ほたるいかの書きつけ -4ページ目

数値バカ

参院選を前に、8団体が民主党と自民党の参院選公約について採点した、という記事が出ているのですが。もうなんというかアホかと。
 「消費増税、公約化評価 8団体検証、民主説明不足に苦言」(『朝日』2010年6月21日0時19分)
 「民主の実績・公約に厳しい評価…8団体検証」(『読売』2010年6月20日21時25分)

 8団体というのは、経済同友会、連合、日本総合研究所、PHP総合研究所、言論NPO、チーム・ポリシーウォッチ、日本青年会議所、全国知事会だそうで(後ろ2団体は採点はせず)。いやもうあまりにバカバカしいので内容については触れないが、それ以外のところで2点重大な問題があるのでそこだけ。

 見てわかる通り、これらの団体は方向性が大きく異なるものが含まれている。端的に言えば、経営者団体(や経営者に近い団体)と、労働者の団体だ。これらは何を重視すべきかというところで価値観を大きく異にするものだろう。そういった団体が「採点」して、さらに「平均点」を出すことに一体何の意味があるのか。数値化すれば客観的な指標になるというアホな思想がここでも何の疑問も差し挟まれずまかり通っているのか。どういう指標で採点したのかの方が圧倒的に重要だろうが。

 もう1点、おそらくより深刻だと思われるのが、政治という価値観がダイレクトに反映されるものに対して、何か客観的な採点基準のようなものがある、という妄想に、マスメディアが囚われているという点である。つまり、「どういう指標で採点したのか」を問う必要はない、あるいは問うべきであるという発想すらない、というマスメディアの現実である。これは実に恐ろしいことで、異なる価値観を持つ人々から構成される社会をどう折り合いをつけてまとめていくか、という発想が生まれない、ということを意味する。自分たちと違う発想の人々がいるなどということすら考えず、特定の価値観を押しつけているという自覚すらなく押しつけることにつながりかねないからだ。

 選挙のたびにこの手の「採点」が出てくるのだが、デスクは何も指摘しないのか。そこまで腐っているのか。自分たちが公平な第三者であるという幻想に浸っていたいのか。ヤレヤレだ。

いろいろ

ええとこの半年ぐらい(と最近の記憶がまだ新鮮なうち)の間の、ブログに書こうと思って書けていないネタをいくつか放出。こんな感じで時々書いてこうと思います。清算しないと前に進めん。(^^;;

  • 放出の前に、『科学と神秘のあいだ』については書く。いずれ書く。絶対書く。書けなかったら…ゴメン。(^^;;
    4月のはじめに読んで、エントリの構成まで頭には出来上がっているのだけど書けてない。

  • 美輪明宏の『白呪』は凄い。壮絶である。冒頭の「祖国と女達(従軍慰安婦の唄)」は、思わず正座してしまいそうなくらいだ。無論、日本人「慰安婦」しか視野に入ってないじゃないか、という批判は、今となってはアリだけど、1975年の唄だし、戦後の美輪明宏の体験がベースになっているであろうことを思えば、唄にしたこと自体が称えられるべきだろう。ちなみに「ヨイトマケの唄」も入っている。
     ついでに言えば、こういう点では美輪明宏の立ち位置というのはとてもしっかりしているのだけど、それだけに、オーラだのなんだのの広告塔のようになってしまっているのが悲しい。もっとも、ほっておけば虐げられた人は観念的な思想に走るのは世界共通だ。唯物論的な見方は生活に余裕のある一握りの人々のものであって、あとは「悩めるものの阿片」としての宗教に走ってきたのがこの世界の歴史だろう。美輪の思想もそういう面が多分にあるのではないかと推測する。現実を変えるには祈るだけではダメだ-という発想が、初めて唯物論的な見方を人々にもたらすのであって、一人で多くの底辺の人々の苦悩を引き受け、一人でたたかってきた美輪の、ある意味必然的な限界なのかもしれない。

  • 奥友志津子の単行本コンプリート! 私の一番のオススメは『砂糖抜きのコーヒー一杯』。ってamazonにも出てこないのは何故!?この人の持ち味はディストピア的SFではあるんだけど、この作品はそうではなくて青春コメディとでも言ったらいいのか、受験生~大学生の生活の中で、悩み傷付き自己を確立しようともがく若者たちのドラマなのだ。そういう意味では松本零士における四畳半シリーズに対応するもの、と言ってもいいかもしれない。
     この手の少女マンガ作品だと、あとはやはり樹村みのりの「菜の花畑」シリーズ、ということになるんだけど、自分の学生時代を思い出し、自分は一体どれだけ悩んできたのか、どれだけ後輩どもに影響を与えることができたのか、などを思って切なくなるのであった。いや、過去をふりかえってる場合ではなくて、今の自分の立場を考えてもそうなんだけど。
     というわけで、この人の作品は、どれも切なく、しかし読み終わったあとに「また明日からがんばろうかな」と思えるものなのであった。新作出ないかな~。全集作って、その中に少し書き下ろしとか、イラストとか(仕事で色々描いてらっしゃるらしいので)入れてもらえたらきっと買う。

  • めっちゃ久々にBon Jovi の1st albumを聴いた。20年ぶりか。prz
     "Runaway"は名曲だと思うけど、自分にとっては"She don't know me"なのだ。いま聴きかえしても名曲だと思う。高校生のときはあまり考えなかったけど、この曲の歌詞、実にしみったれていていいな。(^^)
     She don't know me というのは文法的にはもちろん変なんだけど、これって日本語の感覚的にはどんな感じなんでしょうね。The Beatles の歌詞でも She don't ... ってのはよく出てくるような気がするのだけど。そもそも She don't know me という言い回しがすごく英語的で、たった4音節で状況を言い表してしまうというのが凄いと思う。know という単語の意味がすごく広いから、なんだろうけど。訳せと言われても難しいですね。

  • はやぶさ帰還で政府与党から健闘を称えられているはやぶさチームであるが、実にいい加減なもんだと思う。あの仕分けは一体なんだったんだ。仕分け作業がまったく無意味、というか、中身なんか全然理解していなくて、財務省の都合で予算を削減していただけだったってのが丸わかりな現象だったと思う。大体仕分けの場で事務方をつるしあげて一体なにができると思っていたのか、未だにまったくわからない。単なる「役人いじめ」だろう。天下り等々の問題に切り込みたかったのかもしれんが、そうであるならなおさらああいう形での仕分けは意味がない。予算が削減されても最終的に切り詰められるのは研究費であって、切り捨てたい役人は温存されるのである。
     大学の法人化がそもそも似たようなもんで、経営はまかせます、となったら理事に官僚がどんどん天下りしてくるわけである。天下りしたい官僚と、中央とのパイプを確保したい大学本部との思惑が一致する結果だ。そして、しわよせは個々の研究者のところに行く、というわけだ。
     はやぶさ2の予算を復活させるなら(させるべきだと思うが)、なぜ「削減」と判定したのかの根拠を精査し、その上で仕分けで削減と判定した事業すべてについてもう一度査定をやり直すべきだろう。そうでなければ、仕分け事業自体を仕分けするべきだ。
     という諸々はおいといて、はやぶさは凄いね、頑張ったね。あちこちで擬人化されていたけど、思わず泣きそうになったのがいくつもあったもんな。はやぶさチームにとってはまさに「我が子」だろうな。打ち上げてから7年て、その時産まれた子どもはもう小学生、その時小1の子は中学生だよ。衛星の設計・組立から数えれば、想像するだけで泣きそうになる。

  • 消費税10%って、一体誰がモノを買うんだ?赤字決済の大企業も多いのに(銀行とか)、法人税下げたって景気の刺激にはならんだろ。そもそも税を納めてないんだから。法人税下げるなら、保険の負担割合を引き上げるとか、そもそも正規雇用をマトモなレベルに増やすとかしないと、社会が成り立たなくなるんじゃないか?

  • そうそう、Bon Jovi のライナーノーツを読んでて思ったのだが、伊藤政則の書いたライナーノーツを集めて本にしたら売れるんじゃないか?一冊では納まりそうにはないけれど。私は買うな。(^^)
    逆境ナインが好きな人なら買うと思う。(^^;;

というわけで書き散らしですが。まだ溜め込んでるのがあるので、そのうちこんな感じでメモがわりに書き散らすと思います。スミマセン。(^^;;

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ワールドカップ

その昔「ダイヤモンドサッカー」なんて見てたクチですんで、ワールドカップもチラチラ横目で見てたりします。選手の名前は全然覚えられないけど。いまちょうど日本-カメルーン戦のハーフタイム。1点取って良かったっちゃー良かったんですけどねえ…。

 その前の、オランダ-デンマーク戦はめっちゃ面白かった!抜きんでた選手がいるというわけではないのだけれど、基本に忠実で、実に緊張感あふれるゲームでした。スペースができれば誰かが走り込む。スペースができればそこにボールを蹴る。確実にそれを受け取る。だらだらボールをこねくりまわしたりしない。すぐにパスを出す。インターセプトできたら途端に立場は逆になる。スペースにボールが出る。
 中盤はとてもコンパクトで、画面に映る選手の数も多い。だからスペースが出来てもボールがとても通りそうにないと見えるんだけど、これが通るんだなあ。ビシッと速いボールが、相手選手が取れるか取れないかのギリギリのところを通って、味方選手に届く。
 2点目なんか実に教訓的で、1本目のシュートがポストに当たって跳ね返っても、誰かが必ず走り込んできていて、そいつが決めてくれる。シュートが1回で終わらず、2度3度と波状攻撃になる。守る方は気を抜けない。もちろん、うまくカットできれば、一気に流れは逆転。一斉にどちらの選手も必死に走り出す。日本が点を入れた時は、本田の後ろから走り込んできた選手、いなかった(ように見えた)もんねえ。うまく決めたからいいけど、あれはじかれたらそれで終わりだよね(まあ本田をフリーにさせたカメルーンの失態という面もあるとは思いますが)。

 好みの問題はあろうけれども、そういう緊張感のあるサッカーが好きなんですよねえ。オシムが監督を続けていたら、日本も今頃そんなチームになっていたかも…なんて思いながら見ています。後半はどうなることやら。

『科学との正しい付き合い方』(内田麻里香)

あちこちで評されているようなので、ごく簡単に。なお、前エントリで述べたような事情で、このひと月ぐらいの間に出た書評については押えていないので、指摘済みの点もあるかもしれませんがご容赦ください。

 さて、最初に言っておくと、内田氏の問題意識については評価する。というか、大事なポイントだと思う。身の回りの科学技術(この用語については後述)に目を向けよう、とか、科学技術と社会の二項対立的把握は良くないのではないか、とか。血液型性格判断への甘さなどは各所で指摘済みなので措いておこう。

 その上で、読んでて思ったこと。
 最大の疑問点は、「それだけの問題意識を持ってて、出てくるのがこれ?」というものだ。率直に言って、科学コミュニケーション研究業界のレベルってこの程度のもんなのか、と思ってしまった(実際のところどうなのかわからないけど)。端的に言えば、「身の回りの科学コミュニケーション」にもっと目を向けるべきでは、ということだ。あるいは自分(たち)がやってきた/やろうとしてきたことに発想が縛られすぎて、視野が狭くなっているのではないか、ということだ。
 例えば、科学コミュニケーションの方法の一つとして文学が挙げられている。寺田寅彦や東野圭吾といった人物が出てくる。それは良い。しかし、SFについてまったく触れられていないのはどういうわけだ?それはマニアのものだから触れる必要もない、とでも言うのだろうか。SFが科学コミュニケーションに果たしてきた役割は絶大なものがあると思うし、その分析だけで博士論文にでもなりそうな大きなテーマだと思うのだけれど、ここまで無視されるといっそ清々しいというか、一体なにやりたいの?というか。
 またマンガについても鉄腕アトムが出てくる(手塚治虫とあわせて)。でも、手塚治虫に限らず、多くのマンガ家が科学を取り込み、国民に多大な影響を与えてきたはずだ。藤子不二雄や石森章太郎はもちろん、岡崎二郎やあさりよしとおなど(後者は別の意味でマニアと言われそうだが^^;;)。そのあたりの考察もおざなりだと思う。学研の学習マンガもそうだ。これだって分析すればいい論文が書けそうな気がする。
 
 科学業界へのルサンチマンが感じられてしまうのは仕方がないとして、それよりもむしろ科学コミュニケーション研究業界への不満がいろいろあるのかもしれない。その中で、自分なりにこれだけやってきたという自負があるのかもしれない。「カソウケン」も、問題がないとは言えないにせよ、試みとしてはいいものだと思う。それだけに、「科学コミュニケーション」があまりに狭く捉えられすぎているのでは、ということが(著者の主張とは裏腹に)気になった。

 もう一点。「科学技術」と「社会」の二項対立モデルの克服が語られるが、この本の主張を客観的に分析すれば、「科学技術と社会」と「科学コミュニケーション」の対立が、意識されぬまま仮想されているように思える。それはおそらく上で述べた「身の回りの科学コミュニケーション」への意識の薄さと一体のものではあるのだろうけれども。

 中途半端なのだよね。誰に向かって書いているのかがわからない、という指摘はいくつかあったと思うけれども、それだけではなくて、どうせ書くなら「科学コミュニケーターがいなけりゃダメなんだよ!」ぐらいの啖呵を切って欲しかったと思う。実際、その存在は(必要不可欠かどうかは別にして)とても大事なものなのだから。

 そういうわけで、大学院に入りなおしたのだったら、ぜひ「身の回りの科学コミュニケーション」にも目を向けて欲しいと思う。それはもちろん、ノーベル賞の益川さんが語っていた、子どもの頃に父親からいつも聞かされた科学の話、なんていうのも含むだろう。加古里子(かこさとし)の絵本だってそうだ。「双方向でなければいけないというわけではないだろう」というのであれば、見えてくるものは色々あると思う。

 最後に「科学技術」という言葉について。
 著者は「科学技術」という単語をあえて選択しているが、私としては、「科学」と「技術」をひとまとめにして書くのであれば、「科学・技術」としてほしいと思う。「科学技術」だと、どうしても scientific technology あるいは science-based technology になってしまうと思うのだ。呪術に基づく技術、ではなくて、科学に基づく技術、と。
 国策と結びつくとき、科学ではなく技術に目が向けられる。「役に立つ」かどうかの話にされてしまう。その一方、教育政策においては「理科離れ」と結合し、「技術科」が忘れ去られ、「理科」一辺倒になる(このあたりはもはや「理科離れ利権」とも言うべき状況と言っても差し支えないのではないかと思う)。たとえば小柴さんがノーベル賞を取ったスーパーカミオカンデでは、浜松ホトニクスの業績は脇に追いやられてしまった感がある。そのあたりが「科学技術」という単語がもたらす問題点であるように感じている。

 というわけで、あちこちで色々言われて大変だと思いますが、各所で言われている指摘(特に血液型性格判断の問題とか)にはしっかりと耳を傾けつつ、科学コミュニケーションのあり方を探っていって欲しいと思います。期待を込めて。

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首相交代雑感

どうもご無沙汰しております。ちょっと色々仕事がたてこみまして(労基署に行ってぶちまけてやろうかと思ったり思わなかったり^^;;)、精神的に自分のブログの管理すらままならない状態になっておりました。およそ一ヶ月くらい?なんとかkikulogだけは追っかけてましたが…(それといくつかの方々のつぶやきと。メーラで読めるので)。巡回サイトも全然読めず。コメントへの返事もすっかり遅くなってしまい、どうも申し訳ありません。
 この間、顔に蕁麻疹が出、さらに口内炎が3つ横並びに出来、それはやがて合体して一つの巨大な穴となったのでした。二つつながったところは、まるで目ん玉つながりのおまわりさん(天才バカボンのホンカン^^)かと。それが消えたら指や腕に発疹が出たりして。ストレスなんでしょうね。
 ちょっと大きな仕事が片付いたので気分的には楽にはなりましたが、とはいえ細かい仕事が山積み状態で、こんな感じのペースでしばらくは行くことになりそうです。

 さて、そうこうしているうちに、電撃的に鳩山が辞めちゃいましたね。金星人は助けに来なかったようで。^^;;
 菅に交代したとはいえ、問題は何も解決してないわけで、どうするんですかね。まさか普天間の問題は鳩山に全部押しつけて、このまま辺野古で突っ走る気じゃないよね(その気なんだろうけど)。
 市川房枝を担いだってのがよく出てくるけど、市川房枝に見られて恥ずかしいことはしないで欲しいですね(するんだろうけど)。
 結局、アメリカの都合を優先したり、消費税を上げて一般庶民の暮しは後回しにしようとしたり(買う人いないのにどうやって景気を回復させるんだ?)、やるこた自民党と変わらんわけで。参院選に向けて自民党と民主党のどっちが勝つか的報道も増えてきていますが、そんなことより共産党とか正論吐く議員が一人でも増える方がよっぽど日本のためにはいいだろう、と(以前書いたような気もするけど)いう思いはより強くなっています。

 一体どうなるのかねえ…(他人事じゃないんですけど)。