女は釣堀を管理していた。湖には小屋舟が転々と浮かんでいる。各々の小屋で情事があり、彼女もまたそこで体を売っていた。そこに殺人を犯した一人の男がやって来た。死に場所を求めているようにも思える。退廃的な二人は相通ずるものを感じ、惹かれ合った。しかし女は男に押し倒されるとそれを拒む。受け入れられなかった男は小屋に娼婦を呼んだ。女はそれに嫉妬し、彼に惚れた娼婦と元締めを殺めた。

時に遠く岸辺から事象を客観的に映し、時に狭い小屋から臨場感を映す。相乗効果で湖だけのロケーションに幅を持たせた。生死が隣り合わせであることを思い知らされた。

釣り針が様々なものを傷つける。男はそれを口に含んで自殺をはかった。女はそれを陰部に入れて、彼が去ろうと乗り込んだボートを繋ぎとめた。釣られる魚にとってもそれは死への道標である。半身だけを刺身として食われて水に還された魚は、男によってまた釣り上げられた。魚を包丁でなぶり殺す彼だったが、その魚だけは包丁を振り下ろせない。痛みを伴って生きる、もしくは生かされる。罪と傷を共有した彼らは刹那の幸福を味わった。しかしそれが続くことはなく、終末を享受する。

ヨーロッパ映画祭を沸かせたアジア映画を選んで借りた。キム・ギドクの作品観賞はこれで4作目になる。相変わらずの秀でた芸術性は観賞であり、鑑賞ともとれる。水面の浮島は、本作から3年後に製作された同監督の「春夏秋冬そして春」の水上寺院にも似ていた。自然に囲まれ、水に浮んだ小さな1個のコスモス。しかしカオスでもあった。