野菜好きの私がおすすめする美味しくて栄養豊富な「ふだん草」のご紹介です。


安心安全

ほうれん草の仲間 アカザ科、でも蓚酸を含みませんからゆでこぼさなくても大丈夫。しかも虫が付きにいので通常無農薬です。


おいしい

関西では「うまい菜」の名称で流通している程くせが無く、実に美味しい。ですから色々なお料理に使えます。


栄養豊富

ほうれん草の仲間です、いわずもがな栄養豊富。ビタミン、ミネラル、しかも良質なファイバーも。


<調理法>

お好きなようにお使い下さい。

例をあげておきますね。

・お浸し ・胡麻和え

・味噌汁 ・からし和え

・白和え ・油いため(肉、ベーコンも)

・バター炒め ・オーロラマヨネーズ掛け

・青汁 ・ケチャップ掛

 











ほっとくとどんどん大きくなりますので、青汁には良いいですが、食べるのには手の平位が食べごろ。

困ったことに関東の八百屋さんではまず見掛けません、入手方法は次号で。

 

 

 

 

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続 私の名前

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さて前回に続き、 私の名前 もとひろ は親、親戚、小~中学の同級生まではそのままもとひろ と呼ばれていましたが、高校は私達の中学からは私1人だったので誰も知らず、最初からイチダイになってしまいました。その後は大学も、前の会社も皆イチダイ、そして今もイチダイです。偉くなりませんでしたけれど。

なお、謄本にはモトヒロのカナが付いていました、でも大学提出用の謄本を取りに行ったら、役所の人が、カナが付いてるとめんどうだから取る方が良いと言うので、では、と取ってもらいました。

家でこれを話したら、勝手なことをしてと、父は少々お冠でしたが、そのままになり、以来イチダイでもモトヒロでも勝手たるべしとなりました。

なお、私の名前の発端となった祖父の親友 巌谷一六さんは、明治期の書家として第一人者。泊まって行った折り、書いて下さった額が今も実家に残っています。

この方のご子息が一寸法師などの童謡、童話作家で有名な巌谷小波さんです。







巌谷一六さんのご子息 巌谷小波さん。この写真は、分福茶釜で有名な舘林の茂林寺に由来と共にありましたので、写しておいたものです。


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私の名前

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人の名前をネーミングとはあまり聞きませんが、一大のブログに使っている私の名前の出自です。

自分の名前につきましては、物心が付いたときから、犬が名前を呼ばれると自分のことだと分かるように、私も自分のことだと思って何の気なしに過ごして来ていました。

大人になってからふと祖母にその所以を聞いたら、父が祖父に相談しつつ付けたと言ってました。

家には名前の辞典のようなかなり分厚い古くからの本が有り、何やら頼まれると近所の人や、自分ちの子供の名前やらを付けていました。

私のはそれにも照らし、かつ祖父と親交のあった巌谷一六と言う人の名前が気に入り一六にしようと思ったようです。でも、真似るようなのもどうかと、一太にしようか、ちょっと変かなと一大になったとのこと。

祖父は昔々、当時日本で一番若く20代で村長になり、日本で一番長く村長してて私の生まれた頃までやっていたため、自分の名前がむずかしくて選挙のたびに大変だったとの思いがあり、一大なら簡単でよいと賛成だったとのことです。

ただ、一大だと偉くなったときは良いけど、成りそびれるとちょっと気が引けて可愛想と言うことでモトヒロとカナを振り、一件落着、親心。それで“モトヒロ”となったそうです。(つづく)








偉くなりそびれた私。


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プリモフレックスの想い出

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トプコンフレックスから名前を代えたら良く売れるようになったプリモ、私の父もこのカメラを後生大事に使っていました。

ときが経ち、私共のフルード工業が始まった頃、お金が今よりさらに無く、古くなりもう使われなくなっていたこのカメラを借りて来て、家でも会社でも使っていました。

初期のフルード工業の広告やカタログ写真は、このカメラによるものです。もうシャッター速度は油切れから全く狂っていて、音の感じで写す羽目に。普通の方には少々むずかしいと思いますが、私は未だモノクロASA40(現JIS)時代中学で写真部の部長屋さんをして居り、露出も今のようにシャッターを押せばよく写る時代ではなく、空を眺め明るさを読み写していた時代に“鍛えられ”ていましたので、音でシャッタ-速度を感じ取れたんです。それで、なんと、ちゃんと、写ったのです。でも、少し小遣いも出来たので一度メーカーに持ち込んでオーバーホールをと、板橋の東京光学へ持ち込み、守衛室へ行ったら年配の守衛さんが偉く懐かしそうに、感慨深げに今でも使われてますか~って。

停年になり守衛室に来る前はこのカメラのシャッター速度の調整をやっていたとのこと。

昭和20年代中頃、未だシャッター速度も測定器は無く音で聞いて調整をしていたので、もうこれの調整の出来る人は居ないです、音で分かるならそれで良いとのこと。仕方なく持ち帰り、その後中版のマミヤプロSを買う日まで使い続けました。

そのときの守衛さんが慈しむような眼差しで古いプリモレフを手に持ち眺め続けていた姿は今も目に焼き付いています。半世紀近く昔のことです。



シャッター速度が全く狂ってしまったプリモレフで写した写真です。写真屋さんに露出計なしでシャッター音を聞き分けつつ写している話をしたら偉く驚いて、勘と言うものは鍛えると神業が出来るものなんですねと。初期のカラーフィルムはラチュードが非常に狭く、露出計なしは無理で、まして狂ったシャッターでは大変だったのです。

この写真、当時は色鮮やかに写っていたのですが、その頃のカラーの品質に加え、何分にも50年近くの年月が経っているため、アルバムを開いたらかなり劣化が進んでました。腕自慢がお目にかけられず残念です。

ネーミング Ⅲ

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東京光学のプリモフレックス


ネーミングの大事さの例、成功例としてかつて良く取り上げられたものに東京光学の二眼レフカメラ、プリモフレックスがありました。

日本光学と並ぶ光学機械の名門です。眼科などに行くと東京光学の測定器などを見掛けますね。トプコンの名前が付いてます。

今は昔昭和20年代、戦後訪れたカメラブームの全盛期に名機として良く売れたものです。

これが初めトプコンフレックスと言う名前で売り出されましたが、売れませんでした。

それでネームプレートをプリモフレックスに取り代えたら、早速良く売れるようになったと言うものです。全く同じ物がです。この位ネーミングは大切と言うこと。

なお、プロ用中版カメラ、トプコンホースマンはそのままのブランドで売られていました。プロはトプコンの実力を知っていたので問題なかった訳です。

ネーミングの微妙さです。












二眼レフカメラ、こんな感じで、小中学校の代用教員の給料が78千円の頃、3万円前後してました。

上の蓋がパカンと開き、内部のミラーを経て摺りガラスに画像が見えるものです。一眼レフは後、ミランダカメラが開発、ミラーが撮影時瞬時に上がることにより一眼を可能にしたもの。

でも、ミランダは残念ですが今はもう有りません。

写真は、私の使ったものの一代後のプリモフレックス(日本カメラ博物館にて)。