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2006-06-29

『やわらかい生活』はやさしい映画だ

テーマ:映画
シネ・ヌーヴォで『やわらかい生活』(05年、廣木隆一監督)を見る。悪くない。
みんな、どこか壊れてるのがいい。主人公の優子(寺島しのぶ)は躁鬱病で、彼女の周りの男たちも、出会い系サイトで知り合った痴漢のkさん(田口トモロヲ)、ED(勃起障害)の都議会議員・本間(松岡俊介)、鬱病のヤクザ・安田(妻夫木聰)、そして離婚寸前で彼女の部屋に転がり込んでくるいとこの祥一(豊川悦司)。
優子は、両親と友人を相次いで亡くしたことで躁鬱病になり、精神科にもかかっているが、かつてのキャリアウーマンからドロップアウトしたことで、肩の力が抜けているというか、自由な感じがあって、魅力的だ。その優子が、絶妙の距離感で男たちと付き合っていく。距離を測っているわけではない。彼女には、守るものも恐れるものもないのだから。あくまで自然体。鬱になればふさぎこみ、躁になればはしゃぐ。
そんな優子と接することで、男たちはそれぞれに自分の居場所を見つけていく。なかでもいちばん印象的なのは、いとこの祥一だ。妻子に愛想をつかされ、福岡からふらりと現れたこの男は、図々しくも優子の部屋に居候を決めこむが、とぼけた博多弁がどこか憎めず、意外な繊細さで優子を包み込む。
演じた豊川悦司は、主演男優賞か助演男優賞かは知らないが、いろんな賞を獲得するのは間違いないだろう。でも、私は不満だ。かっこ良すぎるのだ。高い上背、長い脚、肩幅や胸板もしっかりあって、嫉妬してしまう。寺島しのぶがあんまり美人じゃない(そこがいいのだが)だけに、釣り合わない気がする。もちろんこれは、腹の出た中年オヤジのひがみ以外の何物でもないのだが。昨日も《ヒガミ》って書いたな、ちぇっ。
ついでに言っておくと、優子35歳、祥一40過ぎ、痴漢のkさん50歳という設定で、55歳の私は「映画の中でも、もう現役じゃないんだな」と、妙に自分の年齢を意識させられた。

舞台になっている蒲田という場所も重要だ。行ったことはないが、画面上でも〈粋〉がない下町と表現されているように、気取らない庶民的な街であるようだ。レトロな観覧車、公園、川、居酒屋、銭湯など、優子が脱力できるスポットにも事欠かない。
あれは70年アンポのころ、蒲田に自警団がつくられて〈暴力学生〉を排除したということがあり、暴力学生にはならなかったものの、その周辺をウロウロしていた私には、あまり良いイメージはないのだが。

原作も読んでみた。絲山秋子(いとやま・あきこ)の『イッツ・オンリー・トーク』(文春文庫)。原作からはだいぶ変わっていて、私には映画のほうがしっくりきた。脚本が荒井晴彦だからかもしれない。03年の『ヴァイブレータ』も廣木・荒井コンビで、プロデューサー(森重晃)も撮影(鈴木一博)も同じだから、原作うんぬんより『ヴァイブレータ』の姉妹編と考えたほうがいいかもしれない。
原作からの変更といえば、ラストで原作にはない悲劇を伝える方法が、テレビの刑事ドラマなどで「なに、渋谷で殺し? ガイ者は30代女、場所は道玄坂のホテル・フェニックスか」とやるような紋切り型になっているのは、何かの冗談なのだろうか。
それに、季節が夏から秋に移り、その間に小さな出来事が重なって、男たちが優子から去り、あるいは優子のほうが別れを感じて離れ、これからそれぞれが自分の道を歩んでいくのだろうなと思わせておいて、最後のエピソードはあまりに悲しすぎる。銭湯で独り泣く優子が可哀想でならなかった。
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2006-06-28

兆候

テーマ:読書
昨日の午後5時、Kさんから電話。
いきなり、「いま、どこにいらっしゃいます?」ときた。「事務所ですが」「事務所って……、きょう会議なんですけど」。ゲッ、すっかり忘れていた。「もう皆さん来ておられます?」「ええ」。そりゃそうだ、5時からの会議なんだから。「すいません。今からうかがいますが、大丈夫でしょうか」「お待ちしております」。で、30分遅れで会議室へ。最初は気後れして、しゃべれない。ほとぼりが冷めた後半、ようやく発言。
しかし、人の名前が思い出せない。「ほら、あの『下妻物語』の原作書いた人」(嶽本野ばら)、「頭が真っ白で、『11PM』の司会やってた人」(藤本義一)という具合。だが私より5歳上のY氏も同じ症状で、「女優さんを嫁さんにした……」「黒川紀章?」「いや、監督さんで、この前来てくれた」「ああ高橋伴明」「それそれ」というありさま。笑ってしまったが、少し悲しくもあった。

『歩くひとりもの』(津野海太郎著、ちくま文庫)を読了。
いちばん印象的だったのは、《若い人はシングルは男女問題だと思っているみたいだけど、それはちがう。シングルというのは老人問題なの。若いのがひとりなのは当たり前なんだから。四十代半ばを過ぎて、この先、どうもオレは一人で年老いていくことになりそうだぞと感じるようになって、やっと人間はひとりものになる》、あるいは《まだ何が起こるかわからないよ。それが人生というものなの》という津野さんの言葉であった。
〈個〉と〈家庭〉を対立項とは捉えない、老いの意識が希薄というところにも共感を覚えたが、私とは違う部分も多かった。津野さんは自分で料理を作り、掃除・洗濯などもきちんとこなしておられるらしいが、私はまるで駄目。最も距離を感じたのは、そのインテリ度だ。ご自分の読書体験のなかから、〈ひとりもの〉についての思考をめぐらしておられるのだが、その本が、長谷川如是閑、ウィリアム・モリス、ヴィトゲンシュタイン、ブレヒトという具合で、名前ぐらいは知っているが読んだことはないものばかり。そこから引用されても、「なるほど」とは思うが、「そうなんだよね」とはならないのだ。これは不勉強な私のヒガミだろうか。
そんななかで、ひとつ忘れがたい引用があった。長谷川四郎の「むすびの歌」という詩(/は改行)。
《さて立ちあがり/出ていった/そのあとに/ゆれているのが/ゆり椅子で/ゆりの花/風と共に/去ったきみの/萼といい/うてなといい/からっぽ/そこにまたきて/腰かけるまで》
ゆりの花のように去った人を想い、さて自分はそのように去れるだろうかと思った。ところで、この詩にある〈萼(ガク)〉と〈うてな〉って、同じ意味じゃないの? そんな無粋なことが気になるのも、老いの兆候であろうか。
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2006-06-26

『歩くひとりもの』来る

テーマ:読書
先日読んだ『団塊ひとりぼっち』(山口文憲著、文春新書)に、『歩くひとりもの』(98年、ちくま文庫)という本が紹介されていた。著者は津野海太郎(つの・かいたろう)氏で、山口氏によれば、《津野海太郎は、晶文社のトップで、いまは大学でも教えている名編集者。文筆家としても第一級で、自身のシングル生活の哀歓をつづった『歩くひとりもの』は、中年シングル文学(?)の白眉といってさしつかえない。/ところが、この津野海太郎が、還暦を前に、突然結婚宣言をするのである。しかも、あろうことかお相手は十六歳も年下だという。さんざんひとりものの幸福を説いておいて、いまさら結婚しますはないだろう。このウソつき》ということになる。
面白そうなので、探してみた。同じ本が93年に思想の科学社から単行本で出ているが、これには文庫版にある関川夏央・山口文憲との鼎談が載っていない。やはり〈ちくま文庫〉で読みたい。ところが、これがすでに〈品切れ〉。仕方なく、インターネットで古書を探す。
すると、ありました。値段も200円。送料の210円を含めても、定価の714円より安い。さっそく注文したのが6月20日。その本が今日(26日)届いた。ネットの備考欄に《カバー背ヤケ》とか書いてあったが、きれいなものだ。すぐにも読みたいが、今日はグッと我慢して仕事します。

メールで注文したのは、滋賀県長浜市にある〈ひまわり堂〉という古本屋さん。先方からのメールで、まず「在庫はございます」、次に「23日に発送の予定です」などと知らせてくれ、代金は本が到着してから郵便振替でいいとおっしゃる。そして、きれいな書籍用封筒の中に、ビニール袋で完全密封された文庫本が送られてきた。こんなに手間暇かけて、ひまわり堂さんはいくらの儲けになるのだろうと、申しわけないような気持になった。
私などが心配せずとも、立派に商いをしておられることと思うが、新刊書籍がすぐに店頭から消えてしまう昨今、古書店は貴重な文化の砦である。頑張ってほしいものだ。明日、必ず送金しますからね。
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2006-06-25

美術と人間

テーマ:読書
ずいぶん前に買ったまま読んでいなかった黒川博行の『蒼煌(そうこう)』(文藝春秋刊)を読了。いやあ、すさまじい。読み終わると、軽い虚脱感にとらわれるほど。
舞台は京都。次期選挙によって選ばれる芸術院会員の座を手に入れようとする日本画家の室生晃人と稲山健児。絵の巧さも年齢も同じくらい。だが、目指す座はひとつしかない。そこで繰り広げられる、投票権を持つ現芸術院会員への挨拶まわり。これが凄い。何十人もいる会員を一人ずつ日本各地に訪ね、手みやげを渡していく。そのカステラの箱の底には、100万円の札束が……。あるいは、ボス的な会員には、何百万という花器を贈ったり、その画家から何千万もの絵を買ったりする。当然のことながら、これらの行為はすべて違法である。漫画みたいな話だが、綿密な取材では定評のある黒川博行のこと、私はこの小説を〈限りなく事実に近いもの〉として読んだ。

登場人物が多い。しかも、画家の名前、画塾や画廊の名称などが難しく、覚えにくい。たとえば、舟山翠月(すいげつ)、村橋青雅(せいが)、藤原静城(せいじょう)、燦紀(さんき)会、夏栖(かせい)堂といった具合。それはもう「総ルビにしてくれ!」と叫びたくなるほどだ。それにしても、よくこれだけ〈それらしい〉名前を考え出したものだと感心する。それらを考えるだけで、創作エネルギーの半分ぐらいは使い果たしたのでは、とすら思った。
しかも、人間関係が複雑ときている。誰は誰の弟子で、あるいは孫、甥、愛人の子でという具合で、頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。そんなものはすっ飛ばして読めばよさそうなものだが、さにあらず。老舗画廊の会長などが選挙参謀として登場し、その複雑な人間関係を読み切って、この先生の票を得るためには、この人物を攻略すればよいなどと知恵を授けるのだから。
というわけで、頭の悪い私には、一回読んだだけで理解したとはとても言えないのだが、そういう読者のために(?)、過去の記述を復習できるような書き方がさりげなくされていて、そういうところもニクい。ともかく、今度読むときはメモをとりながら読むことにしよう。

主人公がいない、というのも特筆すべきことかもしれない。室生の腰巾着のように走りまわる中堅画家・大村、選挙参謀として暗躍する老舗画廊会長の殿村あたりが中心人物だが、感情移入はできない。大村には、選挙に勝ったら親分の室生に引き上げてもらおうという下心があるし、殿村にはさほどの打算はないにしても、やっていることは許されざることなのだから。
対抗馬の稲山のほうが人物的には好ましいのだが、票を金で買おうとするのは室生と同じ。唯一手を汚さず、好きな絵だけを描いているのは、稲山の孫・梨江であるが、物語の中では脇役にすぎない。
そう、この小説に出てくる連中は〈ワル〉ばかりなのだ。それは昨日書いた『バルトの楽園』などとは大違いで、ストレートに共感できる人物がいないのは読み物としては不利かもしれないが、それゆえ余計に我が国の画壇の腐敗ぶりが際立ってくるという気がする。黒川博行は、果敢に冒険をしたのだ。

あれは高校生のころだったか、京都の美術館で〈日展〉を見たことがある。この本で〈邦展〉と書かれているのは、その〈日展〉のことだろうが、なんとも旧態依然、精彩を欠く内容で、以来一度も〈日展〉を見に行ったことはない。あのどこか澱んだような空気は、美術のビの字も知らぬ高校生にも何かを感じさせたのかもしれない。
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2006-06-24

『バルトの楽園』への違和感

テーマ:映画
昨日(23日)、帰りに梅田ブルク7で『バルトの楽園(がくえん)』(06年、出目昌伸監督)を見た。
梅田ブルク7は綺麗な映画館なのだが、7階のホールから各上映館までは狭いエスカレーターで上がらねばならず、上映館の通常使われている出入り口もひとつしかないので、いつも「地震や火災があったらどうなるのだろう」と不安になる。事実、昨日も300人の団体客が入っているとかで、私の席は前のほうだったが、映画が終わって会場から出てくるまで、結構な時間がかかった。

さて『バルトの楽園』であるが、最初はどうなることかと思った。戦闘シーンに迫力なく、板東英二がひどい。ガチガチの軍国主義者(軍人)を演じているのだが、まるで学芸会。19日に見た『花よりもなほ』(05年、是枝裕和監督)にも上島竜兵や千原靖史が出ていたが、なぜテレビなどである種のイメージが強く出来てしまっているタレントや芸人を使うのだろう。
しかし、非常に手堅く作ってあるので、クライマックスで〈第九〉が鳴り響くあたりでは、ホロリとしてしまった。それにしてもこの映画、あまりに甘く、うつくしすぎないか。今から90年前の日本には、まだこんなに凄い人(坂東俘虜収容所長・松江豊寿)がいた。だから私たちも、偏見を持たず、相手を尊重して外国(人)と付き合おう、という立派な趣旨なのかもしれないが、登場人物がみな善人で、ひねくれ者の私などは鼻白んでしまい、事実を基にしているのに、嘘っぽく感じてしまうのだった。

『花よりもなほ』にも同じような印象を持った。〈憎しみの連鎖〉を断ち切る、というようなキャッチフレーズがあったと思うが、それはまさに現在の世界のテーマであり、期待して見に行ったのだが、まるで落語の世界のような長屋の人情話で、是枝監督が何をやりたかったのか、よく分からなかった。
〈仇討ち〉を回避する方法にしても、そういう制度が疲弊してきている時代を背景に、それこそ落語のように〈落ち〉をつけただけのように思えたし。

『バルトの楽園』に戻ろう。主役の松平健は好演だったと思う。それに比べてブルーノ・ガンツに対する演出は紋切り型で、「べつにブルーノ・ガンツでなくてもよかったんじゃないの」と言いたくなり、ガンツさんがかわいそうであった。注目したのは、ドイツ人と日本人の混血少女〈志を〉を演じた大後寿々花(おおご・すずか)で、まだ13歳ぐらいのはずだが、大女優に化けそうな予感がした。
最後に、この映画に〈祖国〉という言葉がよく出てくるのにも違和感を持った。「祖国」と言えば、それだけで何か素晴らしい、大切なものに思えてくるが、今はそんな簡単な時代じゃないし、うさんくさい政治家たちが「愛国心を持て」などと言い始めている昨今、それが善意からとしても、あんまり能天気に祖国などと言ってほしくないのである。
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2006-06-23

おやすみなさい、黒木監督

テーマ:映画
今日はいささか疲れ気味。仕事しようと早起きしたが、一日中ダラダラしてしまった。
昨日の「黒木和雄監督追悼上映会」(同志社大学・寒梅館 ハーディーホール)、そのあとの「黒木和雄監督を偲ぶ会」(京都・平安会舘)が無事に終わったからだ。あいにくの雨にもかかわらず、無料の追悼上映会(『美しい夏キリシマ』を上映)には約450人、会費7000円の偲ぶ会には約80人の方々が来てくださった。私は上映会のほうで受付と平安会舘へのタクシー配車係を担当した。
受付では、一般客と偲ぶ会にも参加する方を分けて対応したが、完全には分けきれなかった。タクシーの手配も、上映会の進行が遅れ気味だったので途中で来てもらう時間をズラしたが、結局はほとんど当初の予定どおりに終わり、そのため、すぐにタクシーに乗っていただくべき関係者を20分近くお待たせすることになってしまい、また「待っているより歩いたほうが早い」と、平安会舘まで徒歩で向かわれた方もありで、まことに申しわけないことであった。
そういうわけで、とても及第点をいただける働きではなかったが、一日中気を張りつめ、黒木監督のために頑張ったつもりである。黒木監督も、苦笑しながら許してくださるのではないかと、勝手に思っている。

すべて終わったのが午後9時過ぎ。前夜は仕事で一睡もしていなかったので、正直帰りたかったが、裏方ばかりでささやかな〈打ち上げ〉をやろうということになり、四条烏丸あたりで11時まで飲み会。梅田行きの阪急・快速もなくなり、普通電車で1時間かけて帰阪。やれやれ。
黒木監督、どうぞゆっくりお休みください。
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2006-06-21

お知らせ

テーマ:日常
また2週間も空けてしまった。この間、東京へ行ったりとかいろいろあって、途中で一回書き始めたのだが、長くなりそうなので断念した。また、仕事にも追われてきて、催促の電話やメールに怯える日々を過ごしている。
というわけで、この2週間のことは、今の状態が一段落したらまとめて書くことにして、緊急のお知らせをひとつ。

明日(22日)、午後2時から「黒木和雄監督追悼上映会」が京都で開かれる。会場は、同志社大学・寒梅館のハーディーホール(京都市上京区今出川通烏丸東入ル TEL075-251-3270)。上映作品は『美しい夏キリシマ』(03年、黒木和雄監督)。開場は午後1時半から。どなたでも無料でご覧になれるので、ふるってご参加願いたい。キャパ850人という大きなホールだから、立ち見になる心配はないと思う。終了は午後5時半ごろの予定。

午後6時半からは、近くの平安会舘で「黒木和雄監督を偲ぶ会」も開かれるが、こちらは招待状が必要なので、〈どなたでも〉というわけにはいかない。
この上映会や偲ぶ会の報告も、いずれ。
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2006-06-07

ヨーガ1周年の決意

テーマ:ヨーガ
5月31日、ほぼ1カ月ぶりにヨーガ教室へ行き、「これではいかん!」と痛切に思ったことはすでに書いた。以来(といっても、まだ1週間しか経っていないが)、めずらしく自宅でもやり、クラスにも参加し、できるだけヨーガに接する時間を増やそうとしてきた。で、今日も参加。
しかし、「まだまだ」である。他の受講者たちに比べると、自分の体が曲がっていない、あるいは真っすぐ伸びていないのが分かる。要するにサマになっていないのだ。
「体が曲がるからいい、姿勢がきれいだからいいということではなく、自分にとって精一杯のところまで曲げ(あるいは伸ばし)、その姿勢を保持して呼吸に集中することが大切です」と常に指導されてきた。それは、体力や柔軟性が人によって異なるからで、結果、教室では個性を尊重し、彼我に優劣をつけないので、私は気に入っていたのだが、そのことに甘え過ぎていたのではなかったか、とも思った。

私がこの教室で〈体験受講〉を受けたのが昨年の6月15日だから、来週でちょうど1年になる。その日を1回目とすれば、今日で38回目。平均すると9日に一度は教室を訪れたことになる。だが、その程度では、現状維持がせいぜいなのだ。もっとちゃんとできるようになりたい!
そこで考えた。あれこれ思い悩まずに、無心でやってみようと。アーサナ(姿勢、ポーズ)のときは、そのことだけに集中する。シャヴァ・アーサナ(屍の形。心身をリラックスさせるために、各アーサナの間にはさむ)では、何も考えない。瞑想もしかり。その先に何があるのか分からないが、ともかくやってみようと思うのだ。

瞑想を深めていくことで、〈悟り〉や〈真理〉に至るのが目的、と指導者はおっしゃる。それがどういうものか私には分からないし、たぶん分かる前に死んでしまうだろう。
しかし、アーサナや瞑想のあと、どんなに爽快で前向きな気分(というのとも違うな。心が平静になり、何をするのでも構えずにスッとできるという感じ)になれるかは、実際にヨーガをやった人にしか分かるまい。私が「分かる」と言うのは、そういうことだ。

とまあ、今日はずいぶん真面目な書きようになったが、もうちょい真剣にヨーガをやれば、健康にもいいだろうし、痩せることもできるのではないかと、現実的な計算もどこかでしているのである。
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2006-06-06

運営委員会の夜は更けて

テーマ:映画
シネ・ヌーヴォで運営委員会。
今年も約半分過ぎたが、年初に上映した『ホテル・ルワンダ』(04年/テリー・ジョージ監督)が初めて大入り袋が出るほどの盛況、その他のロードショー作品もまずまずの入りで、特集上映「RESPECT田中徳三」も赤字を出さずに済みと、久々に明るい会議となった。また、このあとも「松竹110周年祭」が控えており、見通しも暗くはない。
その余勢を駆って(?)、夏には新しい取り組みに着手する。まだ多くを語れないのが残念だが、乞うご期待! というところだ。

これまで青息吐息で、あるいは薄氷を履(ふ)む思いで運営してきたシネ・ヌーヴォだが、来年の1月でついに10周年を迎える。なんとまあよく持ったものだ、というのが正直な感想だが、この10年を振り返れば感慨も深い。そこで来年はぜひ、ヌーヴォらしい10周年企画をブチ上げたいと思っていて、これも内容はほぼ煮詰まってきているのだが、まだ発表はできない。なんだか気を持たせる書き方ばかりで恐縮だが、併せてご期待願いたい。

先日は、これまで頑張ってきてくれた映写のS君が辞めてまことに残念だったが、今日は新しい仲間が増えた。高見雅計(たかみ・まさかず)氏、50歳。あの河瀬直美監督を輩出したことで知られるビジュアルアーツ専門学校で映像学科長を務められた方で、ヌーヴォでは「プロダクト・リーダー」として力を貸してくださることになった。強い味方を得た思いだ。

運営委員会のあとは恒例の飲み会。九条商店街のそば屋で、そば焼酎のそば湯割りという洒落た趣向。聞けば、景山(ヌーヴォ代表)は最近これにハマっているらしい。先月やった大橋さん(彼も運営委員)の出版記念会の話や田中徳三監督の話、みんなの力で出版した田中さんの本(『RESPECT田中徳三』/ブレーンセンター)の話など、話題は尽きず、8人で2時間強。会議のほうは1時間だったのに。
そんな飲み会が終わってみれば、そば焼酎のボトルが2本半空いていた。私はそこでずらかったが、5人は二次会へ。みんな50を過ぎたオッサンなのに、よーやるなあ。
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2006-06-04

『団塊ひとりぼっち』から

テーマ:読書

山口文憲(やまぐち・ふみのり)著『団塊ひとりぼっち』(文春新書)読了。肩のこらない〈団塊ばなし〉で、楽しめた。
団塊世代の現在(なんだか評判が良くないらしい)から、過去(もちろん堺屋太一の『団塊の世代』にも触れ、団塊にもいろいろな人がいたという話に続く)を振り返り、未来(ひとりぼっちであることを覚悟して生きよと説き、ハゲへの対処法やファッションの話で終わる)への明るい(?)展望を述べている。そういえば、「現在過去未来~」という歌もあったなあ。そう、渡辺真知子の「迷い道」。この人は1956年生まれで、団塊の一世代あとになるが。


で、まず私は山口文憲氏の文章が好きだ。自分で書いたのでは、と思わせる著者紹介には《身上は独自の視点とたくまざるユーモア。達意の文章にはファンも多い》とあるが、まさに〈達意の文章〉で、難しいことも易しく表現してスラスラと読ませてしまう。これは私が理想とするところでもある。
思えば、大学の卒論を書いた後に、担当教授面接というものがあった。それを経て卒論への評価が下されるわけ。その場で何を話したのか、もうほとんど忘れてしまったが、『万葉集』研究の大家だった老教授から「達意な文章ですなあ」と褒められたことだけは鮮明に記憶している。嬉しかったのだ。
脱線したが、山口氏の文章には〈読ませる工夫〉が随所にちりばめてある。『読ませる技術』(ちくま文庫)という著書もあるぐらいだから、その道のプロなのだ。たとえば、「みる」「いう」「いま」「ちがう」「たいてい」「みなさん」などは平仮名表記で統一して読みやすさに配慮する一方、ごくたまに「もだしがたい」(黙っていられない、そのままにしておけない)、「拳拳服膺」(けんけんふくよう。常に中心にささげ持って忘れない)などの語を挿入して読者をハッとさせる、という具合だ。
山口氏の体験(「ベ平連」活動など)や現状(シングルであることなど)にも共感するところ多く、特に書名の由来ともなっている〈ひとりぼっち〉の勧めには大いに勇気づけられた。

勉強になったこともある。「団塊の世代のシッポのほうに当たりまして……」などと人には言ってきた私だが、これはどうも違うらしい。私は1951年生まれなのだが、団塊の世代とは、《狭義には1947(昭和22)年から49(昭和24)年の3年間に生まれた人間のことを指し、広義には1946(昭和21)年から50(昭和25)年までの5年間に生まれた人間を指す》のだそうで、《これが社会学の方面ではどうやら通説になっているらしい》とダメ押しされているのだから。これからは「団塊の世代のすぐあとに生まれまして」と言うことにしよう。
ちなみに、山口氏は1947年生まれで、バッチリ団塊の世代である。

もうひとつの個人的感慨。《私の名前に「憲」がつくのも、お察しの通りこれによる》という記述があって、《これ》とは日本国憲法のことなのだが、実は私の名前にも〈憲〉がつく。というより、それ一字なのだ。
だが、それが山口氏と同様に日本国憲法からきているのかどうかは定かでない。小学生のときに「お父さん・お母さんが、なぜあなたにそういう名前をつけたのか、お家に帰って聞いてみましょう」という宿題があったような気がするのだが、その答えは覚えていない。かすかな記憶か、後の想像かもはっきりしないが、憲には〈手本、模範〉という意味があり、そこから取ったと言われたのだったか。でも、これは現状との落差を考えると、恥ずかしくてとても口にはできない。私の父は〈改憲派〉だったから、日本国憲法による、というのは考えにくいし。ああ、ちゃんと訊いておけばよかった。

名前つながりで、もうひとつ。2日(金)の朝刊ラテ欄(もちろんラジオ・テレビ欄のこと)に、田中徳三監督の傑作『手討』が載っていた。録画したかったが、外出先ではどうにもならない。残念、と思いつつ出演者のところを見ると、市川雷蔵、藤由紀子とあって、「ご同輩、あんたもか!」と言いたくなってしまった。
何度も書いているが、藤由紀子の〈紀〉は誤りで、正しくは〈起〉なのだ。少なくとも映画『手討』に関しては。これは画面のクレジットで確認したから間違いない。だだ、多くの資料では〈紀〉になっていて、私も本を作るときに間違えてしまった。
私が読んでいたのは産経新聞で、念のために朝日新聞も見てみたが、こちらも〈紀〉になっていた。おそらく、新聞社に情報を流したところが同じなのだろう。しかし、立派な校閲部もあるはずの大新聞2社である。ひょっとすると〈起〉は『手討』のときだけで、あとは〈紀〉で通したのかもしれないという疑惑も(あながち私の言い訳だけでなく)深まってきたと言うべきか。

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