5月14日は母の日でした。
僕は母の日はカーネーションを毎年持って行っています。
母はうれしそうに喜んでくれます。
僕が持って行くのは何故でしょうか?
ここにあるのは今から33年前の写真です。
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1973年の写真
僕が京都府立聾学校幼稚部に入学した時の写真です。
この聾学校は日本で一番最初に聴覚障害児の教育を行った盲唖学校を母体として誕生しました。
京都市の御室の仁和寺の北側にその校舎があります。
当時は4歳。左から、母と僕、そして弟。
これだけ明確に写っている写真も珍しく、当時の先生はすでに退職された方、あるいは物故された方も多くいらっしゃいます。
少し前に聾学校を訪問しました。
当時、僕を担任していた先生もいなくなり、僕を知っているのは数名の先生だけになっていました。
◆1973年
当時は幼児ですから、親も一緒に授業に出ることになっていました。
今は交通もスピードアップしたので1時間もかからずに到着しますが、1973年~1975年頃は当時は今みたいにマイカーを持つ家も少なく、交通の便もよくありませんでした。
確か、1時間半はかかっていたと記憶しています。
当時は30代に入ったばかりの若かった母ですが、弟もまだ保育所に入れませんでしたから、幼い子供2人を抱えての通学はきつかったと言います。
この方面に詳しい方ならご存じと思いますが、聴覚障害児の教育は口話と手話による方法があるのですが、昭和初期からの手話教育と口話教育と2つの方法の対立が50年にわたり、長年に渡って尾を引いていました。
現在では手話も1つの言語としての認知度が高くなってきていますが、昭和初期当時はそうではありませんでした。 口話教育に押される形で手話教育は冷遇されていたと言われています。
1973年当時も手話教育ではなく、口話教育、いかに聞こえる人間に近づけるかが大切であるとされていました。
「いかにハンディを克服していくか」に重点が置かれており、発音訓練などを当時としては最先端で行っていました。
当時は聴覚障害児をいかにハンデを克服させて、普通の学校に送り出せるかということが問われており、京都府立聾学校は日本でも口話教育の輝ける星だったといわれます。
他の子供達と母親は聾学校の指導に任せる形でしており、それほどしていなかったそうですが、母の場合は最後まで真面目にそれをしており、毎日帰宅してからも発音の特訓でした。
◆補聴器
当時の補聴器は箱形しかありませんでした。
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この箱形の補聴器は幼児の身体には大きく、目立つため好奇心にさらされるのがイヤで、他の子供達は親が学校の外では補聴器を外させていたそうですが、母は外すことを許しませんでした。
子供にとって補聴器を必要な時だけつけるという事は音を把握する機会を失うためであり、聾学校でもそのように指導していました。
◆発音訓練
当時の母のノートには発音の基本など「言葉」の基本が詳細に記述されています。
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普通の人にとってはあまり考えないコミュニケーションとしての言葉ですが、これを見ると言葉というものがどれだけ大切なものか、実感できます。
日本語の言語のつながりに関する話が体系だってみっちりと書かれています。
当時はインターネットも無く、情報の入手も困難な状態で、母も手探りで学ぶ日々でした。
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当時の発音を指導していた故松下貞夫先生の書いた絵を使って口の形を作るなど発音の練習をしていました。
聾学校で先生に見せたところ、「松下先生の発音の指導の図だ!」と言われました。
当時はコピー機もなかったので、こうした教材も1つ1つ手書きで渡してくれたようです。
直筆のものは学校にも資料として残っていないので、珍しいそうです。
当時は多数あったと聞きますから、松下先生が母からの求めに対して1枚1枚手書きで書いていったと聞きますから、先生もどれだけ情熱を注いでいたか、ひしひしと伝わってきます。
この写真は感覚訓練の風景です。
テーブルの上にあるカードがわかるでしょうか?
このカードに描かれている絵を見て、その名前を発音していきます。
物と言葉の関連性の感覚を取得していくのです。
これは夕食後の様子だそうで、夜も寝るまでこうした訓練をしていたのです。
普通の家庭なら、家族の団らんの時間ですが、そうもいきません。
僕も幼い子供ですから、長時間の訓練にぐずついて、いやだと泣いていやがることもありました。
「子供だったあんたの泣く声が聞こえてきて、ウチの息子にもあんなにがんばっているからあんたもがんばらんとなと言ったわ、アハハハ」
当時、住んでいた家があった近所のおばさんに今でも言われますが、その背後に母が「いつも迷惑をかけてすみません。」と言っていたと聞きます。
近所の人たちには僕の泣き声で迷惑をかけたにも関わらず、おおらかに見てくれたのも幸いしました。
その後、聾学校幼稚部を卒業した僕は普通の小学校に入学しましたが、この発音と感覚訓練は形を変えて続き、小学校4年までほぼ毎日続きました。
◆口話を捨てて手話に戻った子供達
僕のように普通の小学校に聴覚障害児の子供達を多く送り出した京都府立聾学校でしたが、1980年頃から、その多くが聞こえる子供達とのコミュニケーションでやっていけないために聾学校の中学部や高等部にUターンする生徒が多く増えてきたため、対応に追われていたといわれます。
多くがコミュニケーションの限界の壁にぶつかったためだと言われます。
そして、ほとんどが口話を捨てて、視覚的なコミュニケーション手段である手話オンリーに戻ってしまったともききます。
口話でのコミュニケーションはどちらかというと聞こえる人に合わせるのが目的であり、確かにしんどい面があることは否定できません。
僕でも時々、話をおいかけるのがしんどくなったり、疎外感を感じることがありますから、当人たちは本当にしんどかっただろうと思います。
この問題では口話教育が悪い、手話教育が悪いということは単純に論ずることはできません。
口話教育を否定的にとらえ、非難する人も多いようですが、当時の聴覚障害者と手話に対する社会の否定的な風潮から1人でも口話で話ができる子供を送り出したいという関係者の願いがあったのも否定できない事実です。
この無惨な結果に卒業生からも非難され、先生たちも反論できず、高校のクラス増設や就職に対する対応に追われつつ、熱意ある先生は自分たちのやってきたことは間違いだったのかと苦しんだと聞きました。
◆30年後に戻ってきたのはただ1人
卒業生のその後の話を聞くと、僕の同期は40人くらいたのですが、最後まで普通の学校に残ったのは僕も入れて2人だけだそうです。
その1人も大学に行ったことまではわかったけど、今は何をしているのかもわからないとのこと。
ちょっと思いつきました。
「僕のように30年後に戻ってきた子供は何人いますか?」
先生は寂しそうに答えました。
「あなただけだよ」
◆母の日
聾学校を去る前に、年老いたある先生がそっと言ってくれました。
「あなたがこうして顔を見せにきてくれることは本当にもうれしい。私たちがやったことが完全な間違いではなかったことがわかったよ。本当にありがとう。」
今の僕があるのは、いろいろな人が応援してくれたこともありますが、それは遠い幼い日に作ってくれた母にその原点があると思っています。
母の日にカーネーションを持って行くのはその原点を確認するためなのかもしれません。
お母さん、
あなたがいなかったら、今の僕もいなかった。
耳の洗浄水ミミウォッシュも誕生することもなかっただろう。
ありがとう、お母さん。
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(2005.5.21追加)
何人かの方から、この話を紹介していいでしょうか?
と話をいただきました。
ありがとうございます!許可なしに紹介しても大丈夫です。
この話を多くの方々とシェアできることをうれしく想います。
若い頃の母の情熱と想いが、あなたに大きな元気をもたらすことになれば幸いです。
そして、今、子供を育てているお母さん達にとって勇気と励みになれば幸いです。
あなたが紹介される際はタイトルとアドレスは下記の物をお使いください。
「母の日の追憶 33年前」
http://ameblo.jp/ex-star999/entry-10012523437.html
なお、僕の母は今も元気で、口うるさいですが、
よければ、あなたのうれしいメッセージをいただければ、本当に喜ぶと想います。
ありがとうございます。