2010-09-23

父のこと、母のこと

テーマ:日常
映画仲間のNさんからメールが来た。お父上が亡くなったという。まったく存じ上げなかったが、立命館大学文学部哲学専攻の名誉教授であられた由。10月2日に「偲ぶ会」があるので、出席してほしいとのこと。
それを受け、以下のような長い返信を書いた。思いがけず、自分の父のこと、母のことについて率直に書けたので、ご披露する気持になった。
………………………………………………………………………………………………………………………
Nさま

お返事、遅くなりました。
事務的にササッと返信できるような内容ではなかったので、ご容赦ください。

お父上・N先生のことは、不勉強ゆえまったく存じ上げませんでしたが、こうしてNさんが私を思い出してくださったのも何かのご縁だと思い、10月2日はつつしんで参加させていただきます(朝早いのがキツいですが)。

私は一人っ子でしたが、1997年に父を76歳で、その2年後の1999年に母を74歳で亡くしております。
3日前の9月19日が母の命日でした。
父の時も母の時も、「何も(親孝行が)できなかったな」という思いが強くありました。
その一方で、「親が先に死ぬのは仕方がない。どうってことはないんだ」と自分に言い聞かせておりましたが、母の葬儀のあと、円形脱毛症になりました。
肉親の死は、そのように無意識のうちに作用するもののようです。
両親を失ったゆえだったのかどうかは分かりませんが、振り返ってみれば、その後数年は低迷していたように思います。
人によって違うでしょうし、どうすればそのような影響を少なくできるのかも分かりませんが、どうぞ睡眠をよくとって、ご自愛ください。
報道によれば、お父上は84歳で亡くなったとか。「大往生」と言えるのではないでしょうか。

私にとって、父は大きな存在でした。
銀行マンで、O銀行の副頭取まで務めました。
父も中央大学の二部出身で、コネもなく入行し、平行員から勤め上げました。
性格は豪放磊落。人は全盛期の田中角栄をよく例に出しました。
しかし、非常に繊細なところもあり、人の痛みが分かる親分肌で、多くの部下に慕われていました。
スポーツも万能で、水泳、柔道、ラグビー、野球、ゴルフと、それぞれに上手でした。
また趣味も多彩。写真、鉄道模型、プラモデル、映画観賞、レコード鑑賞、水彩画など。凝りだすと没頭・集中するタイプ。
勉強熱心でもあり、いつも何か本を読んでいました。
そんな父は、若いころは船乗りになりたかったそうです(そのせいか、帆船模型もたくさん作っていました)。
銀行員になった当時は、その仕事がイヤで、推理小説作家を目指していたとか。
帰宅後、コツコツと推理小説を書き、いろんな賞に応募していたようです。
当時『宝石』という雑誌は推理小説の専門誌だったそうで、その新人作家特集に「佳作」として自作が掲載され、それで憑き物が落ちたように作家志望を断念。「自分の力量が分かったから」と言っていました。
でも、「選評」で江戸川乱歩に褒められたことは嬉しかったようです。
それ以後は、銀行の仕事に邁進したとか。

もうお分かりのように、私とは対照的です。
私が大学を受験したのは1969年で、まさに学園紛争の時期(立命館の日本史学科も受けましたが、見事に落ちました)。
関西大学の国文科に滑り込み、反戦デモに明け暮れ、高度成長期の企業戦士であった父ともよく議論しましたが、敵もよく勉強していて、論破できませんでした。
在日コリアンの友人の話などすると、「あんまり付き合うな」なんて言ってました。
当時は「右翼め!」と思っていましたが、父なりに心配していたのでしょう。
そんなふうに反目の時期もありましたが、父の晩年のころには「和解」できていたと思います。

母のほうは、夫唱婦随を絵に描いたような、静かで優しい性格でした。
苦しい戦争も経験しているのに、生来の「お嬢さん」で、いくつになっても純真で可愛いところがありました。
父は亭主関白、生きたいように生きた人で、それに付き従っていた母はずいぶん苦労もしたので、父が亡くなってからは自由を謳歌すればいいと思いましたが、急にガックリきてしまいました。
私が家に帰ると、暗い部屋にぽつんと独り座っていて、「元気出せよ、僕がいるじゃないか」と言うと、「あなたじゃ駄目なの」と言われたことがあります。
華奢だけど病気などしたことがなかった人が、S状結腸がんになり、父のあとを追うように逝ってしまいました。
母には楽しい思いをいっぱいしてほしかったので、その10年早い死はかなりこたえました。

いま、私に対する父の愛は理知的で、母の愛は無条件だったなと思います。
いずれにせよ、父からも母からも、私は充分に愛を注いでもらったと確信できます。
それゆえ、「何もしてやれなかった」という思いが、深層でいつまでも私を責めるのでしょう。
しかし、5年前から少しヨーガをかじり、そこでは「反省するのはいいが、それに囚われてはいけない」と教えられます。
反省して、ここが良くなかったと分かれば、それを繰り返さないようにすればいいだけだと。
また「死」は最後ではなく、ひとつの通過点にすぎないのだとも……。

長くなりました。
お返事になっているか分かりませんが、ご自分を責めることなく、心穏やかにお父上を送られるよう、願ってやみません。
では、10月2日に。
お忙しい折、お返事には及びませんので。

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2010-09-14

お知らせ

テーマ:日常
ごぶさたでした。今日は、お知らせをいくつか。
当ブログ「リンク集」のトップに第7回京都映画祭を載せました。会期は10月6日~11日。秋の京都へ行きましょう。
7月29日の「日記」に書いた『遺言なき自死からのメッセージ』(2010年)の作品評を「映画評」に載せました。映画をご覧になっていない方がほとんどだと思いますが、ご一読いただければ幸いです。

『遺言なき自死からのメッセージ』の梶井洋志監督はNDS(中崎町ドキュメンタリースペース)のメンバーであるが、同じNDSの金稔万監督は『釜の住民票を返せ!』(2008年)という作品を撮っておられる。これは、2007年3月、釜ヶ崎解放会館等に登録していた2088人の日雇い労働者の住民票が一斉に消除された事件を追ったドキュメンタリーだ。
金監督は在日コリアンで、自らも日雇い労働者として梅田阪急百貨店の解体工事に従事しておられた。本名で登録し、仕事をしていたら、ある日突然「通名」を使うように強制されたという。そこで金監督らは、大林組やその下請け会社を相手に裁判を起こした。
その裁判が始まっていた8月22日、金監督は免状不実記載等の微罪で不当逮捕されてしまったのだ! それを聞いたとき、私は「いまどき、信じられない」と思ったものだが、先日の厚労省・元局長の冤罪事例にも見られるように、この国の警察・検察は相当ヤバいところに来ているようだ。
その後、金監督は起訴猶予ということで9月1日に釈放された。つまり、最初から逮捕など必要なかったわけで、そこには「お上に盾つく奴は逮捕・弾圧!」という恣意性が透けて見えるのだ。詳しくは、救援会のブログ「FREE K!」 http://d.hatena.ne.jp/FreeK/ をご参照ください。
さて、その大林組等を相手にした裁判の第2回口頭弁論が、9月16日(木)13時30分から開かれる。場所は大阪地方裁判所・本館5階の民事第510法廷。事件番号は平成22年(ワ)第7311号。私は傍聴に行くつもりだ。
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