恐ろしいこと

フジロック出演アーティスト第一弾発表

出演者云々にかかわらず、2年ぶりに行こうかと思っている。フェスのピースフルな雰囲気は好きだ。純粋に楽しい。今日はフジロックとアカデミー賞のブログ記事が多そうだ。駐車場券が一人では使用不可なので、連れを探さないといけない。こういう時に単身行動が染み付いていると困る。

Dinosaur Jr.やMercury Revは気になるところ。The Go!TeamはFatboy Slim同様に無心で踊れそう。何より目を引いたのはジュリエット・ルイス。パンクとはまた、どうにもそのままである。

先日の記事と併せてバウンスにトラックバックを送ってしまった。あそこもそんなことをやり始めたのかと、全くの興味本位で深く考えずに貼り付けてしまった。そこまでして自己主張をしたかったのか。薄さを露呈して取り返しがつかない。
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サイケなフィードバック・ギターでベルベッツ・チルドレンと呼ばれるYo La Tengo。そんな彼らとMassive Attackは、好きと言っておけばまずセンスを疑われることはないと思われる。5月の来日公演は2時間を越えるアクトだそうで、かなり乗り気になった。ゆるいルックスとダンスが巷で好評だ。しかしアルバムはこの「I Can Hear the Heart Beating as One」しか持っておらず、かといって近々発売されるベストアルバムは3枚組らしく、どうしたものかと思案中。



アーティスト: Yo La Tengo
タイトル: I Can Hear the Heart Beating as One
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友人がクラブイベントをやるらしい。一緒に回さないかと誘われた。というよりも頭数に入っていた。ぐずぐずしているうちに尻を叩かれる。ひよっている場合ではなかった。

月末恒例の急な呼び出しで友人宅にてDJ論を交わす。お互いデビューしていないくせに、かくありきと持論を述べた。それぞれが一つのターンテーブルを受け持ち、1曲ずつ繋げ合うというスタイルを提唱してきた。なるほどそれはさぞ楽しいだろう。自分たちだけは。妄想は尽きない。果たして人を集められるかどうか。人間性を試されるようで、答えは出ているにしろ怖い。
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支え合う様

両親の別居から2年が経つ。ソウウツシニアとの外食は久しぶりだった。僕と向き合うことは少なかったが、ここにきてお互いを尊重しあうようになってきている。ブンレツさんに事実上捨てられた彼が、そういう生き方をしてきたのだから仕方がないのだが、憐れに見えてしまう。自負とエゴが多くの障害を引き起こして今に至る。さもしい生活を送っているのであろう。瓶ビール3本を空けて酔いが回ったようで、会社の愚痴をこぼす。グローバリズムに社長が着いて行けていないとのこと。My Fmamilyは皆LoveにPoorだ。
奇しくも学生運動ものが2日連続。この分野に明るくなく、さして興味があるわけでもない。結果として知識が豊富になったということもない。藤田敏八の監督作品も初めてだ。完成から30年以上もお蔵入りされていた事実がそそった。

ヒッピー、自衛隊員、学生活動家。1968年当時の様々な若者を追う。ヒッピーの少女は「今の自分は本来の姿ではない」と言う。若気の悩みは今と変わらない。厳しさを求めて入隊した青年は予想外の生ぬるさに拍子抜けする。たぎる気持ちも不変。革命を夢見る東大生の活動家は行動を起こしたい。母親が被爆者である彼の、ルーツを探りたい気持ちも世の常だ。別個なものに所属して、もしくは何ものにも所属しないとして、彼らは激動の時代で青春を過ごす。それでも皆の喋り口調は一様だ。流行に囚われなくても、どこかで共通項がある。

東大生の活動家は、恋人を連れて広島へ旅立った。母親と同じ被爆者を訪ねる。熱い思想を持って、被爆者である旅館の女中と議論を交わす。はじめは息巻いて自分の主義主張をまくし立てる彼であったが、それは机上の空論だった。女中の言葉が重い。彼は恋人の前でどんどん小さくなる。

ラストは混乱期を示す若者の声高なセリフで締める。「一分一分が身を切られる思い。未来は分からないが、腐った現状には任せられない。」空白の30年の間で、これが杞憂だったのかどうか。分からない。
2月に入ってからレイトショーばかりである。友人が師事していた井土紀州の初監督作と思いきや、ビデオや共同作品を含めると結構撮っていた。「MOON CHILD」の脚本から安保闘争までとは引き出しの多いこと。

文筆家のスガ(漢字変換できず)秀美が、左側の一大エポックであった1968年について、当時の活動家と対談する。インタビューの模様や早稲田大学サークルスペース移転阻止闘争を通して、スガ秀美の人物像が浮き彫りになる。尖がって反逆した生き様と、はにかみや純粋さが同居する。

インタビュー映像はまず対象者一人の絵面から、対談が半ばに差し掛かるとスガも捉えたものに切り替わる。そこにおそらく井土と思われる第三者の存在が見え隠れする。タバコの煙とふと寄せる視線。1968年とスガ秀美へのこだわりと主観性がある。スターリンの演説風景を撮った写真が捏造によって、そこにいたはずのトロツキーが消し去られた事実を掲示することでこの映画は始まった。それが主観性につながる。

空席がないほどの盛況ぶりに驚いた。「レフト・アローン2」の公開もすぐに控えており、こちらはどうしようか検討中。

呼吸の妙  銭湯巡り5

テーマ:
千代の湯 三軒茶屋2-12-7

繁華街の中にあるせいか、入り口まで狭くいびつな路地を入らなくてはならない。それに反して、暖簾をくぐると男湯と女湯が左右対称で真ん中に番台があり、天井が高く開放感がある。造りはいかにも銭湯といった雰囲気だ。

大概サウナが付いており、それは必ずといっていいほど有料だ。しかしここのスチームサウナは値段表記がない。恐る恐るサウナの扉を開ける。低音高湿を謳うだけあって、相当量の汗を誘導して喉を潤す。深呼吸が癖になる。次第にむせる。

ラドン石を通す湯船はかなり熱い。シャワーと浴槽を小まめに行き来する。それでも上がって体を拭き、服を着ても汗が止まらない。マメ山田に似た中年男性は常連らしく、脱衣所で一服をしてから浴槽に戻るという行為を繰り返していた。賢い利用法を学んだ。
考えてみたらイラン出身監督で観賞したことのある映画は、短編を除くとアッバス・キアロスタミとモフセン・マフマルバフだけだった。それではいけないということでアボルファズル・ジャリリ監督作。イラン映画ではオープニング時にペルシア文字でタイトルが記されることが多い。習字のようなその美しい形容。

まず字幕がない。事前情報としてそれは分かっていたが、主人公である少年と少女の交流以外はストーリーもあまりない。瓦礫を作る10歳前後の少年を少女が見つめる。目が合うと少女は微笑んだ。屈託のない笑みは二人の距離を縮める。その間に、住民の顔と動きが断片的に挿入されている。

手に焦点が当てられた。少女は掌で押して作った手をかたどった瓦礫を、少年は手の形をした金属製のシンボリックなお守りをそれぞれに渡す。それが愛情表現になる。言葉を交わさない代わりに、表情とりわけ目で相手を思いやる。その表情やしぐさ、動作は断片映像にリンクした。穴を覗く目、日にかざす手。チャイを飲み、泣いた後に笑う。全てが切れるわけではない。

砕いたプリン

風邪をこじらせて、ブンレツグランマがホームの向かいの系列病院へ入院している。いくらか元気にはなったものの、この状態では家に戻ることができない。ホームには3月いっぱいまでの予定だったが、そのホームはおろか病院暮らしが長引くかもしれない。

病は気からとはよく言ったもので、ややもするとこのまま死ぬのではないかと思わせる。急速な体力の低下がある意味ドラマティックだ。周りの叱咤激励とテレビをプレゼントしたことである程度持ち直した。

最近は見舞うたびにプリンを持って行って食べさせている。食欲がなくなっていても、甘く柔らかいものは喉を通るようだ。次はゼリーが良いかと尋ねるとプリンのほうが良いと言う。アイスはどうかと尋ねるとバニラが良いと言う。
キャラメルコーンダブル・フォンダンショコライチゴ味がかなり美味と聞いた。しかしスーパーやコンビニをしらみつぶしに探してもキャラメルコーンダブル・フォンダンショコライチゴ味はなかなかみつからない。3日に渡って探索して、家から少し遠いローソンでキャラメルコーンダブル・フォンダンショコライチゴ味を発見する。そこに至るまでに訪れたコンビには9軒。それだけに感動も大きい。

いざ食べてみるとキャラメルコーンダブル・フォンダンショコライチゴ味はパフにパウダーがかかっており口溶け柔らかでたしかにおいしい。期間限定と記されているので翌日にあたる昨日、買い溜めの意味でキャラメルコーンダブル・フォンダンショコライチゴ味を4つ買った。しかし止めることができずに全てを食してしまう。

そして今日、体重計に乗るとダイエット中にまさかの1㎏増。しばらくキャラメルコーンダブル・フォンダンショコライチゴ味を禁ずる。