2008-07-25

つまらん!

テーマ:日常
それを言っちゃあおしまいよ、というところなのだが、私がときどき厭世的・虚無的になり、引きこもったりするのは、結局のところ、何事につけ表題のように思ってしまうからであろう。
仕事をしたって、多くのものは忘れられ、消えていくのだし、たとえノーベル賞級の発見や発明をしても(そんな可能性はさらさらないが)、それが原爆などに転用されては、人類の進歩に貢献するどころか、逆に滅亡を早めているようなものだ。そんなに大きく出なくても、ほとんどの場合、人は生きていくためにやむなく仕事をしているのではないか。
では、仕事は辛く苦しいものだと割り切って、我慢と頑張りを重ねて金持ちになったところで、金はあの世までは持っていけない。要は、死ぬまで食えていければいいだけなのだが、いくら頑張っても、それさえできないことも多い。まったく、金というのは面倒なものだ。金銭のために働き、それに振り回されるという社会構造を根本から変えることができれば、それは画期的なことに違いないが、ご承知のように、これがなかなかうまくいかない。
地位と名誉。これもどうってことはない。一流といわれる会社の社長や会長さんが不祥事を起こし、記者会見で頻繁に頭を下げているのを見ても分かる。それに、連中のご面相のどこに、品格や威厳があろうか。頭がよく、処世術にも長けているのだろうが、ただそれだけのことだ。
男女の愛にしても、それがあることは否定しないが、これがしょっちゅう行き違い、愛することは苦悩を背負い込むことのようにさえ見える。それでも、人は人を愛してしまう。なんとも因果な生き物ではある。私自身、何度も痛い目にあってきて、今は敬して遠ざけている、というところか。

では、お前は何に感応するのかと問われると、答えに窮するのだが、まあ文化や芸術には素晴らしいものがある、と考えてはいるようだ。しかしこれがまた玉石混淆で、悩ましい。
たとえば『クライマーズ・ハイ』(原田眞人監督)という映画がある。見てみようかなと思っていたら、テレビだかラジオで「人間関係が複雑なので、原作を読んでからのほうが分かりやすい」と誰かが言っていて、それではと原作(横山秀夫)を読んでみた。とてもよく書けているのだが、未曾有の航空機事故に直面した新聞記者や新聞社幹部たちが、自分たちの面子や勢力争いに汲々としていて、そういうことを読むのがしんどくなってしまった。作者の狙いとしては、それでもなお輝く人間の誇りや職業倫理を書きたかったのだと思うが、人間の愚かさや醜悪さの描写のほうが際立っていて、後味が悪く、「なんだかなあ」と思ってしまった。映画も、見るかどうか分からない。
それでも、ときどきは「こいつは凄い!」と思えるような作品に出会えるのだが、なぜそれが素晴らしいのかは、うまく言えず、それがまたもどかしい。ましてや、そういう作品を自分がつくれるとも思えないし。
畢竟、自分が素晴らしいと思った作品や事柄について、オマージュのような文章を書いてみるとか、人知れず自分の心の中にしまっておくというようなことしかできないのだが、そういう作品や事柄にしたところで、いずれは消滅してしまうのだ。
なんとも身もふたもない話で申しわけないが、そんな私が最近気になるのは、マザー・テレサなどの宗教家の顔や話である。「言葉」と言いたいところだが、そういう人たちの本はほとんど読んでいず、もっぱらテレビや映画を見て「いい顔だなあ、いいこと言うなあ」と思っているにすぎない。
どうやら私は、〈献身〉〈無私〉〈無償の愛〉などに弱いようだ。そういえば、中学生のときだったか、学校から連れて行かれて見た映画『野のユリ』(ラルフ・ネルソン監督)にもいたく感動した。しかし、私に宗教はなく、ボランティア活動などもしてはいない。
結論としては、ずっとサボり続けているヨーガ教室に復帰し、ちょいと真面目に取り組んでみるというのが、わが《内的促し》が指し示している方向かもしれない。

言わずもがなのシニカルな視点を付け加えれば、齢60に近くなり、この世に何物も残せそうもないことが見えてきて、あの世に望みを託そうとしているだけのことかもしれない。
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2008-07-16

偶然

テーマ:日常
夜10時、夕飯を食べ損ね、コンビニで何か買ってこようと事務所を出る。ぶらぶらと歩いていると、前方から一人の若者が。「若い人は、あんな着こなしをするんだなあ」と、見るともなく見ていたら、なんとこれが我が息子!
何か相談でもあって訪ねてきたのかと思ったら、そうではなく、仕事終わりで、これから自宅へ帰って食事するところだという。バイクを近くに停めてあるらしい。
そうか、じゃお茶でも飲もうかということになり、近くの喫茶店で1時間ほどおしゃべり。お互いの近況報告が主になるが、男も30になるといろいろあるなあという感慨。彼が多感な時期に離婚しているので、彼には辛く寂しい思いをさせたはずだが、こうして普通に、わだかまりなく話せるのがありがたい。
これを書いていて思い出したが、先日はビアホールへ一緒に行ったのだった。また飲みに行こうな。
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2008-07-15

転換

テーマ:日常
12日(土)~13日(日)、友人たちと岡山へ1泊旅行。
まずは新幹線で岡山へ、そこから先はレンタカーでの旅。もっとも、私は運転できないので、乗せてもらっているだけだったが。
最初に訪れたのは後楽園。学生時代、心理学研究部の仲間と遊んで以来だから、38年ぶりということになる。暑かったけれど、そのぶん人は少なく、手入れの行き届いた広い芝生の庭が、目に心地よい。それにしても、時の権力者(この場合は、岡山藩主池田綱政)というのは豪勢なことをする。世が世なら、私などはモッコ運びに酷使されていたクチであろう。そう考えると、縁なき場所にいるようでもあり、だだっ広い庭園に人の営みの虚無が漂っているようにも思えてくるのだった。
昼食後は倉敷の大原美術館へ。ここは見る価値おおいにあり! 時間があれば、一日中でもいたかった。美術というものの奥深さと幅広さを実感することができたのだが、その一方で、これだけのコレクションにはいったいどれほどの財力が注ぎ込まれたのだろうと思うと、これまたフクザツな気持になるのだった。一枚の絵が何億とか何十億円というのは、どう考えても異常で、創作者の意図にも反していると思うのだが、そのバカさ加減を乗り越えて収集し、私たちに公開してくれた大原孫三郎をはじめとする人々に感謝したいという気持になった。つまり、権力や財力よりも、一枚の絵に表された悲しみ・喜び・静寂・孤独・憧憬などなどに惹かれ、共感し、価値があると思うのであった。でもね、大原美術館を訪れるのにもお金は必要なわけで、そのあたりが人類永遠のアポリア(難問)かもしれない。
美術鑑賞のあとは倉敷の街を散策。立派な観光地だが、魅力的な街にしようという住民の思いが感じられ、楽しく歩くことができた。大原美術館もそうだったが、どこへ行ってもそれほど人は多くなく、人ごみが苦手な私には好印象であった。
夕暮れ迫り、岡山市栢谷(かいだに)の苫田(とまた)温泉に到着。何はともあれ、風呂(ラジウム泉とのこと)で汗を流す。大きな風呂は、ただそれだけで気持いい。4年前、腹を縦に切り裂いた手術痕も、ようやく気にならなくなった。こちらが気にするほど、他人はこちらを気にしちゃいないし、その手術痕だって、チン隠しのタオルを少し上に上げれば隠れるのだから。
食堂での夕食後は一室に集まって酒盛り。楽しい話から深刻な話まで、未熟な私には勉強になったが、例によって半分ぐらいは寝ていた。深夜にお開きとなる。
すぐ床についたが、酒を飲んだあとの常で、2時間ほどで目が覚めてしまう。同室の友人を起こしてもいけないと思い、文庫本を持ってロビーまで行ってみたが、真っ暗。冷房も切られている。仕方がないので、自販機の明かりの下で煙草を3本吸い、部屋に戻った。それからは結局眠れず。
大浴場が開く6時半を待って行ってみたら、なんともう5、6人の先客が。日本人って、早起きなんだねえ。

さて、13日は備前から牛窓へ。
備前市伊部(いんべ)には、備前焼の店が飽きるほど並んでいた。倉敷と違って、観光客の姿はほとんどなく、店に入るのにも気後れする。それでも何軒かの店に入り、それぞれが気に入ったカップなどをゲット。私も、ギャラリー兼喫茶の店でコーヒーを飲んだあと、灰皿用に小さな鉢を買った。1800円。
失礼ながら、どの店も同じような商品が並んでいて、それを買うか買わないかは、店の人の雰囲気や人柄が左右すると思った。私の場合も、レジのお姉さんの「いい焼き色が出てますね」という一言が購入の決め手になった。
昼食は牛窓で海(瀬戸内海)を見ながら食べようということになり、一路牛窓へ。途中、オリーブ園というところにも興味を引かれたが、暑そうなのでパスし、雑誌に載っていた自然食レストランを目指す。カーナビに電話番号を入力するだけで連れて行ってくれるのだから便利だ。もちろん初めての店だったが、これが当たり。
丘の斜面に立つ小さなコテージ風のつくり。ドアを開けるといきなり階段で、そこを下りていくと店のフロアになる。カウンター席と、テーブルが4つほど。海の見える窓際の席に着くと、風が通り抜け、冷房は入っていないのに暑くはない。たぶん、そんなふうに設計されているのだろう。中年の女性が一人で切り盛りしており、あまり愛想はないが、きちんと対応してくれる。なんとなく「ヨーガ仲間かも」という気がした。そのヨーガは、ずっとサボりっぱなしで、当方はただのメタボおじさんになりつつあるのだが。
で、メニューは、玄米ご飯、豆の入ったカレー風味のシチュー、肉ではないもので作ったハム、ごま豆腐、ラズベリーのゼリー(寒天か)など。これがおいしくて、全員が完食。
お腹がいっぱいになったところで、店横の斜面を徒歩で下りて、海水浴場を見に行った。畑のあぜ道をたどっていくと、雑草の中に「まむしに注意」という看板が現れ、ぎょっとする。降り立った牛窓の海は穏やかで、海水浴場ものんびりムード。しかし、そこはやはり若者たちの場所であり、「もう何年海に入っていないだろう」という思いとともに、かすかな悲哀が襲ってきた。
近くに竹久夢二の生家があるというので、行ってみた(瀬戸内市)。それは、ひなびた農家という風情で、夢二はその家で16歳までを過ごしたという。100メートルほど離れたところに、東京にあった夢二のアトリエも復元されていた。夢二自身が設計したという。生家とは真逆の洋風ハイカラ趣味で、夢二作品の懐かしさ(生家)と憧れ(アトリエ)を象徴しているようでもあった。
しゃれた白いスーツを着て机に向かい、頭を抱えて創作に苦悩しているような写真もあり、しかしそれはどう見てもポーズをとっているので苦笑してしまったが、それも含め、恋と大衆的人気に翻弄された画家の人生を思った。夢二は、50歳の誕生日を目前にして亡くなっている。

岡山駅でレンタカーを返し、新幹線で夕日を見ながら帰ってきた。後楽園、大原美術館の絵画、備前焼、竹久夢二の作品など、人間が作ったものは残るのだ、と思った。私がかかわり作ってきた本も、評価されるかされないかは別にして、私よりは物体として長生きするだろう。だが、それらもいずれは消滅する。
そんなことを考えていると、数日前にNHKのラジオで聞いた阿闍梨(あじゃり)の話を思い出した。千日回峰行を何度も達成したという高僧である。その人が夜の山道を歩いていると、何回も不思議な体験をしたと言うのだ。そこにいるはずのない人の姿を見たり、多くの人たちがキャンプしているような音が谷川から聞こえてきたり……。だが、あとで調べてみると、その日・その時間には誰も山に入っていなかったと分かる。嘘をつく必要もなく、そもそも嘘をつかない人が、そう言うのだ。
つまり、この世とは別の世界があるということだ。この世で成したことが別世界にも影響するのか、それは分からないけれど、どうやら死は〈終わり〉ではなさそうだ。だとすれば、死後の世界まで視野に入れて生きるべきではないのか。明日は、久しぶりにヨーガ教室へ行ってみようか。
みんな、ついてきているか~い。
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2008-07-02

それでも人生は続く

テーマ:日常
6月24日(火)、今度は土本典昭監督が亡くなった。房総半島の南東に位置する海辺の町にあるホスピスで手厚く看護され、奥さんとお嬢さんに看取られて穏やかに旅立たれたようだ。享年79。仕方がないとは思うものの、喪失感は大きい。
でも、もう7月。ユーウツだった6月は振り捨てて、先へ進みたい。
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