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2008-10-31

あと2カ月

テーマ:映画
この日記も癖みたいなもので、頻繁に書いているときは書かないと落ち着かず、しばらく間があいてしまうと「べつに書かなくてもいいか」という気持になってしまう。今日もどちらかというと後者の気分なのだが、10月も今日で終わりなので、この数日間を簡単に振り返っておこう。

24日(金) シネ・ヌーヴォで中国・イタリア合作の『小さな赤い花』(06年、チャン・ユアン監督)を見る。中国で、4歳の男の子チアンが全寮制の幼稚園に入れられる。全寮制の幼稚園、というのにまず驚くが、チアンはそこでの全体主義的な教育になじめず、孤立していく。お話としてはそうなのだが、子供たちの表情や仕草がまるでドキュメンタリーのようで、そこが素晴らしいと思った。

25日(土) シネ・ヌーヴォで、特集上映「今村昌平の世界」の初日。『盗まれた欲情』(58年)、『果しなき欲望』(58年)、『西銀座駅前』(58年)を見て、トークショーで金秀吉(キム・スギル)監督のお話を聞く。『西銀座駅前』は異色だが、前2作に圧倒される。フリーパス券を買おうとしたら、すでに売り切れだった。お客さんも多くて、嬉しい悲鳴というところ。
金秀吉監督は今村監督の教え子で、そのデビュー作『君は裸足の神を見たか』(86年)は今村監督がプロデュースしている。金監督の意見では、今村作品は『黒い雨』(89年)以前のものが良いという。『黒い雨』以降は、反発していた小津作品に似てきたからというのだが、あれは<似てきた>ということだろうか。確かにそこで作風はガラッと変化しているのだが……。その意味は考えていかなければならないとして、私は両方とも好きだ。

28日(火) 大阪市北区中崎西の天劇キネマトロンで『ウェルカムホーム曇天カフェ』(07年、森下淳士監督)を見る。天劇キネマトロンは今年6月にオープンした《シネマギャラリー》。《自主映画を上映する文化を育てるため》という目的で、なんと無料で映画を見せてくれる。隣のカフェ&バーが運営しているようだ。これまでに12作品ほどを上映してきたという。私が見た『ウェルカムホーム曇天カフェ』は演劇人が作った映画で、「映画と演劇は違うんだよ」と言いたくなったが、決してつまらない作品ではない。上映環境についてはまだまだ改善の余地があると感じたが、新しい試みではあるだろう。
それやこれやを、「見ること、見せること」と題して「ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジンneoneo」(11月1日号)に書いた。

29日(水) 今年2月23日の日記で少し触れた蕎麦屋さんでの上映会に参加。上映作品は『モーターサイクル・ダイアリーズ』(03年、ウォルター・サレス監督)。感想は、これも2月1日の日記に書いたことと変わらなかったが、また同じところで泣いてしまった。傑作であり、店の中に張られた大きなスクリーンで見られたことにも満足した。
特筆すべきは、上映会に集まった多彩な人々のこと。昆布専門店の若主人、アンティーク家具店の経営者、有名フランス料理店の奥様、そして刺青の彫師! もちろん蕎麦屋の店主ご夫妻、上映会の主催者Hさんもいる。Hさんは、わが映画仲間で、その蕎麦屋さんでアルバイトをしているのだ。それらの人々が、映画を見てから酒盛りを始め、自由気ままに話し合う。これの楽しいこと。私は地下鉄の終電に間に合う時間においとましたが、まだ残っていた皆さんはあれからどうしたのだろう。

30日(木) NHK-BS2で、韓国映画『京義線(キョンイセン)』(07年、パク・フンシク監督)を見る。「まあ見ておくか」という程度の気持だったが、これが悪くない。主人公の地下鉄運転士(キム・ガンウ)の誠実さがいい。相手役の女優さん(ソン・テヨン)もきれいだったし。美人が出てくれば文句のない私です。難点は、物語の上で重要な役割を占める売店の女の子が描き切れていないことか。それに、あの京義線でなくてもよかったのでは、とも思った。

《簡単に》と書いて、また長くなってしまった。短く書けないのはなぜだろう。それはともかく、今年も残すところあと2カ月。今年中にやるべきことを手帳に書き出してみたが、まだひとつかふたつしかクリアできていない。でも、頑張るぞ。もう「すみませんでした」とは言いたくないからね。
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2008-10-30

風邪

テーマ:日常
ちょっと風邪をひいてしまいました。
先週の金曜日ごろ、鼻水が出はじめ、すぐに市販の風邪薬をのんだのですが、翌土曜にはノド痛く咳も出て、ついに日曜は発熱でダウン。発熱といっても、38度も出なかったのですが、私は熱に弱く(何にでも弱いけど)、37度を超えると一気に元気がなくなってしまうのです。
月曜も微熱が続き、寝たり起きたり。ようやく火曜日から復帰しましたが、たった2日でも休むと、こんな私でもやることが山積で、日記の更新もままなりませんでした。
おかげで、この数日間はほぼ禁煙状態。吸っても、全然うまくないのです。この調子で完全禁煙できればなあと思っているところです。しかし、いずれ「今日も元気だ たばこがうまい!」などと言いだすのでしょう。まったく、このキャッチコピーは良く出来ています。調べてみたら、1957(昭和32)年から使われているらしい。「たばこは動くアクセサリー」なんてのもありましたね。こちらは、もう今では通用しない感じですが。
では、また。皆さんはどうぞお元気で。
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2008-10-23

『早春』

テーマ:映画
懐徳堂古典講座「小津安二郎の映画を読む」でテキストになっている『秋刀魚の味』(62年)をまた見たくなり、TSUTAYAで借りる。ついでに『早春』(56年)も借りた。
事務所に戻り、『早春』から見た。サラリーマン生活の悲哀と、そこに生じた《間違い》を描いている。《間違い》というのは映画の中の言葉で、ありていに言えば浮気である。
主人公のサラリーマンは池部良、その妻は淡島千景、浮気相手は岸恵子という布陣。主人公は蒲田近辺に住み、朝8時28分発の列車で東京・丸ビルの職場へ通っている。冒頭、朝の郊外風景の描写から、心地よく映画に引き込まれてしまう。製作された1956年は昭和31年だが、この当時からラッシュアワーはあったんだなあ。会社も仕事も別々の<通勤仲間>が10人ほどいるというのが珍しい。その仲間同士でハイキングに行ったりする。で、その中に岸恵子がいて、池部良にモーションをかけてくる。最初はべつになんとも思っていなかった池部良も、仲間に内緒で一対一で会ったりしているうちに岸恵子のペースに巻き込まれ、ついに一線を越えてしまう。その関係はやがて仲間に知れ、妻も疑惑を抱く。
二人の関係を糾弾しようと集まった仲間の一人が、ぽろりと「野郎、ちょいとうまいことしよったな」と言う場面があるが、本当にそう思う。岸恵子が実に蠱惑的で、あんなふうに迫られたら、誰だって《間違い》を犯してしまうだろう。でも、公開当時はどうだったのか。あの積極性は<嫌な女>と受け取られたかもしれない。価値観は時代によって動くから。
物語のほうは、池部良の転勤を機に、岸恵子との仲を清算し、家を出ていた妻が赴任地にやって来るというところで終わっているが、私は小津が予定調和を選んだとは思わない。むしろこの映画は、生きることの過酷さと儚さを描いている。他の小津作品ではおなじみの、会社の常務や大学教授が主人公ではなく、一介のサラリーマンが主人公であることからも、その印象はより強くなる。
岸恵子との関係にしても、それは善悪を超えたひとつの出来事、試練なのであって、どう転んでもおかしくはなかった。それは、仲間が岸恵子を吊るし上げる場面(池部良は来ていない)で、いつもは食べることにしか興味がないように見えたノンちゃん(高橋貞二)に、「黙って聞いてたけど、お前たちずいぶん意地悪いなあ」と言わせていることからも分かる。<人道上><ヒューマニズム><倫理的に清潔>などの建前を言う仲間に対して、ノンちゃんはその裏にある本音を見抜いているのだ。
この高橋貞二と、淡島千景の《おッ母さん》を演じた浦辺粂子が、小津作品にしてはシリアスで重くなりがちなこの映画に、ホッとする暢気さと達観の味わいを付与している。浦辺粂子の、ずり落ちた腰巻きが忘れられない。
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2008-10-22

『トウキョウソナタ』

テーマ:映画
恒例の映画観賞会。梅田ガーデンシネマで『トウキョウソナタ』(08年、黒沢清監督)を見た。参加者は、常連のNさんとFさん。
黒沢清監督の評価が高いことは知っているが、ホラー作品が多いという印象があって、そっち系が苦手な私は、これまであまり見てこなかった。だが、今回は〈家族〉を描いたというので、見たいと思った。結論から言えば、素晴らしい。今年の主演女優賞は小泉今日子で決まり、ではないだろうか。
冒頭、部屋の中に風が流れ、一枚の新聞紙が右から左に吹き寄せられてくる。ソファに置いた雑誌のページがめくれる。庭に面したガラス戸が開いていて、そこから雨が部屋の中に吹き込んでいる。床がビショビショだ。それに気づいた主婦(小泉今日子)がタオルを持ってきて床を拭く。ガラス戸を閉める。だが、いったん閉めたそれを開け、主婦は空のほうを見つめる。何を見ているのかは分からない。
平凡な日常の中に、ふと出現する異次元。「何かが起こりそう」と感じさせる、見事なプロローグだ。実際、どこにでもいそうな4人家族は、それぞれの思いを胸に秘めたまま、微妙にくい違い、すれ違い、崩壊へと向かってゆく。誰も悪くはないのに……。このあたりが身につまされ、なんとも哀しい。
後半は黒沢清の真骨頂と言うべきか、父(香川照之)、母(小泉今日子)、小学生の次男(井之脇海)の3人が、それぞれ何かに巻き込まれてではあるが〈冒険〉をし、痛烈に「やり直したい」「やり直せるだろうか」と思い、やがて家へ帰ってくる。その〈冒険〉への飛躍が、強引でありつつ鮮烈なのだ。
大学生の長男(小柳友)のほうは、これもアメリカ軍への入隊という〈冒険〉を選択して既に家を出ているが、やがて中東から「アメリカがすべて正しいわけじゃないと分かりました。いましばらくここに留まり、自分の道を探します」という手紙をよこす。
「やり直したい」「やり直せるだろうか」という思いは、今の私にも共通し、とても他人事とは思えなかったが、この佐々木家の場合は、威厳やプライドにこだわっていた父親が変わることで、希望が見えてきたようだ。そういう終わり方にも、好感を持った。何事からも逃げず、しかし肩肘張らずに自然体で対処すればいい、ということか。

映画が終わったのが午後10時で、恒例の飲み会も慌ただしかったが、Nさんのお仕事や今後の身の処し方などの話で盛り上がる。そんな中、私は最近ちょっと考えていることを言ってみた。「この映画観賞会も、そろそろ終わりにしようかと思うんですけど」と。そんなことを言いだしたのは、私のマイナス思考ゆえであるが、それに対してNさんは「毎回とても楽しみにしているので、続けてください」と、Fさんは「このゆる~い雰囲気が好きですけど」と言ってくださった。おだてに弱い私、すぐに前言を撤回して「じゃあ、続けてみますか」となった。
帰って、この「日記」で調べてみると、映画観賞会の1回目は2005年3月2日で、高橋伴明監督の『火火』(04年)を見ている。なんと、もう3年半も続いているのだ。飽きっぽい私にしては、と言うべきか、私らしくダラダラと、と言うべきか。まあそんなことはどうでもいいが、その映画の感想もかなり頻繁に書いてきたはずで、これはちょっと凄いことではないかと思った。こうなったら、一人でも参加者がある限りは、しつこく続けてみるか。
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2008-10-20

『アキレスと亀』

テーマ:映画
テアトル梅田で『アキレスと亀』(08年)を見た。北野武が監督・脚本・編集のほかに、挿入画まで描いている。その数もハンパじゃない。凄いなあとは思うものの、映画は好きになれなかった。(※以下、映画の結末にも触れるので、まだ見ていない人は読まないほうがいいかもしれない)
まず、やたらに人が死ぬ。両親、幼き日の友達、絵描き仲間、そして実の娘まで。最後には本人が自殺を図る。そのことが、気分を重くする。そのため、ところどころに挿入されるギャグにも笑えない。そもそも、あのギャグは観客の笑いを期待しているのだろうか。だとしたら、監督の誤算だろう。
幼き日の主人公・真知寿(まちす)が甘やかされて育つのも不愉快。金持ちの息子で、絵を描くのが好き。父の取り巻きの画家におだてられ、その気になる。で、いつでもどこでも絵を描き、周りもそれを許す。たいした才能もないのに〈芸術〉にのめり込んでいく男の、そのきっかけということなのだろうが、なんか違うなと思う。誰かに褒められて自信を持つというのは分かるが、真知寿が芸術に抱く純粋さより、わがままぶりのほうが印象に残り、不愉快なのだ。
青年期、家は没落するが、独学で絵を続けている。好意を寄せてくれる女の子もいる。このあたりは違和感なく見られた。だが、画商の勧めに従って、いろいろな絵を描いてみるその絵が、全部有名画家の真似で、ここに最もひっかかった。
北野武はインタビューに応えて、《『アキレスと亀』は結論としては、アートにたずさわるものは、たずさわってる現実だけで全て解決していて、それが当たる当たらないっていうのはまるっきり違う話であって》(映画パンフレットより)と言っている。それはそのとおりだと思うが、だとすれば、真知寿は他人の真似ではなく、どんなに評価されなくても、才能がなくても、〈自分の〉芸術を出してこなければいけないのではないか。それが《たずさわってる現実》ということになるはずで、他人の真似では現実にはならないのではないか。
ラストシーンも釈然としない。自殺を図った真知寿は生き延び、あなたにはもうついていけないと別れていった妻も戻ってきて、めでたしめでたしというところなのだが、さて彼は芸術を捨てるのか、まだ続けるのかが分からないのだ。
この部分、北野武は《生きてるっていうことだけでいいのかなって感じたんだよ》(同前)と語っている。芸術家の運命について描いてきて、それはないだろ、と言いたくなってしまう。

読み返してみると、全然褒めてないね。才能なき人間の〈ひがみ〉かもしれない。
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2008-10-19

アクションとサイレント

テーマ:映画
18日(土)、19日(日)と、わがNPO法人コミュニティシネマ大阪と大阪歴史博物館主催のイベントに参加。
18日は、映画連続講座vol.6のうちの2回目。大阪歴史博物館(NHK大阪放送会館隣)4階の第1研修室で、映画監督の原田徹さんを講師にお招きして、「アクション映画の秘密を語る」と題したお話をお聞きした。参考上映作品は『県警対組織暴力』(75年、深作欣二監督)。
原田監督は、テレビ時代劇『風車の浜吉』(92年)、『雲霧仁左衛門』(95~96年)、『御家人斬九郎』(97年)、ビデオ作品『新・キタの帝王』(96年)、『キタの帝王 闇の咆哮』(97年)などを監督され、劇場用映画では『おもちゃ』(98年、深作欣二監督)、『バトル・ロワイアル』(00年、深作欣二監督)の監督補佐、『バトル・ロワイアルⅡ』(03年、深作欣二・深作健太監督)、『男たちの大和/YAMATO』(05年、佐藤純彌監督)、『蒼き狼 地果て海尽きるまで』(07年、澤井信一郎監督)ではBユニット監督としてアクションシーンを演出されている。まさに、アクションを語らせれば右に出る者はないという方。
その原田監督、お話の中で「キンちゃん」と言われ、一瞬、萩本欽一さんと親交があるのかと思ったが、当然ながら深作欣二監督のことでした。
余談はともかく、お話を聞いて感じたのは「アクション映画って、手間とお金がかかるのだなあ」ということ。〈着弾〉というのですか、撃たれたところから血が噴き出るというよくあるカットでも、その仕込みには40分もかかるという。また、マシンガンなどから薬莢がパパパパッと飛び出て、同時に銃口からは火が出るというカットでも、実銃は当然使えないわけだから、モデルガンなどに細工する。その細工が、薬莢排出と銃口からの火は、それぞれ別の作動系が必要だというのだ。その映像も見せていただいたが、本当に手が込んでいる! たった数秒のカットに、こんなに手間暇がかかっているのかと驚いた。
一方で、アメリカのアクション映画が派手に見える理由も垣間見えた。要するに、お金なんですね。『スパイダーマン』を撮るために開発されたという撮影システム「スパイダーカム」は、高所にワイヤを張りめぐらせ、そこを滑るキャメラをリモートコントロールで操作して撮影するというもので、そういえば最近「これ、どこから撮ってるの?」と感じる映像によく接するが、これを使うにはとても費用がかかるのだという。また、あちらのアクション映画にCG画像が多用されるのは、俳優にケガでもさせたら、その補償費用が大変だからという理由もあるそうだ。なるほどねえ。

さて、お話が終わったあとの飲み会には12人が参加。なんと、そのうちの4人が俳優さん。失礼ながら、あまり売れている方はおられず、みなアルバイトをしながら映画出演の機会をうかがい、オーディションなどにも積極的に出かけているという。原田監督自身、テレビ、ビデオ、監督補佐、Bユニット監督とキャリアを重ねてこられ、これからという人なだけに、映画を支える層の厚さと熱さを感じた。また、当日のプロジェクター操作などをお手伝いくださった岡田キャメラマンは、原田監督とはもう25年のお付き合いになるという。仕事を通じた友情と信頼というのも、いいもんですなあ。

19日は、大阪歴史博物館の4階講堂で「サウンド・オン・フィルム特別上映会 『路上の霊魂』生演奏上映会」。
『路上の霊魂』は1921年のサイレント作品で、監督は村田実。さらに総指揮・小山内薫(出演もしている)、脚本・牛原虚彦、光線(照明)・島津保次郎と、当時の錚々たる文化人が参加している。劇映画としては現存する最古の日本映画とされ、内容的にも〈活動写真〉が〈映画〉になったと高く評価されたという。それにしても、すごいタイトルだ。
「サウンド・オン・フィルム」というのは、サイレント時代の傑作や忘れられた作品を、〈新たな音楽〉とともに甦らせようという企画で、これまでPLANET+1(プラネット・プラス・ワン)で1年間(9回)にわたって開催されてきた。当日も、音楽プロデューサーの渡邊祟氏をはじめ、ピアノ、フルート、ヴァイオリン、ギター、パーカッションと、6人のミュージシャンが生演奏をしてくださった。弁士は付かない。
映画が始まると、「おやおや、これは」となった。サイレント作品だから、字幕のカットが入るのだが、そこに英語字幕が重なって、元の日本語字幕が読みにくいのだ。フィルムは東京国立近代美術館フィルムセンターからお借りしたものだが、英語字幕を入れることの意義は十分に理解しつつ、その位置にもう少し配慮してほしかったなあと思った。
字幕を読み切れなかったためもあるのかもしれないが、お話のほうはやや中途半端で、大仰なタイトルほどのこともなく、感動にも至らなかった。しかし、これは歴史的作品、資料的価値のある作品として見るべきものだろう。そう思って見れば、モンタージュの仕方、トリック撮影、明暗のくっきりした映像など、印象的な部分も多く、それらは当時としては画期的なことだったのだろう。
一方の「サウンド・オン・フィルム」だが、映像の説明的な音楽ではなく、フィルムと音楽の〈ライブ・セッション〉を目指し、〈新たな音楽〉を生み出そうとしたというだけあって、擬音のような効果音が使われたり、画面上の雰囲気とは異なる音楽をあえて付けるなど、刺戟的な試みであった。また、スクリーン下の暗い舞台で、画面にタイミングを合わせながら演奏するのも大変なことだろうと思った。ただ、見ているほうはやはり映画が中心なので、突然パーカッションが鳴り響いたりするとドキッとするし、音が前に出すぎると違和感を覚えたりもした。難しいものである。
主催者側の一人としては、これもまあひとつの試みとして見ていただければ、という気持だったが、途中で席を立つ人もなく、皆さん最後まで静かに見てくださったので、非常にありがたかった。

撤収も終わり、この日は飲み会もなく、さあ帰ろうとしたら、財布の中に今月の初めに買った「佐伯祐三展」の前売券があるのに気づいた。天王寺の大阪市立美術館でその日(19日)まで。アッチャ~!
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2008-10-17

『秋刀魚の味』は

テーマ:映画
懐徳堂古典講座「小津安二郎の映画を読む」の開講日。この日からテキストが『秋刀魚の味』(62年)になり、そのシナリオ修正(活字になっているシナリオを、出来上がった映画に合わせて直す)を私が担当させていただき、10月5日からその作業を始めたのは前に書いたとおり。だが、この「日記」の読者はお気づきのように、『コロッサル・ユース』、京都映画祭、維新派公演などいろいろとあって、その後はあまり作業できなかった。
大きな失敗から学んだことは、「たいした才能もないのだから、せめて締め切りには遅れないようにしよう」ということだったのだが、16日の時点でまだ三分の二強が手つかずのままだった。その16日も、メールの返信を書いたり食事に行ったりしているうちに、午後2時になってしまった。
そこから実質的な作業に入ったのだが、とんでもないことに気づいた。小津作品にしては珍しく、撮影の時点でシナリオがかなり変更されているらしいのだ。しかし、ほぼ完璧に当初のシナリオどおりという部分もある。変更されているところは、「ひょっとして、ここはアドリブ?」と感じるぐらいに変わっている。特に、「ああ」「やあ」「うん」「こんちは」「さよなら」など、話の筋には関係のない、しかしシナリオには書かれていない言葉が頻出する。そのあたり、きちんと研究してみたら面白いと思うが、シナリオが変更されているということは、私の作業が増えるということなので、青くなった。
もうひとつはDVD再生の問題。TSUTAYAなどでビデオかDVDを借りてきて作業するわけだが、最近はビデオが少なく、今回もDVDしか入手できなかった。だが、これが不便。ちょっと戻ってセリフを聞き直したり、人物の動きを見たりしたいのに、DVDではそれができない。ご存知のようにチャプター1とか2とか、映画が10分ぐらいずつに分割されていて、戻って見たいときは、そのチャプターの頭まで戻らなければならない。これで、ものすご~く時間を取られた。
それもこれも、早くから計画的に作業しておけば何の問題もなかったのに、相変わらずバカやってるなあと思いつつ、しかし今回は「間に合いませんでした」とは言いたくなく、集中して作業を続けた。あっという間に夜が明け、午前8時に一応の完成にこぎつけた。
朝食を済ませ、気分を変えて最終確認作業に入る。まずセリフ。もう一度最初から見ていき、一語ずつ確認していく。それほどの聞き間違いはない。むしろ、修正液で消したまま、正しい文字を書き込んでいなかったところとか、書き込みが多すぎて読みにくくなっている部分があることなどに気づく。
それが済んだら、これも一から人物の動きの確認。ビールを誰に注いだか、顔はどっちに向けたか、部屋に入ってくる順番は、苦笑したのか微笑したのかなど、セリフよりも画面を中心に見ていく。だが、セリフに注意を向けていたとはいえ、これまでに繰り返し何度も見ているわけだから、それほど大きな間違いはない。もう少し説明しておきたいと、ト書きを増やす作業が多くなる。だが、この作業は映画を半分ぐらい見たところで中断せざるをえなかった。受講生に配布するために、25部をコピーしなければならないからだ。
たかがコピーではあるけれど、その濃度調整、ホチキス止め、ノンブル確認と、少なくとも1時間はかかる。コピー用紙は買ってあるが、トナーが切れたらコンビニでコピーしなければならない。紙づまりも心配だ。だが、特にトラブルもなく、無事にコピー終了。
かくして、講義の始まる午後6時の10分前には会場に着き、皆さんにお配りすることができた。
講義の中で映画を見、その部分のシナリオを受講生が分担して(あなたは笠智衆、あなたは岩下志麻というふうに)読み合わせていくのだが、引き出し線や吹き出しの多い、非常にごちゃごちゃした原稿なのに、皆さんとても上手に読んでくださって、感激した。
講義後の飲み会のビールのうまかったこと。私のリハビリも、一歩前進というところです。




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2008-10-15

シャガール展

テーマ:日常
招待券をいただいたので、兵庫県立美術館で「シャガール展」を見てきた。今日が最終日で、込んでるかなあと思ったが、それほどでもなかった。
兵庫県立美術館は、あの安藤忠雄氏の設計で、外観はなかなか良いが、内部はなんだかせせこましいと感じるのは私だけだろうか。もっとも、全館を見て歩いたわけではなく、大きな展覧会を何度か見に行ったときの印象だけなのだが。
さて、シャガール展。「券を無駄にするのもなあ」と、なかば消化試合みたいな気持で出かけたのだが、収穫は大きかった。まず、明るいのがいい。最愛の奥さんを早くに亡くしたり、ナチスの迫害に遭ったりと、不遇の時代もあったようだが、どの絵にも人間に対する信頼がその根底に流れているように感じた。それは、神への信仰なのかもしれない。
また、小さな版画から大きな壁画まで、どんな絵でも隅々まで細心の注意と独自の美意識をもって描かれている。これまで、「女の子が好きな甘い絵だろ」くらいの認識しかなかったが、とんでもない。シャガールは一級の芸術家だと思った。ともかく、見ていると心が温かくなり、楽しくなってくるのだ。こんな経験は、デュフィ以来かもしれない。

どんな仕事も、楽しみながら、精魂込めてやらなくちゃダメなんだよな。そんなことを考えながら帰路についたのでした。
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2008-10-13

簡単に

テーマ:映画
せめて1週間、休みなしに更新してみようと思ったが、なかなか難しい。「1日分が長いんだよ!」という声もあるので、この数日間を簡単に振り返ってみよう。

11日(土) このブログ日記をサラッと仕上げて仕事に移ろうと思ったが、『コロッサル・ユース』について書いていたら、分からないことがいろいろ出てきた。劇場用パンフレットの採録シナリオを読んでも、この映画がベストワンだと言っていたT君に電話しても分からず、結局シネ・ヌーヴォで午後8時からの回をもう一度見た。
それで分かったことは、時制が一部違っていたのだ。主人公ヴェントゥーラがレントと作業小屋のようなところで過ごす時間は、過去のことだったんだね。うかつでした。また、ヴェントゥーラの子供だと思っていた人物たちは、その一部、あるいは全部が子供ではないようだ。ヴェントゥーラは、誰にでも「母さんがいなくなった」と言うし、明らかに子供ではないヴァンダには「パパ」と呼ばれているしで、分かりにくいことは確か。どうやら、ヴェントゥーラ自身が感じている〈家族〉、もしくは〈共同体〉の表現であるらしい。
新たな発見もあった。この映画には、死後の世界も含まれているのではないか、ということ。もしかしたら、全部がそうなのかもしれない。たとえば、街の再開発によって集合住宅に移り住むことになったヴェントゥーラは、役所の男にその部屋を見せてもらう。役所の男が鍵を開けて集合住宅に入ってくると、ヴェントゥーラはすでにそこにいる。「なぜ中に?」と訊かれて「ドアが開いていた」と答えるのだが、そんなはずはなく、ここでのヴェントゥーラは幽霊なのかもしれない。そう思って見れば、家具のまったくない白い壁の部屋は、死後の世界にも見えてくるのだ。
まったく、何度見ても不思議は深まるばかり。だからこそ面白いとも言えるのだが。

12日(日) 京都駅で友人と待ち合わせ、京都映画祭へ。だが、観光シーズンの京都の日曜日ということを忘れていた。どこにも人がいっぱいで、移動にものすごく時間がかかるのだ。で、不覚にも祇園会館での1本目の映画『弥太郎笠 前篇』(52年、マキノ雅弘監督)には7、8分遅れてしまう。続けて『弥太郎笠 後篇』を見る。
白塗り・二枚目の鶴田浩二、純情可憐な岸恵子と、典型的な股旅ものだが、川柳(?)を書き込んだ提灯の使い方やモンタージュを駆使した殺陣シーンが新鮮で楽しい。それにしても、鶴田浩二は前後篇でいったい何人の人を斬ったのだろう。
食事もせず、『侠骨一代』(67年、マキノ雅弘監督)に突入。一度は捨てた命だと、仕事に恋にストレートにぶつかっていく高倉健が小気味よい。相手役の藤純子も、はかない娼婦を好演。「人生意気に感ず、か。こういう生き方ができればなあ」などと思う。
しかし、映画の余韻にひたっている余裕もなく、富司純子さんのゲストトークも断念して、ふたたび京都駅へ。滋賀県長浜市さいかち浜での維新派公演『呼吸機械』(作・演出=松本雄吉)を見るためだ。
食事をしている時間はなく、ジェイアール京都伊勢丹で寿司を買って新快速に乗り込む。だが、ここにも人がいっぱいで座れない。30分ほど乗っていると、ようやく空席ができ、急いで寿司を食べる。かくして、午後7時の開演ギリギリに会場に到着。やれやれ。
その維新派公演だが、今回は文字どおり琵琶湖畔に特設劇場を造り、舞台はゆるいスロープになっていて、その奥は湖に没しているのだ。物語のほうは、人類の歴史を丸ごと捉えようとしたかのように、スケールがでかい。例によってよく分からないところもあったが、維新派の魅力は、舞台上を走り回る若者たちの躍動感とエネルギーであって、今回も水浸しになりながらの彼・彼女らの熱演は、文句なしの感動を与えてくれた。

13日(月・祝) 友人たちと長浜市内を散策。長浜は、文化と歴史と緑にあふれた、あなどれない街でありました。

以上、結局長くなってしまったね。
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2008-10-10

映画漬け

テーマ:映画
朝からシネ・ヌーヴォで映画三昧。ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』(2000年)と『コロッサル・ユース』(06年)、マノエル・ド・オリヴェイラの『わが幼少時代のポルト』(01年)と『夜顔』(06年)、そして最後に、もう一度『コロッサル・ユース』を見た。
『ヴァンダの部屋』は、このブログの「映画評」でも最初に取り上げたように、大好きな作品。見るのは今回で3度目だと思うが、印象はほとんど変わらなかった。
絶対に見なければと駆けつけた『コロッサル・ユース』は、冒頭、ただならぬ表情の女の長ゼリフから始まり、それも何やら芝居がかっていて、「おや、今度は劇映画なのか」と、軽いショックを覚えた。また、その悠然たる映画のテンポについてゆけず、不覚にも途中で何度か眠ってしまった。しかし、どのショットを取ってみても、忘れがたい美しさに満ちていて、この映画が並の作品ではないことは明らかだ。
とはいえ、『ヴァンダの部屋』がそうだったように、いやそれ以上に、この映画も説明的な要素は限りなく削ぎ落とされていて、主人公ヴェントゥーラが置かれている状況や人間関係も分かりにくく、さらに別人のように太ってしまったヴァンダも登場し、その妹のジータは死んでしまう(映像としては出てこない)しで、どこまでがドラマでどこまでがドキュメンタリーなのかも判然としない。それが悪いというのではないが、ヴェントゥーラがさまざまな人に会い、会話を重ねていく中でも、これといった進展はないように思われ、最後はヴェントゥーラがヴァンダの部屋でベッドに寝転がり、その傍らでヴァンダの娘がテレビを見ている場面で唐突に終わる。
途中で眠ってしまったためもあり、「なんか、よう分からんかったな。それにしても、ペドロ・コスタはとんでもないところへ足を踏み入れてしまったなあ」という感想。あとから考えてみれば、長さを感じさせないとはいえ『ヴァンダの部屋』は3時間もあり、それを見てからの『コロッサル・ユース』では、眠ってしまっても仕方がなかった(と自分を慰める)。

一方のオリヴェイラ監督は、今年で100歳になるという。そう思って見るからか、どこか悠々と映画を撮っているように感じられる。
『わが幼少時代のポルト』では、自らの過去を回想し、だがノスタルジーには陥らず、ヨーロッパ全体の過去と現在を考察するというスケールの大きさを見せる。映画の中で、オリヴェイラ監督がブルジョアの出身だということが分かり、ちょっと距離を感じたのも事実。ちなみに「ポルト」とは、ポルトガル第2の都市名。また、タイトルには「幼少時代」とあるが、映画には15、6歳の少年が監督自身として登場する。
『夜顔』は、ルイス・ブニュエルの『昼顔』(66年)にオマージュを捧げた作品だという。もう老人と言ってもいい男(ミシェル・ピコリ)が、過去に関係のあった女(ビュル・オジェ)を偶然街で見かけ、追いかけ回すという展開も、サディズムとマゾヒズムという内なるテーマも、私の好みではないが、場面転換のたびごとに挿入される昼と夜のパリの街の俯瞰映像と音楽は、〈映画の快楽〉と言いたくなるような興奮を覚えさせる。そういうところにも監督の〈余裕〉を感じるのだ。

ところで、『わが幼少時代のポルト』と『夜顔』の間だったか、その前だったか、ともかく映画と映画の間の15分ほどの休憩時間に、ヌーヴォ・スタッフのT君と話していたら、「いいですよねえ。僕の今年のベストワンは『コロッサル・ユース』です」とおっしゃる。「ええっ!?」と思い、もう一度見ることにしたのだ。
なるほど、突然妻に去られ、子供や友人を訪ね回っているだけに見えた主人公は、疎遠だった娘との関係を修復し、脚の手術のために入院し、しかし入院費も払えずに病院を逃げ出すことを考えている男を見舞い、火事に遭って九死に一生を得たかつての仕事仲間を励ましと、なかなか善き行ないをしている。一方では、娘を産み、ヤク中から抜け出そうとしているヴァンダがおり、この映画には、どんな挫折があっても、どんなに大きな失敗をしても、孤独でも、人は淡々と生き、また生きるべきで、人間はどの場所からも人生をやり直すことができるというメッセージが込められているのではないかと納得した。

深夜に事務所へ戻ると、阪神が負けて巨人の優勝が決定したというニュースが……。残念だけれど、仕方ないさ。阪神もよく頑張ったよ。結果はさまざまだが、その過程に意味があると、どこまでも負けたほうに寄り添いたい気分の私なのでした。
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