2007-12-30

見納めはシネ・ヌーヴォで

テーマ:映画
この一年、機嫌よく頑張ってくれたスタッフのためにお歳暮を買って、シネ・ヌーヴォへ。ついでに『レディ・チャタレー』(06年)を見せてもらう。ディレクターズカット版で、168分のほう。あまり期待していなかったが、なんとも初々しい愛の映画で、一年の最後を締めくくるには最適の作品だった。お客さんの入りもまずまずで、嬉しいやらありがたいやら。
愛の映画であると同時に、森の映画でもあって、自然描写が丁寧で美しいのも良かった。
D・H・ロレンスの原作『チャタレー夫人の恋人』は読んでいないが、こんなに純粋な愛の物語が「わいせつ」とされたのは、時代ということもあったのだろうが、理不尽な気がする。付け加えれば、この映画に過激な性愛描写を期待すると、肩すかしを食う。
なにしろ、チャタレー夫人(マリナ・ハンズ)の相手となる森の猟番・パーキン(ジャン=ルイ・クロック)は、肉体こそ頑健だが心優しく、人付き合いが苦手なために一人でいることを好むという設定で、粗野なところが全くない男なのだ。その風貌は、若き日のマーロン・ブランドを思わせ、ちょっとハゲているのもオジサンとしては嬉しかった。
このパーキン君が、愛のない生活に疲れ切ったチャタレー夫人に最初は下僕として、やがて男として接していくのは自然な成り行きで、また、その関係の中で生き生きと蘇ってくるチャタレー夫人の表情が、春から夏へと移っていく季節とともに描かれるのも説得力がある。フランス映画だが、舞台はイギリス中部の村で、向こうの冬は本当に寒そうだし、石造りの邸宅も冷え冷えとして見える。
しかし時代設定は1920年代で、当時の階級社会における身分差、冷徹な夫(イポリット・ジラルド)の存在、最後は妊娠ときて、これはどう考えてもハッピーエンドにはならないなと思っていると、これが案に相違して希望を持たせる終わり方で、そこにも好感を持った。
それもこれも、女性の監督であるためだと思う。パスカル・フェラン監督の長編第3作で、2作目の『a.b.c.の可能性』から11年ぶりの新作になるという。女性の優しさ、一途な愛し方、おおらかな楽天性がストレートに出ている作品だと思った。
それにしても、男と女(男と男、女と女でも構わないが)、そこに愛がなければ、続かないんだなあ。
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2007-12-26

今年最後のヨーガ教室

テーマ:ヨーガ
仕事で忙しかったり、会議や講義と重なったりで、ずっと行けなかったヨーガ教室に参加。今日が今年最後のチャンスだった。手帳を見てみると、なんと6週間ぶり。その前は12週もあいているから、これではとても「ヨーガをやってます」なんて言えやしない。
年末で受講生も忙しいのか、教室には指導者を含めても5人だけ。なんだか得した気分になる。しかし1カ月半もブランクがあるので、おそるおそるアーサナ(姿勢、ポーズ)を始めてみると、これが意外と楽にできる。体が覚えているということもあるのだろうが、どうやらこのところのハードな仕事で少し痩せたようで、体が動きやすいのだ。
というわけで、アーサナはまず及第点だったと思うが、雑念の多さには我ながら驚いた。アーサナとアーサナの間には、シャヴァアーサナ(屍の形)という全身をリラックスさせるポーズを挟む。また、最後には20分ほど瞑想をするのだが、このシャヴァアーサナのときも瞑想のときも、雑念が次から次へと浮かんでくるので閉口した。
それはこんなふうだ。家族のこと、仕事のこと、あの件は電話すべきか連絡を待つべきか、来年のこと、将来のこと、禁煙しようか、歯医者へ行ったほうがいいか、メガネも作り替えなければ、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」その次は「身捨つるほどの祖国はありや」か、いい歌だなあ、寺山修司は天才だなあ、中原中也も天才だ、明日は何時入りだっけ……。そんなとりとめのないことが、間断なく浮かんでくる。その都度、これではいかんと打ち消すのだが、また別の事柄が湧き上がってくるのだ。まことに我が日常は、雑念・妄想・煩悩にまみれていると思い知った次第。
週1ペースで通えていたころは、こんなことはなかった。シャヴァアーサナでも瞑想でも、かなり「無」に近付けていたように思うのだ。それがヨーガの目的かと問われたら、私には答える資格も術もないのだが、個人的な感覚で言うと、雑念や雑事から離れ、ひとときでも空無になることによって、新しくなれるというか、明日に向かってリセットできた感じがあったと思う。
とはいえ、ヨーガの世界でも自分がまだまだ未熟であることは実感できたし(本当に奥が深い世界だ)、いつも変わらずに優しく接してくださるSさん、Uさんにも会えたし、今年最後のヨーガ教室に参加できてよかった!
さて来年は、もう少し真面目に取り組んでみるかな。人生、いくつになっても精進あるのみ。なんちゃって。
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2007-12-25

暗く、寒い日々なれど

テーマ:日常
私にしては珍しく、朝6時半の電車に乗った。余裕で座れるだろうと思っていたら、とんでもない。座席はいっぱいで、つり革もほぼ空きなしという状態。「みんな早くから働いてるんだなあ」と、何やら申しわけないような気分になる。
座って20~30分眠るつもりでいたから、読むものも用意していず、仕方なく周囲を観察する。女性の姿はほとんどなく、男性、それも中年男性が多い。服の色は、おしなべて暗い。座っている人は、ほぼ例外なく目をつぶっている。眠っているのかいないのか、その表情は苦しげだ。
「この時間から職場に向かうのは、工場労働者、中間管理職、交代制のパートといった人たちだろうか。それにしても、暗い。連休明けだから、余計にブルーなのか。少なくともここには、クリスマスのクの字もないな。それは私も同じだけど……」などと考えていると、ふと《ウツの時代》という言葉が浮かんできた。
数日前の「筑紫哲也NEWS23」で、五木寛之氏がそんなことを語っていたのを思い出したのだ。今はウツの時代だから、それを認めたうえで、どう生きるかを考えたほうがいい。そんな趣旨だったと思う。五木さんの本はそれほど読んではいないのだが、時代を捉えるセンサーがすごく鋭敏な人だと思っている。その五木さんがそう言うので、「ああ俺も間違ってはいなかったんだ」と、妙に安心したのだった。

私が毎週欠かさずにチェックしているブログがある(http://www.venus.dti.ne.jp/~yoz/)。横浜の高校で教鞭をとっておられるY先生のもので、毎週土曜日にエッセイが一編アップされる。先日は「あたたかい、あたたかい。」という題で、イトーヨーカドーで「ウォームビズ」という下着を買ったという話が載っていた。なんでも、Y先生は相当な寒がりらしい。
私はそれほどでもなく、冬もアンダーシャツは半袖、股引などもってのほか、という姿勢を貫いてきた。だが、私の事務所は北向きで、この時期はめっぽう寒い。トイレに行く回数も増える。外に出ればゾクッとして、コートの襟を立てずにはいられない。しょっちゅう風邪を引きそうになる。
そんなもんだと思っていたが、Y先生のエッセイを読んでから、寒ければあたたかくしたほうがいいのでは、と思いはじめた。で、ついに今日、イトーヨーカドーならぬユニクロで、「ヒートテックプラス」という下着を2組買ってきた。半袖(ここは譲れない)のアンダーシャツと、ハーフタイツ。Y先生が買われた物のほぼ半分の値段なので、どれくらいあたたかいのか分からないが、まあ試してみよう。見栄を張っても仕方ないし、女性の前で下着姿になる機会もまずあるまいから。

てなことで、暗いウツの時代を甘受し、寒い冬はせめてあたたかくしてやり過ごそうとしている今日このごろであります。
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2007-12-16

『転々』はいい映画か

テーマ:映画
見たいと思い、前売り券は買ってあった。12日の朝日新聞夕刊に「朝日ベストテン映画祭」の入選作が載っていて、その8位に入っていたので、これは見逃せないと、梅田ガーデンシネマへ見に行った。
07年の製作で、監督は三木聡。『イン・ザ・プール』『亀は意外と速く泳ぐ』(ともに05年)、『ダメジン』(06年)、『図鑑に載ってない虫』(07年)などの監督だが、いずれも見逃している。テレビの『時効警察』も手がけていると知り、「なるほど、そういうことか」と思った。〈おふざけ〉が過ぎる、と感じたからだ。
オダギリ ジョーは相変わらずうまいし、三浦友和も怪演と言っていいだろう。ロードムービーならぬ《東京お散歩ムービー》の味わいもなかなか良い。だが、岩松了・ふせえり・松重豊らが演じるコントのようなシーン、また主演の二人に絡んで登場する鷲尾真知子・石原良純・広田レオナらの笑いを誘うかのようなシーンには違和感を覚えた。
結局、私が期待していたような作品ではなかったと言ってしまえばそれまでだが、三浦友和は殺人を犯してきているのであり、しかも愛する妻をあやめてしまったという設定で、自首するまでの数日間の話とはいえ、人の死があまりに軽く扱われているのでは、と感じた。殺されてベッドに横たわっている三浦の妻(宮田早苗)が、ガバッと起き上がってくるのではと最後まで思っていた。いや、そうであればすべてOKなのだが。
後半、二人は小泉今日子の家へ転がり込み、そこへ吉高由里子も来て、父(三浦)、母(小泉)、息子(オダギリ)、娘(吉高)という疑似家族のような温かさが醸し出されるのだが、それも家族団らんへのノスタルジーなのか、仲よき事は美くしき哉(武者小路実篤)なのか、ともかくそこに新しいものはないと思った。
こういう私の見方は生真面目に過ぎ、「オジサン、分かってないなあ」と言われるかもしれない。しかし、映画の中でとはいえ、人の死が、殺人が、こういう軽いノリで描かれるのは、たまらない。「いいなあ」と思う東京の街のショットがいくつもあっただけに、残念だ。

ちなみに、朝日ベストテンの日本映画1位は、映画観賞会でも取り上げた『天然コケッコー』だった。嫌いな作品ではないが、「えっ、これが1位?」と意外な気がした。今年の邦画水準が推し量れる結果だ、と言うべきか。
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2007-12-15

今年最後の映画観賞会

テーマ:映画
恒例の映画観賞会で『中国の植物学者の娘たち』(05年)を見る。監督は『小さな中国のお針子』(02年)のダイ・シージエで、中国での撮影が許可されず、ベトナムで撮影したという。製作国はカナダとフランスになっている。
つまり、中国映画のようであって、中国映画ではないのだ。監督のダイ・シージエは中国人だが、フランスで映画を学び、長編第一作『中国、わがいたみ』(89年)で中国当局から検閲を受けたことをきっかけに、以後ずっとフランスで暮らしているという。どこかで「フランスに亡命した」と読んだ気がするのだが、パンフレットには書かれていない。
文化大革命の折には、17歳からの3年間、四川省の山村に「下放」されていたという。そんな経験が『小さな中国のお針子』にも反映されているのだろうし、この作品には中国批判として表れているように思う。
ただ、それはあからさまなものではなく、中心は若い女性二人の禁断の愛だ。時代設定は1980年代で、その当時、中国では同性愛はタブーであり、違法でもあったようだ。
主人公の二人は、リー・ミン(ミレーヌ・ジャンパノワ)とチェン・アン(リー・シャオラン)。ミンのほうはロシア人と中国人の混血という設定。演じているミレーヌ・ジャンパノワも、フランス人と中国人のハーフだという。灰緑色の瞳はなかなか神秘的なのだが、役柄に可愛げがない。頑固な植物学者のもとに実習生としてやってくるのだが、遅刻しても、大きなミスをやらかしても、ふてくされるばかりで謝ろうともしない。その理由もしかとは描かれないから、暗~い女の子という印象で、グラマーな肉体も愚鈍な感じに見えてきてしまう。
そんなミンに優しく接するのが植物学者の娘アンで、こちらはスラリとした体形に清楚な顔立ち、役柄の性格もよく、私はこのアンちゃんばかり見ていた。
そういう二人が惹かれ合い、永遠の愛を誓うようになるのだが、そして水浴びのシーンや温室での薬草蒸し風呂などのシーンは美しいのだが、あとは同性愛がタブーとされる社会でどのようにその愛を貫くかに重点が移っていく。このあたりが、かったるい。
ずっと一緒にいるために、アンは自分の兄との結婚をミンに勧める。しかし、実際に結婚するとなると、二人とも落ち込んだり泣き暮らしたりする。最後のほうでは、温室で愛し合っているところを父(植物学者)に発見されるが、警戒心がなさすぎると思う。また、封建的な父、単純で暴力的な兄の描写も紋切り型で、人間としての厚みが感じられない。
このグチャグチャした関係、いったいいつまで続くんだと思って時計を見たら、終了の15分前だった。そして、一気に決着がついた。このラストはちょっといい。
前作『小さな中国のお針子』は悪くないと思ったのだが、この『中国の植物学者の娘たち』には少々ガッカリしたというのが正直な感想。次作に期待しよう。

この日の参加者は、いつものNさん、K先生、Hさん改めFさん(ご本人の希望による)。当初は参加予定だったKさんは風邪のため、Yさんはお祖母さんがご病気のため欠席。
で、いつものように4人で居酒屋へ。忘年会シーズンとて、居酒屋は超満員。私なら諦めて別の店を探すところだが、Nさんは店に入っていき、店員さんと何やら話している。と、奇跡のように空いたテーブルに案内された。さすがは仕事人・Nさん。
見てきた映画は突っ込みどころ満載で、あそこがおかしい、ここがヘンだと飲みながら話していたら、京都からYさん(上記のYさんとは別人)も駆け付けてくださった。常連さんがそろった感じで、この映画観賞会も忘年会の趣となる。
映画は見てみなければ分からず、私が選択した作品にもアタリ・ハズレがあったが、見た後の飲み会が楽しくて続いている気がする。映画観賞会に参加してくださった皆さん、ありがとうございました。来年もこんな感じで続けていきますので、どうぞよろしく。
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2007-12-12

マザー・テレサでまた涙

テーマ:映画
ヨーガの先輩Uさん(30代、女性)を誘って、テアトル梅田で『マザー・テレサ:母なることの由来』(86年)と『マザー・テレサ:母なるひとの言葉』(04年)の2本立てを見る。製作・監督はともにアン・ペトリとジャネット・ペトリの姉妹。
『母なることの由来』が始まって数分後、「神の愛の宣教者会/死を待つ人の家」と字幕が出て(それはホスピス、あるいは行き倒れた人たちを救う施設のようだ)、背の曲がった小柄な女性がその建物に入っていく後ろ姿が捉えられる。マザー・テレサだ! 入ってきて、「おはよう。調子はどう」と一人のシスターに声をかける。シスターは、「この人(横たわったままの男性)、昨日は食べられなかったのに、今日は食べられるようになって、元気になってきました」などと答える。「そう、よかったわね」……。
そんなごく普通の会話なのに、私はもうウルウルしてしまう。マザー・テレサの仕草、言葉、まなざしなどが、自然な優しさにあふれているからだ。「優しさ」に、相当敏感になっているようだ。
その後、マザー・テレサの生涯がつづられていく。平凡だった修道女時代。36歳のとき、「最も貧しい人々への神の愛を実践しなさい」という〈招命〉を受け、カルカッタのスラムで救済活動を始めたことなど。しかし、涙は止まらない。水洟も出てくる。10人ほどの観客のうち、ハンカチを使っているのは私だけだ。まったく困った泣き虫オジサンである。「これでは映画を見たことにならないぞ」と自分に言い聞かせ、後半、ようやく落ち着いて見られるようになった。
すべてを神に委ねる。それがキーワードのようだ。マザー・テレサをはじめ、この映画に出てくる人たちが体現している自由、勇気、献身、清潔、謙虚、そして愛。私のような凡人には、どれも実践できないことばかりだが、〈信仰〉ということの究極のかたちがそこにあるように思えた。もちろん、彼女たちの神はイエス・キリストであるが、それがブッダでもマホメットでも同じことではないか。要は、どこまで自分を捨てられるかだ。
マザー・テレサが亡くなって、ちょうど10年になるという。同時代を生きていたのに、存命中は多くを知らず、関心も薄かった。申しわけないような気持になる。本当に偉い人というのは、この人のような人なのだ。私には何もできないけれど、せめて笑顔で、優しい気持で人に接しようと思った。
こういう時代だからこそ、多くの人に見てもらいたい映画だ。テアトル梅田では朝10時からの1回上映で、12月21日まで。1月には京都みなみ会舘、神戸アートビレッジセンターでも公開される。こちらは2本立てではなく、1作品ごとの上映。映画の出来としては、『マザー・テレサ:母なることの由来』のほうがオススメ。

さて、映画を見終わって、中崎町のフランス家庭料理の店でUさんとランチ。穏やかで、癒される時間が過ぎてゆく。Uさんも修行者なので、人生の目的とか、奉仕活動の意味といった話題が中心となる。それはそれで興味深いし、勉強にもなるのだが、もうちょっと色っぽい話を期待してしまうのが俗人の悲しさである。
と、話が私の引っ越しのことに及び、「一緒に住みますか」と冗談っぽく言ってみたら、「ハハハハハ」と一笑に付されてしまい、あえなく撃沈。しごく当然なナリユキではありました。
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2007-12-11

まっいいか

テーマ:日常
また、自分の弱さ、駄目さ、堪え性のなさ、意固地さ、などなどを痛感させられる経験をした。そして、敵前逃亡のようではあったけれど、そこから離れた。
ずいぶん昔にも、同じようなことがあった。そのときは、当時付き合っていた女性から「しっかりしなさいよ!」と言われた。その口調もいまだに覚えている。思えば、そういう自分の不甲斐なさが、別れのきっかけになったような気がする。
本当にダメ人間である。あと数年で還暦だというのに、まるで子供だ。世の若者たちは、50~60歳といえば分別のある立派な大人だと思うかもしれないが、とんでもないことで、全然君たちと変わらないのだ。
だからお嬢さん、私と恋をしましょう、と言いたいところだが、本音は「こんなに根性なしでは、パートナーになるほうも大変だ。ずっと独りでいるほうが、世間様のためにもなろう。それに、片想いなら誰にも迷惑をかけないし。あの『葉隠』にも書いてある。《恋の至極は忍恋(しのぶこい)と見立て申し候》と……」というところで、なんとも謙虚というか、情けないというべきか。

ありていにいえば、辛くしんどいところから、スタコラサッサと逃げ出してしまったのが今の私であるが、今回は、そんな自分を許してやりたいという気持がある。人間はそんなに強くもないし、立派でもない(私だけのことかもしれないが)。それを認め合わなければ、やっていけないと思うのだ。もちろん、それでいいというわけではない。向上したいと思うし、しなければならないとも思う。だが、安心して立っていられるところでなければ、向上もおぼつかない。
一日に何度もため息をつき、胃が痛くなったり、腹を下したりし、「このままじゃ病気になるなあ」と思うようなところには居られなかったのだ。駄目な奴、使えない奴という烙印を押されてもいい。ただ、自分の精神と肉体を守りたかった。

そんな決断の導きとなったのは、ヨーガの先輩たちの明るさと優しさであり、ある映画の予告編だった。それは『犬猫』(04年)で大ファンになった井口奈己監督の最新作『人のセックスを笑うな』(このタイトルはいただけないが)の予告編で、そこに流れているユル~イ自由な感じに、「こんなふうに生きてもいいよな」と思い、それがずっと強く残ったのだった。ある意味、私の人生を変えたともいえるこの映画、公開は来年らしいが、絶対見に行かなくちゃ!
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2007-12-05

感情

テーマ:日常
10年前に死んだ父は『野生の王国』などの動物ドキュメンタリー番組が好きで、よく見ていた。ビデオに録画していることもあった。当時は「あんなもの、どこが面白いんだろう」と思っていたが、今になってみると、分かる気がする。
シンプルなのだ。動物は、ただ生きている。腹が減れば食い、眠くなれば眠り、発情期には交尾し、子供を産む。そして、ちゃんと育てる。
自分たちのテリトリーによそ者が入ってくれば追い返すが、深追いはしない。逆に打ち負かされれば、主が代わるだけのことだ。
つまり彼らは、子殺しも親殺しもしないし、戦争もしない。生きて、死ぬだけだ。彼らが銃で撃たれたり、他の動物に襲われて倒されたりするシーンは、感動的ですらある。撃たれても、力尽きるまで走り続ける。あるいは、喉元に牙を突き立てられるまで必死で逃げまわる。そして、突然バタリと倒れる。
そこには《必死で》という思いすらないだろう。「こんなふうに生きられたら」と思う。

あれはまだ20代のころ、会社を辞めることになった先輩が組合の機関誌に寄稿し、仕事仲間だったあの人この人について短い言葉を残していった。まあ、寄せ書きの逆バージョンみたいなものだ。それによると、私は《クールそうに見えて、実はホットだった》そうだ。あまり話したこともないのに、よく見てくれていたんだな、と驚いた。
「温厚」とか「静か」などと言われることが多い私だが、実は喜怒哀楽が激しく、感情を抑制できない自分を持て余すことがある。しかし、それを表に出せないので、さらにウックツする。
そんな自分に対して、「感情なんて要らない」と思うことがある。疲れたでも哀しいでもなく、淡々と為すべきことをなし、老後の心配もせず、しかし最後まで動き回って、やがてパタリと倒れる。そこには後悔も満足もない。そう、動物のように。
巨きな宇宙から見れば、人間の死もそんなものではないのか。ただ、宇宙を巨きいと認識できるところが、人間と動物との分岐点かもしれない。
いつになく哲学的(?)な私でした。

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2007-12-01

表層

テーマ:映画
ずっと見たいと思っていた『呉清源 極みの棋譜』(06年)をやっと見た。なぜ見たかったかといえば、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督作品であること、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の『百年恋歌』に主演した張震(チャン・チェン)が呉清源(ご・せいげん)を演じているためだ。
田壮壮は『盗馬賊』(85年)の印象が強く、衝撃的な作品を期待してしまうところが私にはあるが、考えてみれば、もうずっと以前から、人間を探求する作風に変わってきているのだ。この作品でも、その姿勢は徹底して貫かれていて、そこに妥協はない。呉清源という《昭和を駆け抜けた稀代の天才棋士》の人生を、じっくりと嘘のないように描いている。
14歳で中国から日本に来て、日本の棋士たちを次々と破り、しかし祖国と日本が戦争をするという苦難の時代を生き、そのためもあるのか新興宗教に傾き、日本人女性と結婚し、戦後ようやく落ち着いて囲碁の世界に没頭できる環境になったところで交通事故に遭い、そのひどい後遺症から囲碁に集中できなくなり、王座の地位を失い、やがて引退。
そんな波瀾万丈の人生だが、それは遊びや緩みのない求道的な人生でもあり、90歳を過ぎた今も小田原で囲碁を研究しているという呉清源自身、「私の人生には二つのことしかない。それは『真理』と『囲碁』だ」という言葉を残している。「真理」が先にきているのだ。
つまり、呉清源の人生も、映画における描き方も、非常にストイックで、広く大衆に受け入れられる作品ではない。1日は「映画の日」で、1000円で映画を見られるので、シネマート心斎橋の客席は8割方埋まっていたが。大衆向けでないから駄目というわけではない。田壮壮さん、ますます求道的に映画と向き合っておられますね、と感じたのみだ。ただ、私見だが、「真理」というものはそんなにガチガチなものではなく、もっとおおらかで明るいものではないのかなあという気はする。
張震のほうは、力演と言うほかない。仕方のないことだが、14歳から日本に来ていたのなら、もう少し流暢に日本語をしゃべれるはずだが、とは思った。
驚いたのは、日中合作と言ってもいいほど、日本の俳優やスタッフが関わっていて、それが実に「いい仕事」をしていることだった。

「映画の日」だから混むだろうと思い、上映の1時間前には劇場に着き、整理券をゲットした。それでも22番だったが、座れることは間違いなく、安心して下の階のレストランへ昼食をとりに行った。店内は若い人たちばかりで、オジサンは浮いている感じ。「お飲み物はセルフサービスになっておりますので」と言われ、水とコーヒーを取りにいった。しかし初めての店で、どこに何があるのか分からない。キョロキョロしていたら、店員さんが教えてくれた。右手にコーヒー、左手に水を持ち、そろそろと席に戻る。席に着いたら、近くの席の女の子が、甲高い声でけたたましく笑いはじめた。その理由は分からないのだが、自分のことを笑われているような気がした。

映画を見て事務所に戻る。街はもうクリスマス・ムードで、あちこちに電飾またたくツリーが立てられている。その前で、ケータイで写真を撮る若者たち。歩道を歩けば、2人、3人と並んで道をふさぐ。しかも、まったく自分たちだけのペースで歩いている。ゲームセンターの前には、ダンスゲームに興じる若者たち。またそれを見ている若者たち。ここでも、ケータイのフラッシュが光る。
彼らが「真理」について考えることはあるのだろうか。華やかな表層の奥に、それはあるはずだが。いや、若者たちは刹那的だと見ることそれ自体が、表層しか見ていないのかもしれない。
人のことはいい。残された年数が少なくなってきた今、自分がどこまで辿り着けるかが問題なのだ。
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