラムとベースの2リズムでベーシックトラックを録り、後からギターとヴォーカルをかぶせてゆくのだ。録音前に何度かリハーサルをやるが、ヴォーカルとギターが聴こえない状況では、曲の進行を把握するのが難しい。譜面とも言えないメモ書きを見ながら叩くが、俺もベースのカズも間違いまくる。そして、慣れないヘッドホンだ。確認を終え、録音を開始するが、俺かカズのどちらかが必ずと言っていいほどトチるので、演奏内容そのものよりまずちゃんと演奏できたテイクがキープされた。現在と違い、デジタル録音なんて夢のまた夢である。オープンリールのテープが回り、消され、また記録される。パンチイン(途中から録音すること)という技術は知らないし、そんなことが出来るほど演奏者は器用ではない。
 曲によってはウメさんのリズムギターも参加し、リズム録りは進む。ここで、Dungがアイデアを出した。「レコードにイントロとして、リハーサルをやっているような音を付け加えたい」
 そこで、そのような音を3人で録音することになった。と言っても、ドラムは適当に叩くだけである。ウメさんはDungの指示で、"Kill The Teacher"という曲のリフを弾く。俺がはじめてThe Mafiaに接した曲だ。

 休憩時間に、スタジオに置いてあるピアノを弾いてみる。"Teenage Gang"のイントロをアレンジして弾くと、「ドラマーでピアノが出来るなんて、YOSHIKIみたいだな」と言われた。
 YOSHIKIという名前はまだ知らなかった。が、実はYOSHIKIそのものは前日に既に観ていたのである。

My Musical History 13 The Mafiaのころ_2

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My Musical History The Mafiaのころ_2

 クラッシュの名曲の数々は、すべてDungに叩き込まれた。しかし、それらがクラッシュのナンバーと知ったのは、かなり後になってからだ。
 話は飛ぶが、Dungはレコーディングが終了したら、それをひっさげて大々的にライヴをするつもりだった。ライヴではオリジナルナンバーに加えてカヴァーのナンバーもかなりの数セットリストに入っており、俺は今までほとんど聴いたことのない曲を一度に覚えなければいけない羽目になった。「これライヴでやるから覚えといて」と渡されたカセットには"Love Song" "Jannie Jones" "White Riot" "ゴキゲンRadio" "Do You Remember Rock'n Roll Radio" "From The Heart" "魂こがして""Tommy Gun"などの曲が並んでいた。これらの、粗暴だが優しい音楽たちは、その後現在に至るまで、俺にかなりの影響を及ぼしている。布袋寅泰の曲ではないが、「涙が出る程痛いPunk」達である。

 さて、夏休みだ。8月のある日、我々は東京に向かって出発した。いよいよレコーディングだ。録音する曲は4曲。地元のスタジオで試行錯誤の末固まったアレンジを確認するために、まずは池袋のリハスタに向かう。田舎のスタジオと違い、機材がちゃんと整備されていて驚く。
 リハスタに入ったのは、バンドのメンバー4人に加え、共同プロデュース的立場のKさん。Dungとギターのウメさん、Kさんが当時18歳、俺とベースのカズが17歳であった。この頃、Kさんに俺は、「ヤッパシ」というアダ名を付けられる。口癖だったのだ。「今のちょっとテンポ早いんじゃねえか?」「やっぱし?」という具合である。当時The Mafiaで作ったミニコミ誌にまでそう書かれてしまったので、忘れようがない。
 リハーサルには、TSという、俺と同じ歳のギタリストが彼女を連れてたまに顔を出した。中学校が同じであるこいつとは特に仲がいいわけではなかったが、Dungの知り合いらしい。そして何故か俺は、こいつが組んでいるBOOWYのコピーバンドのヴォーカルに目の敵にされていた。理由は今もって定かではない。しかし、リハにバンドのメンバー以外の第三者がいると、どうも居心地が悪い。

 リハを終え、池袋から、 後楽園にあったウメさんのお兄様が借りているマンション(だったと記憶する)に移動し、呑む。ウメさんにHighway Starのギターソロなんかを教えてもらったのは、いい思い出だ。

My Musical History 12 The Mafiaのころ_1

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My Musical History The Mafiaのころ_1

 文化祭が終わった。もう一度書くが、当時の我が校の文化祭は
6月に開催されていたので、文化祭が終わると、期末試験、そして
夏休みである。
 Mephyth(聖飢魔 llのコピーバンド)は、週1度のリハは行っていたが
ライヴの予定は決まっていなかった。それをいいことに、僕は
その夏の音楽用エネルギーを、Dungのレコーディングに費やすことに
した。
 Dung。The Mafiaというバンドのヴォーカルで、1学年上の先輩だ。
その彼が、The Mafiaではなく、ソロ名義でレコードを出すということで
新規にメンバーを探していた。その網にかかったのがドラマーとしての
僕である。
 レコードに収録する予定の4曲を中心に練習が始まった。なにせ
他人のオリジナル曲を覚えるのは初めてである。最初はついてゆくのが
やっとだった。アレンジはDung本人と、The Mafiaのベーシストで、
今回のレコーディングではアドバイザー的な立場にいるK氏が担当した。
譜面を書かないひとたちなので、ドラムのパターンなどはほとんど口伝で
ある。

「ダンツタンツタン」
「ダララスッタン」
「ダドットタン」

という、まるで最近の携帯電話のCMのBGMのような言葉が飛び交う。
(実際、民族楽器の演奏を教える場合、口伝えに教えることは少なくない)

 しかし、DungもK氏も、打ち解けるととても面倒見のいい人物であり、
のメンバー(ギターのウメさん&ベースのカズ)も楽しい奴らなので、
リハーサルは終止雰囲気よく進んだ。

 この頃から、Dungにいろいろなバンドを教わった。パンクが中心
だったが、The ModsやARBなど、日本のバンドも彼から吸収した。

 ジョー・ストラマーの楽曲たちに初めて触れたのもこの頃である。

My Musical History 11 1980年代_11

テーマ:
My Musical History 1980年代、11

 文化祭2日目は、アコースティックユニット"TADENGEE"のステージ
だ。THE ALFEEのコピーを中心にしたセットリストである。
だが、"メリーアン"など演らない。THE ALFEEがまだアルフィーと
名乗っていた頃の曲を演る。落日の風とか。
 その中で、僕は1曲だけ、ビートルズナンバーでベースを弾き、
ヴォーカルをとった。曲は"Nowhere Man"である。ベースのラインを
追いつつメロディを歌い、なおかつコーラスのハーモニーを成立
させるのは、最初は骨が折れたが、 なんとか歌いきることが出来た。

 この"TADENGEE"、前年の文化祭にも演奏をしている。その時
は歌の他にお笑いの要素も盛り込んだ、エンターテインメント性の
高いユニットであった。これは、中心メンバーのK先輩による
ところが大きい。(また観たいなあ、「ゾウムシ」)

 とにかく、アコースティックユニットの可能性と、肉声による
ハーモニーの心地よさを教えてくれたのが"TADENGEE"であり、
メンバーの先輩方である。
 現在僕が、バンドと並行して弾き語りやアコースティック
ユニットを細々とながらも続けているのは、この先輩がたからの
影響が大きい。

 ところで、"TADENGEE"は、メンバーでTADENGEEの名付け親
でもあるO先輩の結婚式の披露宴で再結成し、「明日なき暴走の果てに」
を演奏した。