中日日本人左腕投手推定年俸

岩瀬 3億8000万
山本昌 2億4000万
久本 2500万
高橋 2000万
小笠原 1800万
石井 1700万
小林 1200万
菊地 1200万
川井 1000万
樋口 800万
佐藤亮 800万
長峰 780万

仮に、岩瀬がFA移籍して山本昌が年齢による衰えが顕著になったとしたら大変なことになる。3番目の久本の年俸が山本昌のおよそ1割ということは危惧しなければならないのではないだろうか。中田、中里、鈴木、吉見など来年のアップ率が高そうな顔ぶれが揃う右投手に比べ、左はそれも望みが薄い。高橋や石井にはまだ伸びしろがあり、佐藤亮や長峰が昨年の佐藤充のように先発ローテーションに食い込む可能性もなくはない。しかし現段階では妄想の粋から出ない。岩瀬につなげる左のセットアッパーと山本昌に次ぐ左のスターターは急務だ。今年の契約更改でこの中の誰かが5000万は厳しくても4000万プレーヤーになる活躍をすれば連覇への道が開けるように思う。

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日本製少年 本籍、出生地、現住所は全て違うが、永く住んでいた埼玉には愛着がある。つまりは千葉にはライバル心がある。東京、神奈川に次ぐ関東ナンバー3の座という、どうでもいいこと極まりない覇権争いは僕の中で永遠に続いている。埼玉サイドから見た千葉は、あくまで偏見だが、湾岸部の埋立地や工業地帯や京葉線のプラットホームがあまりに人工的かつ威圧的で足をすくませる。それと車で走っていると必ず一度は道を間違える。またディズニーランドは、あくまで最も嫌うものという個人的見地からだが、上塗りされた笑顔の奥に怯え、しかも彼らは揺るぎなく、なるべくなら足を踏み入れたくない。及川中はそういった僕の感情を見透かしたように千葉を映し出す。

父親を殺そうとした少年・大和が職を探している時、テッィシュ配りをする少女・薫に出会った。薫とティッシュ配りに興味を持った大和はその仕事を紹介してもらうことにする。その会社の社長は売春やトルエンなども手がけ、小規模な社会を築いて絶対的な立場にいる。かつてディズニーランドの掃除夫だったが規定のもみあげの長さから逸脱したためにそこを追われた大和、彼は家族からも逸脱し、その社長の下でトルエンを捌くことになるも銃で客を殺めて追われる身となり、薫と二人で逃げた。行き場もなくただ逃げる。

風景が荒涼としているように見えるのは無機質であるがゆえ、その中で若い男女の行動は意味もなく、しかしクライマックスでそれまでの振る舞いはリンクした。得体の知れない恐ろしいもののアイコンのごとく、夢の国のアトラクションが背後にある。ウォルトが怖くて仕方ない。
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要確認

急に急激に便意をもよおしてデパートのトイレに駆け込んだがトイレットペーパーがない。分かったのは全てを出し尽くした後だった。頭を抱える。幸いウォシュレットがついていたので普段より強めの噴射、長めの温風で事なきを得た。事なきを得たのか。トランクスは少しく濡れたが許容範囲だ。

10年近く前、当時付き合っていた恋人が引越しをするといって物件を探しに知らない町に行った。初めて降りる駅は当然土地勘がなく、トイレがみつからない。仕方ないので駅まで戻り、その時も用を足してからあるべきものがないことに気づいた。思えば駅は工事中で、仮設便所ではむしろ紙を常備しているほうが稀なのだ。ウォシュレットがあるはずもなく、しばし悩んでから覚悟を決めてムスリムよろしく左手を濡らして拭いた。洗面所で丹念に洗い、仲良く手を繋いで帰ったのも懐かしい思い出。

そして同じ轍を踏む。あの時に比べれば何てことはない。

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リバーサイドホテル

テーマ:
これは現実ではないという思いがありつつ、それをところどころで忘れる。映画を見ている最中だったが、いつしか観客からスクリーンの中へ移行した。チェーンソーで襲いかかった男が返り討ちに遭い、彼が死んでなおチェーンソーは稼動を続け、死体を切り刻んで終いには跡形もなくなった。ジャンルがスプラッターからサスペンスへと変貌を遂げる頃、僕は登場人物の一人になっていた。そして僕はこの結末を知っていた。皆、殺される。カルト教団に入信して、系列のホテルで説明会らしきものを受けた。受講しているのは20人弱程度。途中で逃げ出さなければならない。それは実際に目を覚まさなければならないということで、起きる前にこの映画が終わることは死を意味する。ということになっている。機をうかがった。講習を終え、洗礼の儀式の会場へ移る時がチャンスだと思った。履いているスリッパでは逃げ切れないと判断し、他の人に気を配りながら荷物から自分のスニーカーを取り出す。全員の視線が僕のいるほうと逆を向いた瞬間、近くの窓の鍵を開け、靴紐を口にくわえて飛び降りた。下は川だった。着水、浮上で目を覚ます。

サンデイ・ジャム

代々木公園にて ジャンベ公園デビューは代々木公園にて。仲間を募り10人くらいで楽しく叩けると思ったがあまりの寒さで手が痛い。乾燥しすぎて指がきれる。得体の知れない白い粉が掌に。セッションしているうちに体が温まるという考えは甘かった。冷たい風が体力を奪う。しかしやはり外で叩くのは楽しい。昼過ぎから始めて日が暮れるまでやるつもりが、2月の寒空ではそれも土台無理な話で早々に切り上げた。原宿駅前でFREE HUGS に遭遇する。願望がかなった。

そのまま渋谷に流れて飲む。1軒目に入る時、同僚とすれ違った。2軒目を出て帰ろうと駅で、また別の同僚とすれ違い、目も合ったらしいがそれを知ったのは後日職場にて。酔いが相当にまわっていたのは体力のなさによる。

叫 常日頃から思っていたことなのだが、繁華街に心地良さを感じるのは大勢の他人が自分に全く関心を示していないことにあるような気がする。格差社会が叫ばれても世界各国に比べればかわいいもので、その、幅の狭い階級が雑踏の中、紛れ、孤独が自分の部屋に通じて、拘泥せずにくつろぐ。メディアに露出している人、ひときわ肌を露出している人、良くも悪くも常軌を逸しているほどの姿かたちの人でもない限り、記憶に留まることもなくその日の夕飯の話題にのぼることもない。

作るでも壊すでもない東京の埋立地で、赤い服を着た女性が殺された。地盤がぬかるんで海水の混じった水溜りでの溺死。現場検証をした刑事の吉岡は、そこで見覚えのあるボタンを目にする。死体に付着した指紋は吉岡のものだった。被害者を縛った黄色のコードは吉岡の家にもある。同僚の宮地は長年組んだ仲間に疑いの目を向ける。吉岡自身も自分を疑う。赤い服を着た霊が現れ、彼を苦しめた。それは緊張と恐怖と、非日常または不条理から笑いをもたらす。アプローチが新鮮だった。

管轄内で似たような手口の殺人事件が続いたが被害者の身元は割れており、演出は犯人も動機も分からせた。最初の事件は謎を残し、共通項を探し、吉岡の記憶を辿りつつ、着いた先からまた二転三転して予断を許さない。

もしリセットボタンがあったなら、僕は何度も押しているだろう。それがない、全部なしにすることができないからこそ悔やみ、改め、学び、成長する。その道程に何があったか忘れることは多々あり、記憶は上書きと改ざんを繰り返してはいるが、自尊心は大概において何の役にも立たないので、羞恥心も極力そぎ落として自らを省みる。

ジャンベを背負った僕が黒人男性と目を合わせる。眉を上げてあごをしゃくると、ケンカをしたら5秒でひれ伏すであろうその体型から低く、物腰の柔らかい声で話しかけられた。中央アフリカ出身であること、ベーシストであること、アフリカ中部と西部の楽器の違いなど、理解できたが僕の英語力の低下は著しい。「イエス」「ヤー」「ンーフ」と相づちを打ち続け「いつかYourベースとMyジャンベでセッションしよう」といって別れ、教室へ向かった。

今日は野外セッションの予定だったが昼過ぎまで降った雨で湿気が怖く、中止せざるを得ない状態だった。残念だがまたの機会に。初級に区切りをつけ、次回からは中級へ通う。

はげ 髪を切った。若干やらかした。やらかしたのは正確にいえば僕ではないのだが、いつも任せっぱなし なので仕方ない。鏡に映る自分は筆の先にそっくりだ。

それはいいとする。ただ、以前から目にはついていた左側頭部の直径2ミリ程度のハゲが、ことさら際立っているように感じた。アトピーの後遺症でそこから毛が生えることはなくなり、それを強調するような髪型はいかがなものだろう。後の祭りだが。腹を決めてサイドだけを刈り込み、しばらくは残る部分をニョキニョキと伸ばすつもり。アンチエイジングをそう解釈した。
眠りに恐怖を覚えるのは僕だけでなくブンレツグランマも同じだった。ホームの彼女の部屋は鍵がかかっておらず、誰でも出入りできる。夜な夜な、隣の部屋の男が扉を開けて何某か言ってくるという。事実なのか妄想なのか分からないが、その男も呆けているにせよ老人なのだから絞め殺されることはなかろうとなだめた。それでも心配な顔をするのは、どうやら犯される危険を感じているからだった。それはますますないだろうといっても、どう説明すべきか悩む。
1日1記事を義務づけて、奇しくも1000記事目はオフ会について。「瓶詰めの映画地獄 」栗本東樹さんと「レザボアcats 」とらねこさんと新宿で会った。とらねこさんの仕切りのおかげで席が設けられ、素晴らしい雰囲気のたこ焼き屋で催された。映画のこと、ブログのこと、三者三様のスタンスは刺激と共感のバランスが良かったのではないかと思われる。以前とらねこさんに、僕が栗本さんの影響を受けているのではないかと指摘されたことがあった。自分としては意識していなかったが、栗本さんから学ぶべきところは多かったのは事実。ブログにおける映画レビューとして「瓶詰め」は確立され、かつ、あるべき姿の最終形の一つのように思う。