ファイナンシャルコーチ・ジャパンでは「自分らしく生きる」を提唱しています。では、私にとっての「自分らしい」とは何かを数回に分けてお伝えしてみようと思います。
その為にはまず、私の生い立ちから話さなければなりません。
「幼少期」
私は隠居した曽祖父・祖父母は小学校教師・父は会社社長(養子であった)・母は専業主婦という家庭で幼少期を過ごしました。私の記憶では物心付いた頃には父は大きなアメ車に乗り(たまに学校に送ってくれた)、家も大きかった(応接間には暖炉もあった)と思うが隣には自社ビルもあり、その屋上には展望風呂があった。目つきの悪い秋田犬が2匹に猫も2匹いた。そうそう通いのお手伝いさんもいました。(ぼんぼん育ちっていうやつ)
その頃はそれがあたりまえでしたが、今思えば人が羨む生活をしていたと思います。世の中は高度経済成長期にあり、父は建設会社を経営していたので、まさにその波に乗って会社を大きくしていったのでしょう。父は忙しかったのもあるでしょうが、休日は殆ど趣味の磯釣り(和歌山県の串本方面)に出掛け不在が多かった。父との記憶は、たまにキャッチボールをしてくれたことぐらいであろうか。そんな状況であるから当然のようにおじいちゃん、おばあちゃん子になっていきました。学校教師だから春・夏・冬休みあり、普段も日曜日は必ず休み。長い休みは旅行、日曜日は遊園地や魚釣りなど本当によく遊んでくれました。だからなのかその頃、私の夢は学校の先生になる事でした。
そんな生活に変化があったのは小学校5年生の時、突然住み慣れた家を出て引っ越す事になりました。当時はよくわからなかったのですが、後々聞いたところによると、父が従業員に大金を持ち逃げされたり、右肩上がりの経済成長が鈍ったりで、借金が膨らみ返済する為に不動産を売却したそうです。(自社ビルの建物以外はすべて祖父母の所有であったのに)また、祖父は40歳半ばで校長先生になっていましたが、父のために早期退職し退職金もすべて父の借金返済に充てたらしい。(今なら早期退職も珍しくないが当時は断腸の思いだったに違いない)
そんなこんなで田舎に越しましたが、それでも一戸建てに住んでいました。土地は80坪ぐらいだっただろうか?(まだまだ、ぼんぼん生活)。この頃の夢も学校の先生になる事。
「思春期の初期」
次に変化が訪れたのは中学校2年生の時、今度は今までのようにはいかない。父の会社は倒産・離婚、またまた引越し、訳がわからない間に経験したことのないような生活環境に突入。私・母・6歳下の弟は6畳・4畳半と3畳のキッチンとういうアパート、祖父母は6畳二間の長屋に住んでいました。
私はぐれはしませんでしたが(ちっと丈の長い学生服を着たり・ちょっと太いズボンをはいたり、ケンカ売ったり・買ったりぐらいはしたかな?)、自分の力で生きていかねばならない事を自覚したのはこの頃です。しかしこの3年後には今の実家を購入しているんです。(祖父母がいたおかげだろうな)この頃、特に夢はなくなっていました、母に「あなたは学校の先生になりなさい」と常に言われたが・・・。
「思春期の後期」
大学に入ってからはサーフィンとバイトに明け暮れました。多くの友人にも恵まれ、本当に楽しい大学生時代を過ごさせていただいた。専業主婦から勤めに出て、それも留年したから5年も通わせてくれた母に感謝以外何もありません。(当時は感謝なんて思っていなかった・・・)
働いたことのない母でしたが、38歳から勤めだし、数年後には誰もが知る女性ファッショブランドの大阪支店責任者にまでなっていました。そして60歳まで勤め上げたのです。これから書く私の「自分らしく生きる」に多大な影響を与えています。
もう一つ大きな影響を与えてくれたのは、「山を登るのに道は一つではない、楽な道もあれば険しい道もある。しかし必ず山頂を目指せ!」という祖父の言葉です。おじいちゃん、おばあちゃん子であった私には、この言葉がやけに素直にお腹に落ちたのはいうまでもありません。(この頃はまだ母には反発していました)
話は少し戻りますが、サーフィンに明け暮れた大学生時代、5年間続けたアルバイトが造園会社。後述しますが、この会社の社長にもとてもお世話になりました。今の私があるのも、この社長の大きな器のおかげであると言っても過言ではありません。大学は「工学部経営工学科」、受験当時はコンピューター関連が華やかであったのと、数学が得意であったことからこの学部を選択したのですが、アルバイトがきっかけで造園が好きになり、何と何と私はゴルフ場を造る様な大手造園会社に就職することになるのです。
この頃から「自分らしく生きる」ことに目覚め始めた気がします・・・。







