過去の産物
テーマ:グッさん流ども、unreveのグッさんです、
今日2月22日は新月ですね。
新月は願い事が叶う、と言われます。
皆さんの願いが叶えばいいですね^^
(僕ですか?僕は・・・・・・・フフン)
自分で書いてて気持ち悪いので
前回に引き続き、同じテーマを書いてみます^^
ソーシャルネットワークは今ではやっていない人の方が少ないくらい
浸透したサービスです。
今こうやって書いているブログを
北海道の方が見て、触発されてる(かも)しれないし、
東京の方が見て一日頭に残っている(かも)しれない。
(記事次第では)怒りを覚える人も当然いるでしょう。
Twitter経由でアジア圏の方の価値観が変わるかもしれません。
可能性は0とは言えません、それくらい影響を与え合う時代です。
そこで出てくるのが本テーマでもある「過去の産物」である判断基準。
受け手側の判断とは一体どんなものなんでしょう?
さて、SNSは(オフ会でもしない限り)一度も会うことがないし、声も聞こえない。
身長も体重も分からないし体臭(フェロモン)だって分からない。
口癖も知らないし隠れた性癖(笑)やちょっとしたこだわりや価値観など
そういった微妙な部分は曖昧です。
そして何よりも一緒にいる時に感じる「空気感」がない。
つまりア・プリオリの本有観念的な部分が非常にネットは薄いです。
プラトンの言葉に
「一年会話するより一時間一緒に遊ぶほうが相手の事がよくわかる」
というのがあります。
会ったからといって完全には分からないけれど
会わないと分からない観念的な部分は絶対ありますよね^^
ここでは文字を駆使する事で理想の人物を構築するのがとても簡単です。
それが良いか悪いかは使う人次第、使い方次第だと言えますが、
確実に言える事はSNSが信頼構築の為だとするならば、
Facebookを超えるサービスが出てきたとしても脆いものです。
「これからの関係性はソーシャルネットワークだ!」と言う方は多いですが
真実(本質)はとてもシンプルです。
メル友を100人作っても友達が100人いると言えないように、
美辞麗句を毎日書いてもその人の本質がそうだと断言できないように、
いくら技術が発達してもパソコンというハードでは、
清濁併吞の人間と言うソフトを100%表現する事は不可能じゃないでしょうか。
全て動画になろうとも語彙力が増してより細かい心情、心境を表現できようとも
立体的なホログラフィーがもし出てきたとしても、
使っている部分は視覚と聴覚だけです。
それを元に判断しているのは他でもない、自分の過去の記憶や経験なんですね。
テレビの芸能人や著名人と同じです。見て、話しや声を聞いて関係性を作る。
書いている記事を見て共感する。
それでその人の本質を理解できた、というならば
それはちょっと行き過ぎた決めつけではないでしょうか?
その広く浅い関係性が狂ったらどうなるか?
つまり自分と同じように痛みを感じる人間だとは思えないくらい浅い関係性。
直接ぶつかりあって関係性を一緒に作る必要もないので
人によってはおかしなレッテルを貼る気がしてならないんです。
ソーシャルネットワークは井戸端会議向きであって
ディベート、ディスカッションの場ではない。
下手すると人が人を自己淘汰する可能性だってある、
そんな気がします(インチキ詐欺師の批判とかは別ですよ)
さて、この繋がるという関係性がネットでどこまで可能なのか?
まるで時代からの要請、半ば強制的なムーブメントのようにも感じます。
ここで僕が何を書いても、独自のルールや法則を信じていても
現在、それより世の中がもっと大きなルールや法則を作っています。
そしてその世の中にはそれを押しつける力があります。
前回書いたようなデフレカルチャーの波 、心の消費活動ですね。
それが文化として成立するのは賛否両論ですが、
ネットの限界性、関係の不確実性がある事を忘れないようにしたいですね^^
人は繋がりたい生き物です、また拒絶を一番恐れるのも人間です。
何度も書いてますがSNSは拒絶と承認、そのどちらもを可能とする両刃の剣です。
SNSは永久に未完成なツールだという前提さえ理解していれば、
それから交流を深める、という補佐的な存在だと分かります。
本当に心を通わせる関係。
それは共感や賛美といった楽だけでなく、論争という苦も含んだ先にある気がします^^
長くなりましたがこんな感じです、
ではでは。









