貧困を歴史に変える

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こないだの記事、書きっぱなしでした。反省。

「ほっとけない、世界の貧しさ」という、(部分的な)世界で同時で行う、貧困撲滅キャンペーンです。

今に始まったことじゃないかもしれない。今更珍しいことじゃないかもしれない。

これが広がれば貧困は本当になくなるんじゃないかなんていう根拠のない幻想は抱かない、けど、

全ての小さな取り組みは「きっかけ」になり得るはず。

そうやって世界は変わってきた。少しずつ。

だから今回、偶然か必然か、目を留めたこのキャンペーンに触発されてみようと思うのです。


貧困は必然じゃなく、人災である。戦争と同じように。
戦争の怖さが、人を殺すことが手段や目的として正当化されることだとすれば、貧困のそれは、極めて人為的だということが目に見えにくいことだろう。

世界のどこかで誰かが死ぬ。食べ物がないというだけで。生きていくだけのお金がないというだけで。

それが、自分と関係のない現実ではないことを、私たちは知っている。知っているはずだ。

これは、少なくとも今の世界では自然なことではない。

全世界の人を満足に食べさせるだけの食糧は、あるのだ。物質的に言えばの話だが。
それを平等に分け与えることが、経済学の元来の使命のはずである。

今のような世の中にした責任が誰にあろうと、

発展の恩恵を受けている私たちは、その過程で犠牲になった人々を放っておいていいはずがない。

少なくとも私はそう考える。


こんなことを書いている私だが、自分のやりたいことが全くわからずにいる。

貧富の差に真っ向からぶつかっていくのか。無謀すぎやしないか。空回っちゃ意味がない。

現実的に考えて、やりたいことを思うがままに目指していける状況にあるのか。

甘い夢を見すぎていなかったか。

このごろいろんな種類の人に出会いすぎて訳がわからなくなってしまった。

今の私は周りをきょろきょろ見回してばかりだなぁ。




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放ってはおけない

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Japan

http://www.hottokenai.jp/index.html


US

http://www.one.org/


UK

http://www.one.org/index.aspx


Canada

http://www.makepovertyhistory.ca/e/home.php



'Poverty is not natural. It is manmade. And can be overcome by the action of human beings.'

                                                                                                                                   by Nelson Mandela

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頭の中のカオス流出

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昨夜放送していた、「世界がもし100人の村だったら」という番組を不本意にも見てしまった。

世界の片隅で飢えや貧困に苦しんでいる人の為に働きたい、と私が思い始めたのも、思えば同名の本がひとつのきっかけだったから。

番組を見ながら私の頭は高速でまわり始めていた。いろんな考えが巡っていく。


私はこれを見てまた泣くの?泣いて、貧困の現状を目にしたとでも思ってそれで終わり?

たとえ現地に行って、彼らの生活をつぶさに見たからといって、涙を流すのは卑怯だ。

目の前で涙を流されたって彼らは嬉しいはずがない。

ゴミ山を仕事場にするのも、命を削りながら鉱山で働くのも、彼らの生きる術。気高いことだ。

生きることになんの代償も払わず、苦労も知らない私なんかが「感動した」とか言って泣くのはそれこそ自己満足にすぎない。

たとえ彼らの生活が安定を取り戻した形で番組が終わろうとも物語は決してそこで終わりじゃない。

同じことは世界のあちこちで、今までもこれからも繰り返されてきたんだ。
本当に、貧困や飢餓に苦しむ人を助けるために力を尽くしたいなら、どんなに酷い現実を目の当たりにしても動じない気丈さが必要なのかな。

でも・・・

私を駆り立てるのは、そういった熱い気持ちだったはずだ。

感情移入しすぎることが好ましくないのなら、なにを動機にすればいいんだ?

感情だけではものごとは動かせない。

でも、感情が先立って初めて意欲が生まれる。

それに私にはまだほどけきってない葛藤があった。

誰かが言っていた。ボランティアというのは、人を選んで助けているんだよ。

平等を目指して、偏りを無くそうとして頑張ったって、結局は一部の人しか助けられない。

そのことを知りながら携わらなければならない。

それは、だから、自分のしていることに矛盾を感じながら、決して見ることのできない出口を信じて歩き続けるようなもの。

なにを信じればいいというのだろう。

みんな助けられないなら誰も助けなくてもいい?

人間はもとから不平等にできているんだ。

貧困にあえぐ人たちの心は豊かで、その‘生’は私の何倍も輝いている。それもひとつの生き方。

だったら、そのままにしておけばいい?

そうは思えない。どうしても思えない。こんなの、論理とか根拠とかで説明できる気持ちじゃない。

理不尽な世界の秩序が生み出している、人の手による貧しさだから。

それを許せない、と思う気持ちは、どこからくるんだろう、本能的なものなのかもしれない。

人のため、なんてうそぶきたくはない。根本的なところでは、だれでもない、自分のためだ。自分が満足したいからだ。それでもいい。


今日もここまで考えて力尽きる・・・

弱っちくても、根拠なんてなくても、自分で答えを出さなくては。

なにが正しいのかなんてわからないけど、むしろわからないから、みんな自分が出した答えを信じるんだろうな。


社会の矛盾を目の当たりにしたとき、どうしたらいいのかわからないんだけど何かをせずにはいられない、という気持ちは、今だから抱くものなのだろうか。

若いから?世間知らずだから?

私の考えは甘ったるいかもしれない。青いのかもしれない。

だけど、世の中の厳しさなんたらを知って、諦めることを覚えるのが大人になるということなら、私は子供のままでいい。

こんな風に拗ねているあたり、ガキそのまんまだけどさ。

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日本

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中国からやって来たのは6歳のときで、身に染み付いたのは日本文化だけど、「わが国」と未だに言い切れなかったりするし、いつも少し離れたところから眺めている感があった。
正直中国にも、私の国という気持ちは抱けず、はみ出しもののような気がしてならないのだが・・。こうなったら世界に飛び出すしかないというのが結論で、アメリカ留学にも、そんな潜在意識が働いたのかもなぁ。

日本人は欧米への憧れが強いとよく言われるけど、実際その通りだろうと思う。世界、国際、グローバルという言葉に弱いのは、私とて人事じゃない。あまりにちやほやしすぎるのは見苦しいが、興味をもって外へ目を向けるのは良いことだろう。
だけど、よく聞く話だが、一旦外に出てみて思い知らされるのは、自分が日本(私の場合はプラス中国)についていかに知らないかということ。
目に見える文化だけじゃなく、本音と建前とかわびさびのような日本人の精神だったり、風習や伝統など日常の生活に根付いているものについて、あまりにも無意識に生活していたことを痛感した。

中学高校と英語を一通り学んだって日本文化について紹介のひとつもできないのだから。教科書に出てくるのは、ハロウィンの起源とか、外国の文学とかばっかり。
英語の勉強をしながら外の文化や歴史を学ぶのは一見効率が良いけど、結局中途半端なことしか学べないのではないかという気が、いまさらながらしてならない。
英語を学ぶことの目的が、他国とコミュニケーションをとることならば、まずなによりも先に自国の良さを知ってアピールすることから始めるべきだろう。
色々な「~道」だとか、伝統工芸だとか、日本には自慢できるものが沢山ある。
響きが美しく、自由自在に変化しうる日本語も、
日本独特の風習も、
日本人の繊細で調和を好む気質も、
世界に誇ってしかるべきものだと、私は思う。
独自の歴史や風土がもたらした文化はそれだけで美しいのだから。
もうすぐ離れる身になって、日本は良いよなぁと、実感。
だから、むやみに近代化や欧米化に流されずに、自分の原点である日本を土台にしながら、世界に通用する考え方を、身につけたいなぁ。

自分でも何を書いているのかわからなくなってきちゃいました。しかも横道に逸れ放題・・。
日本や異文化についての認識が甘いとアメリカの大学じゃやってけないよ、という自分への忠告です。主張がぶれるのも、致命的なのですが、まだ、自分の中にさえ相反した考えが渦巻いているのを感じています。だめだなぁ。
確固たる信念があったらかっこいいけど、自分と違う意見に目もくれずに突っ走るのは最悪にかっこわるいので、自分の考えを微かに疑い続けるような人になりたいとも、思ってみたり。
今のうちに、迷いながら頭を振り絞っていろいろ、考えとこ。