2012-01-10

刺戟される

テーマ:読書
『いつもそばに本が』という本がワイズ出版から出た。覚えておられる方も多いと思うが、朝日新聞・日曜の読書欄に掲載された、多くの読書家による本にまつわるエッセイ。掲載期間は1999年9月から2004年3月までだったという。その執筆者が凄い。田辺聖子、大島渚、北杜夫、吉本隆明、城山三郎、逢坂剛、中島らも、鶴見俊輔などなど、全部で73人。いったい、どのようにして人選したのだろう。その編集会議を覗いてみたい、と思った。
で、その73人全員のポートレートを撮ったのが、写真家の首藤幹夫(しゅとう・みきお)さんなのだ。首藤さんとは、もう20年近く親しくさせていただいている。だから、私にとってこの本は「首藤さんの本」と言ってよく、発行を待ちかねて買ってきた。執筆者1人につき2枚の写真が掲載されている。タテ位置とヨコ位置の写真が1枚ずつ、見開きで。その写真ページのあとに、読書エッセイが2段組みで4ページ続く。
しかし、なにしろ73人分である。総ページ数は480にもなる。しかもA5判。最初は写真だけを眺め、しばらく置いておいた。だが、本文を読まずして「読んだ」とは言えない。首藤さんにも失礼だ。
というわけで読み始めたら、これがすこぶる面白い。ソウソウたる読書家たち(その多くは作家でもある)が、自分と本とのかかわりを書いているのだから、面白くないわけがない。「へえー、そういう本があるんだ」「この人はこういう本を読んできたのか、意外だな」「この本は絶対に読んでみたい!」というふうに、浅学非才の私には知らないことばかり、新しい発見ばかりなのである。読み終わったら、もう一度読んで、そのときは読みたくなる本をメモしていくつもりだ。
ふだん「最近は面白い本がない」などと言いつつ読書から遠ざかっていたが、いやいや、それは自分が無知なだけで、本の世界は広大無辺であり、そこには無数の「お宝」が隠されていることを『いつもそばに本が』は教えてくれている。本好きの方は是非。税込み2310円です。
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2010-11-01

言霊

テーマ:読書
毎日放送(MBS)のドキュメンタリー番組「映像‘10」で、『映像30年史・前後編』を見た。「映像‘10」は、月1回(第3日曜)の深夜枠ではあるが、「映像80」から30年続いてきているという。『映像30年史』はそのダイジェストで、主要な作品のサワリだけしか見られないのが残念だったが、題材は在日・戦争・ハンセン病・阪神淡路大震災など多岐にわたり、制作者たちの志を感じることができた。
ディレクター、プロデューサーとして、その初期の作品群を牽引されてきた温井甚佑(ぬくい・じんゆう)さんは知り合いでもあり、そのご著書『神戸新開地 幸福荘界隈~たかがテレビ されどテレビ』(アットワークス)をネットで購入した。
ケセラセラ通信日記-神戸新開地 幸福荘界隈
本書のタイトルになっている『神戸新開地 幸福荘界隈』は温井さんの代表作といわれ(残念ながら未見)、そのほかに13本の作品のシナリオも収録されている。まだ全部読んではいないのだが、その巻頭に次のようなエピグラフがあった。

死を求めもせず
死を辞しもせず
獄にあっては
獄で出来る事をする
獄を出ては
出て出来る事をする
時は云はず
勢は云はず
出来る事をして
行き当つつれば
また獄になりと
首の座になりと
行く所に行く

これは吉田松陰の獄中書簡からの引用であるという。久々に言霊(ことだま)という語を思い出した。さて私も、及ばずながら《出来る事をする》ことにしよう。

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2010-10-16

虎にしびれて

テーマ:読書
小杉なんぎんさんが、自著を送ってくださった。書名は『虎にしびれて』、サブタイトルに「歌集 阪神タイガース」とある。新書判、208ページ、KKロングセラーズ発行、定価800円。オビ(実は表紙に印刷されている)には「前祝い! 阪神タイガース優勝!」とあって、それがちょっと哀しい。
ケセラセラ通信日記-虎にしびれて

小杉さんとは、15年前に一度会ったきりだ。私が三五館という出版社の大阪支社で仕事をしていたころ、その事務所で会った。当時は「小杉なんぎ」というペンネームを使っておられた。いわゆる持ち込み原稿について話をお聴きし、編集者としての意見を申し上げたのだったと思う。小杉さんによれば、「僕の話を2時間も誠実に聴いてくださって、世の中にはこんな人もいるのかと思った」というのである。我が事ながら、「ほんまかいな!?」と突っ込みたくなる。
その折の原稿は、自由短歌というのか、日々の思いを形式にとらわれずに短い歌にしたもので、面白くユニークな切り口だったが、三五館での出版には至らなかった。
つまり私は、小杉さんが望んでいた出版を断った立場の人間である。その私に15年を経て自著を送ってくださるとは、なんと律義なことだろう。さっそく読んでみた。
《恋人にフラれてしまったかのような凡打の濱中そんな顔する》
《審判の右手が上がるその前にマウンド降りて江夏輝く》
《ホームラン狙うボールは高目だとわかっていながら投げる藤川》
など、阪神ファンなら「よく言ってくれた!」と膝を叩きたくなるような、ニヤッと笑いたくなるような歌が170首収録されている。通読して思うのは、その観察眼の確かさ、鋭さである。好きこそものの上手なれ、というが、よく見ているなあと感心する。各首の横には、解説というか補足というか、歌の内容につかず離れずの短い文章も載っている。その両者のバランスが絶妙で、これもひとつの芸だと思った。
この本で、小杉さんが40年来の阪神ファンだということを初めて知ったが、イラストや4コマ漫画も手掛けておられることに驚いた。そのイラストは、選手のシルエットだけが描かれ、これも「分かるやつには分かる」というシブさなのだ。
小杉なんぎんさんが、短歌の改革という志を持続しつつ、地道に創作活動を続けてこられたことに敬意を表し、同時にこのたびの出版を祝福したいと思う。だが、小さな出版社からだし、マスコミにも取り上げられていないので、販売面では苦戦しているようだ。今日、紀伊國屋書店の梅田本店に寄ったら、スポーツ本のコーナーに、棚さしで2冊置いてあったが。
明日(17日)の午後3時~7時ごろには、梅田歩道橋の上で著者自らが本を売るそうだ。阪神ファン、そして短歌・川柳・俳句などに興味のある方は、ぜひ行ってみてください。明日が晴れることを祈ってます。
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2010-08-19

「乙女の密告」をめぐって

テーマ:読書
文藝春秋(9月特別号)を買ってきて、赤染晶子(あかぞめ・あきこ)の「乙女の密告」を読んだ。第143回の芥川賞受賞作だ。
以下、結末部分にも触れるので、これから同作を読もうと思っている方はご注意ください。また、あらすじをトレースすることはしないので、読んでいない方はつまらないかもしれません。
一読後の率直な感想は、「ふーん、なかなかよく出来ているけど、コミカルな部分とシリアスな部分が噛み合っていない感じ。それに乙女、乙女って盛んに出てくるけど、乙女って何? バージンのこと? それとも、未熟だけれども潔癖な精神性のこと?」というものだった。
本編を読んでから「選評」を読んだが、私にはこちらのほうが興味深かった。
小川洋子は《最後、みか子にアンネを密告させる。もちろんそれはアウシュヴィッツへ送りこむための手段ではなく、アンネを本当の居場所へ安置するための密告である》と書いている。
同じ部分について、宮本輝は《アンネの居場所を密告したのが、ほかならぬアンネ自身であったという小説》と書き、受け取り方がまったく違っている。失礼ながら、ここは宮本先生の誤読ではないかとすら思う。
村上龍は《誰がアンネ・フランクを密告したか、という有名な謎があり、この作品ではそれは「名前のないわたし」、つまり一般的な「人々」であって、その中には主人公の「わたし」も含まれる、という構図になっている。だが、文章が正確さを欠いているためにわかりにくく、誤解を生みやすい》と書く。この文章が、私には腑に落ちた。

私が戸惑った「乙女」について、川上弘美は《もう少し、「乙女」というものの内実にかんして、深く表現してほしかった》と、私と同じような感想。
だが、池澤夏樹は《学生たちは「乙女」と呼ばれるが、「乙女」の資格ないし定義はあいまいなままで、(中略)「乙女」の曖昧な定義はユダヤ人の定義に重なり》と、その曖昧さは意図されたものだと解釈している。
小川洋子も《乙女が何なのか、そのグループに入ることにどんな意義があるのか、全く無意味なのだ。オランダ人かユダヤ人か、乙女かそうじゃないか、という無意味なレッテルから自由になり、本当の自分を取り戻そうとしてアンネもみか子も苦悩する》と、ほぼ同様の見方。
「なるほど、そう読みますか」と思うが、高樹のぶ子の《生死のかかったアンネの世界に比べて、女の園の出来事が趣味的遊戯的で、違和感がぬぐえなかった。頭で考えられ、嵌め込まれた二つの世界だが、差別が発生する本質は同じだ、という他の委員の意見が印象に残った》という感覚のほうが私には近い。

池澤夏樹が《かくも重い主題をかくも軽い枠に盛り込んだ作者の伎倆は尋常でない。(中略)このような力ある知的な作家の誕生を喜びたい》と書き、黒井千次が《「乙女の密告」は、「アンネの日記」の上に組み立てられた堅固な構造をもつ小説である》と書いているように、赤染晶子は知的で戦略的な作家なのだろう。『のだめカンタービレ』の奇矯な指揮者・シュトレーゼマンを連想させるバッハマン教授などを造形したのも、読者を作中にいざなう仕掛け、なのかもしれない。
だがしかし、川上弘美が他の候補作に触れて書いた《この三作に足りないのは、「やむにやまれず、書いてしまうのだ。誰が何と言っても」という切羽つまったなにか、なのではないでしょうか》とまでは言わないにしても、《切羽つまったなにか》を表現するための器がこれでよかったのか、とは思うのである。
ともあれ、ひとつの作品をめぐって、プロの物書き9人(文中で触れていない選者は石原慎太郎と山田詠美)が、こんなにも意見が違うところが面白かった。
それでも、《最初の投票から『乙女の密告』が最も多くの点数を集め、その流れのまま受賞作と決まった》(小川洋子)のだそうだ。
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2009-02-09

続・今年1月のこと

テーマ:読書
さっそく始めよう。

1月16日(金) 懐徳堂古典講座「小津安二郎の映画を読む」の最終講義の日。テキストになっている『秋刀魚の味』(62年)のDVDを見直してから出かける(これまでに何度見たことだろう)。最終日だというのに、受講生はやや少なめ。『秋刀魚の味』は小津の遺作となった映画で、娘を嫁にやるというおなじみのストーリーの中に、<老い>を見つめるというテーマが浮上してくる。それも「人生はひとりぼっち」というセリフが何度も出てきて、なんだか寂しい。ずっと続けてほしい講座なのに、そうもゆかぬのは、私などの知らぬ諸事情があるのだろう。でも、6・7月に同じ上倉庸敬先生による計4回の集中講義があるそうだから、今はそれを楽しみにするしかない。
講義のあとは、いつものように上倉先生を囲んで飲み会。今回は、1月生まれのAさんと私の誕生会を兼ねる。前回(11月21日)はYさんもいらしていて、彼女も1月生まれなので「一緒に誕生会をやりましょう」と言っていたのに、今回は現れず。ま、いいんですけど。
1月17日(土) K先生のお招きで、京都の新年会に出席。京阪の清水五条駅で降り、いただいていた地図を見ながら会場へ。メンバーは、K先生、Yさん、Aさん、初対面のHさん、K先生。この初対面のK先生が、集合時間を1時間過ぎても現れない。どこかで道に迷っているらしく、Yさんに電話はかかってくるのだが、ご自分がいる場所も説明できないようで、Yさんもお手上げ状態。心優しいK先生が「僕、探してくる」と言って出て行かれたが、これもなかなか戻ってこられない。仕方なく4人で先に始めたら、ようやく2人のK先生がご到着。聞けば、初対面のK先生はとんでもなく遠い場所におられた由。タクシーを拾うとか、人に道を訊くとかすればよさそうなのに、それはしないんだなあ。おかしな人である。だが、それで初対面の緊張は一気に失せた。
会場となった店もユニーク。6畳ほどの個室に「○○様」と張り紙がしてあり、客は勝手にそこへ入る。部屋の片隅に保冷庫があり、酒もそこから勝手に出して飲む。つまり飲み放題。料理は、刺身、てっちり鍋、寿司とどんどん出てくるが、店の人が部屋の前まで運んでくるだけで、「あとはご自由に」というスタイル。徹底して合理化を図るとこうなるのだろうが、<ほったらかし>がかえってありがたく、のんびりできた。しかし料理は本格的で、しかも食べきれないほどの量。これで会費6000円は安い!
二次会は、初対面のK先生の案内で祇園のスナックへ。ここへはタクシーで行ったので、無事に到着。だが、連れてきてくださったK先生は「明日早いので」とか言って、一滴も飲まずに帰られたと思う。ほんとにおかしな先生だ。
残されたK先生とYさんと私はカラオケ三昧。お二人の前で歌うのは初めてだったが、「お上手」と褒められた。歌を褒められたのは、たぶん生まれて初めて。嬉しかったが、客観的に判断して、決して上手ではないと思う。
1月18日(日) 私たちが3月に催す「おおさかシネマフェスティバル2009」の目玉はベストテン発表と表彰式であるが、主催者側がそのベストテン作品を見ていないのでは話にならないと思い、見逃している作品をできるだけ見ることにする。まず見たのが10位の『クライマーズ・ハイ』(08年、原田眞人監督)。原作を読み、新聞記者間の人間関係が非常にドロドロしているので、あまり見たいと思わなかった作品だが、なかなかよく出来ていた。複雑な人間関係は分かりやすく整理され、主人公(堤真一)はカッコよく、脇役(堺雅人、尾野真千子など)も存在感がある。
以後、ベストテン何位とか○○賞などの表記が多くなると思うが、それはすべて「おおさかシネマフェスティバル2009」でのこととご了解いただきたい。
1月20日(火) DVDで『明日への遺言』(07年、小泉堯史監督、藤田まことが主演男優賞)を見る。戦争中、こういう立派な日本人もいた(しかし、捕虜の斬首を命じたのは動かせない事実)というお話であるが、法廷場面ばかりで、映画としては面白味に欠ける。だが、藤田まことの力演は間違いない。原作は大岡昇平(『ながい坂』)なので、文庫本を買ってきた。まだ読んでいないが。
テアトル梅田で『そして、私たちは愛に帰る』(07年、ファティ・アキン監督)を見る。ドイツとトルコ。3組の親子。2つの国で6人の人間が、別れ、すれ違い、出会い、反発し、共感し、許す。人物造形が見事で、かつ人生のさまざまな局面を見せてくれる。特に<許し>のシーンは圧巻で、胸に迫る。憎悪と殺戮が渦巻く現代世界への、祈りにも似たメッセージだと思った。

※これから外出することになったので、今日はここまで。続きは、また。

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2008-10-09

巡る本

テーマ:読書
また本の話。しかもまた、内容のことではない。
恥ずかしながら、私にも1冊だけ著書がある。『大阪哀歓スクラップ 見たり、聞いたり、歩いたり。』(発行=エディション・カイエ、発売=星雲社)というエッセイ集で、1989年5月、私が38歳のときに上梓した。発行部数は3000部だったと思う。いくつか書評も出て、「週刊朝日」だったかは東京から取材にも来てくれたが、あまり売れなかった。
発行から19年、出版社もすでになく、今では古書でしか手に入らない。私の手元にも数冊しかなく、ときどきネットで探しては、1冊2冊と購入している。先日、ある人が「あなたの本がAmazonに3冊出品されていますよ」と教えてくれた。3冊も出てくることは珍しい。さっそく検索してみた。別々の古書店が1冊ずつ出品しているらしい。不思議なことに、値段はどれも2660円。発行当時の定価は税込みで1300円だったから、なんと倍になっている。送料を含めると、1冊3000円にもなる。「古本って、ふつうは安くなるもんじゃないの。なんでこんなに高いんだ。希少価値ってことなのか。でも、これ以上高くなると、手が出せなくなるなあ。自分の本なのに」などとブツブツ思いながら、3冊とも注文してしまった。
数日後、厳重に梱包された本が、ほぼ同時に3箇所から届いた。外の包みをはずすと、本自体も透明なビニールできっちりと包装されている。人に差し上げることが多いので、そのままにしておいてもいいのだが、中に書き込みがされていたり、ページが破れていたりすることがあるやもしれないので、一応チェックしてみた。3冊のうち、オビも付いていたのが1冊(はずして中に挟んであった)、見返しに便せんが挟まっていたのが1冊。外国郵便に使うような薄い便せんが1枚、ふたつに折って挟んである。薄い紙なので、書いてある文字が透けて見える。
それがなんと、私の筆跡だったのだ! 日付は2002年5月17日で、大学時代の友人・K氏に宛てたもの。近況報告のあと、あなたが葉書で私の本を読みたいと言ってきたので、恥ずかしながらお送りします、というようなことが書いてある。ということは、そのK氏が、この本を古本屋に売ったということではないか。自分から「読みたい」と言ってきて、それを売り払ってしまうというのは……。

そのK氏だが、最近よく電話をくれるのだ。卒業から三十数年、いまだに交流が続いているのはありがたいが、長いんだ、この人の電話が。昔からよくしゃべる人ではあったが、最近はちょっと度を越している感じすらする。かかってくると、まず1時間は覚悟しなければならない。こちらが何か言う間もなく、話題は芋づる式につながっていく。私には絶対にできない芸当だ。
こちらに興味のある話ならいいが、そうでない場合は辛い。半分ぐらいは聞き流していても、だんだん不機嫌になってしまう。つい先日もそういうことがあり、本のことは黙っていようと思っていたのに、「ところでKさん、僕の本、売らなかった?」と言ってしまった。しかしK氏はまったく動揺せず、「うん、売ったよ。俺な、あの本2冊持っててん。そうか、手紙入ってたか。気づかんと、そっちを売ってしもたんやな」。今も1冊は手元にあるという。友よ、許す。


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2008-10-08

出費

テーマ:読書
朝、淀屋橋駅の地下通路を歩いていたら、「ここにも本屋があったな。ダメモトで覗いてみるか」とひらめいた。で、2階の福家書店へ。
入り口付近の平台には、もう来年の手帳がズラリと並んでいる。「まだいいだろう」と、それを横目に見て、男性作家のコーナーへ。ちょうど年配の店員さんがおられたので、「藤原新也の新刊で、『日本浄土』はありませんか」と訊いてみたら、すぐに反応があって、「あっ、その本はまだ入ってきませんね」とのこと。礼を言って店を出る。
念のためブックファーストへも寄ってみたが、やはりない。しかし、吾妻ひでおの『うつうつひでお日記』と『うつうつひでお日記 その後』(ともに角川書店)を見つけてしまう。大ヒットした名著『失踪日記』(イースト・プレス)の勢いを借りて、その後の本が出されている気がしないでもないが、私はこの人のキャラクターが好きなのと、「本を買うことで少しでも吾妻さんを助けてあげられたら」という妙な気持もあって、つい買ってしまう。かくして2冊とも購入。
「やっぱり淀屋橋にはなかったな、あとはジュンク堂か」と思う。天気もいいので、北浜のジュンク堂書店大阪本店まで歩くことにした。汗を拭きながら到着したその店には、ノンフィクションの棚に表紙見せで5、6冊置いてあった。いま大阪でいちばん品揃えが充実している本屋は、ここなのかもしれない。ようやく出会えたなと、その美しい装丁の本を手に取る。藤原新也独特の、暗い色調のカラー写真もけっこう入っている。レジカウンターへ行くまでにも、欲しいなあと思う本が2、3冊はあったが、その誘惑を振り切って『日本浄土』(東京書籍)だけ買う。
やれやれと2階からエスカレーターを下りてきたら、1階が新星堂なのだった。「長谷川きよしの新盤が出たんだよな」と、フラフラと入ってしまう。その『40年。まだこれがベストではない。長谷川きよしライヴ・レコーディング。』はすぐに見つかり、レジへ。支払いをしていると、落語の棚が目に入った。「そうだ、落語も薦められていたんだ」と、そちらへ。
さすがは大阪で、上方落語の米朝、枝雀、ざこば、南光、春団治といった名前が、文字どおり幅を利かせて並んでいる。もちろん嫌いではないが、落語といえば東京でしょうと、数少ない東京の落語家を探す。その中では小さんが多いが、私もあまのじゃくで、1枚だけあった圓生にした。演目は「夏の医者」と「三年目」。
落語のCDも、全集やらアンソロジーやらいろいろと出ていて、ハマると恐ろしいことになりそうだ。

かくして、今日の午前中だけで9000円も使ってしまった。動き回るのはいいが、金がかかるなあ。しかし、精神的には活性化されてきているようで、良い傾向ではある。心に期することもひとつふたつ湧いてきたが、ここには書かない。実現できないと恥ずかしいし、《秘すれば花なり》という言葉もあるしね。
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2008-10-07

朝日新聞

テーマ:読書
いろいろと批判も多い朝日新聞だが、文化面については、まだマシなのではないかと思う。たとえば書評欄。読んでいて、「この本欲しい」と思う確率が、私の場合は朝日がいちばん高い。先日の日曜日も、喫茶店でそこを読んでいて、興味を引かれた本が2冊あった。
藤原新也の『日本浄土』(東京書籍)と、川崎徹の『石を置き、花を添える』(講談社)。
川崎徹は一世を風靡したCMディレクターだが、最近は小説も書いているのか。読んでみたいと思っても、やがて忘れることのほうが多いのだが、昨日たまたま紀伊國屋書店(梅田本店)の前を通りかかったので、寄って探してみた。川崎徹のほうは、すぐに見つかった。真っ黒の装丁。藤原新也のほうは、いくら探しても見つからない。探している途中で、佐野洋子の『シズコさん』(新潮社)が目に入ってしまった。この本も、少し前にあちこちの書評欄で取り上げられ、面白そうだなと思っていたのだ。だいぶ迷ったが、買うことにした。
藤原新也はついに見つけられず、2冊を持ってレジカウンターへ。空いていたので、支払いのついでに訊いてみた。「藤原新也の新刊を探してるんですが。書名はたぶん日本浄土」と。お兄さんがコンピューターで探してくれて、「その本は、いま品切れになっておりますね」とのこと。そうか、売れているのか。あるいは、東京書籍だから、あまり刷っていないのかも。そんなことを考えながら帰ってきたが、ないとなると、余計気になる。パソコンのショッピングで検索してみたら、ここでも品切れ。うーん、欲しい!

でもね、買ってきた本も、いつ読めることやら。手に入れると満足し、読んだような気になってしまうのだ。だから私の場合は〈積ん読〉がやたらに多い。そういえば、ビデオ録画して見ていない映画も随分あるなあ。あの〈冬ソナ〉も全部録画したはずだが、まだ一回も見直していないや。どこまでズボラなのか。
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2007-08-25

「天コケ」読破!

テーマ:読書
午前5時、くらもちふさこ著『天然コケッコー』(集英社文庫・コミック版)全9巻を読了。いやあ、堪能した。月曜から読み始めたので、実質5日で読み切ったことになる。平松先生じゃないが、「寸暇を惜しんで」(8月9日の日記参照)という読み方だった。仕事にもこれくらい集中できればいいのだが。
たとえば4巻目を読み終わって、次の5巻が手元にないときは、また一から4巻を読み返したりした。それでも面白い。何がいいかって、まず絵が上手だ。風景や人物の表情など、よくここまで描けるなと思うくらい、繊細で美しいのだ。主人公・右田そよの中2の夏から高2の秋まで、ちょうど3年間の物語だが―—映画の『天然コケッコー』(山下敦弘監督)は、4巻の中ほどまで、そよが高校受験に合格したところで終わっている―—1巻目のそよと9巻目のそれを比べてみれば、明らかに違う。つまり、3年間の成長がはっきり見て取れるのだ。ということは、全71話(本ではscene)の中で、少しずつ少しずつ描き変えていっているということだ。これは凄いことではないか。
次に、ストーリー展開がいい。もちろん、何もない白紙の状態から一話一話を作っているわけだが、あるときはそよの友達・あっちゃんを中心にし、またあるときは父の不倫疑惑を描きと、読者を飽きさせることがない。そこでは、そよの周りの人々が生き生きと、それぞれの性格を見事に表しながら、そう考え、そう動くんだろうなあと思える生き方で、まさに〈生きて〉いるのだ。これにハマる。
ストーリーとも密接に関連するが、方言もこの作品の魅力のひとつだ。「~してやんさい」「~じゃけぇ」「行って帰りまーす」など、ついつい使ってみたくなる。島根県の方言らしいが、その豊かさ、深さがうれしい。仕事をズル休みした日など、私もそよちゃんに「なんじゃ、病気かと思ぉたわ。明日は出てきんさいや」(56話・噂)などと言われてみたい。
そのよそちゃんの性格の良さも忘れてはいけない。すげー美人なのに、天真爛漫。それでいて周りの人たちへの気遣いを忘れず、優しい。正直すぎて、ときどき人を傷つけるようなことを言ってしまうが、あとで激しく反省する。それがまた可愛い。漫画の主人公に恋してしまう(萌え、というのか)男の子もいるようだが、分かるような気がする。
そんな愛すべきそよちゃんだが、高校に入ると生活は一変し、やや暗い影を帯びる。バスと電車を乗り継いで通う町の高校では、環境になじめず友達も出来ない。さらに、恋人・大沢の浮気が発覚したりする。そよにとっては、初めて味わう人生の苦さ、辛さであるが、そういうところも巧いなあと思う。映画は高校入学の直前で終わっているから、実にいいところで区切りをつけたものだとも言える。
漫画表現の巧みさや、表現者としての旺盛な冒険心にも感心した。たとえば、まったくセリフのないままに終わる一話がある(37話・ときめき)。それでいて、伝えたいことはすべて絵で表現されている。あるいは、猫の視点で描き切った一話がある(69話・にゃんこ見聞録)。登場人物は、ほとんど足元しか出てこないのだが、物語はきちんと分かる。そして何より、猫の描き方が素晴らしい。くらもちさんは猫好きなのだろうか。
カット割りなどにも工夫が凝らされているし、センスがいいなあと思う。セリフが、「えっ、どういうこと?」と分かりにくいことがあるのだが、その前後の絵をよく見ると、細かい手の動きや視線などで分かるようになっている。そこには、読者に対する信頼があるようで、その姿勢や善し、と嬉しくなってしまう。
表現としての漫画を低く見ているつもりはないが、普段はあまり読まないので、この「天コケ」(『天然コケッコー』を略して通は「天コケ」という)を読んで、改めてその奥深さを知った。
というわけで、私は鮮やかに原作にハマったのだが、そうすると、また映画を見たくなった。どなたか、わしと一緒に「天コケ」を見てやんさらんかのぉ。

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2007-08-21

加齢臭がなんだ!

テーマ:読書
20日(月)朝10時、京都にいた。携帯に着信があったことに気づき、かけてみるが、今度は先方が電話中。とりつぎの人に「折り返しお電話ください」と伝言を頼む。こういうとき、どこで待つかが問題だ。周りがうるさいと聞こえにくいし、喫茶店では他の客が迷惑する。でも、外は暑い。ちょうど開店したばかりの本屋があったので、そこへ飛び込む。客は私だけだから、店の隅で話すのは許されるだろう。迷惑そうなら、外へ出ればいい。
しかし、電話はかかってこない(電波状態が悪かったらしい)。新刊本も雑誌のコーナーも見て、さてどうするかと思案していたら、コミック本のコーナーがあることに気づいた。土曜日に見た『天然コケッコー』(07年、山下敦弘監督)の原作があるかもしれない。脚本の渡辺あやが《10代の頃、まるで恋にうかされるかのように、その人の作品を読むために毎月別マを買いに自転車を走らせていた》とパンフレットに書いていた、くらもちふさこ作品だ。探してみたら、あった。集英社文庫・コミック版で、全9巻。とりあえず、1巻目だけ買う。
大阪までの電車で読み始めたら、これがいい。主人公のそよだけでなく、彼女の周りの伊吹ちゃんやあっちゃん、弟の浩太朗などの人物像が、くっきりと豊かに描き込まれているのだ。こりゃあハマるわけだ、と思い、またこの長編原作を一本の映画にすることの難しさも思った。1巻目だけでも、あっこれはあのシーンだと分かるエピソードがいくつかあって、確かにセリフはほとんど変えられていない。しかし、物語の中心をそよと大沢に限定せざるをえなかったことも分かり、それはやむをえないこととはいえ、原作の魅力のほうが勝っている。ちなみに、18日の日記には(映画の)そよが都会的すぎると書いたが、原作でもスタイルのいい、鄙(ひな)にはまれな美人として描かれている。
事務所で読了。そよちゃんのような美しき10代は遥かに過ぎ去ったことが悲しく、クーラーの効きはいよいよ悪く、映画でも見て帰ろうと決めた。『ボルベール〈帰郷〉』をまだやっているようだ。Hさんが「よかった」と言っていたアルモドバル作品。これにしようとナビオTOHOプレックスへ行ってみたが、上映されていない。またやっちまったようだ。では、OS名画座はどうかと行ってみた。『リトル・チルドレン』を上映していたが、次の回まで1時間もある。じゃ、ビデオにしようと、レンタルビデオ屋へ。Kさんが「大好き」と言っていた『リンダ リンダ リンダ』があったが、DVDのみ。自宅ではビデオしか見られないのだ。結局、成瀬巳喜男の『めし』を借りて帰った。
昭和26年の作品で、ちょうど私が生まれた年だ。その当時の大阪の街(北浜、中之島、大阪城、難波、道頓堀など)や神奈川県の矢向(やこう)が出てくる。映画の中で原節子が「近所の焼け跡に、もう家(うち)建った?」と言うところもあって、昭和26年がまだまだ〈戦後〉の色を濃く残していたことが分かる。それにしても、いいなあ成瀬は。あの光、その人物造形。ビデオを返す時に、また次を借りてしまいそうだ。

そして今日(21日・火)、成瀬を借りるのは思いとどまったが、阪急32番街・30階の紀伊國屋書店コミックハウスで『天然コケッコー』を9巻まで買ってしまった。
その昔、「男40、愛するものが多すぎて」というようなCMがあったと記憶するのだが、14、5歳のときには30歳、50歳の自分は想像もできないが、56歳の現在からは、いつでも14歳に戻れるのだ。そういう意味では、年をとるのも悪くない。
さて、『天然コケッコー』の2巻目を読み終えたら、仕事しようっと。

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