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2006-04-30

マルカサンチャムパ

テーマ:映画
シネ・ヌーヴォで「ボリビア・ウカマウ集団」の映画を見る。
『「拉致」異論』『「国家と戦争」異説』などの著書で知られ、シネマテーク・インディアスを主宰してウカマウ集団と25年以上も〈恊働〉してこられた太田昌国(おおた・まさくに)さんのお話のあと、『最後の庭の息子たち』(03年)、『ここから出ていけ!』(77年)、『革命』(62年)、『ウカマウ』(66年)の4本を見た。
ウカマウ集団というと、どうしても私は小川プロダクションを思い出してしまう。ホルヘ・サンヒネス、かたや小川紳介というカリスマ的監督を戴きながらの集団製作、反体制・反権力、経済的困窮、多くの協力者による物心両面からの援助……。小川プロに対しても最初はそうだったが、筋金入りの闘士たちというイメージで、「近づくとヤバい。敬して遠ざけよう」と、実はこれまでウカマウ集団の映画は見たことがなかったのだ。ところがところが、これがまことに瑞々しく、素朴で、アクチュアルな問題提起をはらみ、映画の可能性と表現を追求した、素晴らしい作品群なのだった。

『最後の庭の息子たち』は最新作で、ボリビアの近年を描いている。アメリカの大企業と癒着し、腐敗しきった政治家たち。〈義賊〉を気取って、そんな政治家の自宅に押し入って大金を奪う若者たち。その若者たちの中にある短絡的な正義と享楽主義の対立。そして、その金を「二重に奪われた金は受け取れない」と拒否する貧しい先住民(インディオ)たち。その山奥の村の、集会の場面がいい。誰もが自由に発言する。充分な時間(まる2日)をかけて結論に達する。決めたことは守る。これを見た主人公の青年は「マルカサンチャムパ」だと言う。人々の偉大さ、人民の力、共同体の力というような意味らしい。
だれもが個人主義になり、JR福知山線の事故から1年の紙面でも、精神科医の野田正彰氏が〈共感する能力の欠如〉というふうなことを書いておられた。そんな我々の現在、にわかには〈人民の力〉を信じることはできないのだが、そんなことを考えていた時期もあったなあ、助け合うというのは美しいものだなあと感じ、幸福や生きることの意味を考えさせられたのだった。

『ここから出ていけ!』は、実際にこんなことがあったのかと衝撃を受ける作品。アンデスの先住民村に、アメリカ人宣教師たちが入ってくる。彼らの教えは、助け合って暮らしていた村人の中に対立をもたらす。その一方で、彼らの本当の目的は鉱物資源開発のための調査なのだった。やがて鉱脈が発見され、アメリカの大企業に採掘権が与えられる。村を追われ、抵抗すると軍隊に殺される先住民たち。その理不尽な仕打ちを知って、遠くの村々の農民が団結し、抵抗の闘いに立ち上がる。
〈敵〉がはっきりしているだけに図式的な気もするが、こんなにあからさまな〈搾取〉に遭ったら、抵抗するのは当然だと思う。久しぶりに「ヤンキー」という言葉を聞いた。

『革命』は10分の短編で、セリフはない。極貧という形容がふさわしい人々の悲惨な生活。横暴な資本家・権力者たち。やがて銃をとって立ち上がる人々。しかし圧倒的な軍隊に弾圧される。それでもなお、闘いは若者に引き継がれ……。
まさに〈革命〉のイメージが端的に映像化された作品。

『ウカマウ』は、《この初の長編映画が大きな評判を得て、タイトルが集団名として採用された》(特集上映チラシより)という記念碑的な作品。
チチカカ湖に浮かぶ〈太陽の島〉に、つましく暮らす若い夫婦がいる。ジャガイモや豆を育て、仲買人に売って生計を立てる。ある日、夫は湖を小舟で渡り、町へ買い物に行く。その間に、仲買人が家を訪ねてくる。彼は夫が仲買人を替えたのだと誤解し、若い妻を暴行して殺してしまう。帰ってきた夫は、変わり果てた妻を抱き起こす。死の間際、妻は仲買人の名前をつぶやく。だが夫は、村人たちの前でもその名前を口にしない。黙々と働き、仲買人とも変わりなく付き合う。やがて1年が経つ。ある日、仲買人は遠くの親戚の家を訪ねるため、ロバに乗って荒野に入っていく。夫はそのあとを追い、荒野のただ中で復讐を果たす。
〈私刑〉を容認しているような内容だが、シンプルな物語、荒涼としたモノクロの風景、夫・妻・仲買人の顔のアップ、夫が吹く尺八のような楽器の哀愁あるメロディーなどが相まって、神話的な雰囲気が全編を支配している。

さて、そんなウカマウ集団の全作品(11本)が、5月5日まで上映される。私はあと何本見られるだろうか。
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2006-04-29

お大事に

テーマ:ヨーガ
昨日の夜、ヨーガ教室に参加。
27日の日記にも書いたように、私はときどき虚無感にさいなまれ、何をするのも面倒くさくなってしまう。昨夜もそんな気分だったのだが、5月の連休中はヨーガ教室も休みになるので、自分の尻を叩くようにして行ってみた。
ところが、やってみると、スッキリ爽快、気分いいんだなあこれが。トラータカという眼の浄化法(まばたきをせず、一点を凝視する。まばたきをしてしまったら少し休み、また凝視。これを3、4回繰り返す)も長く続けられたし、最後の瞑想もめずらしく集中できた。クヨクヨ考えているより、まず一歩でも踏み出してみることだなあと、改めて思った。千里の道も一歩から、である。
それよりも気になったのは、指導者Sさんの体調だ。先週は風邪でお休み。たまにはそんなこともあるさ、と軽く考えていたのだが、まだ咳をしておられる。しかも、ときどき部屋を出て、外で咳き込んでおられる様子。肺炎か気管支炎では、と心配になったほど。帰り際、「ヨーガだけでは治らない病気もありますから、一度医者に診てもらってください」とお願いしておいたが、行ってくれたかなあ。
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2006-04-28

変貌する男

テーマ:読書
『皆殺し』(ローレンス・ブロック著/田口俊樹訳/二見文庫)読了。
4月18日の日記に、主人公のマット・スカダーは《あまり活躍もしないはずだが》と書いたが、大ハズレであった。まず、彼の〈調査〉をやめさせようと銃で脅してきた男2人を素手で倒してしまう。次に、彼の親友を彼と間違えて殺してしまった殺し屋と撃ち合い、瀕死の重傷を負わせる(のちに死亡)。最後に、6人の敵が待ち受けているところへ、友人で犯罪者のミック・バルーと2人で奇襲をかけ、全員を殺してしまうのだ。活躍しすぎだよ、マット。
マット・スカダー・シリーズの14作目で、私が最も感銘を受けた『八百万の死にざま』は5作目だから、マットの身辺もずいぶん様変わりしている。アル中からは脱却し、もう何年も酒を飲んでいないようだ。離婚して独身だったのに、結婚している(相手は、お馴染みのエレインだが)。探偵免許を持っていない〈探偵〉だったのに、いつの間にか免許を取得している。
『皆殺し』の次に出た『死への祈り』(二見書房)が最新作らしいが、これはまだ文庫化されていない。また、シリーズのすべてが邦訳されているわけでもない。その邦訳作品のどれとどれを読んだのか、定かには思い出せないが、初期のものを何冊か読んだ。そんな私からすると、この『皆殺し』には少々違和感を覚えたというのが正直なところ。
本書の解説を書いている佐藤和彦氏も《防弾チョッキを着け、何挺もの銃を抱えて走りまわるスカダーはあまり見たくないな》と感想を述べておられるけれども、私もそんな感じなのだ。順を追ってシリーズを読んでこなかった私も悪いのだろうが、主人公を同じ場所に留まらせておくわけにはいかないシリーズ物のむずかしさも感じた。

誠実な読者とは言えない私の違和感を少し書いておくと、やはりマットが〈スーパーマン〉でありすぎることだ。もっと悩んで、自分を責めてくれなくては。親友が自分と間違えて殺されたとき、また殺し屋との撃ち合いで年少のアシスタントTJが負傷したときなどに……。優しさが足りないよ、マット。
マットが最後まで行動を共にするミック・バルーとの関係も、こちらの理解を超えている。バーの経営者という表の顔を持ちながら、裏では犯罪を重ねているというのだが、その犯罪の実態がよく分からない。そういう男と友人であるのはまだいいとしても、彼(ミック)の手下が殺された事件を調べていくうちに、それがギャング同士の抗争であるらしいと見当がついた時点で、マットは手を引くべきではなかったのか。そこでさらに踏み込んでいく理由が〈やられたらやり返せ〉では、マッチョ志向のアメリカ人と変わらないではないか。
ミッドタウン・ノース署の唯一の知り合いであり、友人であると言ってもいいジョー・ダーキン刑事も最後に言う。《(マットは)唾棄すべき犯罪者。どういう扱いをされるかと言えば、それだ。実際、このところ彼はどんどんそんなふうになっちまってる》と。どこへ行こうとしてるんだ、マット・スカダー。

それはそれとして、会話の面白さがこのシリーズの魅力でもあるのだが、その点は本書でも健在であった。そういう部分を読んでいると、会話のセンスというか回路が、私たちとはまったく違っているのを感じる。もっとも、本書ではミック・バルーのルーツ(?)であるアイルランドの歴史の話がたくさん出てきて、不勉強な私にはチンプンカンプンなところも多々あったのを白状しておかなければならない。
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2006-04-27

忘れえぬ言葉

テーマ:日常
もう35年も前のことになるが、友人Kの言葉が忘れられない。
「徒労といえば、すべてが徒労だ」
当時、私たちが出していた同人誌にKが書いた文章の一節だったと思う。表記がこのとおりだったかも、今となっては確かめようもないが、意味は間違いない。それほど深く、私の中に根を下ろしてしまっているのだ。
すべては徒労、ではあるけれども、その前提の上で我々は精一杯生きるべきであり、そこにこそ生きる意味がある……というような文章が続いていたと記憶する。実際、彼はそのように生きていたし、今もそのように生きている。
私と同い年だが、当時から老成しているというか、確立した人生観・世界観をもっているように見えた。現在も2年に1度ぐらいの割合で会うが、その印象は変わらない。
Kの生き方はそれでいいとして、この言葉は両刃の剣でもある。言わずもがな、すべては徒労だから、何をしても無意味だという側面。Kの言いたかったことを大いに認めつつ、私はしばしばこちらの面に滑り落ちてしまう。
要するに、この日記をコンスタントに更新できない言い訳をしているのだが、根本的な問題は、私が未だに〈生きることの意味〉を探しあぐねている点にある。
55歳は立派な大人のはずだが、こと私に関しては、今も嘴(くちばし)の黄色いひよっこなのである。

こんなことをホームページに書いて、何の意味があるのか!
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2006-04-21

たまにはお勉強も

テーマ:日常
午後6時からの懐徳堂古典講座「小津安二郎の映画を読む」を受講。本日が1回目なのだ。事務所から会場の大阪大学中之島センターまで歩く。所要時間、約35分。講義開始まで1時間近く余裕があったので、近くのダイビルを探索。1階に《西班牙風鉄板焼きと煮込料理》の店「カボ デル ポニエンテ」を発見するが、夜の営業は5時半からで、入れない。さらに奥へ進むと、《大阪名品喫茶》の「大大阪(だいおおさか)」があった。ちょいと有名な店で、さっそく中へ。
店内には、かつての大阪の写真が展示され、大阪に関する本もたくさん並んでいて自由に読むことができる。で、写真集を見ながら大大阪珈琲450円をいただく。味は濃く苦く、私好み。小さなチョコレートも付いてくる。《大阪名品喫茶》とあるとおり、入り口近くのコーナーには、大阪で作られている万年筆、ジャム、ポン酢などが展示販売されている。セルロイドを使った手作り万年筆を欲しくなったが、ぐっと我慢。
しかし、このレトロで美しいダイビルも、数年のうちに取り壊され、32階建てだかのビルに建て替えられるという。反対運動も起こっているらしいが、おそらく建て替え阻止とまではいかないのだろう。こういうところ、大阪はなんとも冷酷非情だ。せめて私は、また何度も来て、細部まで記憶にとどめておこう。

さて、6時ジャストに講義が始まった。講師は、大阪大学教授の上倉庸敬(かみくら・つねゆき)先生。シネ・ヌーヴォや大阪シネマフェスティバルなどで、公私ともにお世話になっている先生だが、講義を聴くのは初めて。そもそも、一生徒として講義を受けるなんて、何十年ぶりだろう。前のほうの席に座ってしまったので、真面目っぽくノートをとる。でも「どうぞ当てないで。ノートのきたない字を見ないで」と、気分は中・高校生のごとし。
講義内容を的確にまとめる自信はないが、《小津安二郎の映画を、ビデオとシナリオを用いて、舐めるように細かく「読み」すすめます。》という本題に入る前に、予備知識として、映画の誕生・芸術としての特殊性・演劇との違い・空間把握の変遷・シーンの重要性・フィルムの話など、滔々と1時間以上。さすがに大学教授である(いつもは○○なのだが、などとは言わない)。
そのなかで、〈ショットとカットの違い〉の話に、私はいたく感動した。その違い、分かります? ひとつのシーンを撮るとしますね、例えばある家の室内。キャメラはいろいろな角度から人物や家具を撮っていく。A・B・C・Dという順番で撮ったとしよう。で、それを切り刻み、a・b・a’・c・b’・dという具合に繋いで、ひとつのシーンを完成する。このA・B・Cがショットで、a・b・a’がカットなんだって。知らなかったなあ。これまで、ほとんど区別せずに使っていた。これだけでも講義を聴いた価値があるというもの。
ところで、なまじ知っている方だけに、講義中の先生の様子が気になる。部屋が暑いためか、お顔が赤い。うっすらと汗もかいておられるようだ。しかも、途中で3度はフーッとため息をつかれた。血圧が高いとお聞きしていたので、講義中に倒れられるのではないかと心配になったほど。あとでお聞きしたら、先生も初講義のために緊張しておられたのだとか。
最後の15分で、ようやくシナリオを参照しながら『東京物語』のビデオ(実際はDVD)を細かく見ていくという作業に突入。実に面白いが、次の講義は1カ月先。
講義の後は、「お疲れさまでした」と、上倉先生を囲んで食事&飲み会。Yさん、Tさん(ともに女性)も参加。先生は初講義が無事に終わってホッとされたのか、「もう一軒どうです」と言われる。「次はアルコール抜きでいいなら」と、ホテルのバーで2次会。Tさんは1軒目で、Yさんも2軒目の途中で帰られ、結局バーが閉まる11時半までジュースでお付き合い。この飲み会も〈恒例の〉ということになりそうな予感。
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2006-04-18

『無頼の掟』は最後まで読むべし

テーマ:読書
読み継ぎ読み継ぎして、惜しみつつ『無頼の掟』(文春文庫)を読了。いやー、面白かった。真ん中あたりがちょっとダレるが、あとは一気呵成。カフェで、電車で、風呂でと、まさに巻を措くあたわず、舐めるように読み切ってしまった。特に最後の8ページは良い。絶対に、ここを先に読んではいけません。
冒頭から銀行強盗、命をかけた脱獄、復活して強盗、強盗、また脱獄と、息もつかせぬ展開で、こういう物語を紡ぎ出す作者(ジェイムズ・カルロス・ブレイク)の頭の中はどうなっているのだろうと、感心・驚嘆してしまった。
時は1920年代末、まだ禁酒法があった時代。舞台はアメリカ中南部のルイジアナ州。町にはT型フォードやパッカードが行き交っている。主人公はハイスクールを卒業したばかり(つまり18歳)の青年ソニー。成績も良く、将来は弁護士にも会計士にもなれるのに、血が騒ぐというのか、二卵性双生児のバックとラッセルという叔父(30歳)のアウトローな生き方に惹かれてゆく。
この3人が悪事を重ね、ときに負傷し、ときに捕らえられるなかで、ソニーが成長していく物語にもなっている。青年は、《無法者の世界だからって、ルールがないわけじゃない》と叔父たちに教えられる。「無頼の掟」というわけだ。
もうひとつの柱は、ソニーが放った右ストレートで打ちどころ悪く死んでしまった看守C・Jの父ジョン・ボーンズの、執拗で冷酷な復讐の追跡劇だ。この男も警官なのだが、相当なワルで、《ルイジアナ州のどんな警官より人を殺していた。そのすべてについて正当防衛を主張しているが、何件かはあけすけな処刑だったという噂が絶えない。彼自身、十数回は調査を受け、何度か停職にもなっていたが、違法行為などで有罪になったことは一度もない。》と書かれている。
このボーンズの行動のみ、活字の書体を変えて印刷されているのだが、ソニーたちの協力者や仲間が、一人また一人と〈尋問〉され〈処刑〉されていくところは、かなり怖い。しかもソニーたちは、ボーンズに追われていることを知らないのだ。書体の変わっているページ、出てこないでくれと祈りたくなる。
描写力も凄い。暴力シーンは、活字だから読んでいられるのかと思うほど凄惨なところもあるが、読み返してみれば、実に簡潔で的確なのだ。いっぽう、自然の描写などは、なんと詩的な表現かと唸ってしまうほど。
とまあ、いろいろなところで楽しませてもらったのだが、個人的な嗜好を言わせていただくと、ソニーが〈スーパーマン〉すぎる点が気になった。頭脳明晰で、ボクシングの学生チャンピオン、度胸があり、仲間は裏切らず、女にもモテる。かっこ良すぎるのだなあ。
というわけで、次はわれらの〈アル中探偵〉マット・スカダーが活躍する(あまり活躍もしないはずだが)『皆殺し』(ローレンス・ブロック著/田口俊樹訳/二見文庫)で、冴えないおじさんの悲哀を共有するとしよう。それにしても、すごいタイトルだ。
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2006-04-17

展覧会と映画

テーマ:映画
午前中に「神坂雪佳展」(なんば高島屋7階グランドホール)を見に行く。今日が最終日なのだ。日本画家・神坂雪佳(かみさか・せっか)の名は知らなかったが、ある人からいただいた絵葉書が雪佳の「金魚玉図」で、それを見て好きになってしまった。
月とも見えるシルエットは、上が平らになっているところから金魚鉢と知れ、その中から大きな金魚(琉金というやつか)が、真正面を向いてギョロリとこちらを睨んでいる。その目が、とぼけたような無関心なようなで、なんとも面白い。金魚鉢の周りにはツリシノブがあしらわれている。それらの画材は縦長の掛け軸の上方に描かれ、下方は空白で右端に署名と落款があるのみ。その画面処理も洒落ているが、実際に見てみると、表装は葭簀(よしず)の柄になっていて、つまりすべてが〈夏〉の趣向なわけで、心憎い演出である。今回の展覧会のポスターにもなっているから、代表作なのであろう。
明治から昭和にかけて活躍した人で、美術史的には宗達、光琳の流れをくむ〈京琳派〉の一人とのこと。「光琳風草花図屏風」という作品もあり、「叢華殿襖絵」なども装飾的で実に美しい。だが、それだけでは琳派の亜流になってしまうわけで、雪佳の真骨頂は意匠家(デザイナー)としての仕事にあると思う。
染織物、陶器、漆器など、さまざまな分野の意匠を手掛け、それらがみな素晴らしい。「若松鶴図文机・硯箱」や「帰農蒔絵螺鈿煙草箱」など、身近にこういう物があれば、どんなに心豊かであろうかと思う。
その集大成とも言えるのが、明治42年から翌年にかけて出版された木版美術本『百々世草』3巻であろう。琳派の伝統をふまえつつ、デザイン性とおおらかなユーモアに富み、見ていくのが楽しい。
京都に生まれ育ち、地元では「せっかはん」と親しみを込めて呼ばれたという。好きなことに専念し、今ふたたび脚光を浴びている幸福な画家の笑顔が見えるようだ。

午後6時半から、恒例の映画観賞会。今回はシネ・リーブル梅田で『ブロークバック・マウンテン』(05年/アメリカ/アン・リー監督)を見た。参加者は、いつものNさんに、初参加のMさんとTさん、あとからYさんとK先生も合流。この会が6人になるのは初めてのことだ。【以下、映画の中身に触れるので、まだ見ていない人は要注意】
1963年、ワイオミング州ブロークバック・マウンテン(架空の地名らしい)の雄大な自然の中で始まる男と男の禁断の愛。カナダで撮影したという山岳地帯の描写が圧巻。深い緑、切り立った山々、わき上がる雲、青というより紺といったほうがよさそうな深い空の色。寒々とした空気とともに、その場所の美しさは刺すように鋭く、その後の彼らの運命を暗示しているかのようだ。
ジャック(ジェイク・ギレンホール)のほうが本物で、イニス(ヒース・レジャー)は潜在的な同性愛者だったかと思えるが、それはともかく、この時代、しかも保守的な西部では、男同士の愛は隠さざるをえないものだった。ジャックとイニスもそれぞれに結婚し、子供をもうける(なんで結婚しちゃうんだよ、と思うが、それが人間の愚かさであり弱さなのだろう。また、そうでなければ話もふくらまないし)。二人は、ときどき釣りや狩猟だと称して家を空け、愛し合う。積極的なジャックと、苦悩するイニス。対照的な二人は、しばしばぶつかり合うが、愛の深さは変わらない。
かわいそうなのは、二人の妻であり、子供である。特にイニスの妻アルマ(ミシェル・ウィリアムズ)は、あるとき愛し合う二人の姿を見てしまい、悲しみに打ちひしがれる。やがて離婚。ジャックの家庭もぎくしゃくしているが、妻ラリーン(アン・ハサウェイ)の父親に対する反発を夫婦が共有することで、なんとか命脈を保っているかに見える。
いずれにせよ、愛はときに残酷で、愛する者に悲惨な運命を強いる。
そして20年が経ち、ジャックの突然の死で不思議な落ち着きを迎える。イニスがジャックの実家を訪ね、そのクローゼットの中に、ブロークバック・マウンテンに忘れてきたと思っていた自分のシャツを見つけるところは感動的だ。そのシャツは、当時ジャックが着ていたデニムの青いシャツと重ねてハンガーに吊るされていたのだ。かくして、二人の愛は、イニスの思い出の中に安住の地を得ることになる。

静かな映画で、2時間14分、息をつめて見ていたような感じだったので、みんな喉のかわきと空腹感を覚え、地下の居酒屋に直行。閉店まで1時間ちょっとしかなかったが、よく食べ、よく飲んだ。私とK先生以外は全員女性。しかもみな立派なキャリア・ウーマンだ。私のようなフリーターが出る幕ではないが、映画が面白いと会話もはずむ。楽しくなって、生ビールと焼酎まで飲んでしまった。千鳥足でご帰還。
だが、帰ってパンフレットを読んでいると、「ありゃ!?」という文章に遭遇。それはこうだ。
《彼女(ジャックの妻)は冷静にまるで他人事のように、ジャックが車の修理中に突然破裂したタイヤの反動で地面に叩きつけられて失神し、飛び散った破片で傷を負い、出血多量で死んだことを告げる。ショックで言葉もでないイニス。彼は直感的に、ジャックはゲイバッシングのリンチによって、命を落としたのだと悟る。》
〈悟る〉とあるのだから、ここはジャックの妻の説明は嘘で、本当はゲイバッシングのリンチで殺されたのだと読める。酒席での会話では、事故死が真実で、リンチによって殺されたというのはイニスの想像だと皆の意見が一致したのだが。さらに、イニスは幼いとき、同性愛者の男がリンチによって殺された無惨な死体を父親によって見せられ、それがトラウマになっていたから、という理由まで付き、私もそれで納得したのだが。
ストーリー執筆者が間違えることはよくあるし、執筆者の主観が入っているとも考えられるのだが、映画評を寄せている今野雄二氏も、《しかし、我々観客はイニスと同様、ジャックがホモフォービア(ゲイ嫌悪症)の連中によってリンチされ、殺されたのだと直感する。》と書いていて、こちらの分が悪い。
どなたか、スッキリ解決してくれませんかね。
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2006-04-16

映画『花影』

テーマ:映画
桜の季節、大岡昇平の小説「花影(かえい)」のことを書いたり喋ったりしていたら、ある日、ある方からビデオテープが送られてきた。メモ書きもなく、ビデオにはタイトルも記されていない。さっそく再生してみると、映画の『花影』であった。映画になっていたことはつい最近知ったが、まさか見ることができようとは!
1961年の製作で、監督・川島雄三、脚色・菊島隆三、撮影・岡崎宏三という豪華版。主人公の葉子には池内淳子が扮し、その周辺の男たちには佐野周二、池部良、高島忠夫、有島一郎、三橋達也らが並ぶ。ほかに山岡久乃、淡島千景も出ている。これで面白くないはずがない。
銀座のバーの〈女給〉葉子が、多くの男たちと関係をもち、その中でも自分らしさを貫こうと懸命に生きるが、結果はいつも男に裏切られ、あるいは失望させられ、ついに自ら死を選ぶという、華麗だが哀しいお話。
池内淳子が、若く美しい。まるで〈むき玉子〉のようにツルリとした肌、粋な着物の着こなし。酔うと下唇を舐めるという癖も見事に自分のものにしている。
対する男たちは、愛情もあるのだろうが、それは欲情と紙一重のようで、結婚を懇願していた畑(有島一郎)も「女給ふぜいが」などと暴言を吐く。葉子が最も信頼していた高島(佐野周二)ですら、結果的には葉子に甘え、金の無心を繰り返していたにすぎない。ふがいない男たちに憤りつつ、わが身を見るようでもあり、フクザツな心境。
1961年といえば昭和36年で(原作の設定は何年ごろなのか知らないが)、東京オリンピックの3年前。葉子の部屋には風呂がなく、1DKのようだ。ここに男が転がり込んだりするのだから、なんとも狭い。それは最後の独白につながっているのだろうが、銀座のバーに勤める女の部屋にしては、また原作を読んだときのイメージからも、少し貧弱すぎるように感じた。
原作のイメージといえば、池内淳子の熱演はそれとして、葉子はもっと小柄で華奢であってほしいと思った。もちろんこれは、ないものねだりというものであるが。
好きな原作があって、それが映画化されたときには必ずこういう気持になるもので、それは仕方がない。それを差し引いても良く出来た作品で、私は2回見てしまった。
余談だが、30歳の女性にこの映画の話をしたら、池内淳子も佐野周二も池部良も「知らない」と言う。辛うじて〈高島兄弟〉のお父さん(高島忠夫)は分かったようだが。自分の年齢を意識させられる、ほろ苦い会話であった。
それにしても、インターネットで注文した講談社文芸文庫の『花影』は、まだ届かない。注文履歴を確認してみたら、〈お届け予定〉は5月14日となっていた。おいおい、1カ月も先なのか。吉野の桜も散ってしまうぞ。また古本屋めぐりをしてみるか。
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2006-04-14

田中徳三監督ご夫妻の夫婦愛

テーマ:映画
3週間にわたった特集上映「RESPECT田中徳三」も、ついに最終日。最後の上映作品『大殺陣 雄呂血』(66年)を見ようと、午後4時半にシネ・ヌーヴォへ。田中監督ご夫妻もすでにいらしていて、その前の『兵隊やくざ・大脱走』(66年)からご覧になっているとか。入れ替えの短い時間にご挨拶をする。
映画が始まる前に、田中監督から観客の皆さんへのご挨拶があった。そのなかで、「こちら(シネ・ヌーヴォ)の景山さんをはじめ、オーナーの江利川さんやスタッフの皆さんにもお世話になり……」と言われ、何もしない〈オーナー〉としては、恥ずかしいやら面映いやらであった。奥様の里子さんも前に呼び出され、「ありがとうございます」とおっしゃったところで感極まって目頭を押さえられるという場面もあり、もらい泣きする観客もおられたほど〈夫婦愛〉を感じさせる良い時間だった。
『大殺陣 雄呂血』は2回目だったが、最初見たとき以上に感動した。理不尽な運命に巻き込まれてゆく市川雷蔵と、何があっても彼への愛を貫く八千草薫。それが実にテンポ良く描かれ、ラストの〈大殺陣〉へとなだれ込んでいく。その殺陣(たて)が凄い。斬られ役は何百人いるのか、まずその数に圧倒される。そして、捕り縄・はしご・大八車・戸板など、およそ〈捕り物〉に使用されるアイテムはすべて用い、しかも破綻がない。画面が緩まないのだ。このあたり、失礼ながら先日の『るにん』(04年、奥田瑛二監督)とは比べものにならない。上映が終わると、期せずして客席から拍手がわき起こった。

32本上映された「RESPECT田中徳三」のうち、私は23本を見たことになる。甲乙はつけがたいが、強く印象に残ったものを挙げておくと、『疵千両』(60年)、『鯉名の銀平』『悪名』『続・悪名』(いずれも61年)、『鯨神』(62年)、『手討』(63年)、『大殺陣 雄呂血』(66年)となる。特に『手討』の藤由起子(本の『RESPECT田中徳三』では藤由紀子としてしまい、痛恨の一事だ)が忘れがたい。

さて、午後7時前から九条商店街の飲み屋で田中監督ご夫妻を囲んで〈打ち上げ〉を行なった。その間もシネ・ヌーヴォでは別の映画を上映しているわけだから、受付や映写のスタッフは交替で参加。彼・彼女らには申しわけないが、私はずっと居続けで、監督や奥様に聞いておきたいことを数々挙げ、質問ぜめにした。最後に奥様いわく、「田中は、私が99歳まで生かします」と。その意気込みあって、この夜も田中監督はウーロン茶だけでお付き合いくださった。
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2006-04-13

死亡記事

テーマ:映画
朝、気分転換の散歩。今にも降りだしそうな、鈍色(にびいろ)の空。だが、淀川沿いの堤防の上を歩いていると、「オゾンを吸っているなあ」という気分になってくる。帰りに地下鉄の駅に寄り、新聞4紙を買う。黒木和雄監督の死亡記事を読むためだ。
驚いたことに、読売・産経のほうが、朝日・毎日より扱いが大きい。文字数でいうと、読売が720字、産経700字、朝日500字、毎日350字だ(いずれも約)。見出しに使われている代表作もそれぞれ違っていて、読売が『祭りの準備』と『TOMORROW/明日』、産経が『父と暮せば』、朝日は『美しい夏キリシマ』、毎日は「戦争レクイエム3部作」となっている。『とべない沈黙』や『竜馬暗殺』もあるし、名作が多すぎて〈代表作〉に困るというところだろうか。4紙とも、遺作となった『紙屋悦子の青春』(8月公開予定)に触れているのは、ぎりぎりセーフという感じ。
読売は原田芳雄さんの、産経は原田さんと宮沢りえさんの談話を載せているぶん長くなっているのだが、朝日は初期のドキュメンタリー『海壁』にも触れていて、記者の見識を感じさせる。毎日など、戦争レクイエム3部作のことしか書いていないという感じで、なんとも寂しい。
寂しいと言えばすべてがそうで、いずれ誰かに追悼文など書いてもらうのだろうが、ほぼ半世紀にわたって悪戦苦闘してきた〈映画戦士〉に対する扱いがこれかと、情けないやら腹立たしいやらである。

私が得た情報によると、東京で近親者だけの密葬のあと、監督の故郷である宮崎で本葬、後日「お別れの会」が東京と関西で開かれるらしい。「お別れの会」にはぜひ参加し、黒木監督ゆかりの人々と、心から監督を偲びたいと思う。

追記:同じ日(13日)の読売「顔」欄には、4月7日の日記で触れた野上照代さんが、《開設された「黒澤明塾」の塾長》として写真付きで紹介されていて嬉しかった。
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